レッスン1

13 菊地先生

「もしもし、あの、渕野ですけど、、。」
「あっ、ちょっとお待ち下さいね。」ガサガサ、、、
「ああ、今、駅? じゃあネ、駅からまっすぐの広い通りがあるでしょ?
それ、駅を背にして右側をねっ、歩いてきてくんないかな?
 2百メートル位歩くとさ、ダラダラ坂が、こー、あってさ、そう、下ってンのね、それを過ぎた辺りなんだけどさ。こっちからも迎えに行くからさ。楽器持ってんだよね?ハードケース?あっ、そう。茶色ね」

 新宿のジャズ喫茶「ポニー」での西川喬昭さんとの会話には続きがありました。  「仕事は決まったとして、それで誰か先生は決まっているの?基礎は誰かについてちゃんと習わなきゃ駄目だよ。決めていないの?そうかぁ、秀ちゃんがいいよ。ネェネェ、習うんだったら菊地の秀ちゃんがいいよねェ。」
 また、どこからか「秀ボーだったら問題ないよ。いいと思うよ」の声。
 どうやら私は菊地秀行という人に師事することになったらしいのです。
 初めて聞く名前でした。なんでもナベサダの一番弟子で、沢田駿吾さんのグループのメンバーだということでした。名前だけでも知っている方であれば想像することも出来ましたが、全く知識のない方でした。

 そこに居合わせた多くのミュージシャンが一瞬の緊張さえ見せながら認める「秀ボー」のイメージは、次第に怖いものになり、ポニーを出るころには、まるで毘沙門天のような恐ろしいものになっていました。私はその後何十年も「先生」としか呼べず、畏れ続けた菊地秀行の弟子になりました。

 

 菊地秀行(Alto Sax)1939年生まれ宮城県出身。 
藤田正明5、山崎唯3、沢田駿吾5、自己のグループなどで活動。
 ルーツ音楽院などで後進の指導に従事。99年没







  

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 70年の1月か2月、寒い日でした。ポケットに手を入れ、寒そうに背を丸めた先生は、伏し目がちで、部屋着の上にとりあえずジャンパーをひっかけてきたという風に見えました。

 思ったより小柄な方でしたが、見るからに厳しそうなオーラを放たれていたように覚えています。挨拶もそこそこに家まで案内され、家に入ると卓袱台のある部屋を通り抜け、中央に譜面台の置かれた部屋で楽器を出すように言われました。

 最初のレッスンで何をやったかは全く覚えていないのですが、レッスン毎に頂いた五線紙が六十枚ほど残っています。スケールが書かれただけのもの、曲がコードネームとともに書かれたもの、フレーズが書かれたもの、様々です。一番下に必ず次のレッスンの日付と時間が書かれています。

 実のところ、レッスンは毎回が緊張の連続でした。先生のやり方は「先ず吹いて!」が基本でした。ある日など譜面台の上にコードネームの書かれた紙切れが一枚だけ置かれていました。
 「吹いて。」
 「えっ?」
 「吹くんだよ、アドリブを習いに来てんでしょ?吹かなきゃ教えらんないよ」
 いきなり、ソロを吹けということです。
 基本的なフレーズとか、その発展のさせ方とかを先ず教えてくれると思ったら大間違い。甘い期待は全て否定され、「とにかく自分で考えろ」が基本でした。

 先生に言わせれば、「レコード、聞いてんでしょ?何を聞いてンの。」ということになるわけです。
 で、頑張って何かを吹くと、「それじゃあ、ジャズ以前なんだよね。恥ずかしいよネ」と来ます。そこで少し変えて吹くと「スウィング以前だよね。そんなのがやりたいわけ?」です。
 そこからやっと、もっとミステリアスな展開をするために使うスケールのこととかを教えてくれるのです。

 フレーズを教えてくれることは滅多にありませんでした。「こんな展開もいいよネ」というので、少し書いていただいたことはありましたが。

 この教え方は、今にして思えばとても重要な鍛練だったのです。音楽を作ることは教えることも教えられることも出来ず、もっとパーソナルなセンスとか閃きが重要な事のように思えるからです。基本的なシステムさえ知れば、後は自分でやるしかないのです。

 レッスンの最後の方に、先生が言われた言葉がまた重いものでありました。
「金貰ってステージに上がったら、もうキャンノンボールと一緒だからね。同じ土俵だからね。こっちの方が軽いなんてのはないんだよ。」
「他のプレーヤー聞いてさ、こいつは俺よりヘタだなと思ったら、そいつはお前と一緒ぐらい。こいつは同じぐらいだなと思ったら、間違いなくお前より上手い。上手だなあと思ったら、そいつはとんでもなく上手いんだよ。まず、そう思っていれば間違いないね」

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 先生と一緒に演奏したことが一度だけありました。仕事場のナイトクラブでしたが、言わば路上教習のようなものでした。その日は何もコメントはなく、次のレッスンの時に「意外と吹けないんだな」の一言で終わりでした。

 クラブにはクァルテットでの出演でした。バンドの女性ピアニストは厳しい言葉の洗礼を受けていました。譜面を見て普通に演奏しているのに、先生は突然ピアノの方を向いて「段、間違えないで」とか言ったりするのです。ビクッとした様子のピアニストを見て、私までも緊張したりしました。

 しかし、後になって聞いた先生の様々な逸話はそれどころではありませんでした。
 あるドラマーは、一ヶ月間、毎日のように「ああでもないこうでもない」と言われながら仕事をしました。言われるたびに色々考えて工夫したに違いありません。最後の日に言われたそうです。
「うん、来たときの方が良かったネ」
 何とも噴飯物ではありませんか。

 兄弟弟子の1人も被害者でした。ソロを吹いているときに耳元で言われたそうです。「コード知らないんだったら、吹かなくてもいいんだよ」、、、、、、

 一番の被害者は某女性ピアニストでした。やはり彼女の場合も毎日のように散々言われ、めげていました。それで、疲れてしまった彼女は控室でついこぼしてしまいました。
「私、弾けなくなっちゃった」
 すかさず、我が先生は言ったそうです。
「弾けなくなったんじゃないんだよ、最初から弾けなかったんだよ」
 何ということを言うんでしょう、、、。ピアニストは遂に声をあげて泣きだしたそうです。
 当事者が辛い思いをした事は間違いありませんが、私と弟子の何人かはそういう話を聞いて「またですか、困ったもんだ」とか言いつつ笑っていました。

 先生の真意がどこまで本当で、どこからが冗談なのかは遂に分かりませんでしたが、それを知る事に大した意味があるようにも思えませんでした。レッスンで教わったように、誰に何を言われようと自分で考えて演奏するしか方法はないわけですから。

 レッスンは途中休んだりしながら二年間ほど通いました。バップ・イディオムを叩き込まれたのですが、私はシステマティックなソロのやり方があまり好きになれず、そういう意味では良い弟子ではありませんでした。先生もそれは薄々感づいておられたようで「後は勝手にやれば?」ということだったと思います。

 鋭利な刃物のようにきつかった先生も晩年はかなり穏やかになられたようでしたが、弟子としては油断できませんでした。滅多に会うことはなかったものの、何時またきつい言葉を浴びせられるやも知れず、面と向かうと昔と変わらずかなり緊張しました。こちらの油断、怠慢などには、もう悪魔的に鋭い方でしたから。

 僅か2年ほどでしたが、このレッスンで学んだ事は今も自分を支えているように思います。初めて経験するプロの世界の手痛い洗礼でもありました。先生の厳しさは、追い詰められても挫けることのないようにという親心のようなものだったのかも知れません。あの厳しい突き放し方は、そう思えばとても有難く思えるのです。

 代々木駅から西参道までの道は、時々車で通りますが、ダラダラ坂も通りの趣も昔のままのように見えます。

                  

2002 11/26  

  

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