レッスン2

18 レッスン2の1(1972年頃)

 キャバレー、クラブなどを幾つも渡り歩き、箱バンド生活も佳境を迎えた頃、辿り着いたのが銀座泰明小学校前のシャンソン系レストラン「ボヌール」でした。
 シャンソン系のくせにイタリア料理を出していたように覚えていますが定かではありません。この店はそれまでの仕事場とは違い、客がステージを観るようにロココ調もどきのテーブルと椅子が並べられていました。

 要するにライブハウスのようなレストランでした。毎日シャンソンかカンツォーネの歌手がゲストで歌い、バンドは前後に何曲か演奏しました。それまでの酔っ払い相手とは少し勝手が違う、客層も若いお姉様主体のお上品な店だったのです。
 私のような下賎のものに勤まるのでしょうか、などとは言わず、生来の上品な部分を遺憾なく発揮出来たわけですが、聞かせる店である事が新たなレッスンでもありました。その頃、シャンソンは決して身近な音楽ではなく、毎日初めて見る譜面にワクワクドキドキしました。この店に行く事がなければ、今でも縁遠い音楽だったかも知れません。
 それまでの仕事場では、歌手が中空を見上げながら「貴方は行ってしまうのねー」とか、若干芝居がかった目で歌えば、客は「何言ってんだヨ、ばあか」の口でしたから、そのギャップは尚更でした。
 シャンソンの場合は、セリフのような調子で語られる歌も多く、背景でどんなサックスの音が必要かは謎でした。何もしない方が良い場合もあり、管楽器は概ねあまり意見を言わない事が賢明だと思えました。長い音を歌にぶつからないように巧くつなげる面白さも発見しました。
 その頃のトラウマで、今でも「ろくでなし」「オー、シャンゼリゼ」などはあまり好きではありません。いや、曲が悪いのではなくあまりにも多く演奏しすぎてウンザリだったのです。同じ歌手であれば、選曲に工夫もあるのでしょうが、日替わりで違う方が来るのですから仕方のないことでした。
 
カンツォーネ系の方の「ケサラ」もいけません。あとタイトルは忘れましたが「あのっ、白いハンカチがぁ」ってのも勘弁して欲しいと思ってしまうのです。

 どうしても、歌い手が好む曲は似通ってきます。一時はジャンルを越えて、誰もがステージの最後に「マイ・ウェイ」を歌われましたが、あれも自己陶酔型の絶叫ソングとなると辛いものがありました。
 真剣に新しい
カンツォーネに取り組んでいる方もいました。
 とにかく、見るもの聞くもの新しいことずくめでしばらくは退屈しませんでした。









 なぜその店の仕事をするようになったかは、はっきり覚えていないのですが、最初は昼のステージでした。
 この店で出会った何人かの先輩達には鍛えられました。その後、スタジオワークでもお付き合いするようになったピアノの菅野光亮さん。映画音楽の作曲家として「砂の器」で一躍名を馳せた方ですが、最初の出会いは強烈でした。

 ピアノの大沢さんも忘れられない方です。大沢さんは急遽トラとして駆り出されたようでした。レギュラーのピアノが突然来られなくなり、近所のクラブで演奏していた彼にバンマスが無理を言って一晩のトラを頼まれたのです。時間のやり繰りがどうだったか知る由もないのですが、その日は、伴奏の名人として多くのジャズ歌手から絶大な信頼を得ていた先輩とステージに上がる事になったのです。
 信じられない体験でした。気が付くと、今まで吹いた事のないような演奏をしていました。目からウロコとはあの事で、実に見事にピアノに誘導されていたわけです。

 しかし、この店で一番鍛えられたのは、ギターの飯田さんとのステージでした。飯田さんは一晩だけでなくレギュラーとしてバンドにやって来ました。最初はちょっと怖い感じの方でしたが、穏やかな笑顔で鋭いギターを弾かれました。
 情報の少ない当時、ウェス・モンゴメリーが大好きで、ウェスがピックを使っているかどうか知りたかった飯田さんは、商用でニューヨークに行かれる方に頼んでステージを観てきてもらったそうです。
 当然、飯田さんがやる曲はウェスのものが多く、ほとんどウェスを知らなかったサックス吹きとしては、怒濤のようなレッスンを毎夜受ける事になったのです。
 飯田さんは譜面を書いてくれる人ではなく、無理を言って一度書いてもらった譜面はギターのコードワークを書いたもので、1小節にコードが4つもある譜面。で、譜面は諦めて耳を頼りに演奏する事になりました。
 知らない曲ばかりで、取りあえずキーだけを教えてもらい、飯田さんが弾くテーマを必死で聞いてコード進行を探るのです。即ソロに突入。究極のレッスンだったように思います。

 飯田さんの弾く楽器は特別なものでした。
 さる高名な作曲家が持っていたものを譲り受けたらしいのですが、中々首を縦に振ってはもらえず、何度も何度も通ったと聞きました。当時で200万以上ってのがベラボウでしたが、時々弾いてくれる「哀愁のソレンツァラ」のようなメロ弾きにとんでもない威力を発揮しました。染入るような音でした。後年、ゴンチチの三上さんの音を聞いた時、近いものを感じました。

 ドラムのバンマス、三戸部さんは現役ミュージシャンで、この東中野でライブハウス「DRUM」を経営されています。ステージ上レッスンを受けた方々は次々と亡くなられ、一晩だけだった大沢さんに至ってはお顔すら思い出せない有り様ですが、その時の曲が何だったかはっきり覚えているのが不思議です。しかし、究極のレッスン本番はこの次にありました。
 それまでのレッスンは次に行くためのトレーニングだったようにも思うのです。

 ある日店に行くと、楽屋に曰くあり気な表情のバンマスと飯田さんがいて、飯田さんが切り出したのです。
「おまえ、勝負してこい。なっ」
 横でバンマスが「そおだよォ」
 何の事か分かりません。彼等は2人で話がついているらしく、前置き略、中略、結論ポン、ってな感じで言い出したのです。すっかりハテナマークのこちらがポカーンとしていると「ベースのキーやんから頼まれたんだけどサ、まっつんのバンドでアルト探しているらしいから行ってこい」
 キーやんって誰?まっつんって誰?
 で、詳しく聞くと、テナーの松本英彦さんのバンドでちょっとアルトが必要だから、お前を推薦したと言うか、もう決まってしまったからヨロシク、だと言うのです。
 えーっ、、、、、、。

 その一週間ほど前に、アート・ブレイキー、モンク、ガレスピーのオールスターバンドのテレビ放映があって、入国出来なかったソニー・スティットに代わってテナーを吹いていたのが松本さんでした。
 その記憶も生々しく、本当は顔を輝かせる所なのだけど、暗雲も立ちこめようと言うものでした。


07 3/30


linhos


レッスン2の2(松本英彦さん)





 松本英彦さんとの仕事場「マンダリン・クラブ」は、六本木のアマンド横の坂道を下った左側、現在よりずっと薄暗い場所に怪しさを醸しながら建つビルの地下にありました。急な階段を降りた右側のドアを開けると控室があり、細長いステージとダンスフロアを備えた店内は左奥に位置していました。

 初日、時間前に店に入り、浅草での仕事を終えた松本さん一行が到着するのを緊張しながら待ちました。テストがあったわけでもなく、先輩諸氏の紹介だけで初対面の有名なジャズメンと共演することは、どのように落ち着きを取り繕うと緊張が隠せるものではありませんでした。リハーサルもなく、なにをやるか分らない状況でドキドキしながら到着を待っていました。
 彼らが到着して、軽い挨拶ぐらいはあったはずなのですが、ステージに上がるまでの記憶は殆どありません。
 最初の曲がルー・ドナルドソンの「アリゲーター・ブーガルー」だった事は覚えていて、それもステージ上で「Cのブルース」と告げられただけでした。
 私の横で颯爽とソロをなさる松本さんに聞き入り、それは共演しているというよりも単なるリスナーのような気分で、ソロが終ると拍手したい衝動に駆られ、松本さんが私の顔を覗き込んでソロを促されて、「あっ、ソロを吹くんだ」と気付く案配でした。

 教わることは、まず聞くことでした。
 テクニカルなレクチャーとかラインをどう紡ぐかなどといった具体的なアドバイスは一切ありませんでした。ある曲のコードを尋ねても、ピアニストの方を指差して「あっちに聞け」といった具合です。メンバーは20代前半の若いプレイヤーで固められていて、ピアノの元岡氏とベーシストはまだ大学生でした。
 同じ世代のプレイヤーの真剣な緊張感は、楽屋にいるときでさえ伝わってきましたし、ジャズに向かうということの大変さを感じずにはいられませんでした。
 もちろん、その緊張感の源は松本さんでした。単身、モンタレーのジャズ・フェスティバルに招かれての演奏経験もある、いわば国際的な評価も高い方でしたから、駆け出しの演奏家にとっては怖い存在でもありました。
 
 どちらかと言えば寡黙な方で、メンバーにしても早い時間の仕事の疲れもあって会話も少なく、楽屋はいつも静かでした。
 浅草で少し酒を頂かれることもあったようで、椅子に座ったまま目を閉じられていることが多く、眠っているかと思いきや、合わせた手の片側でもう一方の手を包むようにして、ちょうど拳骨の頭あたりをサックスのキーボタンのように見なして運指練習のような動きをしているなんてこともありました。
 そのようなことは常に音楽のことだけが頭にある証であるようにも見え、新人を怯えさせるに充分な迫力がありました。
 ある夜、僕らはいつものように目を瞑ったままの松本さんに遠慮しつつ、カセットで音楽を聴いていました。もちろんジャズですが、FMからエアーチェックしたものなど、レコードにはないものを持ち寄って聴いていたのです。
 演奏時間が近付き、眠っているように見えた松本さんを起そうとした時、「あの、さっきの、ほらCのヤツ、あれやろう」と突然仰ったのには驚きました。眠ってなかったんだ、聴いてたんだ、とメンバーは顔を見合わせて苦笑いでした。
 数えるほどしかなかったのですが、饒舌になられるのは音楽の話でした。

 最も印象深く残っているのはコルトレーンの話でした。
 単身招かれて参加した1963年モンタレー・ジャズ・フェスティバル(Monterey Jazz Festival)の帰途だと思われます。場所がニューヨークであったかどうかは定かではありませんが、コルトレーンに紹介された後にライブを聴かれたそうです。

 凄まじいソロの後、コルトレーンに手招きされて後を付いて行くと、ステージ上の音などまったく聞こえない楽屋に案内され、そこでコルトレーンは今し方のソロのシステムを細かく説明したそうです。
 残念なことに、それがどういうものであったか詳しい説明はありませんでしたが、「だけどね、未だに出来ないんだ」と仰っていました。その時のメンバーはマッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・ギャリソンの黄金期。さぞや強い結束力でグループは機能していたに違いないと思いたくもなりますが、話を聞くと若干印象が変わりました。
 なにしろ、2人でしばらく話をされてコルトレーンはステージに戻ったそうですが、折しもマッコイ・タイナー熱演中。コルトレーンはタイナーの残念な顔など委細構わずテーマを吹き出し、そこでステージ終了だったそうです。
 楽屋でのメンバー間の会話は一切なく、マッコイは隅で静かに本を読み、エルヴィンは練習台を叩き続け、誰にも相手にしてもらえないギャリソンは酒のグラスを手にウロウロするというような案配。
 エルヴィンの練習には両腕を大きく振って「お客さんが来てんだ。うるさい」とジェスチャーで抗議。とにかくメンバー間の会話は一切ないまま次のステージに向かったとか。ま、想像するだに恐ろしくも厳しい世界というか、世界のてっぺんというものは槍でも降ってくるのかと思えたものです。

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 ある夜、ドラムの方が六本木の店に来ることが出来ないという不測の事態がおきました。松本さん一行はいつものように浅草から来られたのですが、「困ったな。誰かいないかな」と不安げでした。
 夜中の時間帯の仕事ですから、通常の時間帯の仕事を終えた人がいるだろうと、あちこちの店などに電話をして、やっと見つかった若い方が時間ギリギリに駆けつけました。
 一安心です。

 さてステージです。ステージは奥行きのない細長い形で作られていました。プレイヤー同士が重なり合うスペースはなく、横一列に並ぶ変則的な形です。その夜はステージに向かって右にピアノ、ベース、松本さん、ドラム、そして私という並びでした。私と松本さんがドラムを挟むように立っていました。私の左にはドラマーが座っているわけです。
 一曲目の始まり早々に私は左腕に衝撃を受けました。ドラマーのシンバルストロークのスティックが当たったようでした。確かに狭いステージでしたが、横にまったく余裕がないわけでもなく奇妙なことでした。うっかり自分がドラムに近づきすぎていたんだろうと納得しつつ演奏は続きました。
 代役のドラマーは緊張しているようでした。緊張は解けることなく時間を追うごとに高まっているのではないかと思えました。やがてドラムの音にその不安が現れ始めました。松本さんが少しもたれた感じで吹くと、一緒になって遅くなるといった具合です。ソロが終わると、松本さんは僕に手招きされました。ドラムの後ろをすり抜けて耳を傾けると「どうしちゃったんだろう?」と言われるのです。そこで、私は彼の緊張感がよく分かる立場でもありましたから「いや、彼、むちゃくちゃ緊張してるんですよ」と答えると「誰か他いないかな」と仰って苦笑いされました。

 最初の一撃は、緊張のあまり震えていた彼の仕業だと分かりました。大きなシンバルを叩き損ねて私の腕を打ってしまったわけですが、彼は体全体が震えていたのではないかと思われます。
 更にすごかったのはバラードでした。バラードではブラシに持ち替えられるのですが、これが震えているものだから普通にはいかないのです。普通の状態であれば、「シュー、シャ、シュー、シャ」と静かにビートを刻むところが、「シュシュシュシュシュシュシュ、スシャ、シュシュシュシュシュシュシュ、スシャ」と誰が聞いてもただ事ではないサウンドで、ピアノの元岡氏は首を大きく突き出してドラムを覗き込みました。気の毒でした。私は「大丈夫だよ。落ち着いて」と耳打ちしたりしつつ回復を待ちました。
 緊張はそれからも解れることなく、それでもなんとか一回目のステージは終わりました。彼のただ事ではない緊張を知る誰もが困惑していました。そのような場合に松本さんはメンバーをなじるような方ではありませんでしたから、一つ提案なさいました。「俺、次は少し休むから、ユーさ、何曲かやってくれない?」(ま、この世代の方は「君」などとは言わないのです。だいたい「ユー」でした)
 自分がいなければ少しは楽になるのではないかと判断されたわけですが、それは大正解でした。

 クァルテット編成で始めるとドラムの音は生き生きと弾みだし、高度なリックも挟みつつ、生き返ったように彼は疾走しました。松本さんは客のテーブルで酒を飲みながらそれを聞かれていて、私のソロには労いの拍手をされていました。
 2曲ほどやったところで、大丈夫だと判断された松本さんはステージに戻られました。しかし、先ほどの演奏が嘘のようにドラマーは元に戻ってしまいました。とにかく松本さんがいるだけで演奏不能な状態になってしまうのです。その後、どのような展開で仕事が終わったのかは覚えていませんが、汗まみれの形相でドラムを叩く彼の様子が本当に気の毒に思えました。

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 それほど人を緊張させる力を持った方でもあって、それは私の場合も例外ではありませんでした。最初の一週間ほどは飯も喉を通らないような気分が続きました。ステージごとに「まだクビにはならない」というような安堵と不安が入り交じった精神状況にありました。

 同じサックス吹きとしてステージに並んでいて、とにかくすべてに歯が立たないことを痛感していたわけです。勢いだけで解決できることは皆無でした。
 一週間を過ぎたあたりで、「マック・ザ・ナイフ」が演奏されました。「これなら知ってる。いいぞ、いいぞ」と思ったのもつかの間、テーマ16小節の繰り返し部分でキーが変わりました。ソロも16小節ごとに転調していくのです。ベーシストに「どうなってんの」と質問すると「半音ずつ・・・・」
 16小節ずつ転調するわけですから、都合12回6コーラス分のソロを終えると次のソリストに移る展開。
 すっかり取り乱していた私は思考停止状況でした。「半音」と聞いて、実際は半音ずつ上がる進行なのに、頭の中で半音ずつ下がる展開を考えていたのです。
 ソロを始めて転調にさしかかった瞬間、ピアノとベースから「上がんの、上がんの」と焦った声が聞こえました。ハッと我にかえっての軌道修正もむなしく、結果的にキーによっては全く吹けなくなるような惨憺たるものでした。

 その日は楽屋に戻ってからもすっかりしょげてしまい、みんなが帰った後も楽屋で悔しい思いを噛みしめていました。
 しばらくすると、階段を勢いよく下りてくる足音が聞こえました。足音は楽屋前で止まり、バタンとドアが開けられました。立っていたのは松本さんでした。
 「どんなキーでも出来るようにしてた方がいいよ。じゃ。」と一言を残して、また階段をトントントントンと上がって行かれました。みんなと別れた後、それを言うために一人戻ってこられたようでした。
 張りつめていた気持ちがその一言で弛み、私は少し涙を流しました。この優しさはとても大きな力を与えてくれたように思います。
 「あいつ、今ごろ落ち込んでんだろうな」と気づいてくれるところがありがたく、なによりの励みでした。

 キーの問題提起の後はファスト・テンポでした。明日はジョージ川口さん達とコンサートだという夜は、気合いの入り方が少々違いました。恐ろしく速い「It's all right with me」に圧倒され、「これは付いていけない」という類いでした。
 しかし、パスは出来ませんでした。バックのラインをテナーで吹き始め、何か吹くまでは解放してくれませんでした。
 その夜も楽屋で一人反省することになりました。
 ションボリしていると、またトントントントンと慌ただしい足音。ドアがバタンと開くところまでは前回と一緒で、「どんなに速い曲でも吹けるようにしてた方がいいよ。じゃ」、でバタン。
 
 2週間ほどが過ぎ、少し慣れてきたころ。少々疲れ気味の顔をされた松本さんが、楽屋に入るなり「ちょっと、休みたいから何かやってて」と仰るので、4人で始めました。曲が終るたびに楽屋の方を確認するのですが上がってくる気配はなし。その日は結局テナーの音を一音も聞くことなく、任されたままで仕事終了。
 帰ろうとすると、付き人というか僕らは「ボーや」と呼んでいた方から「今日はお疲れさま。この後少し付き合ってください」とのこと。時間は朝4時ごろでしたが、そのまま焼き肉屋に案内され、ちょっとした打ち上げ食事会でした。自分が演奏しなかったお詫びだということですが、ま、くだけた話も聞けたし、ありがたいことでした。
 そもそもショーが入った場合に譜面を読むのが嫌だから、もう一人サックスを入れてくれ」との話でしたが、譜面を読むショーが入ったのは一度か二度。役に立たなくてすみませんというものでもありましたが、一ヶ月の仕事はその後のどれよりもタフで深いものであったように思います。

 最後の日は再び焼き肉屋で食事会。
 この時初めて松本さんは私に個人的なアドバイスをされました。
「お前は、なにか一つのことを決めて、それを深ーくやり遂げろ。よそ見をしないで一つのことを深ーくやれ。」「はい。がんばります」
「そうしないと、・・・俺みたいになっちゃう」
「えっ・・・」
 その頃の松本さんには少しの後悔がありました。耳はずば抜けて良く、なんでも出来るプレイヤーとしての評価も高かったのですが、そのことが松本さんを追いつめているようでもありました。
 何かにつけて口にしたのが同世代の宮沢昭さんの名前でした。「宮ちゃんは凄い。」と何度も聞きました。
 宮沢さんのテナーに聞こえる個性を一番理解していたのが松本さんでした。
 そのような事情も相まって最後の言葉はとても重く心に残りました。
 それに、松本さんは私の器用貧乏な特質を見抜いていたのかも知れません。

 プレイヤーとしての生き方に正解があるわけでもなく、理想を言えばキリがないわけですが、六本木の最初の夜に比べれば、もまれ続けた私は明らかに強くなっていました。この経験が後にとてつもなく役立ったことは間違いないのです。

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 それから二年ほど経ち、西荻窪の「アケタの店」に松本さんが出るというので聞きに行きました。相変わらずのテナーを聞き、帰る前に挨拶でもとステージに近付くと、私の顔を見るや否や仰いました。
 「練習、してる?」
 ヤーとかオーとかはなく「練習、してる?」です。松本さんらしい言葉に笑いました。

 20年後、スタジオ・ミュージシャンとしての仕事の合間に、松本さんが開いていた学校にお邪魔したことがありました。個室での個人レッスンの合間に話をするとんでもなく忙しい再会でした。50分のレッスンに10分の休憩というタイムスケジュールのまま、10分の休みに話をされてレッスンに戻られるのです。
 最後はこちらも初心者のレッスンなどをしつつ合間に話すという具合でした。最終レッスンは6時ごろに終り、そこからは楽器を交えて六本木の一ヶ月分以上の話をされました。
 
 松本さんは食事の後犬の散歩をして、その後少し練習されるということでした。一日中ストラップは首に掛かったままでした。楽しい日でしたが、この日が存命中にお会いした最後の日でした。

 その後、テレビでサンタクロースのような髭の松本さんを何度もお見かけしましたが、私の中のイメージは共演したころの冒頭の写真しかあり得ないのです。



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