北方領土

19 ジョージ川口さん

*

 「うん、お前は××の次に上手いな。うん。それで誰に習ってんの?
えっ、菊地秀行?  ホントか?
 おかしいなぁ。あいつ、吹けるのか?一週間前は全然吹けなかったけどナ、ああ、そうか、吹けるようになったんだ、うん。」
 やっとの思いでワンステージ目が終わり楽屋に戻るといきなりです。

 突然そんな事を言われて戸惑っている私にベーシストがこっそりと「いや、菊地の秀さんとジョージさんネ、先週四国でサ、ちょっと揉めちゃってサ。ほら、秀さんの気性知ってんでしょ?」私の師匠の頑固で厄介な気質は、前にもこのページで書いた通りですが、相手構わず喧嘩してしまうところが如何にも秀さんではありました。

 池袋のやたら大きい店で、ジョージ川口さんと3日連続ライブの仕事をしましたが、たぶん私は23か24才だったと思います。渋る私に関係なく、強引にブッキングしてしまった同郷の先輩は、「じゃあ、宜しくナ」の一言で電話を切ったのです。

 店に着き、「ジョージ川口・ビッグ・フォー出演」と大きく書かれた表の看板を見て私は思いました。「一難去ってまた一難だな」
 悲観するようなことではなく、むしろ喜ぶべきことではあるものの、当時の私には少し重荷だったのです。「ビッグ・フォー」全盛時代には客の列が日劇を3周したとかいう逸話も残し、戦後のジャズ界を牽引してきた方です。一緒にステージに上がるより客席で聞く方に回りたいと思っていました。



ジョージ川口さん
(本名川口譲治-かわぐち・じょうじ)







 
演奏した曲の何曲かは、テーマに入るタイミングとかに細かい指示がありました。 未だに教え通りには出来てはいませんが、フロントに立ってショーアップする事の大切さを教えてくれた方はジョージさんだけだったように思います。
 リクエストがあれば何でもやるというのは基本でした。
 打ち合わせもなく、知っている曲は何でも吹き、何とかジャズ的な展開をして終わる。(お茶を濁す場合もあり)
 困るのはジャズ的な要素に乏しい曲。例えば「ジャニー・ギター」
「知ってるか?」「はい、、、。」「じゃあ、やろう」
 テーマが終わって、さて、、、。曲のコード通りでは何とも面白くないのです。困っていると「コード無視、一発、ワンコード、テキトウ!!」なんて事を叫ばれるのです。言うが早いか、ドラムはガンガン盛り上がっていくものだから、私も慌てて吹きまくると言うような案配でした。

 ピアノソロに入ると、ジョージさんは私を呼んで耳打ちされました。「ステージで困った顔はするんじゃない。何時でも笑ってろ」
 お客さんに細かいことは分らないのだから、わざわざ困っていることを知らせるな、と言うような指示でした。
 早い曲はどんどん早くなり、バラードは気が付けば恐ろしく早い3拍子、こっちがうろ覚えだろうとお構いなし。怒濤のような進行に付いていくので精一杯。

 ある日、ステージを下りるとき、ベーシストの「いやあ、ジョージさん。今のは早かったですよねエ。ホント」に答えて「なあに、あんなのはスローだよ。以前はもっと早くて、メトロノーム300だよ、うはははは」
って、メトロノーム300は無いのです。

 ステージ上のパフォーマンスは当然のことながら、ステージを下りて楽屋での盛り上がりこそがジョージさんでもありました。鴨だか何だかを撃ちに行き、百発百中で余りにも当たるものだから落ちてくる鳥で一瞬空が真っ暗になったとか、セスナを操縦していて低空飛行で森に突っ込んでみたら小枝が顔にバチバチ当たって痛かったとか、、。即興で展開していくホラ話は休憩時間を越える勢いで続き、次のステージを下りてからまた聞くと言う繰り返しでした。勿論、その軽妙な話術にすっかり引き込まれた私達は笑いっぱなしです。
 受けが良く、ジョージさん絶好調時は笑い声が客席にまで届くほどでした。もしかして、ステージの上で次の話の構想を練っていた事があったかも知れません。

linhos


 「ビッグ・フォー」のソビエト・ツアーは各地で熱狂的な歓迎を受け、大成功だったそうです。

 長いツアーでいささか疲れも見え、もうすぐ帰国できるという日の話です。何日か追加公演を所望されたそうなのです。
 しかし、みんな疲れているし、何とか断ろうとしたらしいのですが、担当者は頑として聞かず「何が何でもやってくれないか」の一点張り。断り続けていると、肩章とかが少し増えた、それまでの担当者の上司らしい方が代わりにやってきたそうです。
 全くやる気の無いジョージさんは「とにかく、もう国に帰りたい。第一お前では話にならない。もっと偉い奴を呼べってな、ウハハハハ」
 ルーブルは一定額を超えると国外持ち出しできず、これ以上稼いでもソビエト国内に置いてくるしかない状況。

 で、ジョージさんは
「それでナ、また少し肩章の増えたやつが来たんだヨ。仕方ネエから、ルーブルはもういらない。米ドルで払ってくれるんなら一回ぐらい考えてやらない事もないけど、それでもお前じゃ役不足だ、もっと偉い奴をよこせ。って言ったんだナ。ウヘヘヘヘ。
そしたらナ、今度は銃持った兵隊連れて、体中ワッペンだらけのナ、見るからに偉そうなのが気色ばんだ勢いで乗り込んできやがってナ。
 担当の者を困らせているのはお前か?ってな感じだな。そこでナ、俺は言ってやったんだヨ。いや、御苦労御苦労。そこまで誠意を見せて貰えると、こっちも考えなきゃいかんナ。よし分った。一回だけ追加公演引き受けよう。でもな、一つだけ条件がある。

 北方領土、返してくれたら、やる。」

 「通訳が話した瞬間、銃剣突きつけられてマッツン(松本英彦さんのこと)真っ青。ウヘヘヘヘヘ。」
 私達は思わぬ展開に楽屋で笑い転げました。


 ジョージさんはジャズドラマーの草分けとも言われ、11月1日に76歳で亡くなられる数日前までライブで演奏されていたそうです。
 私は上記池袋3日間だけのお付き合いでした。その後、幾度となくお会いすることはありましたが、演奏を御一緒することはなかったのです。
 実に貴重な3日間を思い出しながら、ジョージ川口さんの御冥福を祈りたいと思います。
 ジョージさんを送るのに湿っぽい話はやめて、私が一番好きな話を、、、。
 ベーシストの徳さんの話です。
 ライブ前日、ジョージさんは釣りに行かれて、釣り落とした魚のことを悔しそうに話されたそうです。

 手を広げて「それがナ、この位の奴ナ。もう少しだったのになあ」
 見ると、手の幅から体長40センチ。
 よしゃあいいのに徳さん軽く突っ込んだそうです。
「ジョージさん、それってあまり大物とは言えないんじゃないッスかネ」
 すると、すかさずジョージさん「徳ぅ、お前はいつもそう。人の話を最後までちゃんと聞かない。ベースと同じ。ちゃんと聞けばベースもなあ。人の話は最後まで聞こうな。

 俺がこの位と言ったのは、、、目と目の間。
 頭からシッポじゃなくて、目と目の間のことナ」

                

2003 11/30  

  

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