16 初レコーディング
「渋谷からネ、バスでネ、×××行に乗って○○○●●丁目で降りるんだよ。それで、進行方向に少し歩くと左に小さい道があるから、あっ、えーとネ、川沿いの小さい道ネ。それを、したたかってもほんの3、4分歩くとネ。すると左側にあるから。」私はバンマスの説明を聞きながら「大変なことになったな、どうしよう」と不安を隠せませんでした。
突然、ポリドール・スタジオに行くことになったのは銀座のクラブ「アスターハウス」で仕事をしているときでした。
S 氏は同じバンドの仕事仲間であるとは言え親子ほど歳の離れた大先輩です。著名なバンドを幾つも経験され、その当時もクラブでの仕事以外にもスタジオ・ワークを数多くこなされていました。
S 氏は戸山兵学校出身。いわゆる軍楽隊ですね。同期には團伊玖磨氏などがいてとにかく顔の広い方だったのです。お屋敷育ちのお坊ちゃまで、ぱっと見にはとてもバンドマン風情とは思えぬ育ちのよさから来る品がありました。作編曲家、早川博二さんもS 氏の友人の1人でした。後に聞いた話では、ある日2人で飲んでいるときにその話が出たということでした。
「いや、僕もネ、したたか飲んですっかりいい気分でさ。あまりはっきり覚えちゃあいないんだけどネ。なんかのきっかけでさ、プレイヤーの話になってさ、君の話をしちゃったんだよナ。」
「何を言ったんです?」
「いやあ、それを言われると辛いネ、どおも。
オイ、早川よォ、おめェ、近頃のわけーのはどうだってってウチに最近来たのはヨ、まだ21とか22デヨ、俺らの世代とは感覚ってモンがもう違うネ。おれらが苦労しているのにヨ、違うニュアンスの吹き方をナ、当たり前でしょ?てな感じで楽々吹きこなしやがるんだナ。オイ、時代は変わったナ、俺らの出番はそのうちなくなるカモナ、、、、。てな風だな」
「それは言い過ぎのような、、、。」
「いやあ、酒の上の話でサ、まさかアイツが本気で君を頼むなんて夢にも思わないからね。少し大袈裟に言っちゃったンだな。いや、悪い、悪い。それで、どうだったの?」

まさかそういう経緯があるとは知らず、突然舞い込んだスタジオ・ワークのオーダーに困惑しつつ、私はバンマスに教わった通り渋谷の駅からバスに乗りました。右手に持ったアルトサックスのケースも困っているようで、バスを降りてからの道は頼りなく足がもつれそうでもありました。
何を吹かされるか見当もつかず、どういうテストをされるんだろうと不安でした。
おっかなびっくりスタジオの建物に入ると、ロビーには誰の姿も見えず静かでした。約束の時間に近くなって、突然スタジオに通じる大きな扉がゴトンと開きました。
スーツを着た年配の小柄な方が私を見て「渕野さん?」と聞くので頷くと、「私、電話でお話した高麗(こうらい)です。よろしく。」
「ちょっと押しちゃっててさ、後20分もすれば次行けると思うんだけどね、編成大きいからサ、大変なんだな。
それと、悪いんだけど私他に行かなきゃいけないトコあってさ、最後まで付き合えないからネ。取りあえず今日のギャラね、5曲分。一万5千円入っているからね。君、若いね。頑張って。」
30年前の一万5千円は大金でした。エッ、ギャラって?「あの、、テストじゃ?」「スタジオにテストはねえんだよ」何を言っているんだこの若者は、というような表情でした。しかし、一転優しい表情には笑みさえありました。驚く私を尻目に高麗さんはスタジオの入り口の扉までつかつかと歩いて行き、中の様子が見える円窓から中を覗き込んで私を呼びました。
「あのヴァイオリンの横のトコね、あそこで吹くんだよ。頑張ってね」
ガアーン!!
円窓から見える光景を見て足がすくみました。
天井が高くやたら広いスタジオの中には、大勢の弦楽器の方々と指揮者の姿がありました。生意気盛りの若造が、いつもの勢いだけで切り抜けるのは無理があるということを一瞬にして理解しました。
少し生意気を押さえて、案外まじめな若者を装うことにしました。
実のところ、内心「あわわ、あわわ、何というおそろしい事になったんだ。こんな話は聞いてないぞ。いったいどういうこと?」ギャラをほうり投げて即座に帰る。泣きを入れてみる。お腹が痛くなってみる。ずらかる方法を考えていました。
それでも、遂に出番が来てソリスト用のマイクの前に座り楽器を出すころには、押さえかねる威勢は「なめんでねえヨ、ばあか」とわけの分らぬつぶやきに変わり、すっかり居直って「ガルル、、」と辺りをけん制する野良犬のようでありました。窮地に立たされたサックス吹きなんてものは大体そんなものです。
早川さんが来て、「Sさんに聞いているよ。楽にやってネ。」という言葉でこの仕事が舞い込んだ経緯を理解しました。早川さんはトランペットソロの「暗い港のブルース」を大ヒットさせた方として有名で、私も学生時代に何度も聞きました。この曲は後に「キングトーンズ」の歌でもヒットしました。
スタジオの中を見回すと、初めてお目にかかるでっかい家具のようなハープ、ホルン、コーラスの方々、ベース、ドラム、パーカッション、20名ほどの弦セクション、まぎれもなく大編成でありました。マルチトラックではなく2チャン同時録りでしたから、緊張感がスタジオ中に充満する異様な空気。ベテランも「今日がはじめて」も関係なく事は進行します。
今でも思うのですが、この同時録りというのは火事場みたいなものです。譜面チェックの一回の練習があってすぐ録音、一回プレイバックして本番。プレイバックが省かれることもあり、その場合は1回練習して本番。慣れると当たり前になってくるものの、誰もが自分のことで精一杯という感じでしょうか。
以前、山田洋次監督の映画(作曲・富田勲)の音録りに参加したことがあります。アルトサックス・ソロがアカペラ状態で使われる部分が多く、大変なものではありました。アンサンブル用にセッティングしたマウスピースとリードが全くのアカペラ状態では思わしくなく、少し苦労しました。
録音して、別室の映写室で画面に合わせて聞く繰り返し。通常の劇伴の録音時間をはるかに越えて12時間の長丁場でした。納得いかないテイクのやり直しを申し出ると監督は言いました。「良くなるの?だったらやって。」この映画のサウンドトラック盤のライナーノートでの監督の言葉。「私は昔から映画音楽の音録りに関して不思議に思っていることがあった。演奏家が時間になるとやって来てサッと演奏して時間通りに帰っていく。本当に納得しているんだろうか。」云々。とは言っても、予算的な都合から概ね録音の仕事は火事場の様相を呈することが多いのです。
さて、ポリドールです。
タイトルは「南太平洋の休日」で、夏に向けて出すLPでしたから、譜面台には「引き潮」「南国の夜」「Beyond The Leaf」などの譜面が並んでいました。
私のサックスの音色はディレクターの方には好まれませんでした。当時の私はジャズを目指す血気盛んな若者であったわけで、ハードなセッティングから生まれる硬質な音色こそが目指すものでありました。サックス奏者ならお分かりかと思いますがメイヤーの9番にリコーの4というセッティングでした。まあ、いわゆるブリブリの音だったのです。
右の大きな仕切り状の衝立の向こうにはストリングセクションの方がいらっしゃいまして、練習していると、何度もその衝立の窓を弓で叩いて抗議されたりしました。嫌な感じでした。
早川さんに「もう少し柔らかい音出せる?」と言われ、ソフトな音に聞かせるためにベルにタオルを入れて1曲吹きました。冗談のような反則技でしたがディレクターは納得しました。低音域D以下と中音域D、Ebが出てこない限り大丈夫でしたが変な音ではあります。
それで、僅かな曲間にリードを何種類か替えてみると、周りと折り合いのつくポイントが何となく見えてきて、それからは普通に演奏できました。と言っても、何とか周りに迷惑をかけないですむ程度ではありましたが。
これは重要なことでした。プレイヤーは本番の最中に思いもかけぬ事を発見したり、それまで出来なかったことが突然出来たりすることがあるのです。練習に費やした何時間よりも、本番の一瞬に突然ステップ・アップするような感覚です。集中力が高まるのか、追い詰められたときに火事場の何とやらが出るのか、説明はできません。自宅練習だけでは上達出来ない部分があると言えるかもしれません。
(逆の場合は悲惨ですが、、、、。)
ある曲では途中テンポが無くなり、サックス先導で戻るというのがありました。これは冷や汗でした。指揮の感じが分らず、何度も繰り返してスタジオ中から冷たい視線を浴びました。ディレクターの要求がストリングセクションに及んだ曲は緩やかな少し撥ねたリズムの曲でした。「そんなにベターっとしないでネ、もっと楽しそうにはずんで弾いてよ。」踊りながらスタジオに入ってきて説明される姿に笑える余裕も出てきました。

緊張と冷や汗の初レコーディングは終わり、スタジオを後にする心境は複雑でした。抱えきれないくらい多くの課題を残した事に気が重くなっていました。しかし、そこはお調子者の若いサックス吹きです。喉元過ぎれば何とやら。帰り道で封筒の中を確かめたときにそんなものは全て吹き飛びました。満面の笑み。まさに「ドゥフフフフ、キャッホー」でありました。正しいバンドマンのあり方だと言えます。
何よりも「きっと何時かは!」と思える時間が、まだ充分すぎるほどありました。悩むことはない、まだまだ先がある。「いつかは」は立体文字でビルのようにそびえ立っていたのです。
スタジオ・ミュージシャンとして活動を始めて20年余りが過ぎました。多くのスタジオが時代に流されるように消えていきました。それぞれ趣の異なる、そのスタジオならではの録音風景を思い出します。どのスタジオの壁にも誰かの緊張の跡が刻み込まれていました。
思い出深いポリドール・スタジオも昨年取り壊されてしまいました。
ふと思うのは、「いつかは」のその後?
03.5/30