朝の部

20 新宿ピットイン(1974年頃)

 ある日、「あのサ、来月の××日にピットインとれたから、よろしくナ」と、ベースの早川から電話。
「えっ、どういう事?」
「やりたいって言ってたからサ、申し込んでいたらОK出たから。」
 
早川は既に幾つかのバンドを掛け持ちしつつ活躍中で、現役の慶応大生。メンバーもピアノの元岡一英(同じく慶応)とドラムの亀山(早稲田)を既に手配済み。
 驚いている余裕もなく、その一本の電話で今に至る道への扉が開かれたように思います。

 元岡氏とは遡ること2年程前に松本英彦さんのバンドで一カ月毎日演奏した事がありました。その頃、ピットインに出演することは大変なことで、望めば誰でもできる事でなく、その時点で既に出演しているプレイヤーの紹介があったことはラッキーでした。しかし、なぜ私をリーダーにして申し込んだのか後に聞いてみると、「いや、たまたま元岡もそこにいてサ、あいつをリーダーにしちゃえって事になったんだよナ」という事でした。

 経緯はともかく、大変な事になったわけで、ゲイリー・バーツの曲だとかコルトレーンの曲だとかを見つくろって準備しました。
 当時は誰もが独特のサウンドを目指し、スタンダードなどをシコシコやっているのは軟弱呼ばわりされたものです。
 ま、スタンダードなどを上手に演奏できる技量に欠けるところもあったのですが、かと言ってジャズ喫茶で思い切り演奏したい欲求を押さえるようなもったいないことは出来なかったのです。

 私達の一周りほど上の世代の方、例えば中尾ミエさん達の言われるジャズ喫茶は「ACB (アシベ)」など、いわゆるポップス、洋楽系を指し、私達が演奏した場所とは違うものでした。
 時代が違い、いわゆるロカビリーシーンの歌手達が出演する場所もジャズ喫茶と言われていたようです。
 後期はそれすら怪しい所でありまして、それが証拠に、一回だけ演奏したことのある新宿の「ACB 」の仕事。
 お会いしたのは演歌歌手の冠二郎さんでした。

linhos


 学生運動は浅間山山荘事件などを経て幾分沈静化していましたが、あらゆる分野で吹き荒れる若い世代のエネルギーは、それまでの大人たちが作った価値観を何とか覆そうと躍起という時代でした。
 井上陽水、拓郎など後にニューミュージックと呼ばれた一連のシンガー・ソングライターが台頭し始め、テレビに出ない宣言をするに至って、それは一つの形にもなりました。

 新宿でのジャズは、六本木、銀座などのクラブで演奏するベテランとは違う方向を目指し、自分達だけの共通語を信じていたのかも知れません。
 誰もがオーネット・コールマン、セシル・テイラーを支持していたわけでもありませんが、アヴァンギャルド・シーンのジャズメンのアルバムは隆盛を極め、山下洋輔トリオは輝いていました。
 多くのピアニストはマッコイ・タイナーのように鍵盤に向かい、エルヴィン・ジョーンズは仏であり、コルトレーンは神でした。

 あるピアニストはクラリネットの鈴木章二さんのバンドにトラで行き、「鈴懸の道」をマッコイ・タイナーのように弾いて鈴木さんを困らせました。

 さて、ピットイン。
 バンドのお披露目は突然入ったスケジュールで別の場所に変更。西荻窪の「アケタの店」はピアニストの明田川さんが自分の音楽を制約なく実現するために親類の米屋さんの地下倉を改造して始めた店です。
 今は随分と様変わりしましたが、当時は床も土のまま、客席は逆さにしたビールケースの上に座布団だけでした。
 この日、初めてのライブにワン・ホーンは大変だろうということで、メンバーがテナーの佐々木正三氏(早稲田理工科卒、後カタギになられた)をゲストで呼んでくれました。
 その後続く苦悶の日々は知らぬが仏。楽しい一夜でした。内容はともかくジャズだけに集中する仲間と演奏する喜びがありました。終わってみれば相当力が入っていたらしく、腰と肩の痛みが重く、しかしそれは心地よい疲れへと変わっていきました。

 ピットインは紀伊国屋の裏手の建物の一階にありました。
 少し前までニュージャズ・ホールとして運営されていた2階は倉庫のようになっていました。

 朝の部は12:00から14:30 昼の部は15:00から17:30。
 朝の部でもお客さんはいた、というところが今考えると凄いのです。後に多くの人から「朝の部をよく覗きました」と言われたものです。演奏中に突然人が増えて驚いていると、外はにわか雨で、只雨宿りしただけなんて事もありましたが、、。
 ギャラは大体2000円。
 いや、一人ではなくバンドで。
 一人500円。山手線の初乗りが30円の時代です。煙草が80円?
 紀伊国屋下の「餃子会館」で定食頼んでおしまいか、もしくは「アカシヤ」のロールキャベツ定食。ドラマーは車で来ていましたからたぶん赤字だった筈です。
 朝の部で一人1000円以上になった日にゃ、しばらく小声で自慢が出来ました。
「誰々のバンドはタローで400円だったらしい。一人100円だぜ、ウヒヒヒヒ」なんて話も聞きましたし、タローで帰るに帰れない一人の客相手に演奏などは日常でした。

 演奏は何もないところから物語を作っていく事が楽しく、イントロ部分が延々と続き20分以上になることもしばしば。その解放感こそが重要で、何か新しいことを演奏したい気持ちが具体化する過程にワクワクしたのです。
 血気盛んな若者であった私達はステージを2回に分けてやるのは勿体ない、連続してやろうと試みたりしました。
 しかも、しばらくは曲間空けるべからずとして、一曲目が終わると二曲目のイントロ、ドラムフリーソロに突入、2曲目終わりからサックスソロで3曲目に入ると言う具合におよそ2時間半ぶっ通し。
 それぞれのソロの間に他の人は休むわけです。
 何とも無茶なことでしたが、確実に鍛えられました。
 語彙も極端に少なく、一人で20分のソロが続けられるほどの技量などなかったにもかかわらず、知っていることを全部吐き出してもまだ吹き続ける情熱こそが若さでした。ストーリーは、その場で思い付いた一つのフレーズを発展させるやり方が有効で、昨日聞いたレコードのワンフレーズが無意識に飛び出す事もありました。

 ピアニストの友人は、ほぼ毎日朝昼晩と3回のライブをこなしていたそうです。
 結果、「何も出ないんだヨ、もう何弾きゃ良いか分んないんだけどサ、取りあえず鍵盤の何処か叩いてサ、そこから始めるんだよな、、。苦しいんだけどサ、時々凄いところ行くことがあるから嵌まっちゃうんだよナ」
 今日は何か出るだろうか?と不安になりつつピットインの扉を開けた日もあったことを思い出します。

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 テナーの小田切一巳氏は特別繊細な方で、ジャズに人一倍情熱を傾けたプレイヤーでした。ジャズしかやらない生き方を曲げることなく、どんなに困っていても他の仕事はしませんでした。食べていくのも大変な様子を見かねて「ねえ、仕事紹介するから一カ月だけでも箱バンやらない?」と言うと顔真っ赤にして断る始末。

 私は2管でテーマを吹くのが好きで、嫌がる早川などに無理を言い、何人かのトランペット奏者を加えました。バンドは朝の部から昼の部へと昇格していたと思いますが、クァルテットに戻したころ、小田切が来て「このバンド入りたいなあ」と言うのです。ま、こっちはアルトなんだけどサックス吹きのバンドに来てそれを言うのが凄い。どういう風の吹き回しかと聞けば、「ジャズ喫茶のバンドに入れば少しでもギャラは頂けるけど、嫌いな音楽のバンドだったらやりたくない。でも渕野のバンドは面白そうだから」

 まあ、お眼鏡にかなったということです。レヴェルの高いやり取りが実現できればそれはエキサイティングだから一も2もなく即採用。しばらく2サックスで演奏しました。何度かは私以上の演奏に「小田切ぃー、少しは遠慮しろよ」と言った事もありましたが、回を重ねるごとに彼は心を開きだし、タローのカウンターで、テレビの大相撲を観ていて「何時もお尻のかゆい人はだーれ?、、、、塊傑」なんて事を言うようになりました。
 私達にしてみれば、「冗談言うんだぁ」てな所。私とは何故か気も合い何カ月一緒に演奏したかは覚えていませんが、メンバー間のトラブルが元で辞めてしまいました。
 その後、郷里(福島?)に戻り猛練習を重ねて再び上京。意欲的に活動していましたが、若くして亡くなった事は残念でした。抜群のセンスと有無を言わせぬ説得力を持ち、凄まじい勢いで走り抜けたサックス奏者でした。
 

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 朝の部から始まって約3年余り、とりとめのない気迫だけが頼りの演奏が長続きするわけもなく、やがて熱病にかかったような私達の活動も落ち着き始めました。

 それまでの状況に間違いなどなく、それはそれで幾つかの力を与えてくれたようにも思いますが、上っ面だけで一生やっていけるほど芸人の世界は甘くないということでもありました。

 いくつものバンドを掛け持ちしている者が参加バンドを整理しているうちに、次第に淘汰されていく事にもなったのです。同じような選曲だったものも少しずつ変化。
 ある人は伝統的なものを見直し、またある人達はフリーを追求するといった具合でした。私のように全く違う世界に行く場合もありましたし、どちらにせよ演奏者として食っていく方向を見定める時期が来たということでした。
 私はジャズだけで生きていく強さを持ちあわせていなかったように思います。

 大げさに言えば、過渡期とでも言えるのでしょうが、そこはお気楽性を充分に備えたバンドマンの端くれ。
 深く考えて、容易に結論が出ないことを知るや、「まあ先のことは成り行きということで、、」という風でありました。

 後期のバンドにはギターのH氏が参加していました。
 フリーもどきから古いスタンダード、何でもやりました。学習院出の方だったのですが、少し交友関係に問題があったようでした。
 ある日、開演時間になってもなかなか現れず、仕方なくコード楽器抜きで一回目の演奏を終えました。
 休憩時間に申し訳なさそうな表情でH氏は到着しました。
 頭は白い包帯で包まれていました。
 「どうしたの?」と聞くと、「いや、それがさア、・・・・・」
 前夜、友人から入手した錠剤をいただいたH氏はすっかりいい気分でラリっていたそうです。
「なんかネ、喉が渇くんだよね。そんでさア、ストーブの上にヤカン置いてお湯沸かしてさ、お茶を飲みたいと思ったわけよ。
 しばらくトロトロしててさ、気が付くとヤカンちんちん言ってるわけよ。でネ、ヤカン持ち上げて台所行こうとしたら、、、効いちゃってんだよね、スリク、、、、。
 そのまま仰向けに倒れたらしくてさ、朝起きたら頭ヒリヒリすんだよネ、、、。」

 次のステージ、かなりの火傷だった筈のH氏はギターを持ってステージに上がり、しおらしい態度の彼を見て私は笑いをこらえるのも一苦労で「You'd be so nice to come home to」を一緒に演奏したのです。
 演奏中に顔を覗き込むと、H氏は満面の照れ笑いでした。  

04 10/2

 
 唯一残っていたピットインのスケジュール表の一部。

 1976年1月
 私は姓名判断にうるさい友人に言われて、しばらくは繁男にしていた。朝の部、マルチフォニックスはトロンボーンの板谷博(故人)とやっていたバンド。
 後に自分のバンドを解体し、最後に続けるバンドとなった。「ジェリコの戦い」、ミンガスの曲など、板谷が変わった曲ばかりアレンジして持ってきて、ジャズ雑誌の注目バンドコーナーに特集されたりした。
 板谷はその後「生活向上委員会」の主要メンバーとして活躍した。
 私はこの日、朝の部、昼の部と続けてやったらしい。
 小田切、神村、誠一さん(どういうわけかこの方とは忘れた頃にお会いする)、古沢さん、自分にとっては懐かしい名前もある


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