5 前借り

夜店であろうと、ステージ、テレビなどで活躍するバンドであろうとリーダーは全てとり合えず「バンマス」
事務所から頼まれた雇われバンマス、全てを自分で仕切る自営バンマスと二つのタイプがありました。楽器は一切やらずに指揮だけなんてのは主に前者でしたが、自営の方は奏者(兼 )営業、監理、メンバー及び譜面の手配など大変でした。
キャバレーにはショー・タイムがありましたからバンドは重要で、どこの店にも元々はプレイヤーの経歴を持つマネージャーがいたようでした。その頃の私には詳しい内情は分かりませんでしたが、人情味あふれる多くのバンマス達に支えられて20代の前半を過ごしました。
様々な形でお世話になりましたが、バンス(マが抜けているわけではない)では特にお世話になりました。バンスはアドバンス(advance)の事でいわゆる前借り。バンドマンの給料は大体「ついたちじゅうごんち」と決まっていました。(1日、15日)どうして16日でないのかは分かりませんが、バンドをやめる時は最低でも15日前にという取り決めにはそのような事情も関係していました。15日で半分ずつ頂く事は、嬉しいようで案外不便でもありました。家賃とか大きな支払いをする方では必ず足りなくなりました。もう一方の分を確保しておけば良いのですが、遊び盛りの若造には無理な話でした。このお願い、最初はかなりの勇気が必要でした。帰り支度の控室で全員が出払ってバンマスと二人きりになったところを見計らい、「あのー」とか細い声で切り出すのです。ここでバンマスは鋭い一瞥などをくれながら、(ばくちか酒か女で無駄遣いしてんじゃねえだろナ)とかを即座に判断し、「で、いくらだ?」何てことを言うわけです。
私の場合は、ほら、真面目で、レコードとか、------レコードとかにつぎ込むだけで、やましいところはほんの少しでしたから何度もすんなりと貸して頂きました。借り過ぎると困るのは自分だと学習する内にやり繰りも上手になり、一切迷惑をかけなくなりました、、、なんてことは無いのです。
借り方が上手にはなりました。
ステージからの下り際、さりげなくバンマスの耳元に小さな声で「あの、バンス、アハハ、、」と囁き、「ええーっ、またあ」でOKでした。
正しいバンドマンのあり方と言えます。
バンスは基本でしたから、その都度メンバーに自分の懐から出していたバンマスは大変でした。
東京での最初のバンドは3ヶ月ほどのトラ。バンマスのH氏は30代半ばの同じサックス奏者で、切れ長の目も涼しく中々の好男子。チャキチャキの江戸っ子で、穏やかでしたが有無を言わせぬ鋭い気性を秘めた方でした。
メンバーの話によれば交差点のど真ん中で対向車と争いになり、「それがよォ、バンマスなっ、かりかりしちゃってよ、車降りていっちゃったらしいんだけどよォ、おめぇ、相手の車のウィンドウ越しにいきなり殴っちゃってナ。普通よぉ、窓越しに何たらかんたら言ってから、てめえ車降りろだろ?他の車パッパカパッパカ、クラクション鳴らすし、渋滞するし、お巡りくるしヨ。とんでもねえんだヨ、あれ」
何でも若い頃にあの天下の美空ひばりさんに食ってかかった事もあるとの事。
「ステージでリハ中に何か言われたらしいのナ、それでヨ、怒っちゃってナ、なっ、言ったんだってヨ。てめえ、てめっちみてえナ魚屋の娘にバカにされてたまっか、バカヤロー、ってよ。周りがびっくりしちゃってヨ。真っ青。」
次にH氏に紹介されて行った店の6人編成バンドのバンマスはまた特殊なタイプ。彼の興味はもっぱら競馬。折しもダービーの頃。控室でも話はダービーの事だけ。とにかく寝ても覚めてもお馬の話。毎日聞かされたおかげで、私は彼の応援していた馬の名前を一生忘れる事はないのです。その上、演奏する曲は毎日一緒。数少ないレパートリーを増やす気は一切無く、揚げ句ステージの譜面台の上には競馬新聞。毎日が拷問のような日々に耐えかねた私は最終行動に出たのです。みんなが2ndステージに向かう後から、既にケースに楽器を収めた私は気付かれないようについて行き、エレベーターホールとステージ方向に別れる通路の境目で右折してエレベーターホールへ。
エレベーターボーイは事情を知る味方。
「おっ、ついにやるのか。よっ、頑張れな」の声に送られてエレベーターを降りました。
いわゆる「とんずら」
ま、37年前の話でして、時効です。
しかし、紹介者はあのH氏。
非常に不味い事になった事は確かで、詫びを入れても許してくれないとしたらどうしょうとか心配しつつ、駄目元で電話。「あ、あの、その・・・すみません」
H氏は一言。
「ああ、ボーヤぁ。何があったか知らないけどヨォ、あんまり無茶しちゃ駄目だヨ。なあ。」
バンマスの宝崎(ほうさき)さんに会ったのは銀座の西五番街のクラブ「アスターハウス」でした。どのような経緯で雇われたのかは覚えていません。
アルト、テナーサックスに3リズムのメンバー。それに宝崎さんの6人編成。
宝崎さんは元々はトランペット奏者でしたが、ヴァイヴも演奏され、バンドの編成に合わせて自分で譜面を書ける勉強家でした。楽しい数ヶ月間を過ごしましたが、全ての譜面を諳んじて吹けるようになるともう駄目でした。
刺激がなくなり、また新しい場所を探すようになるのはいつもの事。「えっ、辞めちゃうのかい? ま、しょうがねえな。若い内は色々経験しねぇとナ。また、困ったらいつでも電話しなヨ」で、彼のバンドには出たり入ったリを繰り返し、何度もお世話になりました。
銀座を離れ西川口で仕事をされている頃に電話をすると「ええーっ、タイミング悪いなぁ。今月からアルトが替ったばかりでサ、首にも出来ねぇしさ。テナーだったら来月から空くんだけどサ、テナーじゃなァ。」
他を当たるつもりの私でしたが、最後の言葉が妙に引っかかってはいました。
「じゃあ、※※日に店の方にきて来て下さい」と幾つか他の当てが見えてきた頃、モヤモヤとしていた事がはっきりしました。
再び宝崎さんに電話。
「バンマスっ、来月からのテナーって決まりました?」
「いや、まだだけどサ、誰かいるの?」
「僕ではどう?」
「ええーっ!それは嬉しいけどサ、、だって、楽器は?」
「だから、楽器を買うお金を貸してくれたら行く。」
ま、究極のバンスでした。当時、セルマーのテナーサックスはおよそ15万円。
「うーん。それは・・・・・額が額だしなァ。少し考えさせてくれ。」
今考えれば、21やそこらのバンドマンに貸すのはためらわれる額ではあります。今の相場で言えば50万位でしょうか。今のようにアコムだとかプロミスだとかお手軽な金貸しも無く、第一若過ぎて楽器屋だって分割払いを許すはずもありませんでした。
丸井もまだ無く、その先駆者的な「みどりや」は身元保証だとかにうるさくてなかなか難しいとの評判でした。
丸井が若者をターゲットにして分割払いの手軽さをアピールし、新しい時代を築くと共に「みどりや」は消えていきました。
その丸井が近年苦戦しているらしき事を聞きます。
今の若者には選択肢も多く、何より昔に比べて豊かなのかも知れません。
さて、少し考えた宝崎さんの結論は「よし、貸してあげよう」でした。
たぶん、奥様と相談なさったのではないかと思うのですが、喫茶店で待ち合わせ、双方緊張の面持ちで借用書にサインをしてお借りしたように覚えています。
月々一万円ずつの返済は少なくとも一年半ほどの在団を意味していました。
真新しいテナーサックスを持って行った最初の日のショータイムは大変でした。
いきなりテナーソロの王道「ハーレムノクターン」やら「ダニーボーイ」などの譜面を抱えてダンサーがお出ましになったのです。
生涯忘れ得ぬ冷や汗でした。少し後悔もさせられました。
この楽器には一年半ほど夢中でした。しかし、案外手強く、それまで吹き慣れたアルトのように軽々とは行きませんでしたから、再び宝崎バンドを辞めてからはメインがアルトに戻りました。
ピットイン時代も少しは吹いていたものの、アルトと同じウェイトでテナーを吹き出したのは上田正樹氏のバンドでした。ソウル・ミュージックにはテナーだと思えました。
アルト、テナーの持ち替えは今では当たり前です。当時は珍しく、無理だとも思われていました。実際、難しい部分があって、テナー奏者のアルトは奇妙にふにゃふにゃとサウンドし、アルト奏者のテナーはテナー独特の重量感に欠けるはんぺんのような音(って、どんな音?あっ、それは豆腐とはんぺんの差のイメージ)になるのです。どちらかに慣れると、一方がその体たらく。
で、アルト大好き時代とテナー大好き時代が交互に現れ、両方ともまあ好き時代の到来までには10年ほど待つ事になります。
自ら多重人格を形成する期間とも言えます。
これにソプラノサックスとバリトンサックスが加わると、もう一筋縄では行かず思いきり信用にかける人格が出来上がるのです。
宝崎さんのおかげで私は早い時期からそれに取り組み、随分とマルチリード奏者としての恩恵に与ったように思うのです。
06 3/1
バンマスの項続く