21 河内のおっさん
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70年代の中頃から、私の仕事の場所は「箱バン」から箱の外に移っていきました。早い話、歌手のバック・バンドのメンバーとして全国を彷徨う事が多くなったわけです。Profile「Works」に詳細がありますが、それ以外にも単発のステージの仕事が数多くありました。
変化は「移動」にも顕れました。夜行列車熊本とか朝6時上野駅公園口集合貸し切りバス全員拉致といった類いは影をひそめ、新幹線、飛行機に乗る機会が増えました。時代の流れなどもありますが、少し成り上がったようでした。
しかも、世間体を気にしつつ、見栄と虚勢を重んじる業界では当然のことでありましたが、新幹線は「グリーン車」。虎の威を借りるバンドマンと言ったところでしたが、結構気分のいいものではありました。当時の新幹線のグリーン車は「満席」という事は先ず無く、最終電車などに至っては一車両に我々の一団 7、8名だけという事もあったほどです。大きな声では言えませんが、甘やかされていたと言っても差し支えないでしょう。
これが、海外のミュージシャン、所謂「外タレ」のバックバンドのミュージシャンともなると状況が一変するのです。S・ワンダーのバンドのドラマーは、以前、(ホーンセクションで参加した)日野晧正さんのステージで一緒だった事もあるジェリー・ブラウン氏でした。で、東京の公演が終り、次は大阪。ジェリーが大阪への移動について訊いてきたとき、見せてくれたチケットは「新幹線自由席特急券」でした。
日本サイド(弦、ホーン)とは全く違う扱いでした。キビシイのです、アメリカのショー・ビジネスの世界は。スティービーは大スターだけど、バックバンドのメンバーはそういうものなのです。
驚きましたが、実にはっきりしています。もっと著名な演奏家であれば待遇も少しは変るのかもしれませんが、たぶんそういう人は特別なことでもないかぎり雇わないのでしょう。

こんなこともありました。
日本を公演中のある有名な歌手のバンドのサックス奏者が怪我のためツアー続行が不可能になりました。トラをやるように勧めてきたマネージャーによると、「次のオーストラリア公演も行けば?」という事でした。
「うん、楽しいかも」と思いましたが、詳しく話を聞くうちに「全然楽しくないかも、帰ってこれないかも」に変っていきました。
話はこうです。
「ツアーの全行程のタイムスケジュールを渡すから後は全部自分の責任で行動しろ」
某月某日、キャンベラの##ホール、開演20:00と書かれていれば、その時間にそこにいて演奏できればOKだということなのです。そこまでの移動、ホテルの予約、全て自分でやること。「誰か付いてくるわけ?」「いや、一人で行くんですよ」「そんな、無茶な」
上に書いたように、甘やかされてきたバンドマンには酷な話ではありました。国内ならともかく、言葉も思いきり不自由なオーストラリア。結局、スケジュールの都合もあり難を逃れましたが、行く羽目になっていたらその後の展開も変わり、今ここにいなかったかもしれません。(そんな、大袈裟な)後に聞いた話では、幾らかの手数料で一切の手配をしてくれるエージェントがいるとのことでした。
国内の楽旅は、旗を掲げたツアー・コンダクターの後に連なっていく日本人観光客の様子と、どこか似ている様な気もします。
気楽で呑気で、いい気なものです。
そんなこんなで、ある日、私達はある女性歌手のコンサートで名古屋へ赴きました。名古屋は連日の公演がない限り、日帰りです。
その日も公演が終り、例によって私達は脱兎のごとく手配されたタクシーに乗り込み、会場を後にしました。
こういう場合、帰り支度の早さはプレイヤーに共通する習性のようなものです。特に急ぐ必要がない時でも、着替えを急ぎ、我先に会場を後にするのです。
ディナー・ショーの仕事で仙台に行った時のことです。
泊まることになっていたにも関わらず、ぎりぎり最終に間に合うと見るや、ホーンのメンバーはステージの終り頃にシャツのボタンをこっそり外し初め、終わると同時に楽器をケースに押し込めて駅に急ぎました。
この時のホーンセクションは、帰りたがる人が多く、後日マネージャーに「頼むから無茶しないでヨ。そんなに僕の仕事が嫌なのかってさァ、タレントが泣いてんだからさァ」と、叱られることになりました。
それで、私達は深い反省を余儀なくされ、とりあえずステージ上でのボタン外しを止めて、衣装のまま駅に急ぐという事にしたわけです。
しょうがない連中です。
で、名古屋です。
そのしょうがない連中は、この日も駅目指して泡食っておりました。
急いだかいもあって、ホームに辿り着いたとき入ってきた電車は乗車予定一本前の「ひかり」でした。
顔を見合わせ、「どうしょう?」
「乗っちゃおうぜ」
「でもさ、何人か来てないしさ。15分ぐらいで次来るし、第一空いてなかったらどうすんのよ」
「どうせ空いているから大丈夫だよ。乗っちゃおうぜ」
それぞれ、楽器を抱えた厄介な集団は、少々の躊躇いも何のその、結局その電車に乗り込みました。
これが間違いでした。
その日の新幹線グリーン車は満席ではなかったものの、何時もと違って私達全員が一緒に座れるような状態ではありませんでした。先客のそれぞれが、2人席に一人ずつゆったりとお座りになっていたのです。
まとまった空席を探していた一人が言いました。「とりあえず、適当に座ろうか?」それで、私はすぐ側の座席の窓側に座っていた気の良さそうなオジサンに、通路側の空席を指して尋ねました。「ここ、空いてますか?」

オジサンはゴロッと首を回し、ギロッとこちらを睨みました。
豹変と言うより、首周りの感じから猪変と言うほうが正しく思えました。
「ごちゃごちゃぁ、ヌカシとらんと、そこらへん空いたるとこぉ、ハヨ座ったらんかい、わルれえーっ、何が悲しゅうてワイのそば、こなならんのじゃ、わルれえーっ」(ルは発音しません)
なかなか凄みのある声が車内に響き、棚に楽器を乗せようとしていた何人かは楽器を落しそうになり、伸び上がった状態のまま固まる者もいて、私の頭の中には「カラカラ~」と風が吹きました。
その筋の方のようでした。焦りました。逆らうことは考えもせず、ほとんど尻餅をつくように他の座席に座りました。車内には気まずく嫌な空気が流れ、車内販売でも来て空気を入れ替えてくれることをみんなが望んでいるようでもありました。
当事者の私も、他のメンバーも落ち着かず、頃合いを見計らってこっそり集まりました。
「ふちやん、だらしないなぁ」
「そんなぁ」
「いやいや、冗談、冗談、相談。雰囲気わりいからさ、食堂車行こか?」
その筋の方に恐れをなした、しょうがない筋の者共は食堂車に避難することにしました。
東京が近付き、座席に戻るとオッサンの姿は消えていました。残っていた者の話によれば、その後検札が来て「どこからお乗りですか?」に、オッサンは「名古屋からジャ」と答えたそうです。そんなわけありません。少なくとも京都でしょう?
おっさんの前席には、たまたま初期のタレント議員として著名な国会議員の方が乗り合わせていました。そのボディ・ガードと思しき方が手を合わせ、座席の背越しに指をボキボキボキと鳴らしたそうです。無言の会話の後、オッサンは姿を消したという事でした。その筋の方も、あの筋の方には敵わなかったという事でしょうか?
その後、私達の周りでは、この台詞が流行りました。
スタジオでの録音の仕事の時などに「なぁにが、悲しゅうてコナ譜面を吹かなあかんのジャ、わルれえーっ」と言う具合にです。
それで、仕事が終わってギャラを貰うときに、事務所の方に言われました。「なぁにが、悲しゅうてギャラを払わなあかんのジャ、わルれえーっ」