22 シーメ、行く?
箱バン時代、仕事場への出勤は夕刻、だいたい5時から5時半の間でした。一ヶ月ほど通った千葉市内の店の場合は、ずっと早く家を出なければならなかったのですが、都心部であれば1時間ほどで辿り着けました。しかし、この出勤時間は夕食をとるには中途半端な時間でもありました。20代前半当時、生活は完全に夜型で、昼ごろゴソゴソ起き出して最初の食事という具合でしたから、夕食を出勤前の5時までに済ませるというのは無理もありました。もちろん、僕らの感覚では、昼時に頂くのが朝食のようなものでしたから、正しくは昼食ということになります。本当の夕食は仕事が終わってからの食事でした。
それで、1回目のステージが7時か7時半頃に終わるのですが、そこからの休憩時間にバタバタと、とり合えずなんでもいいから食べてしまおうと、仕事場の近くの店になだれ込みました。コーヒーだけだったらここ、食事もする場合はここといった具合に、どの店のバンドにも行きつけの店というのが必ずありました。それは、長い間に歴代のバンドマンたちが吟味に吟味を重ねた結果でもありましたから、新参者が新しい店を開拓しようとしても必ず失敗し、古くからいるメンバーに「ほーら見ろ」と笑われるのが落ちでした。なぜならば、注文してからの時間がまず大事で、美味いかどうかなどは選択肢の中で最も下位に置かれた、「早い、安い、美味い」の総合的な評価のたまものでしたから無理もないのです。
箱バン者にとっては休憩時間の「ヒーコー行く?」、あるいは「シーメ行く?」は互いの胸襟を開くといった意味を持ち、大切なことでした。新しく入ったバンドでも、一緒にコーヒーを飲んだりすることで、同じポットのヒーコーを飲んだ、同じ釜の飯を食ったというような、仲間意識というものが発生したのです。歌舞伎町の新宿コマ劇場の界隈には3つのダンスホールがありましたし、いくつかのキャバレーやくラブもあって、7時半頃にはユニフォームを身に付けたバンドマンがあちこちの店で歓談する姿がありました。サックス吹きはストラップを下げたまま、ドラマーはスティック片手になどという光景も度々目にしました。青やクリーム色のブレザーの4、5人組があちこちにいて、いやでも目立っていました。
一年ほど通った西川口の店の近くには「ファイブ」という名の洋食屋がありました。ここは美味しくて安い店でした。豚カツやハンバーグをいただくのですが、いきなり4,5人で行って、30分ほどで済ませてしまうのには無理もありました。そこでバンドのピアニストが、1回目のステージに上がる前に注文しておくという案を出し、ステージに上がる前にそれぞれのオーダーを聞き、店まで走りました。まるで、僕らはシーメを食うために出勤しているような案配で、バンマスはあまりいい顔をしませんでした。しかし、この店の主人は怠け者だったのか、よく休みました。一日だけだったのが2日続けて休むようになり、ついには3日連続などという無茶もするようになりました。ある日、久々に頂くために店に入ると、店内には不穏な空気が流れていました。注文の品はテーブルに揃えられたのですが、キッチンの奥の方からヒステリックな言い争いが聞こえてきたのです。夫婦喧嘩のようでした。それからしばらくして、店は閉じたままになりました。亭主の競艇が原因だったのなどとの憶測もありましたが、真偽は定かでなく、何にしても僕らは唯一のシーメを失いました。
東中野には、後にテレビや雑誌でタンメンの名店として紹介されるようになった中華の「十番」という店があって、今でも昔と変わらず続いています。ここは仕事帰りにぴったりの店でした。営業は終電後の深夜1時半ぐらいまで。12時過ぎでも賑わっていて、狭い店にもかかわらず調理人が3人も鍋をふるっていました。
駅の反対側には「田吾作」という定食屋があって、ここも同じように繁盛していました。駅から山の手通りに向かって小さい坂を上り、信号を渡ると「山崎のパン」という看板だけ出した店がありました。三姉妹のやっている店で、パンの他に弁当、おにぎりなどが売れ筋の商品でした。三姉妹といっても、かなり年の行ったおばさんたちの店でした。この店は深夜になると大変なことになっていました。信号待ちの電車から降りてきた人たちが、信号が青に変わるや否や集団で走って我先にと店に押し寄せたのです。ほぼ10分置きに到着する電車から吐き出された人たちが次々に押し寄せ、棚のものが無くなるまで続きました。
特別美味いものを売っていたわけでもなく、海苔むすびなどといっても、今のように海苔とおむすびが別々になっていて食べる時に合体させる手合ではなく、すでにおむすびに海苔は巻き付けられていて、すっかり湿気った海苔がてらてら光る類い。弁当だって「温めますか」などという洒落たことは出来ない時代です。
コンビニがない時代、町の様相はまったく違うものでした。夜の仕事を終えた人たちが行く店は限られていましたが、その人たちのために開いている店が必ずありました。夜型の生活をしていて、深夜2時頃に空腹を覚えることがあると、近所の飲み屋に行っておにぎりを作ってもらうなんてことをするしかない時代でした。商店街は小売業が軒を連ね、魚屋も野菜屋も書店もそれぞれに繁盛して活気を呈していました。
駅のそばにスーパーがオープンしたあたりから、町の様相は変わっていきました。 魚屋が姿を消し、小さな野菜屋もいつのまにかなくなりました。三姉妹はすっかりお歳を召してしまって、70年代の半ば頃に店を閉じたようで、その後のコンビニの洗礼を受けることはなかったようでしたが、賑わっていた飲食店の閉店時間は軒並み早くなり、書店は次々に姿を消しました。閉店した書店の人によれば、コンビニの登場は決定的な打撃になったそうです。小さな町の書店の売り上げは週刊誌に負うところが多く、コンビニがそれに取って代わることになってからというもの、単行本や文庫本だけではやっていけるはずもなかったとのことでした。
それが時代だといえば仕方なく、しかし、町の情緒はどこに行っても同じものになりました。
博多時代には、店の近くに「ハチロー」という店がありました。この店は、コーヒーを飲む、いわゆる「お茶する」にも都合のよいおしゃれな店でした。しかし、当時は薄給でそのような余裕もなく、せいぜいギャラの出た日の帰りに寄って、普段は食べることもないメニューを頂くというのがささやかな贅沢でもありました。それにしても2回ほど行っただけでしたが、そこの店のお勧めメニューはカツライスでした。
プレートに船型にもられたライスと豚カツが並べられ、付け合わせのキャベツの千切りが添えられているだけのもので、ご飯が茶碗に入っていれば、まぎれもなく豚カツ定食でした。もちろん箸などではなくフォークとナイフ付きでした。
むかし、日曜放談という番組があって、小浜利得さんが憤然と仰いました。
「僕ね、こないだ広島に仕事に行ってね。そこの会場のレストランで飯を食ったんだよ。で、ね。メニューに和風スパゲッティってのがあってね、どんなのか分からないけど注文したんだ。するとね、よく見るケチャップで赤くなったスパゲッティが出てきたのね。どこが和風かと言うとね、フォークじゃなくてさ、箸がついてんだよ。だから和風だってのさ。ばかばかしい」
逆にフォークをつけた場合は、和風のネーミングでは案配悪く、カツライスとすることが正しいということだと思われます。
2015 12月19日