職内

2 バイト

 僅かな期間の大牟田を経て、私は博多のキャバレーで演奏することになりました。「マンモスキャバレー」は今となっては死語ですが、ホステスの数も優に百人は超え、店内の広さも只事ではなく、ステージから見える客席のキャンドルライトはまさに夜景と思えました。フルバンドと9ピースのバンドが入っていて、見習いの私はその小さいほうのバンドで演奏することになりました。

 ヴェテランのオジサン達に混じって訳の分らないことを吹いていたわけです。リーダーはピアノの名手と言われた西松さんでした。このバンドは譜面もありましたが、早い時間はコンボ形式で、それぞれがソロをとる事もあって、駆け出しにはまたとない訓練の場所でもあったのです。メンバーの多くに「ボーヤ」と呼ばれ、18才であれば仕方のないことでしたが、早く次のステップに上がりたいと焦ったものです。

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「しょくない」とはバンド言葉で「内職」の事です。いわゆるレギュラーの仕事以外の仕事(副業)を指すのですが、結婚式での演奏に代表されるように短時間で御足をいただくありがたいものでした。私は、嬉しいことにレギュラーとしての仕事を休んでまで、数多くの「しょくない」を頂きました。一人欠けても店側に文句を言われる事もなかった「ボーヤ」は重宝されたとも言えます。

「しょくない」の大半は米軍基地のクラブでの演奏でした。皆が「キャンプ」と呼んでいた、そこでの仕事はなかなか楽しいものでした。いつも遠足気分でウキウキしたものです。ま、楽しみの大半は基地内での食事、ピクルス付きのでかいハンバーガーや、これまたでかいキーパーに入っていた飲み放題のコーヒー、兵隊と同じように列に並んでトレイに入れてもらう「本日の定食」等々でした。思いがけぬ食べ物の提供に私はめっぽう弱かったような気がします。猫にマタタビ、サックス奏者に突然の「めし」と言う事です。これはバンドマンに共通の悲しい習性でもあって、しかも案外重要なことです。


 以前、知り合いから町内会のちょっとしたイヴェントで演奏してくれと頼まれましたが、ギャラが折り合わず、プロでは無理だということになりました。じゃあ、御近所の学校の吹奏楽部に頼むのはどうかと提案したら、快諾していただけたとのこと。私はすかさず「人数分の弁当は忘れないことデス。弁当と飲み物を出すだけで音が相当変わります。」と助言しました。数日後、「いやあ、弁当が効きましてねえ。皆大喜びで、こっちが驚いちゃうくらいでしたヨ。」と電話で伺いました。
 まあ、バンドマンに限らず誰でも食い物には弱いようで、、、。

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 博多からは「板付」のキャンプが近く、何度も通い、佐世保にも一度、朝早い電車に乗って出掛けました。佐世保の基地は町並みの中に突然高い塀が姿を現し、ゲートをくぐって中に入ると、それまでのゴチャゴチャとした街の様子がウソのように、広い敷地、広い道路と街路樹、ぽつんぽつんと並ぶ建物。人口密度の低い、のどかなアメリカの街が出現し、とても驚いたことを覚えています。あまりにも昔のことなので少し違っているかも知れませんが、焼き付いたイメージはそのようなものでした。

 キャンプの中にある兵隊専用のバーで冷や汗をかいたこともあります。
 ある日の休憩時間、マネージャーから「今日は飲み物の用意が遅れているから、特別に隣のバーで飲み物を飲んで大丈夫」と言われ、勇んで出掛けました。あの西部劇などでよく見る扉を開けて中に入ると、兵隊達が酒を飲んでくつろぐテーブル群の中央にカウンター。やけに背の高い椅子によじ登りカウンターにしがみつきました。ま、キャンプの中の物は概ねそういうふうでした。体格が違うから仕方がないのですが、椅子に腰掛けると必ず足は宙に浮きました。変な話、つま先立って用を足すトイレだって大変だったのです。

 さて、そのバーのカウンターです。腰掛けてすぐ、大きな熊の様な体格のバーテンにコーヒーなどを注文し、上を見ると金色に輝く大きな鐘。さあどうぞ引っ張って鐘を鳴らしましょうと言わんばかりに鐘の中から垂れる金色の紐。ガラガラ鳴らすかどうかはともかく、誰でも鐘の音色など聞いてみたいと思うものです。思わない?ア、そうですか。
 この場合、聞いてみたいと思った新人バンドマンは引っ張ってしまったのです。カランコロンとバーの中に鐘の音が響き渡った瞬間、バーにいた兵隊達から「Thank you」「Yeh,Thank you」「Thank you boy!!」の声。どういう事か分らず、呆気にとられる私を見てバーテンはニヤニヤ。助け船は、キャンプ内のバンド、ショーなどのブッキング担当の方でした。笑いながら「これ、鳴らしたのかぁ。そりゃ大変だ。これを鳴らした人はネ、ここにいる全員のお勘定を引き受けるぞ、オレは気分が良いから皆におごるぞ、と言う事なんだよね。若いのに気前がいいネエ」と言うのです。
 「いや、あの、その、、、、」
 その方の弁護で許していただきましたが「シャレがきかない人達の集まるところもあるから気を付けて」と軽くお説教されました。

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 68年の秋、板付のキャンプでの仕事は忘れられないものになりました。この日、私達が演奏した場所は、簡素な兵舎とも見える建物の教室のような部屋の中。少し高くなった教壇部分がステージでした。

 集められた面子も少々風変わり。トランペットのベテラン、ピアノ、ベース、ドラム、どこから見てもカントリー&ウェスタン一筋と思しきギター奏者。ウェスタンブーツに帽子、衣装は完璧でした自分のことはさておき、何でこんな人が入っているんだろう?不思議でした。一体今日は何?

 何れもかなり年配の方ばかりで、駆け出しとしては成り行きを見守るだけ。曲順の打ち合わせが始まり、最初はギター奏者抜きで何曲か演奏。ギタリスト登場で一曲、次にトランペットの方が「セントルイス・ブルース」「ボーヤは、大体休んでても問題なし。」とのお達し。
 時間が来て案内されたのは紛れもなく教室。入口には将校らしき何人かの軍の関係者。教室の中は異様でした。少しは飾り付けがあったかも知れませんが、記憶のイメージは灰色。何とも重苦しい空気だったのを覚えています。広い教室の中にはそれぞれ40人程の白人兵と黒人兵が、真中に境界線でもあるように別れて着席していたのです。

 眼光は不気味なほど虚ろで精気はなく、自分たちが何故そこにいるのかさえ分っていないようにも見えました。彼等の前に立つ私は一瞬にして気持ちが萎え、「こんな中で何を演奏するんだ」とうろたえるばかり。何をやったのか、今となっては思い出せませんが、演奏が始まっても彼等の表情に変化はなく、空しく時間が過ぎました。しかし、ギタリストが登場してウェスタンを始めた時に突然変化がありました。白人兵が全員「ウォーッ」と声を上げたのです。次にトランペット吹きの「セントルイス・ブルース」。ここでは黒人兵の一団が「ウォーッ」。それは見事なまでにくっきりと別れる反応で、今は知りませんが、当時の彼等の状況を改めて思い知ることになりました。

 私達の演奏の後は年配の芸人さんのショーでした。衣装、髪、化粧、全て体半分が男、半分が女。妙な出で立ちでステージに現れました。半分はズボンで半分はスカート。下着に至るまで見事に分けられていました。その芸はまさに名人芸。一人でラブシーンをやってのけるのです。卑猥な芸でしたが、キス・シーンから男の手が女の下半身に伸びるくだりになると兵隊達の歓声は最高潮に達し、もう白人も黒人もないのです。狂ったように叫ぶ彼等を見ていた、駆け出し18才のサックス吹きの脳裏を駆け巡るのはただ一つの疑問、「今日の仕事は、これ一体何なんだ?」

 先輩達の話では、兵隊達は全員その日にベトナムから送られて来たとの事でした。帰還兵ではなく、何日か後にまたベトナムに戻る一時帰休という形での休暇だったのです。前線の忌まわしい記憶を払拭し、一時的なものであるにせよ、平和な現実を実感させるためのショーだった訳です。随分と乱暴なやり方でしたが、何度も行われていたようで、たぶん休暇の入口としては充分だったのかも知れません。

 経緯は納得できましたが、私の記憶には最初の兵隊達の目が深く刻み込まれました。ベトナム戦争の映画を見るたびに記憶はよみがえり、彼等が何を体験し、何を見てきたのだろうと思うのです。

04 8/29

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