6 伝説の人
小規模の会社経営だと考えれば、バンマスを務める人の条件には管理能力だとか面倒な項目が必須かも知れません。
ベースに寄り掛かって寝てしまうベーシスト、喘息の吸入薬が効き過ぎてセカンドステージ辺りから必ずラリってしまうギタリスト(これは確信犯)、バンマスは権力の象徴であってこれに逆らう事こそが「義」だと勘違いしたサックス吹き、他人のミスを発見する事が生き甲斐で何かと面倒を起こす奴、どれもこれも一筋縄では行かないのがバンドマン。
これらをおだてたり脅したりしながらの運営は大変です。
しかし、大切なのは音楽。
私が出会った多くのバンマスは、何よりも音楽が好きで、毎日がその事だけのように見えました。
19才の頃、小倉のキャバレーでリードアルト奏者として務めたバンドのバンマス(ピアニスト)は恐ろしく耳がよく厳しい指導も受けました。
私の発音がビートより少し遅く聞こえると言い、彼の家まで赴き、歩きながらの演奏をさせられたりしました。要するに足が床に着いた瞬間に発音が出来るはずだとか、天井からぶら下がった振り子に合わせてビートの捕らえ方などを指導されました。
元々ベースプレイヤーであったバンマスがビートに神経質な事や、私に何か不足している事は分かりましたが、バンマスを納得させるには至りませんでした。
「何か吹きたい曲があれば持って来い」と言われ、ローランド・カークのカセットを聞かせると、その場で即採譜して「じゃあ、これやろう」
若い頃には、誰もが幾つかのバンドでバンマスの指導を受けるのですが、そこはバンドマンの親玉。誰もがK氏のようではありません。
大阪出身のギタリストの出会ったバンマスは、「おい、あのレコード聞いた事あるか?」と聞いたそうです。
聞いたと言うと、次のステージで「おい。あれの一曲目やろ」「えっ、そ、それは、、、」「何や、聞いたことあんのやろ? 何ででけへんねん。おっかしいなぁ、分っからへんわ」
あるトロンボーン吹きはバンマスと喫茶店でお茶タイム。店内に流れるBGMに耳を傾けていたバンマスが言ったそうです。
「おっ、このソロいいな。この楽器何?」
「あ、いや、これはトロンボーンっスよ」
「ええーっ、これトロンボーンかァ? トロンボーンってこんな音すんのかァ、知らなかったな。ええーっ、そうかァ、そうだったんだ」
「・・・・・・・・」
名物バンマスの筆頭はスマイリー小原さんでした。
バンマスと言うよりタレント的な存在感のある方でしたから、テレビ、映画などへの露出度も一際目立っていたように思います。大きい体躯に太い眉毛の外人顔と迫力ある低音の声。
スターのオーラを持った方でした。
スマイリーさんのバンド「スカイライナーズ」が新宿のクラブに出演している時に何度もトラでお世話になりました。ちゃんとメイクしてステージを務められるところが他のバンマスとは一線を画していました。
ステージでは大体私の前に立たれるのですが、よくステージ中に私にだけ聞こえるような小さな声で何かをつぶやかれました。
「おっ、トラか?また来たのか? おっと、この曲は今一つだな。もっと軽く、かーるく」てな調子。
ある夜のショーは面倒な譜面でした。やっと終わりにさし掛かり、曲はアッチェル(どんどん早くなること)して大団円。
バンマスは「食い過ぎ、食い過ぎ」と仰るのです。
私は忙しいながらもその声を聞き、「何を言ってんだろ?分からん」
バンマスは尚も「食い過ぎ、食い過ぎ、、」
そこで曲は終わり、ドラムの締めの一発がズドン。
バンマスはズドンッ、「アワー、食い過ぎ」
その決まり方がまるで歌舞伎のキメのようでした。
スマイリーさんは「早くなり過ぎ、泡を食い過ぎ」と仰っていたわけです。
一人それを聞き理解した私は何度も思い出し笑いをしながらその後の演奏をしました。
ショーが終わると、せり出すステージの前方でスマイリーさんはマラカスを手に踊られ、バンドの方へ戻ってこられるのですが、その姿が実に絵になる方でした。
唯一、僅か3ヶ月ほどでしたが、私がビッグバンドのレギュラーで仕事をしたのはK・名和野さんのバンドでした。
当時このバンドはダンスホール、テレビ、地方興行と併せて、演歌歌手・畠山みどりさんのバックバンドも兼ねていました。
畠山さんと言えば袴姿の独特な衣装で一世を風靡されたスターです。初めて参加したそのステージ途中、バンマスが私に少し強い口調で仰ったのです。
「言っておくが、何が起こっても絶対に笑うんじゃないぞ。いいか、笑ったら拳固だからな。笑うなよーっ」
急に何を言い出すんだろうと思いました。
世は高度経済成長期。アポロは月面に下り立ち、ウッドストックでは歴史的なロック・フェスティバルが開かれ、反戦運動は盛り上がり、学生達は騒ぎ、トゥイッギーの来日以来のミニスカート旋風は定着し、小川ローザのスカートがめくれる例のCM「おー、もーれつ」が流行り、全く人心共に混乱の時代でした。
さて、ステージ。少しの間を空けてロックビートの曲が流れると、ステージには着替えをした畠山さんとダンサーがドタドタと登場しました。それを見て「そんなー、、、。」と思いました。
大きな声では言えません。ミニスカートからこぼれる御御足は決してその状況に相応しいとは、、、。
次の瞬間、目から火花が出ました。
私は笑っていたようでした。
伝説的なバンマスは次の方です。
O氏はダンスミュージックの分野で活躍され、率いるビッグバンドで多くのアルバムを残されました。
晩年のレコーディングには私もエキストラで何度か参加しました。ダンスミュージックは演奏時間が決まっていて、正確には覚えていませんが3分以内とかだったように思います。
いわゆるソシアルダンスの決まり事なのです。O氏は音楽全般にとても造詣が深く、何度かラジオ番組で話されているのを聞きましたが、膨大なコレクションの中から選んだディスクをかけつつの話は多岐にわたっていました。
本当に音楽が好きであった事は間違いありません。
レコーディングの際はコントロールルームに座り、幾分年下の別の方が指揮をされました。O氏はたまにコントロールルームから指示を出されるのです。
しかし、指示は曲を追う事に細かく長くなっていきました。と言っても3曲目位がリミット。4曲目あたりからはスタジオに入ってこられ「ワルツと言うのはネ、そのリズムの感じがネ、、、、」などと話しながらいつの間にか指揮交代。
それはいつも同じでした。
毎回最初は別の方が指揮をされました。O氏はコントロールルームから指示を出している内に、沸々と血が騒ぎ盛り上がってしまわれるようでした。
コントロールルームとスタジオのメインフロワーの間には表扉とスタジオ扉に挟まれたクッションのような部屋がある事が多く、大編成の時などはソロ楽器がセッティングされます。
で、私は見たのです。
3曲目のテスト録音中、いつの間にかO氏がそこに立っているのを・・・。接近中でありました。テスト録音が終わると入ってくる事は間違いないのです。
テスト終了。すると、それまで指揮されていた方が何も言わず流れるような動きで指揮台を降り、横にサササササーっと退場されました。
見事な交代劇でした。
何度も行われる内に、一点の迷いも無く滑らかな動きが確立されているようでした。じゃあ、最初からすればいいのにと思ってはいけません。
最初は慎ましくコントロールルームにいる事こそがO氏の美学のようにも見えました。バンマスの可愛さでもありました。
O氏はそそっかしいところもあって若い頃の逸話には事欠きません。この話は様々に脚色され、多くの場所で聞きました。やれ、美空ひばりさんの公演途中の出来事だとか、いや三波春夫さんのステージ後だとか言う風に。
前項で出てきた宝崎さんはその現場に立ち会われた正しい証人でした。
宝崎さんによれば、
「いやいや、みんな勝手な事言ってるけどサ、本当は旅先の出来事なんだよ。(場所、当日の看板が誰だかは私が失念)
その日の興行は大成功でさ、主催の興業社もウハウハ、これはドーンと行けってんで、旅館の大広間ぶち抜いて大宴会ヨ。バンド、出演者は言うに及ばず、興業関係の怖い方面から、地元の名士その他諸々有象無象。
まあ、たまにある事なんだけどサ、中々大仰なのヨ。
でネ、ヤッコさんサ、何があったかは知ンねえけど途中でサ、その、ほら、中座したかったんだナ。
でもナ、偉い人も怖そうな人もいるし、気ィ使うわナ。
で、頃を見計らって座布団外して頭下げたわけヨ。
私、所用がありましてここで中座させて頂きますが、皆さんお気遣い無く宴を続けて頂きたい、とか何とかでサ。
主催者は「ウン?」って感じサ。
ヤッコさん気ィ使ってサ、座ったそのまま後ずさりしてナ、みんなの注目集めながら奥の方にすべって行くわけよ。どもどうもとか言いながらナ。
それでナっ、やっと突き当たって後ろ手にふすまをスルスルと開けてネ、また深々と頭下げて、ではこれでなんて言って・・・・・押し入れに入ってっちゃったんだよ。そらァ、座布団なんか全部出払っちゃてるしサ、入れちゃうよナ。
そいで、ペコペコしながらふすまスルスル、トンって閉めちめぇやがった。
見てるこっちはこっちでサ、何が起こったか分かんないんだよ。ええーっ、あそこから出れるんだァなんて思っちゃうわけだよ。出れるわけねえよナ。
で、一瞬みんな静まり返っちゃってサ。
そしたらヨ、ふすまが開いて、ヤッコさん思いきり照れ笑いで「エヘヘ」って顔出したんだよナ。
もう座敷中大爆笑になっちゃってサ。
あちこちで畳叩いたりしてのたうっちゃってるんだヨ。
もう、誰も彼もねえやナ。
仲居さん達も一緒に大笑いよ。」

私思うに、O氏はその時の教訓を活かし、3曲目位までは様子を窺うと言うか安全を確かめる事にしたのではなかろうか。
06 3/10