1 駆け出し
1968年、高校卒業と同時に私のプロとしての生活は始まりました。
在学中、既に地元のプロと演奏していましたから、何となくそのまま続けたと言うのが正しいのです。クラリネットでのアルバイト程度では通用するわけもなく、サックスを手に入れることが必要でした。
いつまでも「鈴懸の道」と「メモリーズ・オブ・ユー」ではあるまい、てな事で、楽器屋に勤めるテナーサックス奏者の石倉さんの紹介もあり、はるばる博多に近い香椎にあったカワイ楽器の倉庫まで出掛けたのです。現在のように代理店もなかった時代です。セルマーのアルトサックスは頑丈な木枠にガードされた箱の中、クッション代わりの木屑などを取り除くと、さらに油紙に慎重に包まれた状態で出てきました。
今でもそうですが、ぴかぴかの新品は「嬉しい」とは少し違います。曰く説明し難いのですが、敢えて言うなら「怖い」が近いと思います。自分のものにするまでにかかる時間を思うのです。「ちゃんと使えよナ」と言われている感覚です。
「こ、これ、ください」「それがねェ、本体はいいんですが、ケースが今ないんですよ。」「じゃあサ、この楽器に決めるって事でサ、後日ケースが決まったらまた来ることにしようか?」と石倉さん。
「いや。今日持って帰ります。何がなんでも」と私はきっぱり。
「でもサ。ケースがないと大変じゃない?」
「そうだけど、持って帰りたいよおな気が・・・・、、。」
「ははははは、分った、分った。それでは、ケースが届いたらウチの会社のほうに至急送って下さい。」
私は同行した皆に笑われながら、車の中で油紙に包まれたアルトサックスを抱きかかえたまま帰途についたのでした。
クラリネットに比べ、大変だったのはキーの問題でした。譜面はあるというものの、全部Cで書かれた譜面です。クラリネットはB♭ですから一音上げるだけ。それでも厄介であることに変わりはないのですが、アルトサックスはE♭。短3度下げて吹くのです。Cは♯3つのAに、、、。
この頃の訓練は後々あらゆる場所で役に立ちましたが、何とか使えると見たその時のバンマスは高校卒業間もない私をトレードに出したのでした。地元に新しくオープンする店の仕事を得るために一計を案じ、大牟田在住のヴァイブ奏者を引き抜きにかかったのです。ヴァイブ奏者本人も乗り気でしたが、彼が仕事をしていたバンドのバンマスでもあった実兄のドラム奏者は許しませんでした。「後はどうするんだ?」
そこで、「有望な若者がいる」とか何とか適当なことを言って納得させ(誤魔化し)、送り込まれたのが私でした。酷い話です。ドラム、ギターとテナーサックス奏者がいたような気もします。「どうなってしまうんだろう?」と思いつつ、博多のバンドに紹介されるまで3ヶ月ほどを過ごしました。初めての一人暮らしは周りの方達に親切にして頂いたこともあってそれなりに楽しく過ぎました。
ある日、博多の楽器屋に行き、天神から大牟田に戻る電車の中での出来事です。私はサックスのケースを網棚に置くことなどは思いもせず、かと言って床に直接置くのも嫌で、横にすれば大きくはみ出して迷惑ですから、靴の上に立てて大事に抱えて座っていました。すると、隣に座っていたおばさんが言うのです。
「足が痛くなるでしょ?かまわないから横にして私のひざの上に乗っけなさい。」
優しい笑顔でした。驚く私に構わず手を差し伸べ、ケースを持ち上げて半分を自分のひざの上に置かれたのです。余程大事そうに見えたのではないかとも思います。アルトサックスのケースは、私とそのおばさんの(この場合おばさんは適当ではない。妙齢の女性の、、)膝の上に置かれ、電車に揺られて大牟田まで走って行きました。37年も前のことですが、出来ることなら、今一度会ってお礼を申し上げたいと思うのです。

1年後、19才の時の写真。左の不自然な人はドラムの今泉さん。(バディ・リッチが好きだったのか、ばでぃと呼ばれていた。)いい加減なところもあって周りからはバッシングが多かったけども、無類のお人好しで、私は大好きな人だった。夢を見るような顔で「こうしたら楽しいよナ。ああだったら面白いよナ」。音楽の話を始めると朝まで続いた。生意気盛りの私をフォローしてよく面倒も見てくれた。ある日、かなり年上のサックス奏者とあわや喧嘩というとき、「止めろ、止めろヨ」と相手を羽交い締めにして肩越しに目配せする。何やら口が動いているので、よく見ると「殴れ、殴れ。早くっ、、。」だった。
2004 3/28