8 勧進帳
「今、どこ?」
は、街ですれ違ったプレーヤー同士のお決まり文句でした。
仕事場はどこ?という意味です。一緒に仕事をしたのがあまりにも短い期間で、名前すら覚えていない相手でも、大体これで会話は成り立ちました。
その頃のバンドマン、特に箱バン者の多くは、一ヶ所に長く居着くことは少なく、メンバー全員の名を覚える前に次のバンドに行くというようなことも屡々でした。 バンマスの苦労もそこにありました。その都度、メンバー探しに頭を痛めていました。で、新しいバンドに入る時には、一応決まりごととして「辞めるときは最低15日前に言うこと!」という台詞を、必ず聞かされました。
そんな時、多くのバンマスを助けたのが「トラ」でした。
たぶんエキストラから来た言葉ですが、代役というか、穴埋めというか、トラを探しているという話はよく聞きました。この言葉は今でも現役ですが、「来月1日からテナーサックスを探している。とりあえず、トラでもいい」という具合でした。
来月1日からの仕事が決まっているのに、もっと好い条件で新しい仕事が入ってきたときはどうするか?
即、交渉です。「そちらに行きたいのは山々川々海々ですが、これ、この様な事情で1日からは無理です。せめて15日の余裕を戴ければ、、、」
うまくいけば、「いいでしょう。では16日から来て下さい」
が、その後が大変です。入ったその日に「あのぉ、15日で辞めさせて下さい」と言わなければいけません。バンマスのこめかみがピクピクッと痙攣し、「え"ーっ」と言う声が楽屋に響きわたる修羅場を乗り越える覚悟が必要になります。事情は大体分かっていますから、それで揉めたという話はありませんでした。しかし、このやり方はそのバンドを紹介した人の信頼を裏切ることにもなりました。
新しいバンドに入るときは「テスト」もありました。何とか都合を付け、それこそレギュラーの仕事に「トラ」を入れたりして、その店を訪ね、一回だけステージに上がるのです。リハーサルなどで演奏するのではなく、ぶっつけ本番でした。まずは簡単なものから始まります。
少し調子が出てきたなという所で、バンマスが譜面を配ります。「バサッ」
「おおーっ、げっ、なんだこりゃ!!」このときのバンマスの顔は何となく不安気でした。配られる譜面は、その楽器をフィーチュアしたソロの曲で、めまいがするような細かいフィギュアが書かれた黒々としたものでした。
私も何度か、この軽い修羅場を経験しました。ウィリー・スミスの「Stardust」、チャーリー・パーカーの「Summertime」などを初見で吹かされました。
この時、メンバー全員が審査員でもありましたが、バンマスの笑顔が得られれば合格でした。笑顔のランクによってギャラも上下します。何とも分かりやすいテストでありました。
キャバレーでは一日に2回のショー・タイムがありました。出し物は、歌謡ショー、ダンス・チーム、漫才、手品、曲芸、様々でした。よほど難しい譜面を持って来るショーでないかぎり、リハーサルはありませんでした。
大体、ショーのあるステージの2、30分前に、楽屋で譜面を渡され、口頭での打ち合わせがありました。
歌の伴奏はテンポとコーラス数だけで事足りましたが、ダンス・チームのショーは頻繁に曲想とテンポが変わりますから大変でした。
ショーの山場は必ずメドレー形式で、めくるだけでも大変な長い譜面でした。
その譜面は「勧進帳」と呼ばれていました。
特に、ドラマーはテンポとリズム・チェンジの要でしたから責任重大で、間違うことは許されませんでした。
特に大きな間違いがあったという記憶はありません。
彼等はまさしくプロで大したものでした。
バンドは主にこのために雇われている様なものでしたから、バンマスが一番神経を使う時間でもありました。
毎日、初見で30分余りのショーのバックをこなしていると、嫌でも譜面に強くなりました。
立川の米軍キャンプで仕事をしていたサックスのK氏は休みの日に知人から「トラ」を頼まれました。一日だけ×××のキャバレーで3番アルトを吹いてくれというものでした。リード・アルトに比べれば楽なパートですから気軽に引き受けました。
さて当日、店に入ったK氏は少し後悔しました。K氏を待っていたのは、不運な事にダンス・チームが持ってきた分厚い「勧進帳」だったのです。何も休みの日にシンドイ思いをしなくても、と思った筈です。不運を呪いつつショーのステージにK氏は上がりました。
ドン、パラズッパーッ、、、、 ショーが山場を迎えたとき、K氏の横のリードアルト奏者が話しかけてきました。 ド、ド、ド、ド、ドッパーン、パパッ
「×××、×××?」 よく聞こえません。K氏は楽器を吹きながら必死で体を横に傾け「えーっ」、、、、ガーン、ガーン、ドドドドッ
「いま、どこ?」
K氏は「何を言ってんだろう?」と思いました。何もこんな時に、、、、。
「立川のシビリアンクラブ!!」
「いや、だからあ、いま、どこおーー?」
「だからあ、たちかわのぉ、シ、ビ、リ、アン、クラブゥ」
スッチャン、チンチキ スッチャン、チンチキ。
「、、、、、、、」
譜面を見失っていたリードアルト奏者の気持ちは察して余りありますが、この「今どこ事件」はあっという間に東京中に広まり、皆を笑わせました。
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