heaven


 人は誰でも親切になれる。
 何気ないことが感謝され、気遣った方は忘れても、された方はいつまでも忘れない。

 親切でありたいと願って出来るものでもない。そりゃあ、知り合いで何時も身近にいる相手であればともかく、赤の他人への場合は、先ず人と人との偶然の出会いがなければ始まらない。それに、知人の場合は、僕がここで言う親切とは少し違うようにも思う。

 昔読んだ團伊玖磨さんのエッセー「パイプのけむり」の中に、夜道でコンタクトレンズを落とした女性の話があった。
 通りかかった人が、夜が白むまで一緒に探してくれたという事だった。
「あの親切な方は神様ではなかったかと思う」と言う言葉に、「私は神様だと思う」と團伊玖磨さんは結んでおられた。
 コンタクトレンズが見つかったかどうかは失念したが、そんな事はどうでもよくなるような話だった。

linhos


 僕の生家は呉服屋だった。呉服屋と言っても、代々続いた老舗などではなく、商売に向いていると勝手に思い込んでいたお坊ちゃん育ちの父が、旧満州より引き上げてきて周囲の反対を押し切って始めた店だったそうだ。

 僕が5才の頃、周りの危惧通り、父は店を失った。家に何人もの人達が上がり込み、赤い紙を貼っている光景を何となく覚えているし、気味が悪いほど明るい月夜の青ずんだ夜道を大八車で「ギコグコ、ガラガラ」音を立てて進んだのも覚えている。
 後で考えれば、あれは紛れもなく「夜逃げ」だったわけだが、子供にはなんのことかは分らず、しかし親を見ていれば大変なことだという事ぐらいは察せられ、迂闊なことは言えなかった。よく遊んだ「ヒー坊」の家の前を通りすぎる時、さよならと言えないことが悲しかった事も覚えている。

 父はまだ若く、どのようにでもやり直しの出来る年齢だったから、深刻さにさほど切迫したものはなかったかも知れない。とりあえず、僕等は叔父さんのいる佐賀へ向かった。
 しかし、体調まで悪くした父は困り果て、僕と姉を姫路の叔母夫婦の元へ預けることにした。かくて、僕と姉は姫路の住人となった。満面笑みというわけにはいかなかったが、子供は環境への順応はとてつもなく早い。程なくして、関西弁でまくし立てる悪ガキが一コ誕生した。

 姫路での生活は寂しさもあらばこそ、小学校に上がる1年前から2年生の終わりまで、好奇心を抑え難い年齢の子供として動き回ったように思う。テレビもなく情報は少なかった。

 叔父さんが買ってくれる月刊誌(小学館)が楽しみで、持って帰る日はソワソワした。自分の分だけでは飽き足らず、上級生の姉の分まで読み漁った。付録の伝記物、物知り系小雑誌は諳んじてしまうほどだった。

 人工衛星が初めて空を飛び、テレビが現れ、テレビのある店の前には人が集まった。栃錦、若乃花、千代の山が人を沸かせ、ラジオから流れるフランク永井「有楽町で逢いましょう」は都会を歌って、民主主義が与える甘味な夢を人々に伝えた。
 まだ未処理の防空壕跡などがあった時代だ。しかし、戦後の高度成長に向けてこの国は確実に進み始めていた。

 3年後の春、父は弟を伴い僕等姉弟を迎えに来た。僕等は喜べない状況に戸惑った。慣れた町を離れるのは嫌だったが、新聞社に入社し、やっと生活基盤が安定してホッとする父の頑張りに逆らえるわけもなく、九州に戻った。
 着いた場所、佐賀は静かな街だった。小雨のしょぼつく駅に降り立ったとき「この街は止まっているんじゃないか」と思ったほどだ。落差は相当なものだったが、前と同じように慣れるしかなかった。

 姫路駅で皆に名残惜しく送られ、佐賀まで僕等は夜行列車に乗った。急行だか特急だったかは覚えているわけもない。まだ1等、2等、3等に分れていたと思う。父は、今で言えば自由席券を買い求めたのだが、移動シーズンの4月に入っていて、生憎満席状況。

 通路にまで人が溢れ、行き場のない僕等は途方に暮れた。父は意を決したように洗面所に向かった。タイル状の洗面所の床に新聞紙を敷き詰めて、「しょうがない、ここに座れ」と言うふうだった。
 昔の汽車の車両というものは、連結部分などは簡素なものだった。完璧に覆われているものではなく、連結部分によっては下のレールが見えたし、客室に入らない限り外にいるようなものだった。
 ましてや水周りのそば。
 凍えそうな空気が流れているんじゃないかと思えた。しかし、子供心にも状況は分るし、これは観念するしかないと、内心不満たらたらの僕でさえ思わざるを得なかった。何とか眠ろうとし始めたころに、検札の車掌が現れた。
「何処まで行かれるんですか?」車掌さんは父に聞いた。
「ああ、そうですかぁ、、、、。」
 遠くを見やる車掌の目つきに「もしかすると空席がどこかに、、?」と僕は期待した。そんないい話があるわけもなく、車掌は「では・・」とか言いつつ仕事を続け、僕等から遠ざかって行った。期待はしぼみ、いよいよ覚悟を決めて寝るしかなかった。新聞紙を敷いただけの床は冷たく、ゴトゴトと揺れる振動も床から攻めてきた。


 どの位の時間が経っただろう?
 それでも浅い眠りに入った頃、先ほどの車掌さんが戻ってきて父に言った。

 「こちらへいらっしゃい」
 父と姉弟3人は車掌さんの後を歩いた。案内された場所は「車掌室」だった。
 決して広い部屋ではなかったが、周囲から独立した個室のしんとした空気は僕等をくるむように優しく迎えてくれた。先ほどまでの床とは比べ物にならない暖房された部屋と暖いシートがあった。夢のようだった。暖く柔らかいシートに 腰掛けると体から一切の緊張が失せ「天国」のようだと思った。
 頼もしい厚みのシートは僕等を眠りに誘い、それまでの苦痛は瞬時に思い出となった。

 車掌さんと父がその後どう過ごしたのかは分らない。天国がどんなところかは知らないが、あれはまさしく天国だった。

 今でも、電車に乗り車掌を見るとあの時のことを思い出す。もし、あの車掌さんに会えるのなら、あの時どんなに幸せだったかを伝えたいと思う。  

  

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04 4/29


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