80年頃

4 1980年頃 下北沢ロフト 




 さて、キー坊こと上田正樹氏だ。
 写真は下北沢ロフトでのライブをお客さんが撮ってくれたもので。彼とのライブの写真はこれ一葉しかなく私的には貴重なもの。あたしの髪がおばさんっぽいとか色々あるわけだが、このステージでは珍しくもキー坊までがテナーを吹いていたらしい。 お互いに、特に上田氏の髪はフサフサだし、無情な時の流れを感じたりもするが、この方との出会いはその後の活動に決定的な影響を及ぼした。
 彼が伝説のバンド「サウス・ツー・サウス」を解散して新しく作ったバンド
「Push & Pull」に加入したことから付き合いは始まった。それ以前には彼の名前すら知らないジャズから来たサックス吹きだった。

 加入したきっかけはギターの松原正樹氏の推薦による。これより1年か2年前、中野サンプラザホールでユーミンのステージの仕事があった。トロンボーンの向井滋春さんと共に参加したバンドにはベースに細野晴臣氏がいたし、キーボードは松任谷正隆氏がいたから、ティン・パン・アレーだったと思われる。フルのステージではなくゲストとして何曲か歌うイベントだったように記憶しているが、そのときの縁で松任谷さんのテレビドラマの劇伴の録音に呼ばれた。早稲田アヴァコスタジオのでの録音で、「飛べない鳩のように」という番組名まで覚えている。その録音で御一緒したのが松原氏だった。松原氏がサックスを気に入ってくれて上田氏への推薦につながった。
 
 「Push & Pull」は松原氏の他に、キーボードの田代真紀子さん、ベースの宮下恵輔氏、ドラムのゴローちゃんこと正木五郎氏がいた。結成間もなくバンドはレコーディングに入った。アルバム「Push & Pull」のために上田氏は曲を書き下ろし、未知の領域にワクワクしながら過ごす日々が始まった。
 しかしながら自分の演奏は手探りといって差し支えなく、最初のリハでの上田氏の言葉は忘れられない。ある曲でのサックスソロの後、キー坊は困ったように「あのなあ、サックスなあ、ドミソでええねん」と言ったのだ。
 こちらにしてみれば「ドミソって、えー」ってなものだったわけだが、次の日「これな、聴くとええと思うわ」と渡されたのが、数枚のジュニア・ウォーカーとキング・カーティスのレコード盤だった。
 キング・カーティスは知っていたが、ジュニアはまったく聞いたこともなく、そのシンプルなアプローチはまさにカルチャーショックに違いなかった。それまでにスタイリスティックスやフレダ・ペインなどのステージを経験し、その方面の音楽に興味がなかったわけではないが、まさに基本的なブルースなどに対しての無知を恥じ入ることにもなった。参加したアルバムでのソロのいくつかは冷や汗ものであって、偉そうに突っ張ってはいたが、未知の音楽に対して無理しちゃって感があるのは否めない。

 アルバムに使われた宣材写真で。このような形での写真では唯一のもの。

 上田さんは大阪方面では絶大な人気を誇り、このバンドに参加することによって、多くの関西のバンドの面々と知り合うことにもなった。有山じゅんじ氏や、憂歌団のギタリスト内田勘太郎氏、石田長生氏など個性的なキャラクターに圧倒されっぱなしだった。

「Push & Pull」はそれまでの上田氏とは少し違う方向を目指すバンドで、リズム&ブルースというよりは当時のポップスシーンを席巻していた「スタッフ」だとか、フュージョン・シーンにつながるサウンド作りの傾向が強かった。それが聴衆に全面的に受け入れられたとは言いがたく、上田氏の元々のルーツであったオーティス・レディングやウィルソン・ピケットなどのスタイルに再び向かうことも避けられなかった。
 やがてバンドは解体し、次々新しいメンバーを雇い入れつつ続けることになっていった。しかしながら「I Can't Turn you Loose」や「Midnight Hour」「Knock on Wood」を演奏する3年ほどの体験は貴重なことこの上なかった。

 エピソードは語り尽くせないほどあったが、体験したことが夢だったかのように覚えているものがある。
 その日僕らは大阪のある大学の学園祭で演奏した。終演後に東京に戻り、八王子の大学の学園祭での仕事が入っていた。時間的には何の問題もないはずで、大阪での演奏は順調に始まった。演奏は盛り上がり、例によってキー坊は「もっとかー、もっと行くかー」ってな具合に客を煽った。時を忘れるような熱演の末にステージサイドを見ると、蒼ざめたマネージャの顔があった。「時間が・・・」と言いつつ泣きそうな表情で、事態が拙いことになっていることが分った。アンコール最後の曲が始まったばかりだった。間奏に入ったあたりでキー坊に「飛行機の時間が」と告げた。「ああ」と返事したもののエキサイトしたキー坊には焼け石に水ってな具合で、一通りの展開を省くことはなかった。
 空港に辿り着いたとき、ゴローちゃんに言わせると「カウンターに駆け込んだとき、な、まだ飛行機飛んでなかってん。しゃーけど、な、カウンターのヤツな、飛んだ瞬間な、嬉しそうにな、いま飛びました。言いよってん」
 乗り遅れた僕らは慌てて新幹線の駅へ移動。ここでも東京行きは終わっていて、とりあえず三島まで行って後はタクシーなどの案は出たのだけど、最終的にマネージャーの出した結論は、お誂え向きにミニバスのような車両があるから八王子までタクシーというもの。
 ステージをこなした後での長時間の移動に気は重くも、相手方は「とにかく来てくれ。待つ」というものだっから仕方ない。僕らが八王子のステージに立ったのは朝6時半過ぎ。何をやっているのか判然としない朦朧状態で、もちろん客席もグダグダ。

 上田氏との活動の中でジュニア・ウォーカーやエディ・ハリス、さらに多くのソウル系のアーティストを知り、その後の展開に大きな弾みがついたことは確かで、ギターの松原氏と共に最大の恩人であることは間違いない。

 その後、あるスタジオでの仕事があって、下のスタジオを覗くとキー坊が1982年のヒット曲「悲しい色やね」の歌入れ中。聞いた瞬間「これは売れる」と確信する何かがあった。そのヒットを受けてのツアーには参加させて頂いた。
 松原氏とは、その後も幾度かソロアルバムに参加させて頂き、旧交を温めることにもなった。



2013 8/21


footprints Top

.© Shigeo Fuchino 2002 - 2025