番外の 1 その昔 1961年 - 1967年 吹奏楽
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そもそも楽器を手にするようになったきっかけは何だったのか、というものを遅ればせながら書いてみるわけだが、僕らの世代のご多分に漏れず、吹奏楽部に入部することから悪の道へと迷い込んだ。佐賀市立昭栄中学一年の二学期も終わるころだった。吹奏楽部を指導する音楽教師から入らないかと誘いがあった。特殊な人たちが集まるものだと思っていたから驚いた。しかしながら、それは面白そうでもあったし、何よりも特殊な人たちの仲間入が果たせるという甘く魅力的な話だった。もちろん、その時点で才能がどうだとか考えるわけもなく、クラブ活動としては、ただ走るだけとか、ボールを奪い合ったり投げたりすることに比べれば、高価な楽器を操る未知の世界でもあり、好奇心をかき立てられる誘いだった。教師の選考基準は後になっておぼろげながら得心するものもあった。その音楽教師は盲学校から来た新参者だった。部活動のための資金をふんだんにかすめ取って行く吹奏楽部は、他の教師からの風当たりが強かった。それで、教師は一計を案じた。部員を選ぶにあたって、割合成績の良いものを優先した。利口そうに見えるものばかり集まっていれば他の教師たちも文句は言えまいというようなことだった。自慢するわけだが、その当時の成績はまあ悪くなかったから、入部させる条件には合っていたということだったらしい。

クラリネットをあてがわれた。希望していたトランペットとか、第二希望だったオーボエでなくがっかりしたが、当時の吹奏楽部にはオーボエパートなどなかったから仕方なく、それでも手に取ればクラリネットも充分ありがたい楽器だと思えた。演奏する楽曲はなんといってもマーチだった。全校生徒の行進の伴奏をしなければならないし、来る日も来る日もマーチを練習した。 
マーチというものは、練習していて面白いものでもなかった。だいたい楽器がちゃんと吹けていないわけだから楽しいはずもなく、練習は我慢大会だった。バスとホルンだけの練習など、ドンパッ、ドンパッ、ドンパラパッパが延々と続き、「ばかみたい」と思ったこともあった。マーチから解放されるのは、コンクールが近づいてやらされる課題曲とかその類いだった。これはこれで、また違ったつまらなさがあった。その年だけでお払い箱になるような、むつかしい割には退屈な曲が多かった。 !![]()

夏には七夕祭りだとか、そのようなイベントに市内の学校のブラスバンドは駆り出された。いくつものブラスバンドが次から次へと行進して行くわけで、祭そのものは華やかになった。ま、晴舞台だった。

一度だけ、山あいの小さな村のようなところで合宿もあった。フルートの横のクラリネットを吹く坊主頭が私だ。
ブラスバンドに加入したはいいが、それぞれの楽器に指導者がいるわけもなく、習得は簡単なものではなかった。経験を積んだ先輩の助言がすべてだったから、ほとんど独学で探る案配だった。しかしながら、クラリネットを手にする度に、どのように吹けばいい音になるのかと苦心し続けるのだけど、若いときの勘というものは凄まじい勢いがあって、少しずつ少しずつ身体が覚えていくように思えた。熱中するあまりに唇を腫らしてしまったこともあったが、楽器の吹き方が分かってくると、そもそもの音楽への興味が加速することになった。交響曲などは延々40分余りも続く退屈な代物だったが、退屈さが日に日に目減りしていくのを感じてもいた。ジャケットの写真に惹かれて買ったハイドンの交響曲「軍隊」は、スコアまで揃えて解読しようとした。全音のグレーの表紙のポケット・スコアはベートーヴェン、ドビュッシーなどが次々に追加された。熱中したものの、音楽を生業にしようなどという気があったわけでもなく、ただただ熱病にかかっただけだったのかもしれず、この時点では趣味程度で終わるはずだった。
さて、中学を卒業して高校に行くわけだが、当時の佐賀では元々あった県立高校が3つに分断されたばかりだった。団塊の世代真っただ中、1校でまかなえなくなって西、北、東と別けたのだ。意図したのかどうかは分からないが、それぞれの高校は同等でなく、暗黙のランクのようなものが存在していて、中でも進学校として位置づけられていたのが西だった。楽しいはずの高校生活を灰色で過ごしたくないという能天気な考えから選んだのが北だった。だが、入学式で校長は大学進学への心構えについて檄を飛ばしやがった。目論見は外れた。なんだ、ここでもそういうことかってな案配だった。ま、先生方には何人を国立に送り込めるかというような大義名分というか勤務評定のようなものがあったのだろう。大いにくじけることになった。 出来て3年目の高校だったから、吹奏楽部などないと思っていたのだが、合格発表を見に行った日、校舎のどこからか楽器の音が聞こえていた。その教室に辿り着くと、中学の先輩を何人か含む、吹奏楽部とは呼べないほどおそろしく小さい編成の集団が演奏していた。マーチではなかった。「ピーナッツ・ベンダー(南京豆売り)」とか「コメプリマ」の類いが演奏されていて、それは少々面白そうだった。その時の部長は、獲得した予算枠があまりにも低かったものだから、少ない編成でも成立する楽器編成と音楽を選んだらしかった。トランペット、トロンボーンが2人ずつとサックスが3人、クラリネット2、打楽器というようなものだった。この年にバスとユーフォニウムなどが足されたはずだが、基本的な編成の元になっているものはジャズ・バンドのそれだった。譜面では「タブー」があり、手も足も出ないほど難しかったグレン・ミラーの「チャタヌガ・チュー・チュー」もあった。それでも一応吹奏楽部だったから、マーチも演奏したし野球の応援にも行った。加入する前の年には、野球の応援に行って「タブー」を演奏していて、客席から「そんなものをやってないで、太鼓でも叩いてろ」と怒鳴られた話も聞いた。そりゃあ、そうだろう。そんな曲の譜面しかなかったから仕方なかったとはいえ、場末のストリップ小屋じゃあるまいし、野球の応援に「タブー」はない。
そんな風だったが、この部には後に音楽評論家として活躍される諸石幸生さん(トロンボーン)や、テノール歌手となる牧川修さん(クラリネット)が在籍していた。当時の写真はこのようなものしか残っていない。体育祭とかそういったイベントでの演奏だったらしく、諸石さんは隠れて見えないが、手前のクラリネット奏者が牧川さんだ。
高校には選択科目があって、芸術関連では音楽か美術、男子の場合は体育の授業で柔道か剣道と決められていた。一も二もなく音楽を選び、体育では刀を振り回すイメージで剣道を選んだ。これは後々深く後悔することにもなった。剣道は胴衣を着けるのが面倒で、洗濯の出来ない面は悪臭を撒き散らすものになっていったし、音楽授業はコールユーブンゲンなどという声楽の練習書を使ってソルフェージュのお勉強。ドレミで歌い、聴音のテストまであった。誰もが音楽家になるわけじゃなし必要なものでもなかったが、カリキュラムは教師の満足のためだけにあるようなものだった。それが証拠に、中年のでっぷりした気取り屋の女性教師は「どうせ、あんたたち身を入れてやろうなんて思ってないでしょ」とでも言いたかったのか、生徒を見下すような態度に終始した。音楽の授業の最中、スケッチブックを持って楽しそうに郊外へ出かける美術専攻の人たちを見て、「ああ、失敗したなあ。絵でも描いて遊ぶってのが正解だったな」と悔やんだ。
この気取り屋の音楽教師と吹奏楽部は一悶着起すことにもなった。の怒りは収まらず「くそばばあだから、くそばばあでいいんだ」と更にヒートアップしていった。さすがに周りが止めて交渉は決裂した。次の日、部長が提案したのは腹いせだった。それは全員で合唱部の練習する音楽室に向かって楽器を吹こうという、アホらしくも面白くワクワクするような提案だった。トロンボーンはバスのクラクションのような音をパオーパオーと吹き鳴らし、僕らは金切り声をあげ、まるでコルトレーンの「アセンション」のようなカオスを実現することで少しは溜飲を下げた。しかしながら、流浪の民のような部活動は続き、音楽室から最も離れた場所にある弓道場の隣に吹奏楽部専用の教室というか掘っ立て小屋が建てられたのは、それから一年半近く後のことだった。
これは上の写真とは違う日のようだが、アルト・サックスをぶら下げたままクラリネットを吹いているから、曲によって持ち替えていたらしい。すでに持ち替えのお稽古をしていたわけだ。3年に進級するころ、同学年の仲間が少なく部長になったのを機に、見積書を作り校長室に直談判に行った。「これこれの予算がないと楽器も揃わず、せんせ、あんたコンクールにも出られしまへん」というような交渉だった。野球部に肩入れする体育会系の校長は、前例のない直談判に目をクルクルさせて驚き、「うむむ」と声をつまらせた。全額ではなかったが、そこそこの予算を獲得できて少しは吹奏楽部の体を成すようになった。個人的には2年生の夏に、親に無理を言って自分の楽器を買ってもらい、身を立てる覚悟があったのかどうか、音楽をやって生きる予感のようなものが芽生えてはいた。がって好評だった。他の学校でも演奏された。その年の県の高校総体で使おうという意見が寄せられた。音楽監督だった教師は難色を示した。わけの分からないサウンドのものを採用するのに躊躇するのは当然のことだった。それで、リスクを冒すことを恐れた教師が選んだのは、相変わらずのトニックとドミナントだけのものだった。ブラスの連中は不満を漏らした。
一方、時代は、ビートルズが席巻し、音楽事情は急激な変化の真っただ中にあった。ベンチャーズがもてはやされ、エレキギターのテケテケが世にはびこっていた。エレキバンド・ブームは大人たちの悩みの種だった。誰が言い出したのか、エレキと不良(ワル)が並んで語られた。学校では、エレキを禁じる教師たちと生徒の対話集会まで行われる騒ぎになっていた。エレキは不良化を促進するなどとバカなことを言って教師たちは譲らなかった。ようするに、彼らは自分たちの価値観が届かないものに若者が熱中することが怖かったのだ。生徒たちの上に君臨していたはずだし、いざというときには自分たちに従うはずの者が、別のものに血道を上げることに恐怖を感じていたのだ。それは、自分たちの立場がいつ覆されるか分からないという不安でもあったに違いない。大袈裟にいえば、その後の学生運動の萌芽だって、案外こんなことに根があったような気がしないでもないわけだ。それは押さえ付ける側との軋みが具体化したようなものだった。
とは言っても、エレキと不良の論理というものが、まったく間違っているというものでもなかった。高3の終わりごろに、市内のダンスホールでこっそりアルバイトがてらに演奏していたとき、周りには無軌道な少女たちが大勢いたし、その娘らを当てにして集まる悪ガキも見た。それはエレキと関係あるというものでもなかったが、グループサウンズ全盛の折りから仕方のない流れのようにも思えた。若者はわけもなく集まって羽目を外してみたいものであり、その時代はエレキが矢面に立ったのだけど、一時の歌舞伎町だとか、渋谷にもそのような空気はあった。うんと溯って時代が違えば芝居小屋だったかもしれない。
その年になってやっと吹奏楽部は吹奏楽連盟の主催する演奏会に出演した。コンクールには参加できなかったが、初めて大きなステージを経験した。これには少々のトラブルもあった。どうしても演奏者が足りず、大太鼓に、退部していた元々トランペット奏者の同級生を呼び入れた。これが大誤算だった。大太鼓はいわゆるティンパニーのような役回りで、演奏個所は少なかったものの全体には大きな影響力があった。本番で彼は舞い上がった。多分夢見心地だったろう。彼の参加した二曲目で、すべての音をみんなから遅れて叩き、惨憺たるものになった。横で小太鼓を担当した下級生の女子は終演後泣きじゃくる始末。演奏会後に次の部長にバトンタッチして高校でのブラバンは終わるのだが、この学校にいる間、なんというか職業訓練学校に通っていたようなものだったとも言える。もし、それがなかったら、許されるものなら退学しても良かったし、高校そのものには何の思い入れもなかった。

それは集合写真の経過にも刻まれていて、まだ普通であった上のものに比べれば、相当生意気な様相に変わった下の写真との違いのようなもの。下のものは3年に進級したころで、クラスでビリを島本と争い、学校にも昼過ぎに登校するような案配だった。今だったら、確実に落第だったのだろうが、当時の教師は早く学校から放り出すことを選んだわけで、それには感謝しているのだ。
2015 4/6