13 1975年 SMCオーケストラ・新宿ピットイン

ついこの間のことのような気もするが、あれから40年が過ぎた。もちろん、全員が還暦とか、とんでもないところまで来てしまったことになるけれど、記憶の中でのみんなは歳をとらず、この当時のまま。たまさか久しぶりに会うことがあっても、別れればイメージはこの当時のものに戻る。それほどこの時期のみんなとの交流の印象は強かった。
SMCオーケストラは、新宿ピットインに出演していた若手が集まって組まれたオーケストラで、トロンボーンの向井滋春さん、サックスの土岐英史さん、大友義雄さんなどが核となって組織されていた。名前の由来は「Super Musicians Composers Orchestra」ということで、メンバーが書いたオリジナル曲をオーケストラで聞かせようというような試みだった。
普段、譜面を読むというような習慣の少ない活動の中にあって、アンサンブル重視の試みをやってみようという目的もあったと言われていた。
既成の曲のアレンジ版もあって、「アフロ・ブルー」などでソプラノを吹く土岐氏は、目眩くようなソロを聴かせたりしたが、やはりオリジナル曲が面白かった。活動期間は3年ほどだったろうか。後期はサド・メルのアレンジ譜なども演奏したが、そのようなものに身を入れるものでもなく、やがてそれぞれの活動に移っていって終止符が打たれた。テナーの小田切一巳氏なども初期の重要なメーンバーだった。
私はリハーサルを覗きに行き、サックスパートはバリトンだけが欠員だと聞き、先輩のバリトンサックス奏者に無理を言って貸していただいて参加した。もちろんいつまでも借りているわけにもいかなかった。ピットイン・ミュージックが楽器の輸入代行などもやっていたので、さっそく注文したのだけど、楽器が来るまでに一年近く待たされた。というのも、コンサートでペッパー・アダムスが低域B♭までの、昔のバリトンサックスを吹いているのを見たし、御本人もAまで出る長い管は好きじゃないというようなことを仰っているのを聞いたせいで、それじゃあというので短いタイプを注文したからだ。すでに注文生産に入っていたようだった。バリトンサックスを入手してからは、バリトンのオファーも増え、数年後に始まるスタジオワークでも、やたらバリトンでの仕事が入ることになった。それで、バリトンを吹くのをしばらく窮した経緯もあった。
下の写真はジャズの月刊誌に取材された時のもので、バンドはこの後新宿朝日生命ホールでのコンサートを開くことが決まっていた

写真に姿がないのが残念だが、この活動に尽力されたのがピットインのマネージャーだった本村(ほんむら)さんだった。彼がいなければ長く続くことはなかっただろうし、それは元々トランペットを吹いたりしていた方だったから、若いプレイヤーにとても理解があったというか、彼の叱咤激励が私らを鼓舞し、強い推進力となっていた。
さて、メンバーだ。
前列左から、神村英男(トランペット)板谷博(トロンボーン)菊池昭紀(テナーサックス)大友義雄(アルトサックス)熱田修二(トランペット)渡辺香津美(ギター)土岐英史(アルトサックス)早川岳春(ベース)
後列、坂崎直文(ドラム)佐々木秀人(トランペット)粉川忠範(トロンボーン)高瀬アキ(ピアノ)向井滋春(トロンボーン)吉田憲二(トランペット)岩崎敏信(トロンボーン)伊藤修二(ベース)高橋知己(テナーサックス)角田健一(トロンボーン)私という面々。
トランペットの神村氏は作曲センスに光るものがあって独自の曲をいくつも書いた。当然その道に進むものと思っていたが、そうはしなかた。彼とは朝の部の時代から頻繁に交流し、お互いのバンドにゲストで参加したりした。ピットイン時代の盟友の一人だ。同じくトロンボーンの板谷とは一緒にバンドをやっていたこともあったし、気の合う友人の一人だった。彼はベースの早川などと共に生活向上委員会オーケストラでの活動を共にし、その方面に向かっていった。
仕事の場が違い、疎遠になっていったのだけど、いつかまた一緒にやる日が来ると思っていたら、96年に縊死した。残念だった。
数々の仕事に誘ってくれた恩人でもある向井さんはくわえタバコですましていて、隣の紅一点高瀬さんは現在ヨーロッパ拠点のピアニスト。
この後もベースの早川とは交流が続いた。この写真には70年代中期のさまざまな出来事も含め、あの時代のすべてが凝縮されているようなもので、ある部分では自分の青春時代といっても過言ではないような気がする。
2015 4/4