2010年 8月30日 Tadd Dameron
タッド・ダメロン 1917-1965
「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」(ジェイムス・ギャビン著/鈴木玲子訳・河出書房新社刊)に、タッド・ダメロンの話が2度出てくる。
1964年3月、度重なる麻薬禍でドイツから強制送還されたチェット・ベイカーは、戻ったニューヨークでの音楽活動を許可するキャバレーカードの申請も却下され、ビレッジ・ヴァンガードのギグは中止。頼るべき知り合いにも敬遠された。
ゴシップ誌にジャンキー扱いの記事を書かれ、さらにはタイム誌には「落ちぶれ果てた」などという内容の記事が掲載されるに至っては当然だとも言える。
その窮状に手を差し伸べたのがタッド・ダメロンだった。カウント・ベイシーを訪ねた楽屋で倒れ、死に至る病の骨肉腫であることが判明する数週間前のダメロン家のソファーにベイカーは転がり込み、6週間に亙って居候を続けた。

タッド・ダメロンはバップ黎明期から活躍したピアニスト。Our Delight、Good Bait、If You Could See Me Now等々多くのプレイヤーが取り上げた曲の作者としての認知度が高い。
最も早くバップイディオムを編曲に反映させたとの評価もあり、ダメロンがアレンジしたR&BのスターBull Moose Jacksonのバンドに在籍していたベニー・ゴルソンは、作編曲に関してこの人の影響なくして自分はあり得なかったと語っている。
デクスター・ゴードンは彼を評して「バップのロマン派」と言ったとか。
70年代末のチェットベイカーのアルバムに、ダメロンの「GNID」が幾度か収録されていて、グッと来てしまい、さてタッド・ダメロンってどんなんだったかとあれこれ探すことになった。
クリーブランド (Cleveland) 生まれで、幼少の頃より楽器に堪能な家族(母はピアノ、父はピアノと歌、兄はサックス、伯父はギターとベース)の音楽に囲まれて育ったらしく、母親はピアノを教えるに当って、「譜面を見るよりも耳で演奏なさい」と教えたそうだ。
ジャズに向かうきっかけは、サックス奏者であった彼の兄シーザーに促されてのことで、ユニークなアレンジメントを演奏していたフレッチャー・ヘンダーソン (Fletcher Henderson) 、デューク・エリントン (Duke Ellington) 等に興味を持つことになった。
クリーブランドのジャズ・ミュージシャンであったアンディー・アンダーソン (Andy Anderson)は、兄に伴われて地元のナイトクラブに現れた10代のタッドの腕前に驚いたと語った。
やがてザック・ホワイト (Zack Whyte) 、ブランチェ・キャロウェイ (Blanche Callowayーキャブ・キャロウェイの姉) バンドと共にステージを重ね、ヴィド・ムッソ(Vido Musso)バンドにアレンジを提供して、ニューヨーク、シカゴで活動。
そして最も重要なことに、その幾つかが記録されたハーラン・レオナルド (Harlan Leonard) のカンザスシティーオーケストラ (Kansas City Orchestra) にアレンジメントを提供。
1942年(25才)、ミントンハウスでのタッドのピアノを立ち聞きしたディジー・ガレスピーは、個性的なコード展開に「おー、なんてこったい」と驚き急接近。編曲家としてのオファーはもちろん、タッドのオリジナル曲「Hot House」などをパーカーと共に演奏するようになった。
カウント・ベイシー (Count Basie) 、アーティ・ショー (Artie Shaw) 、 ビリー・エクスタイン (Billy Eckstine) ジミー・ランスフォード (Jimmie Lunceford) 、コールマン・ホーキンス (Coleman Hawkins) 、サラ・ヴォーン (Sarah Vaughan) などに作、編曲家として作品を提供。
中でもサラ・ヴォーンのために作編曲した「If You Could See Me Now」(1946)は当時の彼女の代表曲ともなった。
1947年、「エスクワイア」 (Esquire) 誌は 、彼をBest New Jazz Arrangerに選出した。
で、早速そのサラ・ヴォーンを聞く。まず、当たり前のことながら、サラの歌声が若い。当時22才。往年のドスの利いた強面とは違って可愛い。ヴィヴラートもここでは押さえ目。甘く味付けされたサウンドに、あのマイルスも憧れたと何度も語っているフレディ・ウェブスター (Freddie Webster)のトランペットが朗々と鳴り響く。半世紀以上も前のサウンドが時代の彼方から語りかける、ってな案配で、近ごろは日に一度これを聞く。
で、サラ・ヴォーン繋がりで少し寄り道。
1950年、マイルス・デイビスはサラ・ヴォーンのレコーディングにベニー・グリーン(tb)(Bennie Green)トニー・スコット(cl)( Tony Scott)バド・ジョンソン (ts)(Budd Johnson)と共に参加。数曲、特にIt Might As Well Be Springで、ウェブスターとは趣の異なる見事なオブリガート・ソロを聞かせている。トニー・スコットのクラリネットは、なんだか相変わらず息を殺して忍び寄るようなサウンドで、決して嫌いじゃないけど、聞くたびに笑ってしまう。
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アレンジャーとしてのタッド・ダメロンに敬意を抱いていたマイルスは彼のグループ(Tadd Dameron Big 10 )でのライブにも顔を出していた。ファッツ・ナヴァロ (Fats Navarro)が在籍していたのだが、彼も麻薬禍で危うかったわけだ。(ナヴァロ参加のダメロンの楽曲も数曲ダウンロード可能)
その時のマイルス入りの録音も数曲残っている。Royal Roostでのライブから「Good Bait」スタジオ録音で「John's Delight」「What's New」「Focus」「Heaven's Doors Are Wide Open」マイルスが大きくフィーチュアされているのはライブのGood Baitで、What's NewとHeaven's Doors は歌入り。
マイルスの自叙伝の中では「バードのバンドを辞めたオレには家族を養うために必要な仕事だった」と書かれているが、5月にはタッドとマイルスが組んだバンドでパリのジャズ祭に出演することになった。

左上
Miles Davis - Tadd Dameron Quintet 「Complete Live in Paris」49
下 「Mating Call」58
右上「Magic Touch」62
「Fontainebleau」56
これまでの楽曲はiTuneでのダウンロードだった。一昔前であれば、1946年のサラ・ヴォーンなど、初期の彼女の代表作にも関わらずベスト盤に収められてもいないし、入手は難しかっただろうと思われる。
49年のパリのライブは、歴史的な録音ということでCDで入手できた。
ま、マイルスのご威光ってのもある。Tadd Dameron Quintetのメンバーは Miles Davis (tp) James Moody (ts) Tadd Dameron (p) Barney Spieler (b) Kenny Clarke (d)
"Salle Pleyel", Paris, France, May 8, 1949
マイルスは、この録音より2週間ほど前にBirth Of The Coolの2回目の録音を済ませていた。
ここでは、驚くほど攻撃的な流暢さに驚かされる。高い音も頻繁に使うし、フレージングも人が変わったようにすばしこい。
この年の1月、メトロノーム誌の選出したオールスターズでの録音の際に、マイルスはファッツ・ナヴァロと共にディジーのサイドを務めた。
ファッツと共にディジーに合わせたと語っていて、「オレが自分のスタイルだけじゃなくて、ディズみたいに吹けることが皆にも分かり、ディズ支持派もオレのことを認めるようになった」という言葉が納得できる。
パリでも、前年のディジー・ガレスピーの公演の記憶も生々しく、マイルスに対する期待はかなり低かったそうだ。しかしながら、聴衆はやがてマイルス独自の音色と表現に気付き始めた。バードのバンドと代わる代わるにステージを務め、シドニー・ベシエのグループと並んで好評を博し、パリの人々の彼らに対する態度も相まって、このパリ公演は刺激的な体験であったことは確かなようだ。
その後、ケニー・クラークは56年にフランスに移住。
ジュリエット・グレコと恋に落ちたマイルスは引き止める声を振り払って帰国したものの、帰国後の落差にヘコんで麻薬に逃れることになった。ダメロンはしばらくヨーロッパに残って、テッド・ヒースのためにアレンジしたりした。
このライブCDは放送されたものの完全盤であるらしく、最初の何曲かは「おー、これがバップです。何という魅力的なサウンドでしょうか」などという語り(フランス語だから分からないが、たぶんそんなこと)が被さっている。
このときマイルス22、ジェイムス・ムーディ23才。今も現役のムーディは恐ろしく達者なバッパーだったわけだが、このようなプレイヤーとステージを重ねたマイルスには、後年のコルトレーンの出現がとても面白いものに聞こえたことが想像できる。
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1950年、ファッツ・ナヴァロが26才の若さで亡くなり、替わるように現れたのがクリフォード・ブラウン(Clifford Brown)
フィリー・ジョー・ジョーンズ(Philly Joe Jones)と共に、53年、4曲入りのアルバムを発表。
Tadd Dameron 「A STUDY IN DAMERONIA」1953
作、編曲面でダメロンの影響を大きく受けたと語ったベニー・ゴルソンの他に、ジジ・グライス、パーシー・ヒースなどもクレジットされている9重奏。全体にジョー・ジョーンズのドラムが炸裂するセッションといったところ。
クリフォード・ブラウン23才。この後最も重要なトランペット奏者となった彼だったが、3年後に交通事故で亡くなった。
56年、パリの印象に基づくアルバム「Fontainebleau」を録音。ケニー・ドーハム、セシル・ペイン、サヒブ・シハブを含むオクテット。サウンドはより新しく、いい雰囲気のアルバムだが、残念なことにあまり高い評価は得られなかった。
これと最後のアルバム「The Magic Touch」62は、その昔、あるサックスの先輩に「何かアンサンブルをやりませんか?」と持ちかけると、「ふちの、そりゃお前、タッド・ダメロンのフォンテンブローとマジックタッチだよ。ちょいと聞いてみ、いいから」ってんで購入していた。で、宿題をしないうちに話はフェイドアウトした。
58年、コルトレーンのために書いた「Soultrane」が際立つ「Mating Call」(クァルテット)を録音。
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この時代の多くの演奏家と同様、ダメロンもまた麻薬常用者だった。着実なキャリアを積んでいるように見えて、摂取は続いた。
58年、ついに逮捕。ケンタッキー州レキシントンの連邦刑務所病院に収監され3年近くを過ごすことになった。(正しくはアメリカ公衆衛生総局付属病院と言うらしい)大いなる誤算だっただろう。
そこにはケニー・ドリュー、サム・リバースなどもいて、ダメロンは入院患者のオールスターズを率いていたそうだ。
そこで、最初の話に戻る。チェット・ベイカーが最初にダメロンに会ったのがここだった。ベイカーの場合は、告訴を取り下げさせる方法として、自ら進んで入院した。
それから6年の歳月を経て、ダメロンに電話をしたわけだ。
61年に退院したダメロンは、ソニー・スティット (Sonny Stitt) 、 ブルー・ミッチェル (Blue Mitchell) 、ミルト・ジャクソン (Milt Jackson) 、ベニー・グッドマン (Benny Goodman) などにアレンジを提供したりしたが、仕事は以前のようには舞い込まなかった。最後のアルバムとなった「The Magic Touch」はビル・エヴァンス、クラーク・テリー、チャーリー・シェイバース、ジョニー・グリフィン、ロン・カーター、フィリー・ジョーなどを擁する作品だったが、ダウン・ビート誌などでは酷評された。
ダメロンはあきらめずに作曲に励み、映画音楽の作曲家としての道などを目指したらしいのだけど、報われる事はなかった。
チェット・ベイカーが転がり込んだ頃、ダメロンは将来に絶望していて、酒と薬物の摂取が増えていたらしい。
この辺りの事に関してのジェイムス・ギャビンの記述は実に辛辣を極める。ギャビンは「ふたりとも、完全に時代に取り残されていた」と書き記している。当時新婚だったダメロンのイギリス人の妻、ミラ(メイベル・ダメロン)の証言によれば、「うちに来たベイカーが最初にしたことは、自分のフリューゲルホーンを質に入れる事だった」そうだ。ベイカーは、そのような状況でもヤクをやっていたという。
時代は急激な変化をジャズにもたらしていた。オーネット・コールマンが登場し、セシル・テイラーも過激な表現を用いるようになり、コルトレーンはフリー・ジャズシーンの中心的な存在となりつつあった。
時代がどう動こうと、ダメロンやベイカーのような音楽家は関係なかったとも言える。自分の中に沸き起こる音楽的な衝動を時代に合わせて変えられるはずもない。
「時代」を根拠に批判するほどアホらしいことはない。
その後もベイカーはヤクと縁を切ることなく、評論家の言う時代遅れのジャズを20年以上奏で続けた。
タッド・ダメロンは、ピアニストしてよりも作曲家として見られることを望んだ。ほとんどの作品で、彼のピアノは控えめだ。彼はインタビューで語っている。「わたしは、自分の作品が演奏される他の方法を思いつかなかったので、編曲家になりました」
ディジー・ガレスピー、マイルス、クリフォード、ファッツ・ナヴァロ、クラーク・テリー、ケニー・ドーハム。録音に関ったトランペット奏者だけでもジャズの歴史とも言える。
ビーバップ時代の最も影響力を持った編曲者と言われたタッド・ダメロンは、病に倒れて1965年に他界した。
ここ2週間ほどは、40年代後半から10年ほどのサウンドを聴き続けたのだけど、次第にリアルタイムで鑑賞しているような心持ちになり始め、それはそれで面白かった。例えば、知り得た新しい知識が、古いものへの判断を歪めてしまうようなことがあるわけだが、オールクリアーで臨めば、その時代の人々の気分さえ分かりそうな気がする。
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