15 Ernest Ansermet / Honegger


 

2011年 3月2日 

Ernest Ansermet (エルネスト・アンセルメ)
1883 - 1969


Arthur Honegger (アルテュール・オネゲル)1892 - 1955
 洋菓子のような名のエルネスト・アンセルメは、スイス生まれ(フランス系)の指揮者で、半世紀にわたってスイス・ロマンド管弦楽団を率い、1960年代のクラシック界では紛れもない巨匠の一人だった。英デッカ社との契約で録音された膨大な作品があり、音楽雑誌の紙面を賑わせる常連だった。
 音楽家としてのデビューは27歳。それまでは幾何学の学者であった父の影響からか、ローザンヌの高校を卒業後、フランスに留学してソルボンヌ大学、パリ大学で数学を学び、1903年には理学士の称号を得た。かたわら哲学、音楽、美術も積極的に学んだ。

 音楽の勉強のためにコンセルバトワールに通ったほどの彼が、なぜ音楽に専念しなかったのかは、本人の語る所によれば「音楽だけで生活出来る自信がなかったので、生活の糧として数学を修め、数学の教師でもしながら音楽を続けていこうと考えていた」ということで、故郷ヴェヴェイで数学の教師の職に就いた。

 教師の仕事は、週に10から20時間ほどの授業と1年に3ヶ月ほどの休暇。自由に使える多く時間は、スイスの作曲家ブロック(ブロッホ)、バルブランに学ぶことに費やされた。
 1910年、モントルーのクルザール音楽会で指揮者としてデビューを果たし、音楽家として生きることを決意。5年間ここで研鑽を積むことになった。1915年にはジュネーブ市のオーケストラの定期演奏会の指揮者に就任。

 1914年、夫人の療養かたがたモントルーを訪れていたストラヴィンスキーと出会い、たちまち意気投合した彼は、1915年、推薦されてディアギレフのロシア・バレー団の公演の指揮を担当。
 当時のロシア・バレー団の指揮者はストラヴィンスキーの「春の祭典」「ペトルーシュカ」ラヴェルの「ダフニスとクロエ」などの初演で名を馳せていたピエール・モントゥ。
 しかしながら、この時モントゥはボストン交響楽団の常任に移ることになっていて、このジュネーブ公演を契機にアンセルメが正式指揮者の座についた。
 この起用には、バレー団と協力関係にあったピカソ、バクスト(レオン・バクスト・舞台美術家)、コクトーなど、当時の錚々たる面々が後押しをしたと伝えられている。アンセルメがどのように受け入れられていたかが窺える。
 1929年、ディアギレフが亡くなるまで、ロシア・バレー団との仕事は続き、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」「プルチネルラ」、ファリャの「三角帽子」の世界初演に係わった。
 1918年、ロシア・バレー団との活動を平行して結成されたのがスイス・ロマンド管弦楽団だった。スイスではドイツ語域でのオーケストラはあったが、フランス語地域にはなく、フランス系の演奏家やフランス式の奏法に則るオーケストラとして結成された。
 楽員50人そこそこで始まったオーケストラは、ローザンヌ放送管弦楽団を吸収合併した1938年頃から勢いを増した。
 ドイツ、イタリアのオーケストラの幾つかに顕著なオペラ主体ではなく、演奏会用の交響楽団を目指し、オペラは二義的にしたとアンセルメは語っていたらしい。

 このオーケストラには、もう一人の常任格の指揮者がいた。合併されたローザンヌ放送管弦楽団のエドモンド・アッピアだ。ローザンヌの指揮者となって3年後にスイス・ロマンドに吸収されたため、副指揮者として在籍したが、アンセルメの存在が大きすぎ、さほど特色のなかった彼はほとんど評判になることもなく、このオーケストラから消えていった。Youra Gullerのピアノで1969年録音のショパンの協奏曲が残されているようだが現在入手困難。多忙なアンセルメと共にオーケストラの訓練を行ったアッピアの名は、今では見かけることもなく、その後の活動も知られていない。



 このアナログ盤は1969年に発売されたアンセルメ-スイス・ロマンドの「オネゲル・交響曲3番、4番」2枚組 1枚目がオネゲルで、2枚目はアンセルメの語りによる「音楽入門」
 英訳と邦訳の全文が付いている論文の原題は「What everyone should know about music」
 「人は音程の振幅、旋律の動きをいかにして捉えているのか。ヴァイオリンを例にとれば、弦に対する弓の摩擦はただ弦の振動を起こすだけで、音を出すのはこの振動である。さらに、弦の振動は周囲の空気の中に、耳に音を伝える空気の振動をひきおこす。したがって、私たちの耳が記録するものは、厳密にいえば音自体ではなく、それを伝える空気の振動である。そのピッチによって音を識別するのは、つまり、純粋に主観的な測定であり、あらゆる人にとって、空想上の空間のある高さを持つ場所に・・・・・・」
 数学者であり哲学者でもあった巨匠の語りはかなりややこしい。でも、もう少しいってみよう。

 「グレゴリオ聖歌を調べてみるならば、これらの全ての旋律は4度と5度に形成されたオクターブ・スケールから生じていることが分かる。例えばニの音階。 第2の音は2つ重ねた5度からオクターブを引いたものにによって決定される。」
 このように音楽の成り立ちそのものを、人の根源的な感覚から説明しようと試みる彼の目論見は、十二音技法の立役者達とかヴァレーズなどの勢力に対する否定があった。
 十二音技法に調性を持ち込んだとされるアルバン・ベルクなどは許される範囲だったらしく、幾つかの作品を録音している。
 しかし、ストラヴィンスキーが十二音技法を作品に取り入れたことが原因で仲違いし、アンセルメが歩み寄ったものの、終生和解することはなかった。

 管野浩和氏はこのレコードの解説で、「一見極めて機能主義、合理主義、あるいは即物主義の立場に見えるアンセルメについて、数学者ゆえに非感情的演奏をするという説明はしばしばなされてきた。 ・・・アンセルメに対する誤解の結果、アンセルメは即物的で、精神的な発想でないという観察があるが、これは甚だしい誤りである。アンセルメは、音楽を人間の精神現象と考えていた」

 このレコードがアンセルメの追悼盤として発売されたことは後で知った。目的はオネゲルの作品にあった。
 最初に聞いたのは有名な「パシフィック231」だった。

 まるで形態模写のようなオーケストレーションに驚き、FMでオネゲル作品が放送されるのを待ちわびた。交響曲第5番「三つのレ」の放送はエアチェックした。
 当時、オネゲルの認知度はまだ低かった。「火刑台のジャンヌ・ダルク」が本邦初演されるとかで話題になる時代だったから、そう頻繁に放送される作曲家ではなかった。
 そんな折りに見つけたのがアンセルメ・スイスロマンドのアルバムだった。

 第3番「LITURGIQUE」(典礼風)はオネゲルの書式の特徴でもあるリズミックな荒々しさから始まる。
 典礼風交響曲と名付けられたこの作品は1945年から翌年にかけて作曲されている。占領されたパリに留まり、幾多の戦争の災禍を目撃したオネゲルが、その経験からこの交響曲を作曲するに至ったのではないかといわれている。
 全3楽章、それぞれに「死者のためのミサ」である「レクイエム」からとられた副題が明記されていて、1楽章は「怒りの日」。以下「深き淵より我叫びぬ」「我らに平安を与えたまえ」と続く。

 3番を聞きかじった後、興味は第4番に移っていく。副題が「バジリア(バーゼル)の喜び」。作曲は3番完成の年1946年。スイスの指揮者パウル・サッヒャーとバーゼル室内管弦楽団に捧げられたもの。それで、室内オーケストラ規模の作品となった。
 3番と対照的な牧歌的な響きに彩られ、同時期に書かれていることから、同じく同時期に書かれたベートーヴェンの5番6番の関係との類似性を指摘する声もある。
 スイスで4番が書かれていたと思われる1946年の8月17日に、3番がミュンシュによって初演されていることを考えれば、この2つは同時進行に近い形で楽想が浮かんでいたのではないか。オネゲルの交響曲の中では最も穏やかな明るさを持ち、ポップな響きすら聞こえる。

 ポップなラインを遮る上のような和音こそがオネゲルだと感じていて、後年ジョー・ザヴィヌルのサウンドの中に同じような印象を持った。

 あまりにも度々聞き、アナログ盤にノイズが目立つようになった。やがてCDの時代がきて、いつかはCD化されるだろうと待っていたのだが、なかなか店頭で見かけない。
 どうせ来たんだからと別のものを入手し、オネゲルのシンフォニーのCDが次々と増えた。デュトア、セルジュ・ボード/チェコフィル、カラヤン/ベルリンフィル、ロジェストヴェンスキー。

 4番はデュトアとボード。



 アンセルメでなければダメだと思ったのは1楽章途中の上の譜例の箇所。ストリングスが織りなすカノンスタイルのオスティナートに下段の旋律がフルート、ピアノなどのユニゾンで奏されるのだけど、これが指揮者によって違うものになる。と言っても問題があるわけでなく、最初に聞いたものの印象が強いに過ぎないのだが、納得しない。ボードはぎこちなく聞こえるし、デュトアは平坦だという風に。 オネゲルはフランス6人組の一人として認知されているが、ドイツ語圏スイス人の父母を持ち、反ワーグナーでもなかった彼は他の5人とは少し距離のある立場をとった。
 スイスではスイス人として認知されている。
 映画音楽も数作手がけた。室内楽の分野でも作品を残し、 牝山羊の踊り(無伴奏フルートのための)が有名。しかし、3つの弦楽四重奏曲などは交響曲ほどの印象はない。

 代表作の「パシフィック231」を今の耳で聞くと実に騒々しく感じ、対照的な「夏の牧歌」に親近感を覚えるのは、当方が歳を取ったせいであることは間違いない。
 アンセルメの名は、オネゲルの交響曲と一緒に記憶されることになった。


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