2012年 5月12日 Part 1
2013年 6月18日 Part 2.
その昔、ムード・ミュージックというジャンルがあった。
パーシー・フェイス、マントヴァーニ、101ストリングスなどの弦楽器系から、ピアノのカーメン・キャバレロ、スタンリー・ブラック、ペペ・ハラミジョ、トランペットフィーチュアが多かったベルト・ケンプフェルトなどなど。
今はイージ・リスニングと呼ばれることが多いが、当時はムード・ミュージックといった。初期のスター、モートン・グールドの演奏「So In Love 」は『日曜洋画劇場』の初代エンディング・テーマに使用されていた。
ポール・ウエストン、ローレンス・ウエルクなどと並び、50年代に活躍したパイオニアの一人がジャッキー・グリーソンだった。
彼は音楽家ではなく、役者でありコメディアンだった。

1916年2月26日ニューヨーク、ブルックリン生れ。9才で父を亡くし、母子家庭で育つ。19才で母を亡くした後、劇場のMCの仕事に就き、ショービジネスの世界に足を踏み入れた。コメディアンとして多くの劇場で働き、1941年「Navy Blues 」を皮切りに、映画での活動を始めた。ハリウッドので評価よりも、おしゃべりと音楽を融合させたナイト・クラブでのアクトが評判になった。1949年、少しのろまな空港作業員Chester A役が当り、一挙にテレビの人気者となる。
映画の出演で最も有名なものはポール・ニューマンとの「ハスラー」(1961)で、最後の出演は「Nothing in Common 」(1986)テレビ・シリーズ「ジャッキー・グリーソン・ショー」も長く続いた。
1952年から始まったテレビ・シリーズ「ジャッキー・グリーソン・ショー」は、いくつかの休憩と「The Jackie Gleason Special 」を挟みながらも1970年まで続いた。ダンサーズのパフォーマンスや音楽、トークを含むこの番組の中で、コメディアンとして幾つものキャラクターを演じ分け人気を得た。
中でも恐妻家のバス運転手、ラルフ・クラムデン (Ralph Kramden) 役は人気を誇り、今もニューヨークのバス・ターミナルに等身大の銅像がある。
映画「バック・ツー・ザ・フューチャー」の中でも、50年代にタイムスリップしたマーティが、彼の母親となるエレインの家でこの番組を観る場面があり、映画「ワールド・トレード・センター」ではジャッキー・グリーソン像の台座に腰掛けるホームレスが警官に「ジャッキー・グリーソン像はお前等の椅子じゃない」と注意される。

グリーソンは音楽には深い関心を持っていて、単音のメロディをピアノで弾くことが出来るレヴェルだったらしいが、このジャンルの音楽制作に興味を示し、商業的な成功を確信してアルバム録音に携わった。
レコード制作に至った経緯は不明だが、圧倒的な人気を誇ったグリーソンのキャラクター商品のようなものと考えることもできるし、なかなか商才に長けた人物だったと思われる。
グリーソンの名を冠したレコードを作るために、名義貸しのような形でクレジットさせた人物がいたという説が正しいようにみえる。
「Jackie Gleason Orchestrta」と呼ばれることもあるが、正確にいえばそのような記載はなされておらず、アルバムタイトルの前に「Jackie Gleason Presents」と必ず表記されている。彼は作曲もしたが、彼の口ずさむ歌をアレンジャーが採譜し、作り上げたと言われている。初期のアルバムから多くの楽曲でフィーチュアされたコルネット、トランペット奏者のボビー・ハケットは、録音スタジオの中では実質上のリーダーだった。
晩年のハケットはインタビュアーの「グリーソンは実際スタジオの中でどんな役割だったのか?」との問いに「彼は小切手を持ってきました」と答えている。
レコードジャケットにはグリースン自身が棒を振っているような写真が使われていることも多いが、あくまでも宣伝用のスナップであって、彼が実際に演奏に関わっていたわけではない。

最初のアルバムは「Music for Lovers Only」で、1953年にリリースされた。このアルバムは50万枚を超えるセールスを記録し、ビルボードのトップ200で1位を獲得し、153週チャートインし続けた。
57年を境にチャート・インの勢いは衰えを見せ始めたが、1970年まで53枚のアルバムをリリースした。


いくぶん騒々しい展開のアレンジも録音されているが、何といっても聞き所は甘い響きのストリングスに尽きる。そのサウンドの上にボビー・ハケットの物憂げなトランペットが響くやり方が最も好ましい。
初期のものは10インチ盤で作られたものが多く、CD化に当っては2枚分が1枚に収められている。
アレンジャーの名は記載されていないが、ストリングスの扱いは特筆すべきものも多い。

譜例は「But not for me」のメロディ冒頭部分。この曲は数回録音されているようだが、これは「Music for Lovers Only」に収められたもの。声部は4つだが、同じ声部にも弱音器を付けた音色のオクターブ上が微かに聞こえたりする。
正確に聞き取ることは困難だが、そのような仕掛けが施されて、より深い音色を獲得しているらしい。
その部分を、あるベテランのヴァイオリニストに訊いたことがある。
彼は有名なムードミュージック・オーケストラ日本公演に参加した経歴を持つが、実際に演奏していてもストリングス群で何が行われているかはよく分からなかったそうだ。単に声部が増えるということではなく、様々な音色が聞こえていたと仰っていた。
しかも、リハーサル時から、演奏が終わるとすぐ譜面を回収する徹底振りで、全員が何をやっているかは把握できなかったそうだ。
ようするにサウンドの秘密は固く守られていたそうだ。
何はともあれムードミュージックだ。スタンダードソングで統一された全体はゴージャスに、時おり物悲しく響く。
世の中の動きは今よりずっとスローテンポだっただろうし、今の時代に合うかと問われれば、もろ手を上げて賛成するものでもない。
しかし、体調のいい時にこのようなサウンドを聴いてホッとするのも悪くない。たぶん飽きるだろうから、何枚もいらないと思われるが、しいてお勧めを挙げれば前述のファースト・アルバムと「Music, Martinis & Memories」がよい。
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2013年6月18日 Part 2.
相変わらずグリーソンの情報は極めて少ないが、調べている内に興味深い事柄もいくつか判明してきた。
やはりというか、実際にグリーソンは譜面を読むことも書くことも出来なかった。それは当人も認めていて特にスキャンダラスなこととしては扱われていない。
もちろん譜面を読めなかったことが音楽家としての決定的な能力の欠如というものでもないが、音楽制作に携わるのには無理もあろうというもの。
しかし、多くのアルバムにソリストとして参加したボビー・ハケットは少々弁護もしている。
「彼は譜面を読むことは出来ませんでしたが、サウンドに対する感性は備えていました。大編成のオーケストラを指揮する彼を見たことがありますが、途中僅かでも変な音がすると即座にオーケストラを止めてサウンドの不具合を指摘していました。それで、不協和な部分を必ず突き止めました。
そのようなことがなぜ出来たのかは分りませんが、結果はいつも正しいものでした。」
録音現場での指揮はないようにも思えるが、実際にオーケストラを指揮する事もあったわけだから、この件に関しては、Part 1の記述を(実際に指揮していたわけではないの件)少し訂正しなければならない。
グリーソンがアルバム制作のためにどれほどのクレジットを受けるべきかということについては、数年に亙り論争があった。しかし、これには結論らしいものはなく、ボビー・ハケットの証言でも分るように、実際に指揮したとしても豊かな感受性を示すことが出来たであろうとされた。
後にムードミュージック界の立役者の一人として一世を風靡したパーシー・フェイスは、グリーソンの一ファンとして「もし譜面を書くことも読むことも出来ないとしたら、どのように指揮したり作曲したりできますか?」との書簡を送って質問した。
これに対するグリーソンの回答は次のようなものだった。
「もしあなたが小説を書くとしてもタイプライターを必要とはしないでしょう。シェークスピアは持っていませんでした」
はぐらかしたような回答でパーシー・フェイスが知りたかったことには答えていないわけだが、グリーソンの作曲に関しては聞き取って譜面に起こす側近のスタッフがいた。
サミー・スピアー(Sammy Spear 1909-1975)とピート・キング(Pete King 1914-1982)は、ジャッキー・グリーソン・ショーの中で使われた「Melancholy Serenade」「Lovers Rhapsody」「You're My Greatest Love」の作曲に関わったとされている。
そもそものレコード製作に至った経緯は、グリーソン自身の発案から始まった。1950年代はロックン・ロール音楽の台頭がめざましく、ビッグバンドの時代は既に過去のものになりつつあった。そこでグリーソンは後に聴かれるようになった形態のアルバム制作を持ちかけたが、同意するレコード会社は現れなかった。
彼は自費でデッカ・レコードのスタジオを借り、日ごろ愛聴していた曲のリストを元にレコーディングすることにした。
レコーディングに当り、コルネット、トランペット奏者のボビー・ハケット(Bobby Hackett 1915-1976)も雇われた。
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多くのアルバムでフィーチャーされたボビー・ハケット。ジャッキー・グリーソンサウンドの要であることは間違いない。
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数曲で参加したアルト・サックスのツーツ・モンデロ(Toots Mondello 1911-1992)はベニー・グッドマン・オーケストラに在籍し、「Let's Dance」での演奏で広く知られていた。
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関わっていなかったデッカに対して、グリーソンのマネージャー、ブレッツ・ダーゴム(Bullets Durgom)はキャピトル・レーベルでの市場への手配を説得した。キャピトルはグリーソンのテレビショー番組内での宣伝などを条件に合意したが、最初のアルバムのセールスが6万枚以下ならどんな損害もグリーソン側がカバーするという厳しいものであり、さらに支払われた前渡し金は千ドルに過ぎなかった。
このアルバムがPart 1にも書いているように153週もチャートインしつづけるヒットとなり、「Music to Remember」「Music, Martinis and Memories」「Music to Make You Misty」「 Melancholy Serenade」が次々とリリースされて、それぞれが100万枚以上のセールスを記録した。
さらに勢いに乗ったグリーソンは1954年には自作バレー劇、55人編成のオーケストラと75人のダンサーをフィーチャーする「Tawny」を企画し大成功を収めた。そのサウンドトラック盤も大ヒットした。
グリーソンはアルバムカバーのデザインを手がけることもあったが、1955年の「Lonesome Echo」では飲み友達でもあったサルバドール・ダリ (Salvador Dali)が、カバーデザインを引き受けた。

このアルバムは風変わりなもので、ストリングスの替わりに40人のマンドリン奏者が雇われた。マンドリンのサウンドに乗って響くボビー・ハケットが聞かれる。
後に音楽ビジネスでの活動についてのインタビューでこうも答えている。「私が音楽でとった方法はシンプルなことでした。もし私がプロのミュージシャンなら40人のマンドリン奏者とボビー・ハケットの共演など考えなかったでしょう。それでもロマンチックでユニークな感触がありました。」
グリーソンは頭の中にある音楽を言葉で説明することに長けていたといわれる。音楽のイメージを伝えるために「午前5時、街灯に浮かび上がる彼女の艶やかなドレス」というような説明をした。そのイメージを聞いてピアノで音を探って聞かせるのが音楽監督の役目だった。
さて、そのような経緯はともかく、ジャッキー・グリーソンのオーケストラ・サウンドを実際にスコアにしたのは誰なのか。
幸い「Music for Lovers Only」の再発に当って、何人かのアレンジャーの名がクレジットされた。
3人の内、C・ダドリー・キング・ジュニア (C. Dudley King Jr.)に関してはデータがない。
リチャード・ジョーンズ (Richard Jones)はプロデューサーでもあり、ヴィクター・ヤングの「星影のステラ」発表時のアレンジャーとしての経歴が際立つ。
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シド・フェラー (Sid Feller)

シドはレイ・チャールスのプロデューサー、編曲家として広く知られる。「Georgia on My Mind」「I Can't Stop Loving You」などのサウンドを生み出した。
1951年に、キャピタル録音 (Capitol Records) の指揮者と編曲者となり、ジャッキー・グリーソン (Jackie Gleason) のためのアレンジが出世作となった。
レイ・チャールスとの出会いは1959年のレコーディングで、その後長きに亙ってレイ・チャールスの信頼も厚く、彼をして「彼は私の天使です(That's my angel)」とまで言わしめた。
ディーン・マーティン (Dean Martin) 、ペギー・リー (Peggy Lee) 、メル トーメ (Mel Torme) 、ポール・アンカ (Paul Anka) 、ギタリスト、チャーリー・バード (Charlie Byrd) とウッディー・ハーマン (Woody Herman) などとも作品を残した。
1963年のエルビス・プレスリー (Elvis Presley)の映画「アカプルコの海 (Fun In Acapulco)」のために「You Can't Say No in Acapulco」を作曲した。
2004の映画「レイ (Ray) 」の上映を見た彼は、ジェイミー・フォックス (Jamie Foxx)の演技に感動し、友人が生き返ったように感じて泣き続けたと伝えられている。
この後に続く音楽家は、どのアルバムと指定できるものではなく、直接アルバム製作に関わったかどうかも分らない方もいるが、グリーーソンの周りにいた作・編曲家ということで書き出してみた。
情報を集めるのにかなりの時間を費やしたもので、関わりが確実な方々だけを取り上げた。

レイ・ブロッホ(Ray Bloch)
1902-1982
フランスから来た指揮者、ピアニストで「When Love Has Gone」の作曲者。ラジオ番組などの音楽監督でグリーソンの制作にも関わった。

ラス・ケイス (Russ Case)- 1964
60年代初期、ケイスは晩年の仕事で、数枚のアルバムとグリーソン・ショーの編曲家として携わった。
彼自身はスタジオのトランペット奏者でもあった。40年代にはペリー・コモのレコーディングに関わり、ポール・ホワイトマン・オーケストラ (Paul Whiteman Orchestra)の編曲家としても活動し、RCAポップスのディレクターとして働いた。

フリーランスの作・編曲家で、ジャッキー・グリーソン・テレビショーのアレンジャーとしてキャリアを始め、グレン・ミラーオーケストラ (Glenn Miller Orchestra) 、ライオネル・ハンプトン (Lionel Hampton) 、ジミー・ドーシー (Jimmy Dorsey) オーケストラなどにスコアを提供した。さらにロッド・ステュワート(Rod Stewart)、 Crosby, Stills. And Nash、バリー・ギブ(Barry Gibb)ホセ・フェリシアーノ(Jose Feliciano)ボビー・コールドウェル(Bobby Caldwell)などとの共演歴を持つ。現役。

ジョニー・ヴァロ (JohnnyVarro)1930-
ピアニスト、リーダー。最初の仕事でボビー・ハケットと出会い、バック・クレイトン (Buck Clayton) 、 ピー・ウィー:ラッセル (Pee Wee Russell) 、ピーナッツ・ハコー(Peanuts Hucko) などと演奏。 エディー・コンドン (Eddie Condon) でも演奏を続けた。彼はジャッキー・グリーソン・ショーで演奏したが、編曲に携わったかは不明。

ジョージ・ウィリアムズ (George Williams)1917 - 1988
作・編曲家。バーブラ・ストレイザンド(Barbra Streisand)、グレン・ミラー・オーケストラ(Glenn Miller)などの編曲家で、9000枚のアルバムにスコアを提供したとされていて、後期グリーソンのアルバムに関わり。その数は34枚に上る。かかわり合いは最も深いアレンジャーだと思われるが、初期の作品には参加していない。
21才でグレン・ミラー・オーケストラのスタッフとなり、レイ・アンソニー (Ray Anthony) 、ベニー・グッドマン (Benny Goodman) 、ウディー・ハーマン (Woody Herman) 、ジーン・クルーパ (Gene Krupa) 、 ボイド・レイバーン (Boyd Raeburn)などにスコアを提供。亡くなった時のニューヨーク・タイムスの記事にも写真は使われていない。写真嫌いだったのか残されたものはこの一枚だけ。
このような音楽家達がグリーソンが言うところの「私の音楽での哲学は、メロディを演奏してくださいということに尽きます」
「アレンジし過ぎないで、人生を複雑にしてどうしますか」
「メロディを、可能な限りシンプルに演奏して欲しいのです」
というサウンドを実現させた。
グリーソン・オーケストラと表記しなかったグリーソンは自分のプロデューサーとしての立場はわきまえていただろうし、しかしながら望むサウンドを実現させることは楽しかったに違いない。