2oo7年 9月13日

ジョー・ザヴィヌルが9月11日に亡くなった。
彼を聞けるアルバムで最も多く聞いたのが、20代に熱中したキャノンボール・アダレーの「In Person」だ。この中のザヴィヌル作「Rumple Stiltskin」は実に複雑なリズム構造を持つ曲なのだが、キャノンボールの手にかかると、モダンでありつつも恐ろしくファンキーでポップなサウンドに聞こえた。このアルバムは、ゲストのルー・ロウルズ、ナンシー・ウィルソンが参加している権利関係なのかどうか、未だにCD化されていない。同曲をヨーロッパのライブCD(ほとんど海賊版のような)で聞くこともできるが、この盤の演奏には敵わない。

それに、B面の1曲目、バーンステインの「Somewhere」のデュオのエレピサウンドが、またまた参ってしまうのだ。ダイナ・ワシントンのピアニストだった時代もあって、あの有名なアルバム「What A Diff'rence A Day Made」のピアノも彼だ。ま、オーケストラ作品だからあまり聞こえないけど、、。
マイルス時代の「In A Silent Way」での物議は有名なのだ。標題曲の作曲者はザヴィヌルだったが、アルバム・クレジットにはマイルスと記されていて、抗議の末クレジットは改訂された。最初に彼が示した楽譜にはかなり複雑なコードが書き込まれていて、マイルスはその部分を思いきり簡略化して録音した。マイルスに言わせれば「俺の手直しでいいものになったろ。俺様のおかげだろうが」ってなところだろうが、ま、そりゃあない。巨匠は度々このような問題を起こしていたわけだが、ショーターの曲でも、ショーターが後年録り直したものを聞くとまったく違うように聞こえるものもあった。曲名に記憶があって、聞き比べると輪郭は同じだが内容は別物ってナ案配だ。
だからと言って、ザヴィヌルが根に持っていたものでもなく、インタビュー記事を読むと、マイルスとキャノンボールに対しては特別な敬意を持っていたようだ。
10年ほど前のインタビューで、ことさら取上げられることの多い「Bitches Brew」の事について語っている。「Bitches Brewが私とマイルスの終わりではありませんでした。その後にも多くの時間を彼との会話に費やしました。5枚のアルバムに参加しましたし、彼は素晴らしい人間であり、賢人(philosopher)でした。
我々は音楽そのものにそれほど注意を払いませんでした。音楽はあるものの結果であり、そのもの自身ではありません。」
さて、彼が広く知られるようになったのはショーターとの「ウェザー・リポート」結成が大きいことは言うまでもない。ミロスラフ・ヴィトウスらと始めた初期のグループは衝撃的なデビューを果たし、コンテンポラリーなサウンドが際立っていたのだけど、次第にポップな側面を見せるようになる。1枚目の「Weather Report」をジャズ喫茶で初めて聴いた時は「なんじゃこれは」的な部分もあったのだ。
冒頭のサウンドが既に分らないものだったのだけど、これは後に判明した。ピアノのペダルを踏んだまま、ピアノの弦に向かってサックスを演奏すると、弦が共鳴して倍音列が響くのだが、その響きだけをつないだものだったらしい。ま、時代だ。電気楽器は今ほど発達していなかった。

で、個人的にはウェザー・リポートの作品で最も気に入っているのが「Tale Spinnin'」(1975)だ。ラジオから聞こえてきたザヴィヌルの「Man in the Green Shirt」にやられて30年っていう感じだ。ジャコが入ってからのヒット作も聞いたし、「8;30」の頃はコンサートにも行った。グラミーも獲ったし、「Birdland」のような大ヒット曲も生まれた。しかしながら、コンサートで見たグループは幕前に「ボレロ」が流れ、スモークも使ったショー仕立てで、何だかグループそのものがウェザー・リポートの真似をしているように思えた。
1986年に解散に至った経緯も、彼自身の弁では「ウェザー・リポートの名は我々が思った以上に知れ渡っていました。その名前に私もウェインも窒息しそうでした。他の何も出来ないような状態でした。ウェインとはその後も仲良く付き合ってはいますが、当時の私の肩にのしかかっている負担はかなりのものでした。それはウェインに聞いてもそう言ってくれると思います。偉大なミュージシャンである彼と一緒に活動できた16年間は素晴らしい経験でした。しかし、時が来たのです」
1932年、ウィーンの労働者階級の家に生まれ、第2次世界大戦の間に成長した彼が最初に演奏した楽器は、6才の時のアコーディオンだった。その後アコーディオンを路上で演奏して金を稼ぎ、一方では天才児としてウィーン・コンセルバトワールでクラシック・ピアノの訓練を受けた。ジャズに興味を持つきっかけは、コンセルバトワールの同窓生が弾く「Honeysuckle Rose」を聞いた時だと言う。その時12才。
サックス奏者Hans Koller率いるダンスバンドに参加。その当時のことを「ウィーンのミュージシャンは一つ特徴があって、ドイツのバンドよりも巧く本当にグルーブする演奏が出来ました。それは天性のものだったかも知れません。私達は国際的で、チェコ人 、スラブ人、ハンガリー人、ルーマニア人 、ブルガリア人 、トルコ人 を含んでいましたから」この事が晩年の活動と関係があるかどうかは分らないが、彼の出自として考えると興味深い。当然アメリカのジャズを勉強していた事は間違いなく、ジミー・ランスフォード (Jimmie Lunceford) 、エリントン (Ellington) 、マイルス・デイビス (Miles Davis) 、バード (Bird) 、ディジー・ガレスピー (Dizzy Gillespie)などを挙げているが、エリントン・ファンだった事はあちこちで言及している。59年にバークレー音楽院の奨学金を受けて渡米したが、メイナード・ファーガソンのバンドに加入したため、実質的には受講していない。キャノンボールのバンドに加入して後の躍進は目覚ましいものがあり、来日した初期の演奏はオーソドックスなスタイルだが、「Mercy, Mercy, Mercy」などのヒット曲を提供するころには見事な変貌振り。彼はキャノンボールを心から尊敬していて、晩年のインタビューでも「あまりにも過小評価されている」と怒っていた。
友人フリードリッヒ・グルダとのモーツァルトでの共演は、モーツァルトが好きではないとか言って断ったらしいが、クラシック音楽を演奏する事を嫌っていたわけではなかったようだ。

一時は、心ない評論家などにジャズの裏切り者呼ばわりされたこともあるのだが、ディジー・ガレスピーとセロニアス・モンクは「君のものを聞いたが、僕は好きだゾ。」と言ってくれたらしい。
ワールド・ミュージックとしてウェザー・リポートを捉えて欲しかったらしく、たいていの人々がフュージョンとして聴いていることを「それは本当に気味が悪いことです」と言い、晩年の彼は、マルサリスと言えどキース・ジャレットと言えど、ビ・バップの演奏を続ける演奏家にはかなり批判的で容赦なかった。
「私にとっては、これらは非常に退屈な音楽です。何もありません。彼らは素晴らしいイントネーションとテクニックで完全に音楽を演奏しています、しかしそれはそれ自身ジャズのために危険だと思います。私はウィントンをとても重要な音楽家だと敬意を持っていますが、今彼らがやっていることは、私にとっては相容れないものなのです。しかし、それが彼らの欠陥だと言うものではありません。単に今起こっている事です」
オーストリアで生まれた天才少年は、27歳で渡米して後怒濤のように音楽界を駆け抜け、療養中の故郷ウィーンの病院で亡くなった(享年75歳)
一年前の74才の時のインタビュー記事がニューヨーク・タイム誌にあった。
その最後の方でこう語っている。「私は我々がしていることが非常に、非常に良いことを知っています。 私たちは聴衆のためのバンドですが、聴衆に迎合はしません。 演奏するものは信じられないほど旋律的で面白い音楽です。 そして、私たちは演奏するどこででもスタンディング・オベーションを受けるのです。私たちは脅威的なんですよ、、、。」
拍手!!!!!!