2015年 1月21日 ジョルジュ・リゲティ
Ligeti Gyorgy Sandor 1923 - 2006
ハンガリーでは姓名の表記が日本と同じく、姓、名の順で、正しくはリゲティ・ジョルジュとなるが、ここでは他の頁に準じて英語方式とした。


昭和41年(1966年)、当時刊行された「標準音楽辞典」(音楽之友社1453頁)に、この作曲家の名前はない。「Atmospheresアトモスフェール1961年」が音楽界の耳目を集め、それ以前にも「Apparitions」(1959)「弦楽四重奏曲」(1953)などの作品はあったが、辞典の刊行時より後に発表された作品で評価が決定づけられた経緯もあり、当時の辞典の執筆者たちは彼を除外した。秋山邦晴氏なども名を連ねていたから、知らなかったわけではないだろうが、割合保守的だった編集者は、情報の少なさもあって書きようもないリゲティの名を掲載出来なかった。音楽芸術誌などで伝えられることもあったが、一般的な彼の評価というものは長い間「前衛作曲家」だった。
その辞典には武満徹の項はあるが、組段2の体裁で30行足らずの解説。
リゲティの名が広く知られるようになったきっかけは、スタンリー・キュブリックの映画「2001年宇宙の旅」(1968)に、上記「Atmospheres」「Requiem」などが使用されたことによる。彼は自分の書式について、「Atmospheres」がドナウエッシンゲン現代音楽祭で初演された際に、「ミクロポリフォニー」と説明した。これは造語であって、説明された側が理解したかどうかは分からないが、後年、武満徹さんはリゲティと対談されたときに、これを「トーン・クラスター」と補足なさっている。

クラスター(cluster)とは「房」とか「群れ」を意味するが、音楽用語では上の譜例(米ウィキペディアから借用)のように半音同士のぶつかるサウンドを意味する。後半の小節ではEからG♯までに5つの音が密集している。
サウンドは濁り、多くの場合衝撃音としての役割を担う。現代ではヘンリー・カウエル(Henry Cowell 1897-1965)がその使用を推進したとされている。同じくチャールズ・アイヴズ(Charles Ives)も多くの作品でその使用を試みた。
その使用は現代音楽に限らず、古くはルネッサンス音楽のころに遡る。Heinrich Bider(1644-1704)の弦楽作品「Battalia a 10 D major, C.61」(1673)では大胆に使用した奇妙なサウンドが聴かれる。この場合は旋律が交差する際に現れるサウンドであって、和音の形ではない。
リゲティの作品における使用は、衝撃音ではあっても静かに穏やかさを保ちつつというところが特長で、彼の書式は聴くものに新鮮な感動を与えることになった。

「アトモスフェール」のオーケストラ譜パートは細分化されていて、ヴィオリンは1st、2ndそれぞれが14段、ヴィオラ10段、チェロ10段、コントラバス8段という具合だ。これは各奏者が一つのパートを任されていることになり、それぞれが少しずつ違った動きで弾くようにされている。
武満さんは対談において、この件に触れて仰っている。
「あの作品は、多くの作曲家にとって非常に衝撃的でした。その衝撃はたぶんふたつの面が含まれていたと思います。ひとつはリゲティさんがミクロポリフォニーという手法・・一般にトーンクラスターとして知られる手法を使って、それまでのオーケストラ音楽では聴いたこともないような、濃密な、新しい音響空間をつくられたということ。ただし。それ以上に素晴らしかったのは、あれらの作品に使われているひとつひとつの線、ヴォイスが、すべて人間が本当に弾ける ー ある意味では古典的なラインで書かれていて、その結果、オーケストラのメンバーの誰もが納得して、新しい音響をつくりあげることができたということだろうと思うのです。つまり、リゲティさんは、非常に有機的な線を生み出された。
一方、多くのトーンクラスターの作品では事情が違うと思うのです。つまり、オーケストラのメンバーは、しばしば一体自分が何のためにこの音を弾いているのか全く分からない中に置き去りにされてしまうーーー。」
「大変うれしい批評です」
「歌の翼、言葉の杖」武満徹対談集(TBSブリタニカ刊)1993年より
もちろん、そのようなやり方に否定的な人も少なくない。では、各パートがどのような動きをしていたかといえば、下の譜例はコントラバスの一部分。Bb、Ab、Gbの三つの音が響いているが、始まりは同時ではなく、それぞれが少しずつずれて現れる。結局は三つの音がピアニシモでザワザワと響く。このような展開がすべての楽器に割り振られていて、繊細に注意深くクラスターが進行する。


さらに上の譜例はホルンがメインの「ハンブルグ・コンチェルト」(Hamburg Concerto/1998.99.2003)の冒頭部分。ホルンのEb、Fが持続し、 Db、G と増えていくのだが、4小節目に増えたAbを追いかけるように響くのがオーボエのA音。これもピアニシモで展開されていて、静謐の美学のようなものを聴くことができる。最初に聴いて衝撃を受けた「ロンターノ」のクライマックスはカオス状態にもなるのだが、そこまでの道程はやはり研ぎ澄まされたような緊張感が持続する。そのようなサウンドスケープがリゲティの真骨頂であるようにも思える。作風は変化していったが、私の場合「ロンターノ」の衝撃がこの方に目を向けさせるきっかけになった。

静かな展開ばかりがリゲティであるはずもなく、速いパッセージでは神経質なフィギュアも含まれる。やはり「ハンブルグ・コンチェルト」の一部では上のようなパッセージがフルート、打楽器、ヴァイオリンから次々と楽器が増えて気ぜわしく続けられる。すべてのパートが異なる拍数から始まり、音列も変化するものだから、これが13パートに及ぶと、かなりトリッキーで、演奏家は火を吹く緊張を経験するに違いない。
リゲティはユダヤ系ハンガリー人として、ユダヤ教徒コミュニティがあった、ルーマニアのトランシルヴァニア、Dicsoszentmarton(現Tarnaveni・トゥルナヴェニ)で生まれた。ここで6才まで過ごし、後にkolozsvar(コロジュヴァール)に移った。(この町はルーマニア語ではCluj-Napocaクルジュナポカと呼ぶが、ハンガリー人はコロジュヴァールと呼んだ)
父親の家系には名の知られたヴァイオリン奏者がいたが、彼の家庭には音楽の気配はほとんどなかったという。音楽に興味は持ち続けていたが、特に楽器を弾くわけでもなく、ピアノレッスンを受けることを父親が承諾した時には、すでに14才だった。「それで、私はいいピアニストにはなれませんでした。14才は始めるには遅すぎました。」と語っている。6才まで父が望んでいたのは科学者になることであり、彼もまた物理学と化学に興味を持っていたという。ピアノを習い始めたからといって家にピアノがあるわけでもなかったし、音楽で生計を立てることなどは考えもしなかったらしいが、習い始めると同時に作曲を始めたらしい。それはとても無知な方法であったらしく、そもそも当時の最先端にいたリヒャルト・シュトラウスの音楽もあまり聴いたこともなかったが、ある本との出会いが先を決定づけた。
「私はトゥルグ・ムレシュ・Targu Mures(ハンガリーではMarosvasarhely)に住んでいた伯母に、誕生日プレゼントとしてアルベルト・シクローシュ (Albert Siklos・ハンガリーの作曲家、1878-1942)の書いた管弦楽法の本を買ってくれるように頼んだのです。しかし、伯母が買ってくれたものは全2巻の2巻でした。基礎的なものをとばして、かなり進んだスコアを書く方法が説明されていました。それは私の教科書になりました。さっそく楽器のことなどよく分からないままに交響曲を書き始めていました。シクローシュの本に書かれたワグナーのスコアの分析などがその源でした。まあ無茶な話です。」
そういった具合ではあったが、パレスチナの詩人レイチェル Blochstein (Rachel Blochstein) の詩をハンガリー語に翻訳して、18才の時に書いた曲「Kineret」が受賞して楽譜が出版された。当時はユダヤ人はコンサートに参加することさえできなかったが、 ハンガリーユダヤ人の(Hungarian-Jewish)Araratという出版社があった。この時期、ムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドノフ」が自分にとってはとても重要で、そこに聴かれる和音を使った稚拙な作品だったと語っている。
Kolozsvar Conservatoriumの作曲クラスに入学して、ファルカス・フェレンツ(Ferenc Farkas)に就いて学び始めたが、少しはピアノを弾けるというものの和音についての知識がなく、とても作曲家になれるものではないと弱気になった。
ユダヤ人は物理学を学ぶことさえ禁じられていたが、Kolozsvar Conservatoriumではその制限がなかった。そこで、彼は独学で数学と物理学を勉強することにして、しばらくはそれに没頭する毎日を過ごした。しかし、作曲家になる夢は捨てがたく、一年半後、やはり作曲家になるという決意を固めた。
1944年1月強制労働者サービスに送り込まれるが、10月にはここを脱走。しかしながら同時期に家族も追放され、アウシュヴィッツに送られた母親が助かったものの、弟と父はそれぞれ違う収容所で亡くなった。
戦後、ブダペストの音楽院(Budapest Music Academy)でシャンドル・ヴァレッシュ (Sandor Veress)に就いて勉学を再開したが、彼らの立つ場所は制約の多いスターリン独裁下にあって、その後のリゲティに大きな決断を迫ることにもなった。
1947年、シャンドル・ヴァレッシュがスイスに去った後は、温かい人柄でリゲティを支え続けてくれたくれたパル・ヤールダーニ(Pal Jardanyi)が教師となった。翌年、シャンドル・ヴァレッシュの後継者としてやって来たKolozsvar Conservatoriumの師ファルカス・フェレンツと再会し、再び彼の元で学ぶことになった。ファルカス・フェレンツの教えは、和声、対位法などプロフェッショナルな作曲家としての知識の大部分を彼に負うところが大きいとインタビューで語っている。このころ、教える側にも立つことのあったリゲティが音楽院を卒業したのは1949年だった。
卒業後、当時のルーマニア大使の計らいで奨学金を得て、ルーマニア、ハンガリーの民族音楽研究するための採譜を一年ほど続けた。この経験は後に「ルーマニア協奏曲」(Concert Romanesc1951)として結実する。民族音楽研究の活動は、スターリン体制下での音楽に対する制約の強さ、シェーンベルク(Schoenberg)、ベルク (Berg) 、 ウェーベルン(Webern )、ストラビンスキー (Stravinsky) は言うに及ばず、ブリテン(Britten)、ミヨー(Milhaud)、まで禁止されていた状況で、監視の目をかわす方法でもあったようだ。
ブダペストに戻るとゾルタン・コダーイからの連絡が入り、彼と会うことになった。コダーイの推薦によって音楽院(Academy of Music)の和声とアナリーゼの教師として迎えられた。その傍ら、パル・ヤールダーニの元で民族音楽の研究も続け、自らの勉学もさらに続けた。
コダーイは大きな後ろ盾となってくれたが、彼に師事したわけではないとリゲティは強調している。彼が多くのものを学んだのはファルカス・フェレンツによってであり、さらにラヨシュ・バールドシュ (Lajos Bardos) の理論とアナリーゼのクラスは重要だったという。ラヨシュ・バールドシュに就いたのがいつごろかは語られていないが、1947年にメシアンをブダペストに招いたりした方だから、新しい息吹に敏感な教師だったと思われる。
この時期の彼の作品は、後年の斬新さとは違い古典的な趣を持っている。それは体制側が不協和音などを禁じていたことにもよるが、1948に書かれた「無伴奏チェロソナタ」の一楽章、上記「ルーマニア・コンチェルト」(1951)などには急進的な響きは抑えられている。しかし、弦楽四重奏曲第一番「夜の変容」にはバルトークの影響が顕著で、次のステップに向かう準備段階が終わりつつあったことが分かる。
正確な年は定かではないが、彼は1952年に結婚したらしい。
ある日、夫人のヴェガは、禁止されている書物を西側から入手することに成功した
トーマス・マン(Thomas Mann) の 「ファウスト博士」(Doktor Faustus)と テオドール・アドルノ(Theodor W. Adorno) の、「新音楽の哲学」 (Philosophy of New Music)が含まれていた。
このアドルノの書いた本がリゲティに多大な影響を与えることになった。
アドルノは哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家であり、フランクフルト学派の思想家として知られている。音楽家としてはベルク(Alban Berg)に師事していくつかの作品を残している。「新音楽の哲学」はシェーンベルクとストラヴィンスキーに焦点の当てられた書物。おそらくリゲティはこの本によって西側で起きている音楽の新しい動きを察知したものと思われる。スターリン体制下での音楽的な弾圧は、不協和音の使用どころか、ハチャトリアンのモードの使用、「ルーマニア・コンチェルト」の民族性さえも否定して公演出来ない状況にあったから、彼が亡命の意思を固めつつあったことは想像に難くない。

テオドール・アドルノ(Theodor W. Adorno)
1903-1969

アルノルト・シェーンベルク
Arnord Schonberg1874-1951
(米)アーノルド・ショーンバーグ

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イゴール・ストラヴィンスキー
(Igor Stravinsky)1882-1971
彼がハンガリーを出たのは1956年12月、33才の時だった。ハンガリー動乱に乗じて20万以上の人々が国境を越えたが、彼もまたその中の一人だった。
「12月10日、オーストリアの国境の近くまで電車で行き、そこから妻と一緒に歩いて違法な国境越えをしました。」
落ち着いた先はウィーンだった。亡命者とはいえハンガリー市民権は失われることなく、オーストリア政府は政治的な思想のための逃亡者として彼を庇護した。
自由を得たはずのウィーンで待ち受けていたのは食糧配給の列に並ぶ生活だった。それでも、33才での交付を得るのは難しかったらしいが、ハンガリー時代に憧れていたシュトックハウゼンのエレクトロニクススタジオのあるケルンに行くための4ヶ月間の奨学金を得ることに成功した。
翌年ケルンに赴き、西ドイツ・ラジオ (West German Radio) のスタジオで、ゴッドフリー・マイケル ・コーエン (Gottfried Michael Koenig)を教師として電子音楽の技術を学んだ。シュトックハウゼン(Stockhausen)の元には客として6週間も滞在し、彼の重要な作品「グルッペン」の完成に立ち会い大きな刺激を受けたと語っている。
この間に手がけた電子音楽作品、最初の「グリサンディ」は取るに足らない作品だとご自身は仰っているが、「アルツィクラツィオン」(Artikulation ・1958)「ピエス・エレクトリック・ヌメロ3」を発表した。しかし、当時の作り方はとてもアナログな制作過程を踏むものであり、テープダビングを繰り返すごとにノイズがひどくなるというような出来上がりに不満を持ち、この方面の制作はここで終わった。
電子音楽製作の経験から生まれた作品が、オーケストラの場合は「アパリシオン」(Apparritions/1958-9)や「アトモスフェール」(Atmospheres/1961)で、人声によるものが1962年から65年にかけて書かれた「Aventures」(1962) と 「Nouvelles Aventures」(1965)だとのことだ。
2年間のケルンでの生活の後ウィーンに戻り、わずかな助成金で暮らす日が続いた。極貧の生活は60年代半ばまで続いたという。
クラスターに向かった経緯としては、不協和音は「反社会主義的」だとして禁止されていた、50年代当時のハンガリー共産主義政権下での統制への反発があったという。その欲求が満たされたのか、彼の作品は次第に響きに変化が表れる。
その点に関しては武満さんとの対談で語っている。「私は全くイデオロギーのない芸術家で、使命も持たないし、中心的なアイディアも持っていません・・・・
一作ごとに反省して次のものに取りかかるというようなことで、ハーモニー、リズム、メロディを一切排除して、ただスタティックな音だけあればいいという考えから「レクイエム」(Requiem/1963-65)を作りました。ルクス・エテルナではクラスターを使っていませんし、「ラミフィカシオン」(Ramifications/1968-69)では4分音ばかり使っています。」
私が個人的に好きになった「ロンターノ」(Lontano/1967)では 、ミクロポリフォックな部分とダイアトニックな部分が交錯していて、彼は後退したとの批判もあったが、そのような批判は本人の意に介するところではなかったわけだ。
二人のパーカッション奏者がピアノの弦をブラシで打鍵するという部分をも含む「アトモスフェール」(Atmospheres)は1961年のドナウエッシンゲン(Donaueschingen)の現代音楽祭で初演されて、世界中の音楽家に衝撃を与え、彼の名声が広がるきっかけになったのだが、それで生活が楽になるというものでもなかった。彼の収入源は、年に3回ほど2週間ずつ赴いた ストックホルムでの教師の仕事だった。大学で心理学者として働く妻と共に、電車に乗らず歩くというような生活で乗り切ったという。
創作活動は60年代後半から勢いを増した。
チェロ協奏曲(1966)、ルクス・エテルナ(1966)、ロンターノ(1967)、弦楽四重奏曲第2番(1968)、 ラミフィカシオン(1969)、13人の器楽奏者のための室内協奏曲(1970)、メロディエン(1971)のように続き、1977年にはオペラ「ル・グラン・マカーブル」を発表して世間を驚かせた。
この作品はナンセンスな音楽を目指したとされていて、アマンド、アマンダ、アストラダモルスなどの役名から扱った音素材までコミカルな設定を散りばめた。前奏曲は車のクラクションだけで成立させるといった具合。現代の歌劇のあり方に対するパロディとして作られたらしい。もちろん、音楽的な完成度は低いものではなく、上演されることも多い。さらにこのオペラから抜粋した「マカーブルの秘密」(Mysteries of the Macabre/1991)も出版されている。
抜粋されているのは、秘密警察女性長官ゲポポが理解不能な暗号で歌い上げる、超絶技巧を要するアリア三曲。
その後もピアノ協奏曲(1980-88)、ヴァイオリン協奏曲(1989-93)などが続く。作風にはさまざまな作曲家からの影響も指摘されているが、彼が貪欲なまでに学び続けた結果と考えられる。
武満さんとの対談では、オーケストレーションを教えてほしいという申し出に、「とんでもない。私もまだ勉強中で、今はリムスキー・コルサコフのスコアから学んでいるところですから」と答え、ある弦楽四重奏団のメンバーが訪ねた際には、資料に取り囲まれた部屋に通され、「ベートーヴェンのこれはやったか?いま勉強しているが、これは素晴らしいものだ」と勧められたそうだ。
「ピアノのための練習曲」(Etudes pour Piano・1985-2001)の録音に携わったピアニスト、ピエール-ローラン・エマール(Pierre-Laurent Aimard)は、CDの小冊子で、作品に聞こえるジャズピアノのセロニアス・モンクとビル・エヴァンスの影響に言及している。
そのことを尋ねられたリゲティはこう返答している。「彼らの感触や詩情は本当に私のお気に入りのものです。明らかに商業ベースだと言えないこともありませんが、他にもオスカー・ピーターソンやアート・テイタムのような大家がいます。その妙技は素晴らしいものです。アルバート ・アモンズ (Albert Ammons)や、ジェームズ・P・ジョンソン (James P. Johnson)と同じように、スピードの詩情に取り組んだと言っていいでしょう。チック・コリア (Chick Corea) が ハービー・ ハンコック (Herbie Hancock)と共演したディスクがあります。そこにはラテンアメリカとアフリカの音楽の完璧な知識に基づくポリリズムがあります。それもお気に入りのディスクです。ビル・エヴァンスのタッチは言わばジャズのミケランジェリ (Michelangeli) のようなものです。しかし、私にとって作曲の詩人はモンクでした。」
ここで語られたジャズからインスパイアーされたものは、ピアノ協奏曲などに活かされた部分があるようにも思える。

およそ半世紀も前の雑誌だが、1967年の「音楽芸術」誌にリゲティ自身が自分の作曲のイメージを語った記事があった。それはイメージであって、何ら具体的なものは含まないが、視覚化された音のイメージのようで興味深い。
「幼いころ、わたしはこんな夢を見たことがある。細い繊維がこんがらがって出来た網目が、自分の小さなベッドの置かれている部屋中いっぱいになっていて、ベッドに近づくことができなかった。わたしのほかにもいろいろなものが、この大きな網目細工にひっかかっていた。わずかな空間を照らしている蝋燭に近づこうとしている蛾やカブト虫、餡のはみ出たまんじゅうのように中身の出た汚い枕。引っかかっているものが動くと、それが網目全体に伝わり。枕が左右に揺れ、その枕の動きがまた全体に波及する。このような互いに干渉しあう力に大きく揺さぶられるので、網目のあちこちに破れができて、何匹かのカブト虫は思いがけなく一時網の束縛を逃れるが、じきにまた網細工に迷い込む。あちこちで突然起こるこういった出来事が、絶えずもつれあっている網目組織の構造に次第に変化を与える。方々に解きほぐせないような結び目ができ、別のところには空洞ができて、そこでは元の網目からはずれた部分が、空中に漂うクモの糸のように浮動している。この網目組織の変化は、元の状態に戻れないほどだ。その経過には、何か言うにいわれぬ愁いが感じられた。過ぎ去りゆく時間と、ふたたび呼び戻せない過去。
このはるか昔に見た夢の思い出は、わたしが50年代の終わりに書いた音楽にある影響を与えた。いっぱいに網の目のはった部屋での出来事が音のファンタジーに転化し、それが作品にきっかけを与える材料になった。視覚および触覚上のものが音響上のものに不随意的に転置されるされるということは、わたしの場合しばしば起こる。色・形・堅さが音の連想を呼び起こすし、その逆も起きる。音の感覚が、形・色・物質的性状を連想させる。そのうえ、量・関係・経過といった抽象的概念がわたしには感覚化してあらわれ、想像上の空間の場所を占める。たとえば「時間」の概念は、わたしにとっては朦朧と白く、ゆっくりと休みなく左から右へ流れ、そのさい微かなハーハーハーというような音を出す。この場合「左」はブリキのような性質の紫色の場所で、それに対し「右」はオレンジ色で膜のような表面と鈍いトーンを持つ。
わたしの作品のいくつかのための基礎となったものとして、さきほど述べた夢を挙げたが、だからといって、その夢がわたしの音楽の内容になったというのではない。描写的な、あるいは標題的な音楽を作ろうという意図からは、わたしははるかに離れている。夢の内容は、幾度も変換され、他の表象や作曲上の処理と重ね合わされて、結局は当の作品の形式上および作曲技法上の若干のアスペクトや一般的な姿勢の中にわずかに現れるだけのものなのである。
例えば、わたしの管弦楽曲「Appartions」の音の構造は、夢で見た網目細工を想起させる。そして全体の形式の進行も、あの網目細工がたどった変化に符合している・・・・・」


参考資料「歌の翼、言葉の杖」武満徹対談集(TBSブリタニカ刊)1993
Interview by Istvan Szigeti, Broadcast on Budapest Radio on July 29th, 1983
interview to celebrate his 80th birthday, Gyorgy Ligeti tells Tom Service./Friday 17 October 2003
interviewed by Benoit Delbecq / Jazz Magazine 1998
CD : The Ligeti Project II ,V ,VI Liner Note by Ligeti