17 清瀬保二


 

2014年 9月21日 清瀬保二 


ピアノ独奏曲全集」ピアノ・花岡千春


 「1920年(大正9)。ひとりの青年が作曲を教えてほしいと山田耕筰のところへやってきた。かれはとてもやせて。背が高かった。かれは松山高等学校文化甲類(英文科)の二年を中退して、翻然と作曲を志して上京してきたのである。」 
 秋山邦晴氏の文章はこのように始まっている。
 1974年音楽芸術1月号から連載開始された「日本の作曲界の半世紀」の序章の一節だ。この青年が日本の作曲界の巨匠の一人清瀬保二であり、後年武満徹の師としても名を知られた。
 清瀬の前には山田耕筰、信時潔、中山晋平。宮城道雄などの時代があった。

 清瀬は1930年に発足した「新興作曲家連盟」に、箕作秋吉(みつくりしゅうきち)、松平頼則(まつだいらよりつね)、山本直忠(直純の父)、伊藤昇、斎藤秀雄、鈴木二三雄などと共に名を連ねた。小沢征爾の師としても有名な斎藤秀雄は演奏家であったが、当時は作曲もしていたらしい。

 戦後に活躍した次世代に入野義郎、團伊玖麿、芥川也寸志、黛敏郎、間宮芳生、八代秋雄、武満徹、三善晃などが名を連ねる。戦前の作曲家として語られる清瀬は、松山の楽器店で見つけたベートーヴェンの「弦楽四重奏のためのメヌエット」の楽譜との出会いが作曲家への道を志す決定的なものになったという。彼が作曲家を目指すと決めた1920年代は「日本人にベートーヴェンのような作曲が出来るものか」という風潮が強い時代で、情報もきわめて少なかった。それでも彼は作曲家を目指したのだが、山田耕筰の元での勉強はあっけなく挫折した。まずその時点でピアノに触れたこともない清瀬にとって、禁則だらけの和声の学習は理解できるものではなかった。平行5度、8度の禁止の根拠すらつかめず、それを聞くことも出来ないままにあきらめることになった。
 そこで彼は郷里には戻らず鹿児島指宿に居を構え、独学の道を選んだ。ピアノに夢中になったとされるが、このCDの小宮多美江女史のライナーノートによれば、最初はオルガンから始まったと書かれている。

 清瀬は大分県宇佐の大地主の息子として生まれた。高額納税者として貴族院議員を務めた父は邦楽を好み、家では度々邦楽が演奏された。
 清瀬は兄が博多から持ち帰ったヴァイオリンに魅せられ、やがてヴァイオリンの手ほどきを受けることになった。松山高校への入学は一度では出来なかったが、上京して浪人生活を送る間もヴァイオリンは手放さなかった。1919年9月に無事入学を果たすが、わずか四ヶ月あまりで辞めてしまい上京することになる。
 最初はオルガンだったとしても、その後の彼の作曲はピアノ曲が中心になっていく。いったいいつごろピアノを手に入れたのか、ピアノは独学というわけにもいかないと思われるが、だれに師事したのかなどの情報はまったくない。

 4年以上に及ぶ鹿児島時代の彼は取り寄せた楽譜を弾くことに熱中し、毎日一つのモチーフを書くことを自らに課していた。かなりの数の習作を書いたと思われる。さらには生田春月、石川啄木、北原白秋、三木露風などの詩に作曲し続けた。
 1921年に郷里から女学校の教師だった女性を呼び寄せて妻とし、翌年長女が生まれた。

 独学で作曲を学び続ける4年間は楽なものではなかった。1922年に生田春月の「旅寝」を作曲中、彼は無意識のうちに5音階の動きを使っていることに気付いた。反感すら感じていた邦楽の伝統的なものを知らず知らず使っていることに動揺があった。ドイツ和声になじめなかったのは自分の中に邦楽的なものが強くあるせいなのか、こんな自分に作曲など出来るのかと追いつめられていった。
 自分の感覚が西欧の和声体系とは違和感を持つことに気付いてはいて、渡欧して基本的なものを学ぶことを勧める人もいたが、彼は自分の内的な必然に裏付けられた音によって音楽を書いていくという決心があった。自分の方向性を探す悩みは、歴史書などを読み漁りつつも続いた。根本には西欧と東洋の違いというものがあった。

 その悩みに一筋の光をもたらしたのはドビュッシー、フォーレ、フランクといったフランスの作曲家の作品だった。ドイツ音楽とは明らかに異なる音楽の中に古代旋法や東洋的な音階が含まれていることにも勇気づけられた。

 1925年秋、東京帝国劇場でフランスのピアニスト、ジルマルシェックスがバッハからストラヴィンスキーに及ぶ連続演奏会を開くことを知ると、清瀬は上京してそれを聞いた。それは清瀬にとっては強い刺激となり、その月のうちに家族と共に上京し阿佐谷に居を構えた。

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 全集は作曲年代順に並んでいて、最初の曲は1926年作の「音なくしのびよるもの」

 この曲のたたずまいはどことなくフェデリコ・モンポウを思わせるものがある。2枚組ディスクの1枚目には数曲にモンポウの持つ静謐さを感じさせるものがあって、それは後の清瀬に顕著な日本的なものをあえて避けるように書かれているようにも思える。

 上京して2年目の1927年、フランスで学んだ声楽家、バリトンの照井栄三が清瀬の元を訪れる。盛岡出身の照井は同郷の啄木の詩に曲をつけている作曲家がいると聞いて駆けつけた。10才も年上の音楽家の来訪に清瀬は驚きつつ、啄木の詩に書いた「砂山の」「いつとなく」「東海の」などを見せた。照井はこう語っている。

「清瀬保二の作曲の特長は、音楽表現形式の単純化にあるが、その単純性を保持しつつも、内在的転調と変化と複雑性とを表現しようとしている」
 照井は「いつとなく」をレコーディングし、翌年には清瀬を伴奏者とする演奏旅行に出かけている。清瀬はこの時期から伴奏者としての仕事も増えていった。

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 全集の2枚目には日本的なもの、五音音階で書かれた曲も聞かれる。さらには1936年作の「琉球舞踏」は四七抜きの琉球音階で書かれている。作風はいっそう饒舌になり、1937年から40年にかけて書かれた「第2ピアノ曲集」は戦前の代表作といわれる。やがて清瀬の興味はオーケストラ作品などに移り、47年の「四つの前奏曲」以後は子供のための小品以外にはピアノ曲を書かなくなった。
 このピアノ曲全集を通して聞けば、単一の音色の楽器によるものだから、より鮮明に一人の作曲家の作風の変化の過程、心の変化の過程が見えるように思う。

 清瀬は独学についてこう述べている。
「独学とは自分が自分の作品の批評家にならなければならないことであり、当然ながらその道のりは決して急いで歩めるものではない。重要なのは何を描こうとするかであり、つねに反省し、学び、ゆっくりと熟達していくのだ。
 作曲し始めたころは毎日、日記を書くようにメロディを書いて行ったが、それは一つのテーマをいかに流れさすかに注意したのであり、そうして行くうちにそのメロディの中からおのずと湧いてくるように、和声を感じることもあった。
 以前は、一つの歌曲を作るまでに、詩のアクセントからリズムから注意してぎりぎりまで訂正してほっとしてから、伴奏部が浮かんだことが多かったが、近ごろはほとんど同時に浮かぶのでこれでは悩まなくなった」

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 終戦後、若い作曲家たちが結成した「新作曲家協会」には清瀬保二と共に松平頼則、早坂文雄、萩原利秋、石田一郎が名を連ねた。同時期に柴田南雄、入野義郎、別宮貞雄、中田喜直などが「新声会」を結成。「新作曲家協会」は「民族派」中心で、「新声会」は東京音楽学校出身者の「アカデミスト」集団のように見られていた。
 1948年、その「新作曲家協会」の2回目の発表会で清瀬の「ヴァイリンソナタ第一番」を聴いて感動した武満徹は清瀬を訪ね、師弟関係を結んだ。武満とのレッスンはほとんどお喋りで終わったと武満自身も語っていたが、武満のことを清瀬はこう語っている。
 「手を加える必要はないと思ったですよ。スタイルがこれだけ個性的なんだから。妙にありきたりのハーモニーのレッスンなんかやる必要ないと思った。このままほっておいても、芸術観や方向さえしっかりしていれば大丈夫だという感じがしました。それでレッスンのほうも、おしゃべりのほうで毎週毎週、時間が経ったようなものだ。」

 清瀬は作品の批評をすることもあったが、武満にモンポウやバルトークの楽譜を貸したりして、それとなく知識を与えるようなことをした。
 武満のモンポウ好きは清瀬の影響らしい。
 結局、武満も独学の道を歩み、清瀬と並んで影響を受けたもう一人の音楽家早坂文雄と同じように、日本的なものと向き合う創作をすることになった。


参考文献「音楽芸術」誌、1974年1月号・「日本の作曲界の半世紀」秋山邦晴
神戸大学表現文化研究会。研究論文・「武満徹と戦前の民族派作曲家たち」佐野仁美
CDライナーノーツ・小宮多美江


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