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Gary Bartz 
Baltimore,26 Sep 1940 -  


 70年代、ピットインでのライブ活動がメインの頃のアイドルだったゲイリー・バーツ。「HOME!」Gary Bartz NTUTROOP(30,March,1969)、「Libra」(1967)を聞いてすっかり参ってしまった。それまでにないアルトの音色が衝撃だった。後者は彼の初リーダーアルバムだったと思う。ライブ盤「Home」がスタジオ録音とは違ってまたまた凄かった。独特の音色を作り上げた経緯と最も影響を受けたヒーローについては、彼の言によれば次の通り。

 G・Bartz:「私は自分がテナーのようにアプローチするアルト・プレーヤーであると考えています。コルトレーン(John Coltrane)、ハンク・モブリー (Hank Mobley) 、レスター・ ヤング (Lester Young)、のようにアルトのニュアンスを持ったテナーのプレーヤーが好きです。同じようにテナーのプレーヤーのように吹くアルト・プレーヤーが好きなのです。私が好きだったのはクリフォード・ジョーダン(Clifford・Jordan)でした。彼のテナーにもアルトのサウンドが聞こえていました。
 クリフォード は、速くも、高くも、必要に応じて低域でも演奏出来ました。1957年、ボルティモア (Baltimore) のカジノクラブ (Casino Club)でのマックス・ローチ (Max Roach)のジャム・セッションで初めて会って以来、最後まで友人のように交流がありました。彼は認められていないサックスのヒーローの一人でした。もっと彼を知るために彼の残したレコードを聞かなければならないと思っています。」

 サイドメンとしてもマイルス・デヴィス、アート・ブレイキーなどのメンバーの他多くのレコーディング(マッコイ・タイナー、シャーリー・ホーン、ドナルド・バード等々)に参加。
 ノーマン・コナーズのグループのメンバーとして、レジー・ワークマン、エディ・ヘンダーソンと共に来日した時は追っかけ状態だった。コンサートホール、ライブハウス・ギグ、ほとんどを聞きに出掛け、話をする事も出来た。
 「君は昨日の夜も来ていなかったか?」と言われるほど熱心だった。話をすると言っても特別話題があるわけでもない。聞きたいのは「どうすればあなたのように演奏出来るようになるでしょうか?」なのだけど、そんな事に答えがあるはずもない。
 僕の師匠流に言えば「聞いていて分かんないの?」って事になる。で、当たり障りなくマウスピースの事を聞いたりするわけだ。そのセッティングを聞いて「それはとてもハードだと思えるのですけど?」と言うと「いや、ハードだと感じていたら使わないヨ」との答え。そりゃそうだ、個人差がある事で、同じようにセッティングしても同じ音が出るものでもない。
 以後、サックス奏者と会う機会があってもその無駄な質問は控えるようにした。
 
 来日公演は期待に違わず素晴らしい演奏の連続。レコードで聞くよりずっとすごいと思った。新宿ピットインで自分のライブを始めた頃は彼のオリジナルを何曲も取り上げた。新しいアルバムが出ると必ず一曲は取り上げた。当然ソロのやり方も随分と採譜した。若気の至りだったのだけど、何か新しいサウンドを目指す指針でもあり、その頃は新しいものを目指す事こそが重要だった。
 
 ジャズ・シーンは変わりつつあった。ゲイリー・バーツも少しずつ音楽の作り方が変化し、時代の波は多くのジャズメンを飲み込まんばかりの勢い。ブレッカー、サンボーン等の台頭と共に新主流派と呼ばれた演奏家達の露出は少なくなっていった。
 1988年録音の「Monsoon」を見つけた時は迷わず入手。相変わらずのアルトを懐かしく聞き、最近発売されたマイルスのDVDでは70年の彼の演奏と現在のインタビュー映像を見る事が出来る。
 

 


Rahsaan Roland Kirk 

Columbus, Ohio, 7th Aug 1936 - 5th Dec 1977


 
さて、ジャズ史上で最も暴れたミュージシャンと言っても差し支えないお騒がせ盲目の怪人サックス奏者、3本のサックスを同時に吹いた伝説のマルチリードプレイヤー、ラサーン・ローランド・カーク。多分に誤解もされ、初来日の際は奇人呼ばわりされたらしい。先ず、彼は4、5本の楽器(テナーのベルの中にはフルートが入っている)をぶら下げてステージに現れる。曲の途中でいきなり3本の楽器をくわえて吹き、フルート演奏中は鼻でもう一つの笛を吹く。

 一人でセクションを作ってしまうのだ。ソロの途中で突然3管のサウンドが響く。そのサウンドの合間を縫ってソロが続く。とにかく忙しい事なのだが、予備知識なくこれを見た人はぶったまげるわけだ。それだけでも驚きなのだが、ソロの終わりとか何かにつけて合図のようにホイッスルを吹き、サイレンまで鳴らす。
 最終武器はノンブレス(循環呼吸、口から息を出しながら鼻から吸う)を駆使して長く気の遠くなるようなライン。これを一曲の中で縦横無尽に取り混ぜ熱演するのだ。
 彼の最初のアルバム録音のきっかけを作ったピアニスト、ラムゼイ・ルイスは初めてローランドを見た時の印象を「叩きつぶされ、完全に吹き飛ばされた。」と語っている。

 最近出版された、彼と親交のあったミュージシャンの証言によって編纂された「ローランド・カーク伝」(ジョン・グルース著、河出書房新社刊)によれば、ミュージシャンも含めて多くの人々は、初めてカークを見て「超自然的なワンマン・ボードビリアンの奇怪なショー」を見たと感じたらしい。
 確かに奇異な印象はぬぐえないのだが、要は音楽そのものの質だ。これはとんでもなく幅広く、深い。楽器の習熟度は高く、技法の探求には貪欲で上記3本一挙吹奏だけでなく、フルートでは唸り声とハモらせる技も頻繁に使った。ジェスロ・タルのイアン・アンダーソンはその影響下にあると指摘されているが本人は否定している。
 
 ブルースもジャズ史の巨人に対する畏敬も忘れず、何でも積極的に学んだ。殆どの時間を楽器の練習と創作、レコードを聴くことに費やした。とにかく音楽に向かう姿勢そのものがステージさながらにエネルギッシュだったようだ。
 ジョニー・グリフィン、ドン・バイアスなどが過小評価されていると怒り、ブレッカーの故郷ではステージでブレッカー・ブラザースを罵倒し、その時々思うままに振る舞う彼が敵を作ることにプロデューサージョエル・ドーンは気を揉んだ。とても過激な一面が周りを困惑させたことは間違いないようだ。

 それでも彼の演奏に圧倒されたミュージシャンは多い。サックス奏者デイブ・リーブマンは手痛い洗礼を受けた。まだ10代だったリーブマンは一緒にステージに上がり、「All the things you are、最初の音はF#、1、2,3,4、、、とやられて何も吹けなかったことを述懐している。通常とは全く違うキーでいきなり吹かせられ困惑したそうだ。
 その事をリーブマンは「あれはレッスンだった。今やっても出来やしないんだが、、。」と語っている。

 専門的なことに触れる。キーが違う楽器を両方とも片手で演奏するわけだから当然ハーモニーを響かせることになる。例えばテナーとアルトを同時に吹くとして、双方でGのキーを押さえたとするとFと4度上のBbが鳴る。テナーの指を一つ上げればGとBbで3度ハーモニー成立。この双方5度の間隔内での吹奏が基本。3本くわえた場合、一本は開放にならざるを得ない。ソプラノもアルトもテナーも、この場合はそれぞれのC#。In Cで言えばBとE。しかし、彼はアルトもソプラノも吹かない。要するにアルバムにはアルトもソプラノもクレジットされていない。

 彼のアルバムにはテナー・サックスの他にマンゼロ、ストリッチと言うオリジナルの楽器が必ずクレジットされている。アルトをストレートにして大きなベルを付けたようなものがあって、これは座って演奏することは不可能ではないかと思われるほど長い。
 このストリッチは元々がストレート・アルトらしい。もう一本はソプラノを改造したようなもので、やはり若干先端が太い。これはキング製サクセロを修復したもの。
 この幾分長いストレートな2本の楽器とテナーの響きが重奏の際の決め手だと思われる。一本でもカーブ形状があるとテナーとのバランスは取りにくくなったかも知れない。殆どテナーと同じような操作感で演奏出来たのではないかと推測される。

 最近発売されたビデオを見た。画像が悪く詳細は断定出来ないが、ストリッチはキーがEb、もう一つのマンゼロはキーがたぶんBbで、これはまさしくアルトとソプラノの改造版。
 譜例は「The inflated tear」の冒頭部分。
 一段目が実音、2段目の3パートは上からストリッチ、マンゼロ、テナー。最初は左手にストリッチ、右手にマンゼロでテナーは開放。3小節目、左手はテナーに移動しCを押さえる。今度はストリッチが開放になる。即興も含め、このような作業を彼はいつもやっていた。とんでもなく大変な事で、チャレンジしてみたとしても途中で訳がわからなくなる事が簡単に予測出来る。
 しかも片手でFの音を出していると言う事は、時々見える見慣れない手の動きから察するに楽器に何らかの改造をしていたと思われる。
  

 尋常ではない工夫と修練によって彼は世界を広げていった。
 しかし、入手出来るアルバムには名盤の誉れの高いものも多いが、個人的にはどことなく散漫な印象もある。初心者に勧めるにはヘビーな内容だとも言える。意表をつく選曲での人気盤もあるが、レコードは彼の音を完全に捉えきれていないのではないかと思うわけだ。時々、表現したいものが楽器のコントロールを飛び越え、乱暴に聞こえたりする。瞬時に持ち替えるリスクとも言える。

 幸いな事に私が19才の時に初めて入手した彼のアルバムは最も聞きやすくポップなものだった。
 プロデューサー、クリード・テイラーはそれぞれの楽器の音色の素晴らしさ、様々な音楽へのアプローチ、ブルース、バラード、果てはロックンロールに至るまで、その毒も含めて薄める事なく見事に一枚に収める事に成功した。たぶん、音程、音色の乱れなどに関して神経質にかかわったのではないだろうか。アグレッシブなものを求める向きには物足りないかも知れないが、楽器奏者の立場で聞けばとてもバランスよく録音された音だと思う。

「Now please don't cry, beautiful Edith」
Lonnie Smith(p ) Ronald Boikins(bass) Grady Tate(ds)

 一曲目のブルース、クラリネットからテナーソロに移り変わる瞬間に、バカラックの名曲「アルフィー(後奏にロリンズのアルフィーが出てくる)」にゾクゾクし、自作曲の素晴らしさにも参った。出会い頭的インパクトは未だに色あせる事なくここにある。

 初来日を日比谷で見た先輩ピアニストは彼のエネルギーにすっかりやられてしまい、「自分のやっているジャズは何て小さいんだろうと落ち込んだヨ」と仰っていた。

 昔、友人のサックス奏者 沢井原兒がニューヨークから帰国した時、「土産はないのか」と聞くと、「いや、それなんだけどサ、お前サ、持って来んの大変だったんだヨ、税関冷や冷やもんでサ、3本一挙にくわえてる写真でサ、見る?」と言う。
 「エーッ、お前何考えてんだよ。アホか、ちょっと見せてみろ」
 ローランド・カークの写真だった。

 



Branford Marsalis 
1960 in New Orleans -


 マルサリス兄弟の長兄、ブランフォード。とにかく溢れる才能は彼を一ヶ所に留める事なくアルバム毎にスタイルは変貌した。何でもできてしまう人だからシリアスなジャズは勿論、一時はスティングのバックバンドでツアーもしたし、クラシック路線の音楽にもチャレンジ。どれも彼一流のこなし方。
 スティングのアルバムでの7拍子、マイルスの「Decoy」などでの圧倒的なソプラノソロ、アルトサックス奏者スティーブ・コールマン(Steve Coleman)の「Pangea」では冒頭の曲にソリストとして参加。リーダーを差し置いて、いきなりこの人のソロから始まる構成。
 御大ソニー・ロリンズの「Falling in love with love」にも参加。ステージにもゲスト出演して「ああ、僕は哀れないけにえの子羊だ。早く終わって欲しい」と願っていたそうだ。それだけ周りから引っ張りだこになるほどの信頼を得、期待されていたらしい。
 とにかく天賦の才能に加えて父親の英才教育が功を奏し、気が付けばジャズシーンのリーダーになるべき立場。
 最近コルトレーンの「至上の愛」をリメイクしたライブ・ビデオが出た。これは素晴らしい演奏で「また凄くなっちゃったナ」感がある。
 
 数多いリーダーアルバムも悪くないが、実は私が好きなのはこのような自分流の解釈でのカバーと彼がサイドメンとしてリラックス状態で演奏しているもの。短いトラックだが、テレンス・ブランチャードの映画音楽につき合ったものの中には、何とも言えない閃きが聞こえるものがある。彼自身の創作の中でジャズ界を背負ってしまうと、その閃きが違う方向に行くように思えるのだ。
 
 彼がジャズのテナー奏者の歴史を語るビデオがある。コールマン・ホーキンスから始まってレスター、ベン・ウェブスター、スタン・ゲッツ、コルトレーンなどは勿論、その巨人達の狭間で表現追求した人達にもスポットを当て、先人達に対する敬意を払いつつ実に的を射た見事な解説をする。

 低迷したジャズ界はこの兄弟(ウィントン・マルサリス)の出現と共に息を吹き返し、特に弟は救世主のように言われた時期もあった。知らず知らずのうちに兄弟に責任が課せられたようにも見える。トップランナーの宿命かも知れない。


Diana Krall 


 素晴らしい歌手にしてジャズ・ピアニスト、ダイアナ・クラール。
クリント・イーストウッドの映画「True Crime」のDVDでこの人を知った。オーケストラをバックに歌う「Why Should I Care」(music by Clint Eastwood)のビデオクリップが入っていたのだ。イーストウッドのジャズ好きは有名でパーカーの伝記映画「BIRD」にも力を注いだし、Lennie Niehaus はいつも彼の監督した映画の音楽でジャズ・テイストを基調にしたスコアを書く。しかし、監督自ら作曲する事は知らなかった。これがなかなかの曲なのだ。

 で、この曲の入ったCDを探し、「The Look Of Love」「When I Look In Your Eyes」と2枚入手。後の国内盤だけに限定で収録されていて、前の一枚は間違って買ってしまったもの。お目当ての曲以外は軽やかなタッチのものが多く、「ま、いいか」ってなものだった。我国流に言えば、美人ジャズ歌手ピアニストってところだろうと思っていたのだ。

 ある日店頭で見かけたパリでのライブビデオにアレンジャー、クラウス・オガーマンがクレジットされていて驚き、即購入。「Live In Paris」
 これが素晴らしかった。口あんぐり、目は皿、髪の毛逆立ち。アレンジ、オケ共に良質。プロデュースにトミー・リピューマが加わっているから後は押して知るべし。
 アルバム「The Look Of Love」からの曲が殆どなのだが、これがCDと大違い。軽やかとは違い、緊張感あるジャズの演奏が繰り広げられ、Anthony Willson のギター(これがまた凄い)と渡り合うピアノが素晴らしい。「いや、軽く見ておりました。すんません」
 これは掛け値なしお勧めDVD。彼女はあのエルビス・コステロと結婚したのだが、そう言えば2年ほど前のアルバム「The girl in the other room」にはコステロの曲が何曲も入っている。
 
 そもそもピアニストして学んだ彼女は歌う事に消極的で、勧められるままに渋々歌ったとも聞く。渋々歌ってこれだとしたら「何だかなァ」



Illinois Jacquet 
Boussard, Louisiana in 1922 


 ブルースフィーリング溢れるサウンドで、ブローテナーに一時代を築いたイリノイ・ジャケー

 ルイ・アームストロング (Louis Armstrong) 、ナット・キング・コール (Nat King Cole) 、ディジー・ガレスピー (Dizzy Gillespie) 、チャーリー・パーカー (Charlie Parker) 、ジョー・ジョーンズ (Jo Jones) 、バディー・リッチ (Buddy Rich) 、 エラ・ フィッツジェラルド (Ella Fitzgerald) 、ジーン・クルーパ (Gene Krupa) 等と演奏した、まさにジャズ史の生き証人さながらの存在だった。

 1946年レスター・ヤングの後にカウント・ベイシー・オーケストラに参加。ベイシーがつけたニックネームはキング(King)

 彼の名声を決定づけたのはライオネル・ハンプトンと演奏した「Flying Home」のソロ。この時ジャケーは19歳。このソロはお決まりのピースとして独立し、その後御本人も何度となく再演しているのだが、ソロの部分は定番のリフとなっている。R&Bスタイルの基本として評価され、彼の紹介記事は先ずそのことに触れる事から始まる。その時の閃きを本人はこう語っている。
「何故だか分からないけど、全てが一緒にやって来た」

 彼は初期にチャーリー・クリスチャン (Charlie Christian)、ジミー ブラントン (Jimmy Blanton) 、シド・キャトレット (Sid Catlett) とのジャムセッションを経験。
 後年、この時の事を語っている。

 Illinois Jacquet :「それはモーゼ、セントぺーター (St. Peter)、神と演奏しているような感じでした。いや、ナーバスになる事はなかった。あれだけ凄い人達と演奏すると、誰でも普段より良い演奏ができる気になるものなんだ。」

 1983年、彼自身はそれを楽しめたようではなかったと当時のマネージャーは語っているが、ジャズメンとしては初めてハーバード大学の講師に招かれた。1993年ホワイトハウスに於て、クリントン大統領の (Clinton) の就任式で共に演奏。 同じくジミー・カーター (Presidents Jimmy Carter) とロナルド・レーガン (Ronald Reagan) の前でも演奏。

 何年か前、我が町の小さな映画館で、山形映画祭で上映されたジャケーのオーケストラの記録映画を上映していて何度も足を運んだ。彼等のツアーの様子が記録された良い映画だった。ロリンズもインタビュー・シーンで登場。「Flying Home」の歴史的な意味を称賛していた。フランスセルマーの工場で出来立てのアルトサックスを吹くシーンがあって、この時の「April in Paris」は素晴らしかった。

 昔、新宿厚生年金会館でこの人とジミー・スミス、ケニー・バレル、アート・ファーマー、ジョー・ニューマン等とのコンサートに出掛けた。開演前、客でごった返す2階ロビーから見下ろすとサックスのケースを片手にスーツでバシッと決めた大きな人が階段を上ってくる。イリノイ・ジャケー御本人だった。普通楽屋口から入館するものだけど、正面入口からの入場。その時の悠々とした足取りを今でもはっきり覚えている。
 笑っちゃうほどダンディだった。


 


06.8/3



 
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