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George Lewis
(George Louis Francis Zeno)

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1900.7/13
ニューオーリンズ
(New Orleans)
1968.12/31








 偉大なニューオーリンズのクラリネット奏者ジョージ・ルイス。私が10代の中頃、この人はグループ(相当のお歳の方が多かった)を率いて日本全国津々浦々を回られた。その時録音された「Live in Japan」をよく聴いた。そのライナーノーツに印象深い話があった。ツアーはかなりの田舎町にまで及び、純和風旅館に泊まることもあったとか。
 宿の用意した浴衣にも喜び、和風の趣を楽しんでいた彼の元に、ある日地元の女子中学生の一団が英語の教科書を持って現れた。巨匠は浴衣姿のまま畳の間で、彼女等に丁寧に英語を教えていたそうだ。まるで、お爺ちゃんと孫のような光景なのだが、この人の奏でる音楽の素朴さに通じる話だと思う。


 10才でクラリネットを始め、17才にして、既にEdward 'Kid' Ory(キッド・オリー)などと仕事をしていた彼は、20代、30代とニューオーリンズの周辺から外に出ることはなく、シカゴ やニューヨークのミュージシャンには見過ごされたという。
 40年代初期、ニューオーリンズ (New Orleans)ジャズ再評価の機運が高まり、バンク・ジョンソンなどとのレコーディングが行われるようになった。そのような10年の後、ニューオーリンズを拠点にアメリカの至る場所、ヨーロッパ各地でのツアーが行われるようになったそうだ。

 彼のスタイルは、「洗練された優雅なものではないけども、、」と前置きされて、「シンプルで楽しいもの」と評価され、支持する人々にとっては音楽的な不首尾などは大きな問題でなく、本物のスタイルこそ尊重されるべきだということだったらしい。ウィリアム・ラッセル (William Russell) によって作られたAmerican Music series は全ての批判を撥ね除いた。

 彼を支持するある表記では、「初期のジャズの側面がどうであったかではなく、これは音楽の起源のようなものだ」と語られている。
 いい事言うネ。

.Ben Webster



(Benjamin Francis Webster)
1909、3/27Kansas City 、Missouri↓1973、9/20Amsterdam

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( テナーサックスの巨人ベン・ウェブスターの印象は曖昧だった。私が仕事を始めたころ、彼は既にヨーロッパに移住していて、雑誌などで巨匠としての名声はよく見かけたものの、単に昔の人だった。

 時代は二回りほど巡り、スタイルは過激なものが主流だった。ビデオの時代になって、「Sound In Jazz」を見たときにぶっ飛んだ。コールマン・ホーキンス、レスター・ヤングなどと並んでベン・ウェブスターがいる。この中のビリー・ホリデイの歌「Fine and Mellow」でのソロに圧倒された。唯一残った動くレスターの映像が貴重でもあり、シミジミとしたレスターのソロはまた特別なのだけど、ベンは音色、ブレス、フレージング、等々サックスのコントロールが完璧だと思う。(レスターには他にビデオクリップのような映像はある)

 気付くのが遅すぎた。若い頃に聴き、好ましくない印象を持ったのは少し深いビブラートだったが、ビデオではそうでもなかった。最近になって改めて聞き直すことになった。エリントンのバンドでスターソリストだったのだからアップテンポだろうが何だろうが実に達者なのだが、やはり評価の高いバラードが素晴らしい。
 下手をするとテナーサックスのバラードは危ないものになる。誰が始めたのか知らないが、ムード・テナーサックスという分野があって、一つ間違えば下品でヤラしいものになる。サブトーン、ブハブハで演奏すれば「場末ムード」出来上がり、ってな具合だ。素裸姉様舞踏館での定番が「ハーレムノクターン」だった事もあるし、今でもテレビなどでヤラしい場面のバックには、必ずと言っていいほど取って付けたようにむせび泣くテナーサックスか、全盛期のベニー・カーターのようなアルトサックスの演奏が流れる。
 言っておくが、ベンにしろ、ベニー・カーターにしろ、そんなに下品なものではない。むしろ上品で繊細な表現なのだ。しかし、真似をされて誇張されるうちに変なものになってしまったようにも思う。ま、金髪が本物だとそうでもないが、金髪のかつらだと途端に胡散臭くなるのと似てはいる。

 話が横道にと言うか路地裏にそれた。
 さて、ベン・ウェブスターの略歴。
 1909年生まれのベンは幼いころからヴァイオリンを弾き、長じてピアノに転向。御近所のピアニスト、ピート・ジョンソン (Pete Johnson) に教えを受け、間もなく始めたのが無声映画の演奏の仕事。(ピートはカウント・ベイシー、アルバート・アモンズと並ぶブギウギスタイルのピアノの巨匠)
 フランキー・トランバウアー (Frankie Trumbauer)の「Singin' the Blues」に興味を持っていた彼はバッド・ジョンソン (Budd Johnson) に会い、サックスに目覚め、程なく 「Young Family Band」でサックスを演奏するようになる。(レスター・ヤング (Lester Young) と彼の父親から多くの助言を受けた)
 ベニー・モートン (Bennie Moten) アンディー・カーク (Andy Kirk) 、フレッチャー・ヘンダーソン (Fletcher Henderson) 、ベニー・カーター (Benny Carter) 、 キャブ・キャロウェイ (Cab Calloway) などと共演し、1940年からデューク・エリントン (Duke Ellington)のバンドに3年間在団。独立しての活動を続け、1964年渡欧。デンマーク 、オランダなどで活動。1973年アムステルダムで没。

 エリントンの元を辞した理由は色々とあるようだが、花形ソリストを失うことを恐れたバンマスが引き止めたにもかかわらず退団。後釜に入ったのがあのポール・ゴンザルヴェスなのでした。思うに、(ポップス全般に言えるのだけど)ジャズは本当に個人的な記録だ。再現は不能だし、時が経てば色褪せる。
 バッハやベートーベンはこの先何年も繰り返し演奏されて受け継がれていくのだろうけど、ジャズは哀しいかな一代限りで風化を待つ。そりゃあ、風化に耐えるものも幾つかはあるだろうけど、僅かなものだろう。クラシックのものだって僅かなものが残ったのだけど、書き残したものを再演するという部分が根本的に違う。

 ベン・ウェブスターにしろ、コールマン・ホーキンスにしろ歴史上の人として扱われるようになった。しかし、後何十年だろうが聴き尽せないほど多くのサックス奏者の残したものがあり、新しく聴く度に「おー」とか「げろげろ」とか、まだまだ奥は深い。

 スタイルは後に続く演奏家が学び継承するとも言える。スティングのツアーに参加していたころのブランフォード・マルサリスは「昔のものをよく聴いている。ベン・ウェブスターなどをネ」と言っていて、ミルト・ヒントンがベースで参加したアルバムで少しその敬意を見せた。ジョシュア・レッドマンは見事に真似してのける。
 


Don Braden 1963.11/20 オハイオ


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 ドン・ブレイデンを知ったのは80年代後半。マウント・フジ・ジャズフェスティバルのビデオで、ラルフ・ピーターソンなどとのジャムセッション。ツルンとした卵のような育ちのよい顔立ちからは想像できないスリリングで面白いソロを吹いていた。
 おかしかったのは、ソロを終えた彼は必ず上を向いて「ああーあ」とため息をつくような仕種を見せ、肩を落としたようにマイクから離れることだった。いいソロの後でもそうだった。納得してないんだろうなと思えた。
 何年か後にフレディ・ハバード (Freddie Hubbard)のグループの一員として来日した。このときの演奏は最初ほど斬新でもなく、それにソロ後に上を向いてため息はしなくなっていた。ま、フレディ先輩の前でそんな態度をとればドヤサレルに決まっているのだが

 彼のCDを見つけては買い、最新作はネットで購入した。大した実力の演奏家だが、騒がれることの少ない人のCDは入手しにくい。しかし、ネットで検索して、カタログさえあれば簡単に入手できることは本当にありがたい。

 最近のものは少しがっかりする。落ち着いた演奏とも言えるが、保守的で以前のような冒険はしなくなっていた。エルヴィン・ジョーンズ「Live At Lighthouse」でのデイブ・リーブマンは、ジャズファンの間では評判が良いのだが、デイブ御本人に言わせると「いやあ、あれは若気の至りで、、、」という事らしい。そのようなことは実に多い。ドンの場合もそのようなことかも知れない。
 しかしながら、現在の音楽シーンでの評価は高いようだ。ロイ・ヘインズ (Roy Haynes)、ベティー・カーター (Betty Carter) 、 ウィントン・マルサリス (Wynton Marsalis)などに、音楽は勿論、その育ちのよさから来る性格も支持され期待度も高いと言う事だ。

 13才の頃からサックスを吹き始め、2年後には「クルセーダース」のようなプロバンドに参加。1981年ハーバード大学 (Harvard University) でエンジニアリングを勉強する傍ら、ボストン (Boston) /ケンブリッジ (Cambridge)近辺で演奏活動。
 その頃ジェリー・バーガンジー (Jerry Bergonzi) とビル・ピアース (Bill Pierce)に師事。後、ニューヨークに移り、ハーパー・ブラザーズクィンテット (Harper Brothers Quintet) 、オルガン奏者ロニー・スミス( Lonnie Smith) 、ベティー・カーター (Betty Carter) などと演奏。
 トニー・ウィリアムズ (Tony Williams) 、フレディ・ハバード (Freddie Hubbard) と続き。 1991年からトム ・ハレル (Tom Harrell) 、 ミンガス・ビッグバンド (Mingus Big Band) 、ケニー・バロン (Kenny Barron) 、J・J・ジョンソン (J. J. Johnson) 、、カーネギーホールジャズ・バンド (Carnegie Hall Jazz Band) などでも活躍。

 私的には、現存するサックス奏者の中で最も期待し、新作を待っているプレイヤーの一人で、学ぶべきことも多い。ま、何を作っても許す。駄作でもОK。


.Archie Shepp

1937、5/24 Florida 


 最近は大人しいアーチー・シェップ。猫をかぶってしまったのではないかと思う。棚に並ぶこの人のレコードは全て過激で、片面一曲25分なんてものもザラだった。
 フリースタイルでガンガンぶっ飛ばすやり方にしては中々味のある演奏ぶりで、独自のサウンドを若い頃から獲得していた。60年代初め、「十月革命」と言われるトランペットのビル・ディクソンが企画した動きがあった。今となっては懐かしい響きの言葉「ニュー・シング、前衛ジャズ」。
 オーネット・コールマンからの影響も強く、新しい表現方法の中に活路を求めた若者の集団の中にシェップもいた。ニューヨーク・コンテンポラリー・ファイブにはシェップの他にドン・チェリー、アルトサックスのジョン・チカイなどもいて、ライブ盤がある。今聴くと、混沌とした部分と伝統的な部分が交錯していて、いかにも模索している様子が面白い。このような動きの後、コルトレーンに近い場所でシェップは活動するようになった。

 ドラムのビーバー・ハリス、トランペットのマーヴィン・ピーターソンを擁した彼のグループを聴きに出掛けたのは随分昔のことだ。インパルス時代の彼のアルバムはほとんど入手していて、興味深いサックス奏者だった。
 実際に見て彼がどこに向かっているのかを知りたかった。レコードからは独特の音色とパワーが何時も聴けたのだが、生で見ると随分粗削りに思えた。決してまとまりのよいものではなく、混沌としていたように覚えている。何度か足を運んだ。決め事のほとんどない演奏スタイルが漠然と耳に残った。

 最初の日、マーヴィン・ピーターソンのソロの時、マイクがオンになっていないようで聞え辛かった。当時は、今のように完璧なPAシステムでのホールコンサートはなかった。会場のマイクを使うのがせいぜいだったし、それで特に問題もなかった。
 マーヴィンはそれでも頑張って吹いた。遠目にも彼が真っ赤になって吹き叫んでいるのが分かった。馬力のある若者トランペッターはこれ以上はないというほど大きい音で吹いていて、客席にも充分届いていた。
 すると、舞台下手から会館の音響係と思しき(この場合PAエンジニアなどとは言わない。あくまでも音響係の)オジサンが出て来た。
 普段は決してステージに顔を出すことはないらしく、膝の思いきり抜けたズボンも印象的なオジサンは、全く無意味だったけど、すり足やや中腰半身、そそそそそそとマイクに向かった。どうやらマイクが裏向きになっていたらしい。指向性の強いマイクを下からくるりと裏返した。その瞬間、その日会場を埋めた2000人ほどの客は全員のけ反った。気絶寸前に近いマーヴィンも驚いたようだった。

 次にシェップの演奏を見たのは15年ほど前の六本木ピットインだった。ベースがバスター・ウィリアムスだった事は覚えているが他のメンバーは失念した。スタイルは一変、伝統的なスタンダードになっていた。と言ってもシェップだ。
 相変わらず彼独特のうねりは、その音色にも残っていて、彼が吹き始めた途端にピットインの壁がジャズ色に染まったように思え、「ああ、ジャズだなァ」と感心したのだ。シェップはソロを吹き終わると、ステージ上に用意されていた椅子に腰掛け膝に楽器を置いたまま動かなかった。その内、クロスで楽器を丁寧に拭き始めた。変な光景だった。その後で、ピアニストとドラマーは意見の相違があるらしく喧嘩を始めた。
 ソロをしながらピアニストは立ち上がって叫び、ドラマーも何やら言い返した。中央のバスターは知らぬ顔でベースを弾き続け、シェップは楽器を拭き続けた。ますます、変な光景だった。
 終わって気付くと、店内には来日中のジャコ・パストリアスがいた。尋常ではない六本木の夜だったが、シェップの音色は何時までも耳に残った。

 最近のシェップはバラードのアルバムを数多く発表している。私の耳には、ベン・ウェブスターがシェップの中に入り込んだのではないかと思えてしょうがない。

 1960年、セシル・テイラー・グループへの参加から彼のキャリアは出発。ジョン・コルトレーンの後押しでインパルスとレコーディング契約。以来長きにわたり、アフリカ系アメリカ人 (African American) としての立場から活動を続け、1995年 New England Foundationから芸術業績音楽賞(Arts Achievement Music Award)を受賞。



Bill Evans

1929、8/16

1980、9/15


 
ビル・エヴァンスについては情報も多く、サックス奏者が語る筋合いのものでもない。このピアニストはジャズを聴き始めた人の殆どが聴かざるを得ない。マイルスの「Kind Of Blue」を筆頭に名盤も多い。

 真価は膨大に残されたトリオのアルバムの中にあるのは確かで、ベース奏者 スコット・ラ・ファロ(Scott La Faro) 、チャック・イスラエル(Chuck Israels)、エディ・ゴメス( Eddie Gomez)、マーク・ジョンソン( Marc Johnson)それぞれの時代がある。進化し続けた演奏家はドラッグの使用も長きにわたり命を縮める事にもなった。妻の死、兄の死は彼の生きる気力を失わせたと書かれたものもあるが、ゆっくりとした自殺と言われる晩年の活動は凄絶で、最後までステージに立った。

 時代の流行に左右されず、ただ自分の気の赴くままに演奏を続け、全う出来た演奏家はそう多くない。バルトーク、ベルク、ストラヴィンスキーなどに魅入られたピアニストは、スタンダード・チューンの中で様々な冒険を試みた。

 いわゆる箱バン時代から、私の周りにはエヴァンスフリークのピアニストは多かった。大概は「Portrait in Jazz」「Waltz for Debby」辺りの影響下にあって、ピアノトリオ・フォーマットでのコンピングに終始した。「My Foolish Heart」「My Romance」などをピアノトリオの時のように弾かれても、管楽器とのアンサンブル向きではないから演奏しづらく、エヴァンス・スタイルは悪い印象になった。
 
 しかし、エヴァンスが嫌いではなく、何かにつけて聴いたし、彼のコピー譜を店頭で見つけたときは狂喜した。巧く弾けないのは当然なのだけど、サウンドを押さえるだけでも嬉しかった。今はあらゆるタイプのコピー譜が出回っていて、羨ましくもある。
 「One For Helen」が好きだったのだが、この本に取り上げられているものは聴くことが出来なかった。CD化された「At Town Hall」のボーナストラックでようやく聴けた。この楽譜970円。当時、今のJR山手線初乗りが30円。単純計算しても今の価値で3600円ほど。(古いなア)


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04.11/15

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