report2



(2004.2/22)

 ハービー・ ハンコック (Herbie Hancock) supergroup 、ウェイン・ショーター (Wayne Shorter) 、デイブ・ホランド (Dave Holland) 、 ブライアン・ブレイド (Brian Blade)、 が北アメリカ (North America) からツアーを始め、 この夏ヨーロッパ (Europe) と日本 (Japan)でも演奏予定。
 同じく、北アメリカ (North America) とヨーロッパ (Europe)では、 この夏マイケル・ブレッカー (Michael Brecker) と彼の Quindectet 、ハンク・ジョーンズトリオ (Hank Jones Trio) と一緒のジョー・ラヴァーノ (Joe Lovano) 、スティーブ ・スワロー (Steve Swallow) とビル・スチュワート (Bill Stewart) を従えたジョン・スコフィールド (John Scofield)のツアー情報 。

 アートアンサンブル オブ シカゴ (Art Ensemble of Chicago) は 新しいクラブ「lridium 」に3月/ 30 - 4月 / 4出演予定。ニューヨーク のクラブには初出演とか。
 このクラブではこの春同じくセシル・テイラー Big バンド (Cecil Taylor Big Band) とサン・ラ・アーケストラ (Sun Ra Arkestra) も出演予定。今どき過激なクラブとも思える。

 ジョシュア・レッドマン (Joshua Redman) がSam Yahel 、Brian Blade と新作録音完了した模様。ジェフ・バラード (Jeff Ballard) などのゲストを迎えたとある。 Elastic 2枚目に期待。

 コンコード (Concord) から4月に出る新しいゲーリー・バートン (Gary Burton)のアルバムには、サンフランシスコ (San Francisco Bay Area) か現れた16歳のギタリスト、ジュリアン Lage (Julian Lage) がフィーチュアされているらしい。

 Verve はリンダ・ロンシュタット(Linda Ronstadt)と、彼女のジャズ志向のレコーディングのために契約。 この夏アルバム発表予定。

linhos


 Blindfold Test というページがあって、詳細を教えずに曲を聴かせ、コメントと5つ星満点の評価をさせるのだが、March issue のゲストはベーシスト、ジョン・パティトゥチ(John Patitucci)
 スタンリー・クラーク(Stanley Clarke)、ミロスラフ・ビトゥス(Miroslav Vitous)、リチャード・ボナ(Richard Bonae)、スティーブ・スワロー(Steve Swallow)、Nilson Matt、Michael Formaneke 、全てのプレイヤーに「5stars」
 ビトゥスの新作「Universal Syncopations」では、チック・コリアは即答。デ・ジョネットも分るものの、ベーシストはなかなか分らず。
 ヴィブラートがエディ・ゴメスではないかと言いつつ、「ウーン分らない」。「エディではないな、、、。あっ、このアタックはビトゥスだ。サックスはガルバレクだな。この曲好きだな。たぶん、ECMの70年代のレコードだろ?エッ、新譜か? 冗談だろ、、マジかよ。5stars」と屈託ない。

 この他、’Songs Are My Life’と題されたホレス・シルバーのインタビュー記事。Shirley Horn の記事など。





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 (2004.3/19)

 米国芸術財団(The National Endowment for the Arts)主催の国際ジャズ教育会議の昼食会が1月23日に開かれた。(こういうものが存在していることがアメリカらしいと言えるし、やはりこの国の文化だと思う)
 席上、NEAは6人のジャズマスター達に25000ドルを提供したとある(23回目の表彰)
 今回は ジム・ホール (Jim Hall) 、チコ・ハミルトン (Chico Hamilton) 、 ハービー ハンコック (Herbie Hancock) 、ルター・ヘンダーソン (Luther Henderson) 、ナット・ヘントフ (Nat Hentoff) とナンシー・ウィルソン (Nancy Wilson)の6人。
 Dana Gioia会長の演説によると「「我々を脅かす文化的な窮乏と戦うためにも、この国におけるジャズの認識を広げようではないか・・・。」と、、、。ウーン、最近この手の話が多くのプレイヤーなどからも聞かれるのだが、ジャズ・マーケットの危機感は深刻なのかも知れない。

 この集まりの全員集合写真は私達の世代には感慨深いものがある。
 ジョージ・ラッセル (George Russell作編曲家) 、デイブ・ブルーベック (Dave Brubeck ピアニスト) ナット・ヘントフ(Nat Hentoff 評論家) 、パーシ・ヒース (Percy Heathベーシスト) デイビッド・ベイカー (David Bakerトロンボーン) 、ビリー・テイラー (Billy Taylor ピアニスト) ;チコ・ハミルトン (Chico Hamilton ドラム) 、ジム・ホール (Jim Hall ギター) 、ジェームズ・ムーディー (James Moody サックス) ジャッキー・ マクリーン (Jackie McLean サックス) 、ジェラルド・ウィルソン (Gerald Wilson 作編曲家) 、ジミー・ヒース (Jimmy Heath サックス) ロン・カーター (Ron Carter ベース) 、アニタ ・オデイ(Anita O 'Day 歌手)ランディ・ウェストン( Randy Weston作編曲家) 、ホレス・シルバー (Horace Silver ピアニスト) 、ベニー・ゴルソン (Benny Golson サックス、作編曲家 ) 、ハンク・ジョーンズ (Hank Jones ピアニスト) 、フランク・フォスター (Frank Foster サックス、作編曲家) 、セシル・テイラー (Cecil Taylor ピアニスト) 、ロイ・ヘインズ (Roy Haynes ドラム) 、クラーク・テリー (Clark Tery ) ルイ・ベルソン (Louie Bellson ドラム)

 昔と変わらぬ風貌のチコ・ハミルトン、ホレス・シルバーなどと、すっかりお爺ちゃん然としたジム・ホール、ジャッキー・マクリーン、椅子にお座りになっているクラーク・テリーとフランク・フォスター、中でも嬉しいのはサングラス姿もダンディなハンク・ジョーンズ、セシルテイラーだ。今まで、この両極端とも言える芸風のお二人を一緒の写真で見たことはない。
 私は遠い東洋の島国で、この人達の音楽を聴きながら楽器を吹いてきた。

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 SFJAZZ(と言っても私とは無関係、サンフランシスコ・ジャズの事)、Spring Seasonの芸術監督はジョシュア・レッドマン。

 このシーズンのキー・パーソンはオーネット・コールマン。
 目玉はコールマンの新しい2ベースグループの西海岸初公演。
 それを挟むように特別編成のオクテット(8重奏)がギル・ゴールドスタイン (Gil Goldstein) アレンジのコールマン作品「 Lonely Woman」「School Work」「"Happy House」を演奏予定。
ジョシュア・レッドマン 、ボビー・ハッチャーソン (Bobby Hutcherson) 、ニコラス・ペイトン (Nicholas Payton) 、 レニー・ロスネス (Renee Rosnes) 、ロバート・ハースト (Robert Hurst) 、ブライアン・ブレイド (Brian Blade) など。

 コールマンと同時代のサム・リヴァース (Sam Rivers) とポール・ブレイ (Paul Bley)も出演。

"The Music of Stan Getz" は1991年に亡くなったスタン・ゲッツを取り上げるというもの。ジョシュア・レッドマンは チック。コリア (Chick Corea) と Getz の1967のアルバム「 Gentle Rain」を取り上げ、 デヴィッド・ サンチェス・カルテット (Davld Sanchez) は Getz の1961のアルバム 「Focus」 からwith Strings で再演予定。

 ウィントン・マルサリス(Wynton Marsalis)がこの先のジャズシーンで重要な人物であることは間違いないのだけど、これまでのレコード会社との問題などを含めて心情を語っている。どうも、でき過ぎてバッシングされることの多かった彼がこれからの展望、責任などを語っている。グレッグ・オズビーは昨年初共演した際の衝撃を語り絶賛している。

 1981年、 ハービー・ ハンコック (Herbie Hancock)、 トニー・ウィリアムズ (Tony Williams)と共にカルテットで共演したロン・カーター (Ron Carter)の話が象徴的ではある。
  「Wynton はジャズの救済者として見られましたが、それ程多くの演奏機会に恵まれていたとは言えません。どういう訳か、両極端の評価を受け続けたのです。信奉するか、憎むか。どうして彼を普通の状態で見ることが出来なかったのでしょう?」

april issueはこの他、ジョー・ロヴァーノ、マイク・スターンの記事など。





(2004. 5/18)

 June issueから少し。
 評論家の意見はアーティストに多大なダメージを与えることもあるのだが、そのような質問をミュージシャンにぶつけてみた記事。

 2月下旬、エディー ・パルミエリ(Eddie Palmieri)(piano) とデイビッド・サンチェス (David Sanchez) (sax)はニューヨーク (New York) のLe Jazz Au Bar で1週間のデュオ公演を行ないました。「ニューヨーク・タイムズ」 (New York Times) 評論家Ben Ratliff は初日を聴き、「ピアニストは痛烈に雷鳴の如く投げつけるような演奏をして、テナーサクソフォン奏者を壊滅させた」というレビューを2日後に書きました。

 レビューが掲載された夜、私はライブに足を運びました。
 その夜の演奏は会話と発見に溢れる説得的のある内容でした。
 Palmieriが批評について注意を払い、正しく調整を試みたようでした。
 それで、誰が評論家に耳をかたむけるのでしょうか?
 評論家の意見に動かされてあなたの音楽が変わったことがありますか?


フレディ・ハバード (Freddie Hubbard) トランペット奏者、
 「評論家、特に若い男にあまり多くの注意を払う事はない。
 なぜ私の音楽を変えなきゃならないんだ?
 70年代、より広い聴衆を手に入れるために、フュージョンを演奏することを、何人かの人達が提案した。
 それで、私はエレクトリックなアプローチを試みた
 幾つかはいい出来で、そうじゃなかったものもある。
 しかし、評論家は私以外の人たちがそうすることは問題にしなかったのに、私を本当に細かく刻むように批判した。」
 

ルネ・マリー (Rene Marie) ボーカリスト、:
 「3年前に、評論家が書いた痛烈な批評が、私の音楽に取り掛かる方法に大きな影響を与えました。その頃、旅先では経費節約のために優秀な現地のミュージシャンを使っていましたが、 重大な難点は十分なリハーサルが出来ないことでした。
 ある町での1週間のギグの時、私はかなり複雑なアレンジメントのものをやろうと思い、リハーサルをするようにミュージシャンを甘言でつろうとしましたが徒労に終わりました。悲しいことに (あるいは多分幸運にも ) 評論家は2日目の夜に来ました。
 彼が彼の批評で言ったすべてが正確で、私が(それまで)感じていた危惧通りでした。以来、私はツアーのメンバーを厳選されたミュージシャンのグループに戻しました。」

ステファン・ハリス (Stefon Harris) ヴァイブラフォン奏者 
 「私は人々が私の音楽をどう認知しているかを知るために読みました。 聴衆は私が気が付かない何かを経験しているかも知れません。 それで評論家の意見はそれにアクセスする良い方法です。私がすでに分っている何かについて知らされるかもしれません。 例えば、私はJazz Bakeryで、好意的でないレビューを読みました。評論家は初日に来て、ドラムがあまりにもうるさかったと不平を言いました。 私はそれを読み、その通りだと思いました。」

リヴァーティ・エルマン (Liverty Ellman) ギタリスト 
 「評論家の意見と私の考えのどこが違うのか明らかにする事に、私は十分に注意しました。もし、その評論家の仕事と経歴を知っているなら、特に建設的な批判を受け入れることは重要でもあります。 私のキャリアは早く、そしてこれまでのところ私は幸運でした。 私の2枚のCDはよく受け取られました。けれども若干のレビューで、評論家が私の音楽について要点を捉えてないと思います。それは批評するには充分ではありません。」

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 ECMからチャールス・ロイドとビリー・ヒギンズのデュオ・アルバムが出た。「Which Way Is East」
 ロイドが病床のヒギンズ宅に赴き、1週間の滞在中にプライヴェートレコーディングされた。いろいろな組み合わせでの30曲が収められている。1枚はロイドがアルトサックスをメインに演奏していて、オーネット・コールマンを彷彿とさせる。
 全体の印象は「何でもあり」。堂々たるキャリアの老ミュージシャンが来し方を思い自由に表現してみた音の玉手箱のようなものだ。ジャズジャーナリズムの望むアルバムの一貫性とか主張などどうでも良いことなのだと思える。ピアノも弾いてみたかったし、ギターもつま弾いてみたかった。歌だって歌いたかったし、「とにかく楽しく遊んでみようぜ」と言う声が聞えそうな気がする。こういうものを聴くと、携わる人にとって音楽はつくづく個人的なものだということを思い知る。
 2度や3度聴いたぐらいで偉そうなことは言えないのだが、たぶん何度も聴くだろうな感はある。レコーディング後間もなくヒギンズは亡くなった。このアルバムの評が幾つか掲載されていて、評論家はいかにも歯切れが悪い。 

 ロイド (Lloyd) は主要な第2世代(いっそう聞き手としても友好的な)ジョン Coltrane (John Coltrane) 追随者のままです。そして我々はこの作品に健康で熱狂的なそれを聴くことができます。同じように魅力的で叙情的なアルトも演奏されています。硬質のそれはリズミカルで快活な調子が際立っています。
 ディスク2ではテナーが強調されていますが、そのペースは活気に溢れているというほどではありません。ロイド (Lloyd) がテナーでブロウするのはテーマらしきもののない作品ですが、あまり興味深いものは実現していません。

 ロイド (Lloyd) は同じく、すべてゆっくりで注意深い、そして思慮に富んだいくつかのピアノソロを披露しています。中でも「Through Fields And Underground 」はこのアルバムの最も良い作品であると言えます。旋律的なラインは正に魅力的で、素晴らしい歌です。ヴァリエーションは感傷的になりがちな部分を避けるため、意外な不協和で味付されています。
クロード・ソーンヒル (ClaudeThornhill )のような穏やかで喚情的な作品です。
 John McDonough


 どちらかと言えば退屈な感じがします。しかし。最も面白いトラックは、チベットのオーボエとハンドドラムの組み合わせです。
 ある意味、 ECM がこのような2枚組ディスクをリリースすることに勇気を感じます。 - 
John Corbett

 私は、この歳のいった2人が仲良く言葉を交わしている様子を好ましく思います。多様に細工され、慎重な手ざわりの個々のトラックが見事ではありますが、それは期待したようにほとばしるという程でもありません。曖昧な印象があります。しかし、 これらは素晴らしい断片です。 - 
Jim Macnie




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(2004. 6/11)



July issueから。
 創刊70周年記念号という事で、「Our Heroes」と題し、「誰があなたに影響を与えたか」と言う質問に対するミュージシャンの返答で誌面は作られている。全部で75人。その中の一部を抄訳。


ウェイン・ショーター = チャーリー・パーカ

 私は15才の頃からクラリネットを吹き始め、オーケストラの全ての楽器を人のように見ていました。 クラリネットは「これが私の出来ることです。」と言い、 ヴァイオリンが歩き回って「まあ、私はこんなことができます。」と言うように。 それはほとんどファンタジーのようなものでした。
 後に、私はアート・テイタム (Art Tatum) のピアノを聴いて、あんな風にサクソホーンを演奏できたらなと思いました。
 あるいは、重音とオクターブジャンプ、すばしこい大きい跳躍で表現されるバイオリンコンチェルトなどもネ。


 チャーリー・パーカー (Charlie Parker)とディジー達を聞いた時、クラリネットとかバイオリンコンチェルトとか、楽器が重要ではない事を知りました。楽器の限界と音楽は無関係だと知りました。

 私はそのすべてを手に入れたいと思いました。それはテクニックについてではありませんでした。 明らかに、15才では「テクニック」は何も意味しませんでしたから。けれども私は誰かが何かを飛び越えているのを見ました。それは漫画のスーパーヒーローのようなものでした。衝撃が私を襲った時です。

 影響は本に飛び火し、私は図書館に通い、ベートーベン (Beethoven) とショパン (Chopin) とジョルジュ・サンド (George Sand) について読みました。

 最初にそのバード (Bird) を聞いたのは、モンク( Monk)、ディジー (Dizzy)と一緒のラジオ放送で、1週間すべてを聞きました。バド・ パウェル (Bud Powell) と同様、その組合わせは私を引き付けました。ラジオで彼らはこのビーバップ、「革新主義者ジャズ」と呼ばれた新しい音楽について話をしました。

 それから、マイルス (Miles) 、デューク・ジョーダン (Duke Jordan) 、トミー・ポッター (Tommy Potter) とマックス・ローチ (Max Roach)を擁する彼のクィンテットを、グラハム・シアター (Graham Theater) の中二階にこっそり入り、非常階段で聞きました。

 バード (Bird) のソロをよく覚えています。
 
彼はストラビンスキー (Stravinsky) 「兵士の物語」 (Histoire Du Soldat (Du Soldat) と「ペトルーシカ」( Petrouchka )からの楽句をソロの中に挟みました。
 後に、彼を聞くためにバードランド( Birdland )に行った時も僕等は言ったものです。「おお! 彼はペトルーシカをやっている。 彼は何でもすべてを聞いているんだ!」


スティーブ・コールマン = ヴォン・フリーマン

 私が初めてヴォンを聞いたのは1975年、ソニー・ スティット (Sonny Stitt) とのセッションでした。 私はその頃、チャーリー・パーカー (Charlie Parker) に入れ込んでいましたから、パーカー の音に最も近いサクソホン奏者であった スティット のファンでした。私はまったくヴォンを知りませんでした。 その時の私の耳はまだ若く、彼のスタイルは私が聞きたいものでもなく、タイム感も音も好きではありませんでした。
まったくそれを理解する準備ができていなかったのです。 実際、一緒に行った男は ヴォン のところに行って、「ハイ、調子悪いのかい?」と、言ったほどです。

  スティット は常に若い人に対して親切でしたから、友人と私は演奏に参加できました。我々の演奏は酷く、ヴォン に笑われたことは確かですが、もし我々が演奏したいのなら、ラウンジ での彼のセットに立ち寄るように言ってくれました。
 そこでのヴォン はセッションよりも多く演奏しました。しかし、それは基本的に同じフォーマットでした。幾日も彼と演奏するうちに彼を捕えることが出来たように思うこともありました。そして、私は彼がたくさんの曲を知っている事に気付き、歌を学ぶために彼をテープに取ることに決めました。

 およそ4カ月後、私は彼がいつも凄い演奏をしていたことを悟りました。彼がチャーリー・パーカー 、 レスター・ヤング (Lester Young) などと似てはいたけど、また違う特定のやり方をしていた事を私は分かり始めました。その重要さに気付き、私は彼が素晴らしい事をやっと悟りました。私はただボートに乗り遅れたのです。
 ヴォン と一緒に演奏するとき、私は彼の音楽的な経験の重さを感じることができました。タイム感、スイング、すべてが堅実で素晴らしく、彼の演奏に会話を実感し始めました。かなり後に、彼は「話をするのと全く同じように演奏する事に全力を注ぐ」と言いました。すべての素晴らしい即興演奏家にそのような質感を感じます。
 若いプレーヤーにとって、音楽的な理論はしばしば障壁になります。 マスターはアイデアを広げるために必要な事は何でもするということです。


ソニー・ロリンズ = コールマン・ホーキンス

 私の最初のアイドル/インスピレーションはルイ・ジョーダン (Louis Jordan) でした。 しかしコールマン・ホーキンス (Coleman Hawkins) を聞いた後、ルイの演奏よりさらに多くの可能性を楽器が持っていたことを悟りました。
 知的な要素と威厳に、サクソフォーンの新しい次元を見たのです。 「Body And Soul」で彼を知りました。それはハーレム (Harlem) 中いたる所のジュークボックスで聞けました。近所に住んでいた奴はコピー譜を持っていて、いつもそれを練習していました。けれども私は決してコールマン・ホーキンスのソロをコピーしようとしませんでした。
 私は上手く出来るとは思いませんでした。彼のスタイルは個人的で、しかも難しいものでしたから、私は彼の魂を理解して、その音楽を自らの言葉で通訳しようとしました。後に、私はチャーリー・パーカー (Charlie Parker) と レスター・ ヤング (Lester Young)などのソロ・コピーは演奏してみました。しかしコールマン・ホーキンス (Coleman Hawkins) のスタイルはコピーしませんでした。

40年代、私は彼のすべてのレコードを集めました。
 ベースのオスカー・ペティフォード (Oscar Pettitford)との「 The Man I Love 」も重要でした。美しいバラード「Just One More Chance」、「Talk Of The Town」、「Stuffy」「 Buh Dee Daht (Buh Dee Daht) 」Dizz と一緒の「Woody 'n' You」。
 Monk との「Drifting On A Reed」。

 神々 - コールマン 、 レスター、ドン・バイアス (Don Byas) -の他に、同世代の続々とやって来るサックス奏者、エディー・ロック ジョー・デイビス (Eddie Lockjaw Davis) とデクスター・ゴードン (Dexter Gordon) にも耳を傾けました。
デクスター (Dexter) はある時期にビーバップの言語を定義づけました。 彼から多くの事を得ましたし、コルトレーン( Coltrane)もそうでした。
 コールマン (Coleman) はビ・バっパー( bebopper)ではありませんでしたが、彼の音楽は beboppers がしていたことを総括的に含むことができるものでした。

 私はたくさんの若い演奏家、ディジー (Dizzy) 、マイルス (Miles) 、ファッツ・ナヴァロ (Fats Navarro) 、ハワード・マギー (Howard McGhee)ミルト・ジャクソン (Milt Jackson) とコールマンの共演を聞きました。beboppers はある程度まで彼のスタイルを越え、さらにレスターの多くを含んでいました。
 コールマンが正当に評価されていなかった時期でえさえ、彼らは決してコールマンのスタイルでは演奏できないことを知っていました。
 彼は和音をミスしませんでした。
 彼は巨大な音と一種のオペラの壮大さを持っていました。
 最初に彼を見たのは52番街での演奏でした。まだ若かった私は、中に入れるように、眉鉛筆で口ひげを書いたものです。客席後部に立って演奏を聞くことは、神を見るようなものでした。私はマンハッタン (Manhattan) の道路でコールマン (Coleman) を見たものでした。コールマン (Coleman) はいかにも著名なように見える物腰の人でしたし、彼には常に威厳がありました。そのことも同じく私に感銘を与えました。
(以下省略。この後共演、レコーディングなどの話が続く)
 

 拙訳ではありますが、ジャズの歴史に名を刻む巨匠達ですら、若かりしころのアイドルについて語るときは、まるで少年のようではあります。この他、マイケル・ブレッカー=コルトレーン、ハービー。ハンコック=オスカー・ピーターソン、ブランフォード・マルサリス=ソニー・ロリンズ、ジョー・ロヴァーノ=ジョー・ヘンダーソン、マクリーン=デクスター、ビル・フリゼル=ウェス等々かなり面白い。
 この特別号は買っても損はなし感アリ。




 

11
 
(2004. 8/22)


  
Augustr issue から。

 恒例の批評家による人気投票結果。 今年、Hall of Fame(殿堂入りということ)、 Drums部門はロイ・ヘインズ(Roy Haynes)

 ロイ・ヘインズ(Roy Haynes)

  1925年ボストン生まれ。
 1942年から演奏活動を始め、 レスター・ヤング (Lester Young) 1947-1949、バド・ パウェル (Bud Powell)、サラ・ヴォーン (Sarah Vaughan)、セロニアス・モンク(Thelonious Monk)、チャーリー・パーカー (Charlie Parker) 、マイルス・デヴィス(Miles Davis)、エリック・ドルフィー(Eric Dolphy)、ジョン・コルトレーン (John Coltrane)、スタン・ゲッツ(Stan Getz)、パット・メセニー (Pat Metheny) 、チック・コリア(Chick Corea)、、、
 常にジャズ史の重要なシーンで活躍してきたドラマー。

 現在も若手を引き連れて精力的に活動している。

 このロイ・ヘインズのインタビューは、エルヴィン・ジョーンズの訃報も生々しい時期に行われていて、先ずロイはエルヴィンの死が自分に与えたショックを深い悲しみとともに語り始め、音楽の話へ入っていく。

 インタビュアーはジョシュア・レッドマン。ジョシュアの話は遡ること十年前、パット・メセニーなどと一緒に初めてロイと共演した際の緊張がいかに凄かったかを語り、3曲目が終わった時点でかなり疲れていたことを告げる。


 
J・R あなたは特別大きな音でもなく、力で押すでもなく、私達を鼓舞するように思うのですが、あなたのやり方を教えて下さい。

 R・H 私はバンドスタンドのためにすべてを取っておこうとします。舞台裏で興味のない話を聞くことも好きではありませんし、とにかく全てのことをバンドスタンドのために取っておくのです。何年も前からそれは自然で、 多分精神的なものです。
  私がバンドスタンドに上がることは私の宗教のようなものですそして、私はそうすることができるすべてを与えようとします。
 私はビートを浪費したくありません。何の楽器にかかわらず、ソリストの演奏がただ1つの小さいグルーブに留まって、そしてどこにも行かない時、私が何かを浪費していることを悟ります。私は何らかの種類の対話、私を鼓舞する何かを持つことを望みます。 私はソリストがストーリーを話すか、絵あるいは何かをペイントする感覚を好みます。

J・R 多くのドラマーからあなたを目立たせた1つのことはあなたの対話型の能力でした。 そのスタイルを発展させることを何か考えていましたか? 

R・H レスター・ ヤング1947年に共演した  (Laster Young ジャズの歴史に重要な役割を果たした偉大なテナーサックス奏者)はドラマーに対して繊細な演奏家でした。
 人々が踊っていたハーレム (Harlem) の Savoy Ballroom( サボイ舞踏会場 )でのプレズ(レスター・ヤングの事)との最初のセッションで、一緒に2曲を演奏しました、

 彼はドラムの所に来て、「スウィングしているじゃないか。」と、言いました。私は彼と踊っているようなものでした。私はまだまだだったかも知れませんが、彼が必要としたものを叩けていたようです。         
  その前にはルイス・ラッセル (Luis Russell) のビッグバンドで演奏していました。人々はバンドを異なっているように聞こえさせたと言いました。私はこれのすべてに気付いていませんでした。
 私はパパ・ジョー・ジョーンズ (Papa Jo Jones)、 そしてシャドウ・ ウィルソン (Shadow Wilson) に耳をかたむけていました。そして、ビッグバンドと一緒のアート・ブレイキー (Art Blakey)、 マックス・ローチ (Max Roach) 」はすでに小さいグループで活躍していましたが、最初に聞いたのはベニー・カーター Big バンド (Benny Carter Big Band) でした。

J・R あなたに影響を与えていた彼等を聞きながら、あなたは自分自身のことをどうするかについて考えていましたか?
 あるいは、それは自然なものでしたか?

R・H  何をしたとしても常に、初日から、すべて私自身になることを望みました。
 私は最初にジョー・ジョーンズ (Jo Jones) に耳をかたむけていました。フレッチャー・ヘンダーソン (Fletcher Henderson) と一緒の頃のアート・ブレイキー (Art Blakey) に会いました。1943-4年頃の話です。私はかなり若く見えましたから、彼は私を息子と呼んだものでした。我々は近しくなりました。それはビーバップがいっそう人気が高くなる頃でした。

J・R 私の世代の多くのミュージシャンが、どのように自分自身の音を見いだすべきかの問題、オリジナルである方法、革新する方法に夢中になっているように思われます。自分の音を見いだすことは捉え難い何かであるかのように、それは努力ですとか言う風に。
 あなたのようなミュージシャンが、「それは自然に来る何かであるように思われる」ということを耳にします。あなたは革新者であることについて考えましたか?

R・H それはほとんど自然でした。努力の多くのように思われませんでした。
 その時期、1947-49年、ジャズ教師(生活のためにこの音楽を演奏した人々)のいる学校などありませんでした。
 ティーンエージャーの時代、ボストン (Boston) で、幾人かの大人と一緒に演奏しましたが、彼等はドラマーに厳しかったのです。彼等は言ったものです。
「頭を使え、ドラマーは感じられればいいんだ、聞かれないことになっているんだ。君はタイムをキープすればいいんだ。」

J・R あなたは伴奏者だったわけですね。

R・H そう、タイムキープだけの。 まあ、タイムキープだけだが、、、、伴奏者、、はい、、ある意味で。 けれどもビートでそれを与えることができましたが。

J・R いっそう機能的なアプローチ。

R・H はい、それはその時の私には難しかっのです。
 そして私は、前後に、バスドラムと左手のタイミングををずらそうと(dance)してみました。それができたと思われ、それをプレズが気にいってくれたことは喜びでした。誰とでも演奏できるように思いました。私はその後、マイルス (Miles) とバード (Bird) の元へ行きました。

J・R 40年代、50年代と60年代、あなたがやって来た時についての話ですね。
 私の世代のミュージシャンは、しばしばそのジャズの黄金時代 について考えます。
 けれども我々はそこにいませんでした。それで我々はレコーディングを通して、本を通して、残っている僅かなフィルムを通して、そして伝説、神話、となった物語を通してだけその時について知ることができます。

R・H それは黄金の日々のように思えました。そのすべての感じ。 あなたが言う黄金の日々、それは美しかったです。 私はすべての瞬間が好きでした。 バーのまわりをうろつく少女たちさえ。

J・R それと比べ、現在のシーンについてどのように感じますか?
 多くの人々がそれについて悲観的です。

R・H 素晴らしい若いドラマー、たくさんの素晴らしいミュージシャンがいます。
 私は今、彼等の年齢になることを望みません。なぜなら、多くの素晴らしく聞こえる演奏家がいますから、私は混乱するでしょう。

J・R すべてのインフォメーションに困惑していますか?

R・H いいえ、これらすべての素晴らしいプレーヤーに混乱させられました。彼等はすべての古いレコードから知識を得ました。彼らの多くが、 Coltrane を聞きませんでした。あなたは Coltrane を聞きましたか?

J・R それは私が生まれる前です。

R・H その様な事が私を混乱させるのです。私がバンドで雇った若者、出会う若者はそれぞれの20代を過ごしています。一人は30代になったかも知れません。私の言っていることが分りますか?我々はすべて同じ年齢になります。

(要するに、リアルタイムで様々なプレイヤーの創造過程を経験してきたR・ヘインズには、レコードで学び取ったことをスタイルにするあり方が腑に落ちないということらしい。間違いとは言えないが、どうも納得していない様子が窺える。それぞれの20代を過ごすべきだと、、、。)

 サックスのマーカス・ストリックランド (Marcus Strickland) はバンドにいます、ピアノのジョン・サリバン (John Sullivan)とベースのマーティン・ベジャラーノ(Martin Bejarano)がバンドにいます。

J・R あなたの78才の誕生日のブルーノート(Blue Note) の ライブで演奏したとき、気付いたことを覚えています。我々はビーバップ曲を演奏していて、あなたはものすごい勢いでスウィングしていました。私は、あなたのハイハット( hi-hat)の使い方が僅かだということに気付きました。あなたの左足は上下に動いていましたが、しかしハイハット( hi-hat)は時たまアクセントを置くだけでした。
 あなたはハイハットで何か演奏するのでしょうが、しかしスタンダードビーバップの2と4のアクセントの様なものは何もありませんでした。前にこれに気付かなかった事が信じられません。

R・H 50年代初期、我々はシンバルを "DlNG-DA-DlNG, DlNG-DA-DlNG, ITCHY-ITCHY-BOOM, ITCHY-BOOM."(ディンダ、ディン、ディンダディン、イッチイッチブン、イッチブン) と、言ったものでした。マイルスと演奏していた時、我々はそれを「 itchin 」(イッチン)と呼んだものです。
 たくさんのドラマーが、あなたが言ったように2と4でハイハット を演奏していました。マイルスがこっちを向き(マイルス の声で)「ロイ・ヘインズ 、ハイハット無しでも itchできるぞ!」と言いました。
 あなたが気付いたのはほとんど同じものです。たくさんのプレーヤーがそれを必要としました。なぜならすべての他のドラマーはハイハットを2と4で演奏していましたから。そしてスタジオにおいて、ルディー・ヴァン・ゲルダー (
Rudy Van Gelderジャズレコーディングの著名なエンジニア) はマイクをハイハット にも立てた最初の1人でした。それが、当時ハイハットの2と4が支配していた理由です。私はそれを分断させることができました。

J・R スイング感覚、グルーブの感覚について思いを巡らしています。 これらは獲得できるものですか?それは技能ですか、あるいはただ生まれつきの才能ですか? 

R・H (人差し指で上を指さす)それは、そこから来ます。
 昔は、「だれそれが自然のドラマーです」と言い、私はそのカテゴリーに属しました。その言葉、「スイング」は、それは当時古い明確な意味を持っていましが、 私は決してそれを分析しませんでした。
 しかし、私はある感触に気付きました。それは長い間ここに私を引き留めたものの1つです。私はサクソホンプレーヤーと一緒に演奏するのが好きです。
  C.1. ・ウィリアムズ (C.1. Williams) と言う名前のアルトのプレーヤーがいました。
 彼はいつも私に話したものでした、「あなたはサクソホンプレーヤーのドラマーです」。サクソホン奏者と演奏することは私の得意とするところです。

J・R 極端なボリュームを出さず激しく演奏しないで、多くの強烈さに達するあなたの能力については何ですか?あなたの演奏はそれほど強力です。しかしそれでもなおかつ、同時に軽くて、そしてきびきびしています。 あなたはその方法を正確に感じていますか?

R・H いいえ、けれどもそれは問題がありません。
 コルトレーン とバラードを演奏して、強烈さはあちらにありましたから。私のキャリアの初期、私が一緒に演奏したたくさんのプレーヤーはそうではありませんでした。
 サラ・ヴォーン (Sarah Vaughan)がスロー・バラードを歌うとすれば、ブラシを使うでしょう。私は60年代のトレーンとのバラードの時でもブラシを使えませんでした。
 強烈さ。多分それはコントロールが必要です、 軽く、上品に演奏をコントロールするのと比べて同じぐらいです。

J・R サラ (Sarah) など、他の歌手と演奏することは有益でしたか?

R・H 多分。 けれども私には重要なものがありました。
 私はジョン・コルトレーン(John Coltrane)の名をあげ続けますが、彼はたくさんの歌手に耳をかたむけました。彼は決して私に話しませんでしたが、私には分かりました。強烈さについて、彼と話をしていました。私はまだそれを試していて、まだ何かを言わせようとしています。私はストーリーを話すか、あるいは歌の中で絵を描くことを好みます。ダイナミックスは重要です。

J・R 音楽的なキャリアの中での共演者の選択についてお聞きしたいと思います。
 私はあなたがデューク・エリントン (Duke Ellington) との仕事を断ったということを耳にしました。

R・H それは本当です。

J・R 何故ですか?

R・H エリントンのバンドの連中は、お互いに話さえしませんでした。カーネギーホール (Carnegie Hall)で 私はチャーリー・パーカー (Charlie Parker) と一緒でした。
 その日の主役デューク ・エリントン (Duke Ellington)バンドに は ルイ・ベルソン (Louie Bellson) がいました。しかし、パール・ベイリー (Pearl Bailey) と結婚したばかりの彼は新婚旅行でヨーロッパ (Europe) に行く準備ができていました。私はここ、ニューヨークのホテルダウンタウンに住んでいました。どこに私が住んでいているか知っていたデュークは、次の日私に電話をしてきて、話を繰り返しました。

 私はルイス・ラッセル (Luis Russell)のバンドの経験で、何をしなければならなかったか知っていました。それは、1946年に、1週間ルイス・アームストロング (Louis Armstrong) のビッグバンドで演奏したこともありました。
 通常横に座るリード・トランペットプレーヤーの厳しさを知っていましたし、デュークが私に何を期待していたか、何人かのメンバーが私を望んでないことも分っていました。

J・R 5年間サラ (Sarah) の元で演奏したあなたが辞めたのは、音楽的に他のことをする時間を持つためでしたか?

R・H まあ、私は子供を持ち始めましたし、他で演奏する準備ができていました。

J・R すぐ後に、あなたはスタン・ゲッツ (Stan Getz) 、 コルトレーン 、アンドリュー・ヒル (Andrew Hill) 、ジョー・ヘンダーソン (Joe Henderson) 、 チック・コリア (Chick Corea) のような人々と60年代に演奏しました。

R・H  サラ・ヴォーンの後、最初はセロニアス・モンクThelonious Monk)でした。 ケニー・バレル(Kenny Burrell) は、、、どこか、、、あっ、そして、、次にモンクでした。私はその頃、子供たちを持ち始めましたから家に留まることを望みました。なぜなら私はサラ と一緒にロード(ツアー)が多かったのです。
 サラとの仕事では着実に金を得ることが出来ましたが、、。バード (Bird) と一緒であることは、バンドスタンドで楽しみがありましたが、かなり不規則でした。

J・R あなたはバンドリーダーがバンドを形成して、それをまとめる事についてアドバイスを持っていますか?

R・H  ドラムリーダーのバンドは多いのですが、易しいことではありません。
 チャーリー・ミンガス(Charlie Mingus )はドラムのダニー・リッチモンド (Dannie Richmond) がリーダーであったと言いました。たぶんそれは正しかったのでしょう。ミンガスは時々ぶつかりましたが、ダニーは不和を起こすよりむしろ彼について行ったでしょうから。

J・R あなたは聴衆との間に信じがたい関係を持っています。
 ブルーノートでの最後の日、私の友人が「私はジャズが好きだけど、なぜすべてのジャズコンサートが今夜のようでないの?
 なぜ他のドラマーが今夜のようでないの?」と言って歩き去りました。聴衆はあなたにとってどういう意味を持っていますか?

R・H  聴衆をリラックスさせることができれば、あなたが望む音楽的な何でもすることができ、あなたは彼らを取り込めます。
 若干の人達はすべてに自分のオリジナルを詰めるような演奏をします。あなたについて知っている人々はそれを楽しもうとしています。しかし、あなたについて何も知らない人々にあなたがしていることを理解してもらう事も必要です。
 ジャズは非難されています。 単語「ジャズ」、私はそれを憎みます。それほど多くの人々が好きではないと言います。けれども何かがあります。あなたが連れて来た人々はまた演奏を聞くでしょう。あるいは彼等はもっと他のものも聞き始めるでしょう。バンドスタンドで我々はリラックスして、彼等をあちこちに連れて行き、聴衆はそれを感じるべきです。

J・R まったく妥協がなく、あなたは正確にあなたが演奏したいものを演奏しています。

R・H  あなたもかつて演奏したいものを演奏して、彼等を得たでしょう。

J・R けれども人々の感じ方があります。あなたは我々が本当に好きである音楽を聴衆に伝えるやり方を持っていると思います。

R・H そうです。 そしてそれはうまくいっています!それのためにマーケットがあり、我々は良い形でいることができました。

J・R 今の状況で、40年代、50年代との相違は?

R・H はい、我々は助成金などを得ていませんでした。

J・R ジャズとアフリカ系アメリカ人の (African - American) 共同体はどうですか?
 あなたはその、アフリカ系アメリカ人の (African - American) 共同体への関係があなたのやってきた時代に比べて異なっているように感じますか?

R・H それは極めて異なっています。
 フィラデルフィア (Philadelphia) 、デトロイト、シカゴ (Detroit Chicago) 、クリーブランド (Cleveland) 、ボストン (Boston)、L.A. 都心の過密地区で彼らは常に近所にジャズクラブを持っていました。たくさんの費用がかかりませんでしたから、若い黒人はクラブに行くことが出来ました。我々をだいなしにしたものの1つは、そこで多くの金をショー毎に要求し始めたことです。もし、クラブでチャージが1人25ドル-35ドルならそれは考えるべきであると思います。

J・R 今日のシーンに欠けている何かがありますか?

R・H もっと年寄りの男と、たくさんのユーモアがあるのが常でした。今日、誰もが大学あるいは高校にいることができ、そして彼ら自身のプロジェクトを持つことを望みます。
 レコード会社はサインする準備ができています。 それは異なるものの1つです。私はそれが良いか、あるいは良くないかどうか知りません。1人のドラマーが数年前に私に言いました。、「君たちは気付いていないようだが、我々は支配されているんだ。」
 それは本当です。しかし、彼らはそれを操縦する方法を知っています。

 時々彼らがそれらの知識を使う方法を、同じく音楽でも知らない事に気付きます。
 プレーヤーの若干は、すべてをすることを望みます。 すべてがチョップとスピードです。しかし、レスター・ ヤング (Lester Young) が「けれど、あなたは私にメロディーを歌うことができますか?」と言うであろうように?
 あなたは絵を描くことができますか?
 メロディーは重要です。

J・R あなたはジャズが今日健康であると思いますか?

R・H ニューヨークでですか?
 そうであるように思われます。たくさんのクラブを得ましたし、 私が行く時、それは良く思われます。ニューヨークは世界中でまだ最も重大な都市です。ジャズは健康です、しかしそれはそれが得るべきである敬意を得ません。このごろテレビ (TV) で何も見ません。 もちろん、何年も前に多くを見ることはありませんでした。

「エド・サリバン (Ed Sullivan) ショー」では、ラサーン・ ローランド・カーク (Rahsaan Roland Kirk) が出たこともありました。けれどもグラミー賞 (Grammys) は我々を手助けしません。あなたが推薦される、あるいはあなたがグラミー賞 (Grammy) を獲得した時、それはライブのテレビ放送でありません。

J・R ついに、、、、この質問で私が嫌いになると思いますが、ジャズとは何ですか?

R・H  ジャズですか? それは言葉です。 私が好きになることの無かった言葉です。
 ジャズは何ですか? それは即興演奏です。何でもジャズであり得ました。

 今起きるもう1つのことは、誰かに紹介されるとき、彼らが「ロイ・ヘインズ (Roy Haynes) です、彼はジャズドラマーです。」と、言うことです。
 昔は、決してそのようには言いませんでした。「ロイ・ヘインズ (Roy Haynes) 、彼はドラマーです。」と、言いました。




12
 
(2004. 8/21)

September issue から。

 サックス奏者、スティーブ・コールマン(Steve Coleman)の近況、Sabbatical Music Travelogues(研究休暇音楽旅行談)と題した記事が興味深い。

 90年代半ば頃から、コールマンは、ジョン・コルトレーン (John Coltrane) を聞く時に幻覚を見始めた。後期のコルトレーンの作品だったようだが、象形文字が渦巻いているように思えたらしい。

「私は頭がおかしくなったと思いました。私はその時エジプト (Egypt) について何も知りませんでした。やがて、これらの幻覚はチャーリー・パーカー (Charlie Parker) に耳をかたむけた時にも起き始めました。」

 コールマンがカサンドラ・ウィルソン(歌手) (Cassandra Wilson) にその事を話すと、彼女はエジプトを訪問しろというサインだと思うから是非行くべきだと強く勧めました。仕事で海外に行くことは珍しくもなかった彼も、この提案が大変そうだと感じて少し躊躇していましたが、ウィルソンの言葉に従い北アフリカ (North African)に出掛けたのです。
 
 エジプト訪問の音楽的な成果は、弦、木管楽器アンサンブルと声を含み、古代のエジプトの調性システム、占星術と天文学への興味が彼の音楽宇宙を広げたとも言える、
The Sonic language Of Myth (1999RCA Victor)
Ascension To Light (2001BMG France)の2作品として発表されました。 

 その古代シュールレアリズムとも言うべき、同様の表現はコールマンの最も新しいディスク、 Lucidarium (Label Bleu )に於ても顕著です。
 5人の歌手、2人のベース奏者、ラップ歌手、ヴィオラ奏者 とハーモニカプレーヤーを従え、それは古代のエッセンスを含みながらも未来的に聞こえます。

 これらの特徴あるサウンドと新しい試みが、研究休暇の成果であることは間違いなく、2000年から彼は更に突き進めていきました。
 1997年、 アフロ- キューバの (Afro - Cuban) リズムと歌を取り入れた作品 The Sign And The Seal を発表していました。
 しかし、彼は好きであったキューバ (Cuba) の豊かな文化を知る時間を持てなかったと言うのです。コールマンは20世紀の終わりに、しばらくの間ツアーとレコーディングを停止させることに決めました。

 彼の古来伝統の流儀,型などの研究は合衆国に留まらず、範囲を広げていきました。
 キューバ (Cuba) とエジプト (Egypt) の他に、インド (India) 、セネガル (Senegal) 、ブラジル (Brazil) とインドネシア (Indonesia) にも足を延ばしました。
「時間の流れがこれらの場所で本当に遅くなります。それは時間が止まったかのように思えるほどで、完全にニューヨーク (New York) における生活とは違うのです。それは音楽に持っていた私の信念の若干を深くし、そして音楽業界に関しての考えに影響を与えました。」

 コールマンはトロンボーン奏者のジョージ・ルイス (George Lewis) の提案であった、カリフォルニア大学 (University of California) バークレー校 (Berkeley)の研究ポジション就任を引き受けました。
「バークレー (Berkeley)で、私は知りさえしなかった多くの古代テキストのようなものに引合わせられました。それは私にどのようにもっと深く探求するべきか教えました。
  サバティカルが私の立場を変えたと言いませんが、しかしそれは明確に私が向かっていたものすべてに深さを加えました。」

 
(ジャズミュージシャンの中でも際立ってクリエイティブな活動を続けるSteve Coleman。ここのところ動きが無いなと思っていたが、こういうことになっていたのか、、、。)

linhos


 6月、ハリウッドボール (Hollywood Bowl)で聴衆17,000人を集めて行われた、プレーボーイジャズ・フェスティバル26回目 (Playboy Jazz Festival)
 シリアスなジャズとスムース・ジャズが共存する稀なフェスティバルに評者Josef Woodard氏の論評も辛口?
 2日目のステージ、ピーター・シンコッティ (Peter Cincotti) 、ジェラルド・ウィルソン オーケストラ (Gerald Wilson Orchestra)、 ハービー・ ハンコック、ウェイン・ショーター、 デイブ・ オランド、ブライアン・ブレイド のカルテット、ブラジルのバンド Sambaguru 、 Bela Fleck 、そして Flecktones の、そしてロバート・ランドルフ (Robert Randolph) のFamily Band、ラテンジャズ・ピアニスト、ミシェル・カミロ Camilo (Michel のトリオ、ロイ・ハーグローブ (Roy Hargrove) 、 BWB (リック ・ブラウン (Rick Braun) 、カーク・ウェイラム (Kirk Whalum) とノーマン・ブラウン (Norman Brown) )

 ジェラルド・ウィルソン オーケストラは、ボーカル特別ゲストとしてヴェテラン、バーバラ・モリソン (Barbara Morrison) と14才の ルネー・オルムステッド (Renee Olmstead)をフィーチュアした。現在85才のウィルソン (Wilson)はいまだ健在らしい。次のハーグローブ の新しいプロジェクトはファンク。

 Josef Woodard氏が怒るのは次のようなことだったらしい。
 「この日のハイライトは司会者ケビン・ユーバンクス(Kevin Eubanks) が紹介で断言したように、明らかにHancock、Shorter 、Holland 、Bladeのスーパーグループ出演だったのだが、彼等の演奏は最も騒々しく、そして最も散漫な聴衆の反応で迎えられた。
 ハンコックですら「私は家族と一緒にそこにいて、チキンを食べていられればいいのにと思いました。しかし、私はそこで働らかなければならないのです。」と語る
 ショーターの「 Footprints 」「 Prometheus」などが演奏され、ウェイン・ショーターはマイルス・デイビス (Miles Davis) 、ウェザーリポート(Weather Report) にいた時のように中心的存在でした。
 しかし、その後の退屈な BWBはその日のクライマックスでもあるかのように、初めに「マイルストーン」Milestonesを短く演奏した事は侮辱的でもあった。図らずもこの日最高と最低のセットが続けられた。」

(要するに、何でもかんでも集めるのは良いが、セットの順序に配慮しろ、と言うようなことだが、これだけの規模でやるフェスティバルはしょうがないとも思える。
 お祭りですからネ。まあまあ。
 私は随分前によみうりランド・シアター・イーストでハンコック、ショーター、スタンリー・クラーク、オマー・ハキムのセッションを見た事があります。ちょうど今ごろの暑い日でした。
 炎天下の演奏にも関わらず、なかなかいい感じでステージは進行していたのだけど、何曲目かでオマー・ハキムがドラムソロをしたときの客の反応が凄かったのです。
 ものすごい歓声で「ウォー」と。
 それはハキム自身も呆気にとられるような場違いな反応でした。
 苦笑いするハンコックの表情には明らかに「それまでの演奏は何だったんだ」というような落胆の色がありました。
 その日の客席には騒ぎたい人が多かったわけですが、その頃のジャズフェスティバルはそういう傾向がありました。ビールでいい気持ちになってジャズを聴いて踊ろうぜ、ってな感じです。で、その後のハンコック達の演奏は集中力を欠き、つまらないものになってしまいました。
 そこから終わるまでの、オマー・ハキム氏の申し訳なさそうな表情と態度を見ていて、気の毒に思ったことをよく覚えています。)



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