Cannonball Adderley

Julian “Cannonball" Adderley(1928 - 1975)
キャノンボール・アダレイ




 9年半に亙って行動を共にしたピアノのジョー・ザヴィヌルはこう述べている。
 
J・Zawinul:「私が付き合った9年の間、いかなることにせよ彼が演奏でつまずくのを聞いたことはありませんでした。望みさえすれば何でもできる能力がありました。どうしてかは分かりませんが、彼が充分な評価を受けているとは言い難いと思います。
 
後期に演奏していたものは、とにかく人々が楽しむためのものでしたから、評論家達に好まれるものではありませんでした。私たちはそうすることもできましたけれど、シリアスな方法はとらなかったのです。選曲については、私でさえ嫌いなものもありました。ヒット曲に依存する面もありました。それは度々口論の元になりました。私はいつも言ってました。”バンドがヒットしているんだ。曲じゃないんだ”」

 彼は、楽器を操る技術、リズム、ソロを構築するセンス、閃き。すべてに於て群を抜き、欠点というものがなかった。唯一欠点があったとすれば、それはヒット曲に恵まれ過ぎたことだろう。

 今でも多くのジャズファンは58年録音の「Somethin' Else」を取り上げる。その後の「Work Song」などのヒット曲はポップな趣が軽んじられ、彼のソリストとしての進化にはまったく言及されない。若しくはセルジオ・メンデスとの共演盤が聞きやすいとの理由で支持されるというような案配で、ザヴィヌルが言うように充分な評価は受けていないとも言える。ヒットチューンに恵まれた多くの演奏家はその曲のイメージだけで語られることが多いが、彼も例外ではない。

 
人々に知られるようになった時、キャノンボールはすでに27才になっていた。ジャズの歴史に大きく名を刻んだ天才としては遅いデビューで、1955年に突如ニューヨークに現れた新人は、周りの度肝を抜き、凄まじい勢いでジャズシ-ンを駆け抜けた。数々のヒット曲をものにした彼のグループは1960年代最も商業的に成功したジャズグループだと評された。
 ニューヨークデビューの頃は既にフロリダで音楽教師の職にあり、ローカルなクラブなどでの演奏経験豊富な彼が新人であるはずもなかったが、ニューヨークに至るまでの過程は案外知られていない。幸い、いくつかのインタビュー記事などが残っている。

 
彼自身のインタビューを含め、様々な証言からジュリアン”キャノンボール”アダレイの軌跡を追ってみた。

 後年一緒に活動したテナーサックスのユセフ・ラティーフは冗談交じりにこんな話をしている。
 
Y・Lateef:「バードが亡くなったことをフロリダで知ったキャノンは "これで、ニューヨークに行けると思った" と言うんだ。まあ、本当にその年に行ったんだけどね」

1928年9月15日フロリダ州タンパで、ジュリアン・アダレイは生まれた。父ジュリアン・シニアはコルネット奏者で、息子2人は多大な影響を受けつつ育った。

 シニアは様々なバンドでの活動の後、Florida Ramblersというバンドを率いて、仕事があればどこででも演奏していたが、活動した時期は演奏家にとって厳しい時代だった。
 不況以前からジャズシーンは停滞気味で、さらに追い討ちをかけるように仕事は減っていき、一部の裕福な家でのパーティなどでの演奏や、ダンス・ホールで得た僅か5セントのギャラさえ 、息子とお腹にもう一人の子供を抱えた妻が待つ家に送る有り様だった。
後に兄弟が、地方を回るバンドに入りたい、プロとしてやって行きたいと相談すると、父はいつも必ずノックスヴィルでの出来事を引き合いに出して猛烈に反対した。

 バンドは、テネシー州ノックスヴィルで、2週間のダンスホールでの仕事をすることになっていた。メンバーは仕事のためにタキシードを買い揃え、すべてがうまく行くはずだったが、ダンスホールのマネージャーとメンバー間のちょっとした口論の末キャンセルされてしまった。高価なタキシードを買ったことで彼らには僅かな金しか持ち合わせがなく、シニアは例によって稼いだ金を家族に送っていて、フロリダに戻る金さえなかった。彼はテネシーの畑で豆摘みをして旅費を稼ぐ羽目になり、そのうえ家族のための送金を稼ぐことも必要だった。演奏の仕事で家に戻る旅費を稼ぐことすらできない現実は、彼に潮時が来たことを悟らせた。

 リタイアの時期がきたことを悟ったシニアは、それからはポーター、ベルボーイなど職を転々とした。そのような毎日の中で、彼は音楽で生きる決心をした時に迷っていたもう一つの選択肢を思い出した。
 それは教育者の道だった。しかしながら、高校卒業の頃は大学へ行く金など用意できるわけもなく、若い勢いで手っ取り早い稼ぎの道を選んだのだ。
 シニアは教育者への道に戻る決心をして勉強を再開し、最終的に50才近くなった1953年にB.A(学士)の資格を得、その後修士号も取得した。

 ジュリアンとナット兄弟は、このような父のことを「最も強い男」と称して尊敬した。強い父の影響がミュージシャンとしての2人を支えていたのは間違いなく、仕事のことで悩みがあればいつでもポップ(popとうちゃん)に電話をしたと、ナットは語っている。
 退いたものの、音楽への愛情を持ち続けていた父は、子供たちにも音楽の素晴らしさを教え、ジュリアンは小学2年生の頃ピアノレッスンを始めた。しかし、教師を好きになれず長続きしなかった。8才の頃からすでにレコードコレクションは始まっていて、アール・ハインズ、アンディ・カーク、チック・ウェッブなどがお気に入りだった。
 兄弟は日曜日の教会の礼拝の後のフィッシュフライとゴスペルの叫びを聞くことを楽しみにしていた。この幼いころの経験が、後に彼らのバンドでブルース.ゴスペルに根ざした楽曲を好んで取り上げる元にもなった。
 さらに父親はジュリアン9才の時にトランペットを与えた。(この時期についてのナットの証言はインタビューによって違う。6才と語ったものもある)
 しかし、トランペットは数年でアルトサックスに変わった。ナットによれば、兄はとても上手に吹いていたが、歯の問題などでやめてしまったのではないかということだ。
 それでトランペットはナットの手に渡ることになった。彼らにとって父は厳格な音楽教師で、「譜面を読め」と言うのが常だった。
 レコードのソロを真似たり即興のまね事をする前に、多くの練習時間が課せられたことを兄弟は感謝し、それは後の彼らの大きな飛躍の原動力にもなった。

 当時のジュリアンは大編成のものよりも、例えばベニー・グッドマンのトリオ、クァルテットなどのような小さな編成のものに、より興味を示した。真に彼が捕えられたバンドは、ベーシストのジョン・カーディが率いる、特に小さなユニットで構成されたグループだった。


 キャノンボールという呼び名は、本人の記憶によれば、ジュリアンの仲間の一言から始まった。ジュリアンは大食家(trenchermanship)だったらしく、それを揶揄するつもりの仲間の一人はキャンニバル(cannibal人食い人種)と言うところを、キャンニボル(can-i-bol)と発音してしまった。それを周りの連中が見過ごすはずがなく、間違った奴が「キャンニボル」とからかわれることになってしまった。

 やがてからかうことに飽きた連中は、「キャンニボル」が変化した「キャノンボール」というあだ名をジュリアンに進呈して事を収拾させた。
 この呼び名は、やがて来る運命の日まで使われることがなくなっていったが、そのキャノンボールと呼ばれていた学生時代。
 ナットの証言によれば、

 N・Adderley:「キャノンボールはジョニー・ホッジス( Johnny Hodges)とかベニー・カーター( Benny Carter )を聞いていて、エリオット・ローレンス (Elliot Lawrence) のバンドのジョニー ・ボスウェル (Johnny Bothwell) も好きだったようです。それとジミー・ドーシー (Jimmy Dorsey)」

 ベニー・カーターはキャノンボールに影響を与えた人として、よく名前が出る人なのだが、本人の言い分はかなり異なっている。

 C・Adderley「サックスを始めた頃はテナーを吹きたいと思っていました。2次大戦の頃ですが、当時は使えるテナーが手に入りませんでした。それで、使えそうだという理由だけで、中古のアルトを買いました。アルトでテナーのように吹こうとしていました。レスター・ヤングコールマン・ホーキンス、彼らほど有名ではなかったのですけど私にとっては重要だったバド・ジョンソンアースキン・ホーキンスジュリアン・ダッシュ (Julian Dash) 、ポール ・バスコンブ (Paul Bascomb)、バディ・テイト
 彼らのソロをアルトで吹くことで、強烈なスタイルを身に付けようとしていました。

 キャノンボールのソロ譜を出版したティム・プライスは、シャーリー・バーネット(Charlie Barnet)のバンドにいた友人の話を覚えている。彼らのギグには兄弟でいつも顔を見せていたらしく、キャノンボールはバーネットに対して深い敬意を示していたそうだ。彼にとっては音楽のスタイルや主張は問題ではなく、何でも積極的に聞き、理解しようとする姿勢は終生変わらなかった。

 両親がフロリダA&M大学 (Florida A & M College)の教職を得て、アダレイ一家はタラハシー(Tallahassee)に移転した。兄弟は、ハイスクール時代にA&M大学 (Florida A & M College)のバンドに参加する機会を得た。大学生の多くが徴兵されていて、補充員として呼ばれ指導を受けた。それは彼らの出発点にもなった。

 彼らの周りには多くの素晴らしいプレイヤーがいた。エリントンのバンドで活躍したトロンボーンの、バスター・クーパー(Buster Cooper)、少年たちの憧れたトランペット奏者、レオナルド・グラハム (Leonard Graham)(後にアイドリス・シュリーマン (Idrees Sulieman)と名を変えた)、タンパには後に兄弟と行動を共にするベースのサム・ジョーンズ (Sam Jones) 、マイアミにはトランペットのブルー・ミッチェル (Blue Mitchell

 ジュリアンは10才で9年生に飛び級し、音楽を専攻したA & M 大学卒業も早く、 1948年、19才にしてフォートローダーデール (Fort Lauderdale) で ディラード 高等学校 (Dillard High School) の音楽ディレクターの職に就いた。クラブなどで演奏する小遣い稼ぎは16才から始めていて、この頃は自身のグループを率いていた。
 1950年、徴兵されたジュリアンは、ワシントン の合衆国海軍音楽学校 (U.S. Naval School of Music) で勉強を続け、52、53年と陸軍の2ヶ所のダンスバンドのリーダーを務める傍らコンボも組んでいた。

 徴兵前後のアダレイ兄弟の地元フロリダでの演奏は、ルイ・ジョーダン (Louis Jordan) エディー・ クリーンヘッド・ ヴィンソン (Eddie Cleanhead Vinson) など、ブルースに根差すものが基本だった。エディ・ヴィンソンはアルトサックスの腕前も中々なブルース歌手だった。キャノンボールがお気に入りで、フロリダでの公演では必ずジュリアンに声をかけ、サックスパートを任せた。エディ・ヴィンソンとは61年にアルバム「Back Door Blues」を作った。ここではエディの野性味溢れるサックスも大きくフィーチュアされている。

 ナットによれば、兄弟に決定的な影響を与えたのは兵役でフロリダに在住していたピアニストのジャッキー・バイアード (Jaki Byard)だった。バイアードは陸軍バンドでトロンボーンを吹いていて、ピアニストとしてはもちろんサックスもこなす才人だった。バード (Bird) と ディズ(Diz)、デクスター・ゴードンとワーデル・グレイなど、ビ・バップの知識の多くを兄弟に教えた。
 当時のフロリダにはジャズのマーケットがなく、彼らはバードやディズ、マイルスのものも演奏はしていたが、それは必ず「Caledonia 」「Cherry Red Blues」など流行りの歌だとかブルースをやった後だった。しかし、彼らは確実に実力を蓄えつつあった。

 1955年、ジュリアン・アダレイは、ニューヨーク大学への入学を許可され、さらなる勉強のための講義を受ける予定で、弟ナットとトロンボーンのバスター・クーパー兄弟を伴い、休暇を利用してニューヨークへ赴いた。

 その日、リハーサルを終えた彼らは、大学からさほど離れていない場所にある「カフェ・ボヘミア」でのオスカー・ペティフォードのグループを聞きに行くことになっていた。リーダーのオスカー・ペティフォードがベースで、ケニー・クラーク(ドラム)、ホレス・シルバー(ピアノ)、さらにテナーサックスのジェローム・リチャードソンとトランペットにはドナルド・バード、トロンボーンのジミー・クリーブランドもいた。バスター・クーパーの希望だったかも知れないが、クリーブランドに会うのも目的だったらしい。
 車の中に楽器を置いていくわけにもいかず、彼らは楽器を持ったまま鰻の寝床のように細長い店内に入った。
 ジェローム・リチャードソンは遅れていて、演奏は始まっていなかった。当時のミュージシャンの間では、レコーディングの仕事やオーケストラピットでの仕事、いわゆるギャラの良い仕事が入った場合は、ギグに代役を立てて仕事に行ってもよいという了解があった。その日のリチャードソンはレコーディングの仕事が入っていたが、代わりはまだ現れていなかった。几帳面なペティフォードは、アレンジしたサウンドが得られない事にためらいがあって、演奏はなかなか始まらず、サックスのチャーリー・ラウズがフラッと現れた時も始まっていなかった。

 ペティフォードは「入らないか」とラウズに声をかけた。楽器を持っていないとラウズが答えると、「後ろの方にアルトを持った若者がいるから、楽器を借りて移調すれば(テナーのパートを)できるだろう」とペティフォードがさらに頼み込んだ。
 彼らの席にやってきたラウズは、楽器を貸してくれとは言わずに思い掛けないことを口走った。「やってみないか」
(この場合のラウズの申し出は、ただ単にトランスすることが面倒だっただけかもしれない。しかしながら、新しい情報ではチャーリー・ラウズはフロリダでのキャノンボールをすでに知っていたそうだ。やれるはずだということも分かっていたに違いなく、そうなるとこの夜の真の功労者はチャーリー・ラウズだったということになる。)

 今や伝説となったこの話は、レナード・フェザーによれば「強く説得された」とのことだが、本人によれば「自分にとってのヒーローである人たちと演奏することに怖じ気づきました。私はフロリダの学校教師であり、ロック・ミュージックのプレイヤーであり、ラウンジ・ミュージック程度の者。でも私は承諾していました」
 思わぬ成り行きに従ったペティフォードは「I remember april」を恐ろしく速いテンポで始めた。結果は、アダレイ本人に言わせれば「上々の出来でした」
 驚いたメンバーは、ジェローム・リチャードソンが遅れてやってきてからも演奏するように誘い、一晩中ジュリアンは演奏することになった。

 ニューヨークではミュージシャン・ユニオンの規約が厳しく、演奏者の管理にうるさかった店の責任者はナットたちに聞いた。「あれは誰です?」そこでナットが「あれは・・・キャノンボールです」と答えてしまった。
 それまでアダレイ氏で通っていたものが、その瞬間10代の頃のあだ名が復活し、キャノンボールとして知られていくことになった。弟ナットも一緒に演奏し、兄弟の噂はまたたく間にニューヨーク中に広がった。
 ニューヨークのジャズ・ミュージシャンの間では大騒ぎになるほどの事件で、チャーリー・パーカー亡き後現れた「新しいバード」とも呼ばれることにもなった。

 この話には色々な側面があって、御本人のインタビューでは上のようなものだ。この夜のステージには、ディジー・ガレスピーもJJ・ジョンソンも飛び入りしたとも言われていた。真偽のほどが定かではなかったが、フィル・ウッズの話からすると、多くのミュージシャンが駆けつけたものと見られる。それでホレス・シルバーの「あの夜は大変なことになった」という説明が納得できる。
 ここでレギュラー出演するマイルスは7月にもスケジュールが入っていた。彼はこのキャノンボールのニューヨークデビューを目撃した。マイルスは265パウンドのキャノンボールのブルースを聴き、誰も彼のようには演奏できないと驚き賞賛を惜しまなかった。


 キャノンボールによれば、当時のミュージシャンは本当に仕事がなかったらしい。レコーディングの仕事はほとんどが西海岸に流れていて、メッセンジャーズを結成していたブレイキーも仕事に恵まれず、ホレス・シルバーにしても、この夜はサイドメンだった。モダンジャズ・クァルテット、マックス・ローチとクリフォード・ブラウンなどレコーディングを続けられるもの、風変わりな編成で多くの出演を果たしていたガレスピーなどもいたが、それは一部のプレイヤーに限られていた。
 そんな状態だったからこそ、自分にチャンスが巡ってきたのだろうと語っている。
 退屈していたニューヨークのミュージシャンにとって、キャノンボールの出現は刺激的な出来事だった。その夜のミュージシャンの動きにはそのような背景があった。

 
フィル・ウッズはキャノンボールのアルバム「Radio Night」に次のような言葉を寄せている。
 
P・Woods: 僕らはたぶんバードの子供だった。ある夜ジャッキー・マクリーンが僕の出演しているところにやって来て「ちょっとついて来いよ」と言う。彼はカフェ・ボヘミアでペティフォードのビッグ・バンドの前座の仕事をしていた。それで、「これを聞いてみろよ」と言うので、カフェ・ボヘミアの中に入るとキャノンボールのニューヨークでの最初の飛び入りステージだったってわけだ。それで、ジャッキーと、この野郎の人間業とは思えないサックスを聞いたんだ。見事だった。ジャッキーと僕は顔を見合わせて同時に言ったわけだ。「ちくしょう、なんてこったい( Oh shit)」

 フィル・ウッズの証言は、ベン・シドランとの対談(Feb1985)では少しニュアンスが違う。

 Ben:「あなたはキャノンボールを偉大なバラードプレイヤーだと仰っていると聞いたんですが?」

 P・Woods:
「いかにも。彼が町にやって来て、ボヘミアに出演していたオスカー・ペティフォードのグループに飛び入りした夜のことを覚えている。私はヴィレッジの Nut Club で仕事をしていて、ジャッキー・マクリーンもそこらで仕事をしていたはずだ。ちょうど休憩時間に入ったころに、ジャッキーが来て言うんだ 「ちょっと来いよ」。バードが死んで間もないころだった。私もジャッキーも、やっと名声や金を手にする時が巡ってきたのではないかと勇み立っていた。その時ジャッキーは少ししょげているように見えた。「フィル、ここだよ」と案内してくれたのがボヘミアで、ちょうどキャノンボールが飛び入りで演奏しているところだった。私たちは客席に腰を下ろして2曲ほどを聞いた。外に出て、顔を見合わせ声を出した。”なんてこった(Oh sit)”(笑)
 それまでに聞いたこともない最悪の演奏だった。誰もキャノンボールのようには吹いていなかった。リズミックなアプローチの素晴らしさに惹きつけられ、むらがなく明瞭に表現された強烈な8分音符に圧倒された。
 ジョニー・ホッジス、ベニー・カーターなどの影響は少々あって、それらをミックスしたようなところも聞こえた。」
 (注;baddest-最悪;は最上級の褒め言葉として使われる)

 この夜のグループ編成は、フィル・ウッズはペティフォードのビッグバンドと言っているが、シドランとの会話と併せて推察すると、「マクリーンはペティフォードのビッグバンド公演の際はオープニングアクトを務めていたから面識があり、彼が出ているというので店の中をのぞくと凄いヤツがいた。こりゃ、大変だ。フィルに知らせなくちゃ。」というのが正しいかと思われる。
 
ビッグバンドであれば、レギュラーのサードアルトがリードを吹けばいいわけで、それに、サックスのソロばかりが続くわけもなく、話は少々信憑性を失う。

 ペティフォード関連の資料によるとジェロームにジミー・クリーブランド、トランペットのドナルド・バード (Donald Byrd)が入ったセクステット。しかも、55年6月21日火曜日にキャノンボールは Cafe Bohemia での仕事を始めた、と書かれている。更に6月28日火曜日がキャノンボールの初レコーディング、7月14日木曜日にリーダーアルバム・レコーディングと詳細に明記されている。
 別の資料によると、その日から7月10日までキャノンボールはペティフォードに誘われて出演していたと書かれている。
 ナット・アダレイのインタビューにもこの夜のことは触れられてはいるが、ナットはその都度違うデータを語ることがあって、鵜呑みにはできない。今や真相を知る手立てはほとんど失われた。


(この夜の出来事は、速いテンポの「I remember april」が元で、ペティフォードのイジメ、脅しなどとの話が伝えられることになった。)
 アダレイ氏は「彼は、私がどのようなものかを証明することを望んだと思います」と謙虚に振り返った。もちろん、リーダーとしては飛び入りした若者がどのような腕前か知る必要はある。
 エリック・ウィダーマン(Erik Wiedemann)はペティフォードの"My Little Cello"のライナーノーツに、ペティフォード自身の言葉として「キャノンボールが55年にニューヨークに来た際のカフェボヘミアでの出来事、私が彼を怖がらせるようなことをして試したとされる、広く流布している逸話を断固として否定する」との文を掲載して、ペティフォードを擁護した。


 アダレイ兄弟の初レコーディングが、ケニー・クラークによって直ちに行われた。"Bohemia After Dark" (Savoy 4514) この録音に参加したポール・チェンバース (Paul Chambers)、ドナルド・バード (Donald Byrd) にとっても初レコーディングだった。
 手元の資料を調べても、どういうわけかペティフォードがキャノンボールのレコーディングに参加したセッションの記録はない。
 サヴォイレーベルでは最初の録音から2週間後に、Nat Adderley (cor)、Hank Jones (p) Paul Chambers (b) Kenny Clarke (d)を伴う初リーダーアルバムが作られた。

「Presenting Cannonball Adderley」(Savoy MG 12018)
 この後のエマーシーでの録音に比べると、サヴォイで作られたこのアルバムにこそカフェ・ボヘミアでの出来事の一端が収められているように聞こえる。最初のブルース「Spontaneous Combustion」のソロには、彼の特徴となった多くのフィギュアが既に盛り込まれている。得意のブルースラインや小気味のいい速いパッセージ、音を押し出すようなアクセントを強調した連続する8分音符。

 ナットもリーダーアルバム「That's Nat」を録音した。

 
クインシー・ジョーンズクラーク・テリーはエマーシー(EmArcy)・レーベルのボブ・シャドに (Bob Shad )にキャノンボールとの契約を強く進言した。ボブは、演奏を聞いたこともないサックス奏者との前例のない契約をする羽目になった。2人の推薦がいかに凄い剣幕であったかが窺える。
 サヴォイのリーダーアルバム録音の一週間後、55年7月14日にエマーシーの初録音が推薦者であるクインシーのアレンジで行われた。
 Nat Adderley (cor) Jimmy Cleveland (tb) Cannonball Adderley (as) Jerome Richardson (ts, fl) Cecil Payne (bars) John Williams (p) Paul Chambers (b) Kenny Clarke (d) Quincy Jones (arr)、J.J. Johnson (tb) replaces Cleveland、Max Roach (d) replaces Clarkeと豪華なメンバーが集められた。

 このレコーディングに関しては、2013年に出版された「Walk Tall - The Music & Life of Julian "Cannonball" Adderley」Cary Ginell著(HAL・LEONARD社刊)の序文で、クインシー自身によってその顛末が語られている。

 
Quincy Jones:「私がキャノンボールを見いだしたわけでなく、キャノンボールが私を見つけたということです。あれは55年のことでした。当時の私は西92丁目に住んでいたのですが、ある日そこにフロリダから来たばかりの彼とナットが訪ねてきたんです。住所はオスカー・ピーターソンに聞いたようでした。レコードを作るレーベルを探しているということでした。
 そこで私は彼に今までに何か録音したことがあるのか訊きました。彼は頷くと共に、そのレコード盤を渡してくれました。青いレーベルのホームアセテート盤で、Frankie and Johnnyと、もう片面は何かオリジナルソングのようなものだったと思います。彼はレコーディングしたことがあると装うつもりだったようですが、そのアセテート盤以外に録音の経験などなかったようでした。で、その音を聞くことになったのですが、私はたたきのめされました。思わず「こいつは凄いや、次のバードかもしれない」と声を出していました。聞いたこともない演奏ぶりで、新しい感覚はクリフォード・ブラウンを思い起こさせました。
 当時の私はエマーシーの専属作編曲家としてボブ・シャドの元で仕事をしていました。キャノンボールが帰った後、すぐボビーに電話をしました。「ボビー、凄いぞ。こいつは次のチャーリー・パーカーだよ。これは聞いたほうがいいよ」

 すると、ボビーは「ああ、君から聞いた、君から。私が聞く必要なんかあるものか。君がそう言うのなら、私は君を信じるまでで、君がこれから何をすればいいかというと、まずスタジオとエンジニアとミュージシャンを押さえて、すぐアレンジに取り掛かるんだ。火曜日にスタジオで会おう」。とにかく時間がなくて大変だったのだけど、キャノンボールと「Fallen Feathers」というチャーリー・パーカーに捧げる曲を書いたことを覚えています。」
 この話で分かるのは、次のバードなるレッテルはクインシーにも責任があるような・・・。

 キャノンボールは全ての曲において流暢で、どんな曲にも対応できる器用さを見せた。最初の譜例に比べればずっと大人しい印象はあるにせよ、一曲目の「Cannonball」(譜例)に聞かれるように、ブルースに根ざしたフレージングはそこら中にこぼれ落ちそうではあったが、曲によっては当時ニューヨークをも席巻していたウェストコースト・サウンドのように響かせ、遅い曲ではビッグ・バンドのリードアルトや、ラウンジでの軽い演奏のようなヴィブラートを聞かせた。
 大きな編成でアレンジされたものの中では、自由に羽ばたけるスペースが限られていた。そこで、キャノンボールとしては、知らず知らずのうちに経験豊富なアンサンブルの中での表現に傾いていったのではないかと思われる。

 この頃、ジェリー・マリガンに触発されたのか、サヒブ・シハブ、ペッパー・アダムスなどバリトン・サックスのプレイヤーが次々に現れた。このアルバムではセシル・ペインがフィーチュアされた曲もある。いったい誰のアルバムなのかと言えば、これはクインシー・ジョーンズの仕事だったと考えるのが妥当だろう。

 しかし、エマーシーの目論見は「新しいバード」だった。キャノンボールはバードの語法を真似るだけのプレイヤーではなかった。
 「バード」ことチャーリー・パーカーのアルトには凄まじいスピードと力があった。それでいてエレガントな奥行に彩られ、強い音なのに消え入りそうで儚げな神秘性があった。キャノンボールはスピードもパワーも併せ持ってはいたが、少なくとも表面的には決してバードではなかった。しかし、彼のアルトには屈託のないヒューマンな明るさと、聞いた誰をも浮き浮きとさせるようなリズムと色気があった。

 エマーシーでの制作には「新しいバード」という謳い文句が付きまとい、キャノンボールをウンザリさせた。ナットのアルバム、サラ・ヴォーンのアルバム、とレコーディングは続き、10月には「Julian Cannonball Adderley And Strings」が録音された。この録音が「Parker with Strings」を意識したものであることは間違いない。甘味なストリングスに乗ってメロディを歌うアルトが記録された。
 後年、キャノンボールはエマーシーの親会社であったマーキュリーに対する不信感を、担当者が録音する内容も編曲者も決め、オリジナルの出版さえ彼らが決めたと非難した。ユニオンの規定では3年が限度と決められていた契約期間もエマーシーとの間では5年間とされていた。
 実際のところ、人々が口にしたとされる「新しいバード」云々はレコード会社によって広められたレッテルではなかったと思える。そんなことにお構いなく彼らはレコーディングを続け、後のクインテットと遜色のないスピード感あふれるアルバムも作られた。最後の録音58年
「Sharpshooters」などは完成度も高い

 周りの動きに敏感なマイルス・デイヴィスは、早速自分のバンドへの参加を打診していた。しかし、ストリングスとのアルバムを録音した後、教職を終えるためにキャノンボールはフロリダに戻らなければならなかった。
 マイルスはキャノンボールができないと分かると、フィリー・ジョー・ジョーンズの推薦で、一度だけ共演歴のあるフィラデルフィアのジョン・コルトレーンをバンドに入れた。

 フロリダに戻って教職の手続きを済ませたキャノンボールは、その年の暮れにバンドを結成した。ニューヨークで仕事をした彼は、フロリダの優秀なミュージシャンであればやっていけると確信していた。ピアノにジュニア・マンス (Junior Mance)が入ったバンドはリハーサルを重ね、マネージャーのジョン・レヴィ (John Levy) はフィラデルフィアでのクラブ出演を決めてきた。
 しかし、彼が期待したほどバンドはうまく機能しなかった。56年1月、レヴィはフィラデルフィアの2日目にメンバーを解雇すると言い出した。何とかやり繰りしてデトロイト (Detroit) とクリーブランド (Cleveland)のギグを済ませ、ニューヨークに辿り着いた。そこでベースにサム・ジョーンズが加わった。
 56年は一年を通して仕事には困らなかったが、バンドを維持し、経営する難しさをアダレイ兄弟は感じていた。レコードからのロイヤリティはなく、世間知らずと本人が言うように、借金だけが増える有り様だった。

 2012年2月のJazzTimesに、「キャノンボールは命の恩人」とするピアノのジュニア・マンス(Julian Clifford Mance)のインタビュー記事が掲載された。

 それは実に60年も前の話だ。

 
Junior Mance:「彼のおかげで私は今ここにいることが出来るのです。それは朝鮮戦争のころでした。私の所属した部隊では新兵の基礎訓練が行われていて、中隊と共に出発する日まで2週間ほどしかありませんでした。私は行進するための楽器はこなせませんでしたから、陸軍バンドに入ることが出来ず、通常の兵として軍務に就いていました。」

 マンスは歩哨任務の際にこっそり脱け出し、キャノンボールのバンドとのジャムセッションに参加して腕前を評価された。

 
Junior Mance:「我々が演奏した最初の曲がニール・ヘフティの (Neal Hefti) の「 Splanky 」であったことを覚えています。そしてキャノンは私が演奏していたものを気に入ってくれて、ソロコーラスを増やしてくれました。歩哨任務に戻らなければならないのに、バンドと一緒にセットの残りを演奏することになってしまいました。それで、キャノンは ”このバンドに入るだろ?”と私に言うのです。私がマーチングバンドに参加する楽器を弾けないことなどを説明すると、キャノンは "ああ、それは問題だな。"と答えました。
 翌朝、私はフットボール競技場のような長さのコースで匍匐前進の訓練を受けていて、そろそろ終わりに指し掛かった頃に訓練下士官の元へジープが走ってくるのが見えました。ジープにはキャノンボールが乗っているようでした!!
 キャノンは下士官に紙切れを渡しました。下士官はそれに目を通しキャノンに紙切れを戻しながら "マンス!!司令部に出頭だ"と言いました。
 私は何が起きたのかわからず、何かヘマをしたんじゃないことを願うばかりでした。 キャノンボールとジープ飛び乗って "どうなってるんだ"と聞くと、"シー、聞こえないところに行くまで待て"と答えました。

 キャノンの説明では、もうすぐ転任するバンドの指揮官のオーディションを受けるためという、どさくさ紛れの少々インチキな令状をタイプさせたというものでした。そんなことをして投獄されるのは嫌だという私に、キャノンボールは "私を信頼するんだ、まかせろ"と言うばかり。
 しかも彼は私を中隊の事務員として採用することも上手くやってのけました。私は基礎訓練から第36陸軍バンド (Army Band) に移り、ケンタッキーに残留することになりました。

 しばらくして、陸軍病院のそばを歩いていた私は車椅子に乗る兵士の姿に気付きました。彼は足を無くしていました。一緒に基礎訓練を受けていた仲間の一人でした。200人を擁する部隊は韓国に送られていて、彼らを待ち受けていたのは海岸からの上陸作戦でした。彼によると "敵は我々を待っていました。上陸を試みると機銃掃射が我々を襲い、私は足を吹き飛ばされました。私を含む5、6人だけが生き残りました。"

 私は優秀な兵隊でもなく、おそらくその日に死ぬ兵隊の一人だったに違いありません。キャノンボールに言いました。あなたのおかげで私は今ここにいることが出来ます。キャノンボールは私の生涯で最も親しくした友人でした。」

 1953年、除隊したマンスはシカゴのジャズ・クラブ「Bee Hive」のハウスバンドに戻り、コールマン・ホーキンス (Coleman Hawkins) 、チャーリー・パーカー (Charlie Parker) 、ソニー・スティット (Sonny Stitt) などと演奏を続けた。
 翌年、ダイナ・ワシントンと共演するためにニューヨークに移った。(後年、ダイナのバンドにはジョー・ザヴィヌルが入った)
 55年にキャノンボールのバンド結成で再会したマンスは、「Dinah Washington In The Land Of Hi-Fi」、「Julian Cannonball Adderley In The Land Of Hi-Fi」、「 Sophisticated Swing」「Sharpshooters」など、EmArcyレーベルのアルバムに参加した。キャノンボールのグループ解散後は、メインをディジー・ガレスピーのバンドに移し活躍した。現在も自己のレーベルを立ち上げて広く活躍中。
 ピアニスト、ブラッド・メルドーはマンスを師と崇める一人で、マンスの参加したガレスピーの「Have Trumpet, Will Excite!」(59年)をよく聞き、彼のコンピングに傾倒していたと述べている。
 (comping=ピアノ伴奏の手法。トップノートの動きなど多くの技法が含まれる)



 Sharpshooters March 4、6,1958

Nat Adderley (cor) Cannonball Adderley (as) Junior Mance (p) Sam Jones (b) Jimmy Cobb (d)


 マイルスは自分のバンドに問題を抱えていた。コルトレーンは健康上の問題などを理由にフィラデルフィアに戻ったままだった。レッド・ガーランドとフィリー・ジョーのルーズな面も頭痛の種だった。コルトレーンに代わるテナー奏者など思いもつかないマイルスは、再びキャノンボールに接近してきた。キャノンボールによれば、2、3ヶ月も一緒にやらないかと言い続け、困るほどだったらしい。
 最初のニューヨーク訪問の際も、マイルスはキャノンボールに色々口添えしていて、ブルーノート・レーベルのアルフレッド・ライオンにも紹介しようとし、コード(和音)の話も伝えようとした。しかし、キャノンボールは耳を貸さなかった。再び誘われた時もガレスピーのバンドにも誘われていることをほのめかし、断る口実にしようとした。後年彼は、マイルスの進言をことごとく無視した自分が横柄だったことを認めている。
 マイルスはそれでも、ある雑誌のインタビューで「ヤツは始めからスイングしてた」と語り、それを読んだキャノンボールは自分の狭量と無知を少し恥じることになった。ソニー・ロリンズなどを聞いて再びハーモニーのことなどを学ぶ気になったらしい。(マイルスに謝罪したとも伝えられている)

 マイルスに睨まれて小さくなっていたキャノンボールなどという表現を見ることがあるが、それはファンのたわ言でしかない。プレイヤーの関係は、少なくとも演奏中はイーブンだ。音楽的な敬意を払うことがあっても、従属することとは違う。それでなければ一緒に演奏などできるはずもない。

 マイルスは「Somethin' Else」で自らサイドメンとしてのクレジットを承諾した。
 70年代の初めにマイルスと共演したゲイリー・バーツは、どちらかと言えばトランペットと同じようなレンジのアルトサックスの方が好みだとマイルスが語っていたことを証言している。それはパーカーとの活動の影響かも知れないが、コルトレーンの場合は高いレンジでのサウンドが気に入っていたそうだ。
 マイルスはキャノンボールが承諾すると、すぐバンドを結成してツアーを組んだ。ピアノのトミー・フラナガン(Tommy Flanagan)、ポール・チェンバース、ドラムのアート・テイラー(Arthur Taylor)のクインテットだった。このメンバーでのツアーは一ヶ月限りで終わった。

 ニューヨークに戻ると、マイルスは元のメンバーを招集した。コルトレーンはすっかり健康になって戻っていて、ファイブ・スポットでセロニアス・モンクとの演奏を始めていた。キャノンボールはそのまま残ることになった。マイルスと行動を共にするようになって2ヶ月目、バンドは6人編成になり、ジャズの歴史上最も有名なバンドになった。

 バンドは刺激に満ちていた。キャノンボールは、ワークショップのようだったと語るこのバンドで成長し始めたことを実感した。マイルスはみんなに何をやるべきかよりも、何をしないようにするべきかを真剣に話した。誰にも何を演奏するべきかを言わず、「君はそれをやる必要がない」といった具合に。
 在籍した2年間の間に行われたリハーサルは5回ほどだった。ステージの上で行われたことが全てだった。マイルスの圧倒的な演奏に耳を傾けて学ぶ日が続いた。ハーモニーの知識も学んだ。コルトレーンはハーモニーについてより多くを知るプレイヤーで、既に新しい旋律の可能性を探る局面に入りつつあった。キャノンボールの目には、その様子が「単に和声のパターンではなく、何か心的欲求があるように」見えていた。

 マイルスは「コルトレーンのやっていることを聞け」と言うこともあったし、一方ではコルトレーンにも「キャノンボールのラインを学べ」と言った。ナット・アダレイは「マイルスはメンバー間で競わせるように仕向ける巧妙さに長けていたけど、実はメンバー間ではお互いに何を言われたかは筒抜けだった。」と語っている。
 「マイルスは自分のバンドのスタイルを変える際にも、それとなく遠回しに行った」と語るキャノンボールには、リーダーとして学ぶことも多かった。

 58年2月、マイルスは、凄まじいほどのスピード感と閃きが飛び散るようなアルバム「Milestones」の録音を始めた。
 キャノンボールの進境著しく、そもそも高いレベルだった技術的な部分は、「ニューヨークに来てからは毎日5、6時間ほどの練習を続けていた」とナットが言う日々の鍛練によって、さらに手がつけられないものに変貌し、新しいバンドの中で学んだことが彼を飛躍させた。

 このアルバムタイトル曲はGm7Am7の2つのコードしかない、当時としては不思議な感触のものだった。主音への解決を求める機能和声によらないスタイルが提示された。
 「miles ahead」のアレンジャー、ギル・エヴァンスが、ある曲でスケールだけをソロスペースに書いたことがヒントになったと言われている。後のモードとというものに先鞭をつけた曲になった。キャノンボールは浮遊感のあるソロを吹いた。

 この日の録音は、「Milestones」の他に、速いテンポで突き抜けるような3管の素晴らしいアンサンブルが聞ける「Two Bass Hit」と「Straight, No Chaser」だった。モンクのブルース「Straight, No Chaser」で、キャノンボールは、本来D7の箇所でEb7のラインを吹き、和声的なチャレンジを大胆に示した。

 2回目の録音は1ヶ月後の3月4日。残りの2曲が録られた。
 凄まじい勢いの「Dr. Jackle 」とアルバムの中で唯一のゆっくりとしたテンポの「Sid's Ahead」。このアルバムではレッド・ガーランドフィーチュアの1曲を除く残り5曲の内4曲がブルースだった。
 レッド・ガーランドは「 Sid's Ahead」の録音前にマイルスと揉めて帰ってしまい、「Sid's Ahead」ではマイルスのピアノが聞けることになった。
 後年、コルトレーンと並んでサックスを吹くことは面白い経験だったとキャノンボールは回想した。

 C・A「彼は軽快で流れるようなサウンドを持っていました。私のアルトは少しヘビーなテナー奏者の影響下にありました。トレーンとの場合は、楽器が変わったことが分からないように聞こえることがありました。」

 「Milestones」レコーディング中のキャノンボールは忙しかった。最初の日は、ブルーノート・レーベルのルイ・スミス(Louis Smith) (tp) の録音もこなし、2回目の3月4日は、エマーシー最後のアルバム「Sharpshooters」の録音もあった。
 3月6日は「Sharpshooters」の残りの録音を、2日前と同じNat Adderley (cor) Junior Mance (p) Sam Jones (b) Jimmy Cobb (d)らと済ませ、3月9日はマイルスとの
「Somethin' Else」の録音が行われた。

 今もなおファンを獲得し続けるこのアルバムは、マイルスのミュートで奏される「枯葉」から始まり、選曲に積極的だったマイルスがキャノンボールに提案したバラード「ダンシング・イン・ザ・ダーク」で終わる。マイルスの提供した「Somethin' Else」は12小節ではあるが、通常のブルースとは異なるコード進行を持つもの。シカゴのディスク・ジョッキーHolms "Daddy-O" Dailieに捧げられた、ナット・アダレイの「One For Daddy O」も収録された。この曲の終わりには「アルフレッド、これが聴きたかったんだろ?」とコントロール・ルームに向かって話すマイルスの声が聞こえる。
 アルバムは「Milestones」とは打って変わり、全体的にクールな仕上がり。キャノンボールはサブトーンを駆使したサウンドを聞かせた。

 ジャズのサックスはサブトーンだと言った人がいたが、それは概ね正しい。サブトーン奏法から獲得できる豊かなサウンドもある。もう一つの、この曲で聞かれるテクニックが譜例の下段。吹こうとしたラインは、幾つかの下降する装飾音符が挟まれて最後の小節のようなものになった。このような装飾は至るところで使われていて、彼の技術的なレヴェルの高さが窺える。
 マイルスのキャノンボールに対する敬意が形になり、最初にキャノンボールを聞いた時からマイルスが頭の中で描いていたサウンドが実現された。
 全体の構想を練り、アルフレッド・ライオンへの橋渡しもマイルスが行ったというような情報から、このレコーディングの事実上のリーダーはマイルスだったとの情報がさも大発見のように書かれることもあるが、そうだったとしても、あのマイルスがそこまでキャノンボールのために奔走して制作を実現させ、しかも自分をサイドメンとしてクレジットさせたことの方がすごい。

 もちろん、マイルスはコロンビアとの契約があり、「Miletones」のレコーディングが終わったばかり。まだリリースされていないアルバムがある状況で、他のレーベルでアルバムを作るはずもない。
 しかし、マイルスはこの録音にこだわった。彼にはキャノンボールと共に作れる、セクステットのものとは異なるサウンドが聞こえていたらしい。歴史に「もしも」はないが、キャノンボールが弟との活動に固執することなく、マイルスの要望通りバンドに居続けたとすれば、ジャズの歴史は大きく違うものになっていただろう。
 60年代後期のキャノンボールのバンドのサウンドは、ザヴィヌルが述べているように、マイルスのバンドよりも先鋭的だった。ザヴィヌルの曲はキャノンボールのファンキーでクリエイティブなラインによって彩りに深みが加えられた。そこにマイルスのサウンドが加わると想像すると、かなり興味深い。

 後日マイルスは「リーダーはキャノンボールだ」と明言した。にも関わらず、実質的なリーダーはマイルスだというような書き方をされることが多いこのアルバムだが、裏話の収集に熱心なバカな評論家の言葉に乗っているだけの話で、実際のスタジオ内でテンポを決めたりソロの順を決めたりしたのがマイルスだと誰か見たのかというような話になる。

 このアルバムに関し、キャノンボールの生涯と音楽を綴った「Walk Tall」の著者、Cary Ginellは次のように触れている。
「クインテットの最後の録音(
Sharpshooters)から三日後、キャノンボールはブルーノート・レコード・レーベルと契約を交わした。それが「Somethin' Else」となった。マイルスとキャノンボールの関係がより親密になっていたことは、マイルスがサイドメンとして参加という形を納得させていたことからも明らかだ。ブルーノートの記録では「Cannonball Adderley's Five Stars」とされているセッションで、なぜマイルスがトップに表記されないことに抗議しなかったのかは定かではないが、可能性としては、彼らには相互に敬意があったと考えるのが妥当だ。」
というように結んでいて収まりが良い。


 
4月、ギル・エヴァンス(Gil Evans )の「 New Bottle, Old Wine」 (World Pacific WP 1246)の録音ではキャノンボールが大きくフィーチュアされた。


 マイルスのバンドは年に数回フィラデルフィアでの公演があった。この年、レッド・ガーランドははっきりとした理由は言わずに、フィラデルフィアに行くことを頑なに拒んだ。マイルスの説得にも応じなかった。

 ある日、キャノンボールはマイルスに「車に乗れ」と誘われた。車の中で「ビル・エヴァンスを聞いたことがあるか」と尋ねられた。ウディ・ハーマンとの仕事を終え、フリーランスの仕事をしていた弟ナットの参加したバンドで聞いたことがあった。素晴らしいピアニストだった。
 「どうだった?」と聞くマイルスにキャノンボールはそう告げた。「そうだろう。フィラデルフィアに連れて行くつもりだ」とマイルスは言った。
 フィラデルフィアにはエヴァンスが来た。エヴァンスの繰り出す新しい次元のサウンドはバンドに新たな喜びをもたらした。そこで、マイルスは「あいつを引き止めるつもりだ。どこにでも来るからな」とレッドに告げた。

 自分の賃金が保障されるという意味でも都合のいいことだったとキャノンボールは語ったが、彼はいつの間にか、金を集め、メンバーに支払い、レコードの管理をするバンドのマネージャーのようなことをやっていた。
 カフェ・ボヘミアのギグで、
フィリー・ジョーはギャラを全額引き出してしまっていた。最終日に支払われる金はなかった。フィリーは全額は引き出していないはずだと抗議した。フィリーは長い間ある問題を、ドラッグ禍を抱えていた。
 支払われる金はないと主張すると、フィリーは「ボストンで、君らは俺なしでやるんだな」と言った。ボストンにはジミー・コブが来て、メンバーになった。
 5月、このメンバーで「Jazz Tracks」が録音された。
 キャノンボールによると、マイルスは
ジミー・コブの速い曲に対するアプローチに不満を漏らしていた。爆発的なドラミングのフィリーのいるときに比べれば、速い曲は少なくなった。

 キャノンボールのリバーサイド・レーベル第一作目
「 Portrait Of Cannonball」(Riverside RLP 12-269)は、ビル・エヴァンス、サム・ジョーンズ、フィリー・ジョーにトランペットのブルー・ミッチェルで7月に録音された。フィリー・ジョーはこの月の録音、マイルスの「 Porgy And Bess」 (Columbia CL 1274)にもキャンボールと共に参加した。
「 Portrait Of Cannonball」の中の「Nardis」はマイルスのオリジナルで、このセッションのためにマイルスが書き下ろして、わざわざスタジオに届けにきた。マイルス本人は録音していない。「ちゃんと演奏できているのはお前だけだ」とビル・エヴァンスはマイルスに言われたせいか、自分のトリオでの重要なチューンとして演奏し続けた。

 マイルスの9月のプラザホテルでのライブは録音されていて、ずいぶん後に発売された。相変わらず猛烈な勢いで吹きまくり、「Oleo」では後の彼の特徴の一つでもある半音上に向かってのアウトサイド・ラインも聞こえる。

 エヴァンスは黒人グループの中に一人いる白人としてバッシングを受けたりしていて、さらにマイルスは時々彼を「Whitey」(白んぼ野郎)と呼ぶことがあった。ストレスを感じていた彼はバンドから去る覚悟を決めていた。エヴァンスは在籍6ヶ月ほどで辞めた。
 マイルスは再びレッド・ガーランドを呼び寄せた。レッドは相変わらずのルーズさを発揮する、名うての遅刻魔だった。バンドは最初のステージはいつもピアノなしで演奏を始めなければならなかった。ディジー・ガレスピーのバンドのウィントン・ケリーがマイルスの目に留まり、レッドに替わった。
 そこからずいぶん後に、キャノンボールはアポロシアターでの仕事後、階下にレッドがいると聞いて降りて行った。皆がハグしたり談笑している中に、多くの音楽仲間達に囲まれたレッドがいた。そこでレッドが言った。「みんな、私は仕事があるから行かなきゃ。9時から仕事があるんだ」
 その時既に10時だった。

 10月の終わり、ヴァイブの名手ミルト・ジャクソン(Milt Jackson)と「 Things Are Getting Better」 (Riverside RLP 12-286)を録音した。
 ミルト・ジャクソンとは1957年、彼のリーダーアルバム「 Plenty, Plenty Soul」で共演済みだった。Wynton Kelly (p) Percy Heath (b) Art Blakey (d)のバッキングを得て、「Things Are Getting Better」「Groovin' High」「The Sidewalks Of New York」「Just One Of Those Things」などを演奏した。マイルスのバンドとは異なる赴きのサウンドの中で、キャノンボールはブルースに根ざすラインをはち切れそうな音で吹いた。

 ここのところ控えめだったグロートーン(唸るような奏法)も全開で、「Just One Of Those Things」のソロ後半ではうるさいほど。ケリーの見事なバッキングもミルト・ジャクソンの指向性もキャノンボールとの相性は抜群だった。
 何でも出来た彼は、周りで起こっていることには実に素早く反応する。そこから全体の中の自分の位置を見極め、適応して行く。それが彼のいいところでもあり、弱点でもあった。しかし、このようなサウンドの中でファンキーに吹くことが、何より好きであったろうことは間違いない。

 59年2月、マイルスバンドのメンバーはシカゴにいた。2日、3日とコルトレーンを除くメンバーはポ-ル・チェンバースのリーダー・アルバム「Go」を録音。セッション中、ケリーがトランペットが必要だと言い出し、キャノンボールは以前聞いたことのある若者を思い出した。早速連絡して現れたのがフレディ・ハバード(Freddie Hubbard )で、この時20才だった。
 3日の録音はコルトレーンも入った「Cannonball Adderley Quintet In Chicago  (Mercury )」へと続いた。この時期のサックス奏者の記録を代表するような名盤となった。

 2人は凄まじい演奏をした。2人とも次のステップのスタートへ向けて秒読み段階だった。この時点で、既にコルトレーンはコードを説明するようなメロディの作り方から一歩踏み出し、スケールからのアプローチが顕著になっていた。
 相互にインスパイアされながら4曲を録音した。キャノンボールのソロで録られた「Stars Fell On Alabama」はアルトサックス・プレイヤーの誰をも魅了した。サックス奏者であれば誰でも聴くべきだと言われるアルバムになった。


 ナット・アダレイによれば「2人は、お互いに敬意を持ち続け、とても仲が良かった。それに、彼らは桁はずれの耳(giant ears)を持っていました。ほとんどの人が得ることの出来ないものが、彼らには聞こえていました」

 3月、マイルスは「Kind of Blue」のレコーディングを始めた。このプロジェクトにビル・エヴァンスが欠かせなかった。ウィントン・ケリーは「Freddie Freeloader」1曲のみの参加だった。
 ジャズ史上最も名高い録音で、「モードの夜明け」とも言われるものになった。

 ディジー・ガレスピーはバップを「リズムの革新」だと言い、掌を合わせながらリズムを出し、その革新だと言う旋律の起伏を歌って見せた。ディジーのものではないが、譜例はLimehouse Bluesのキャノンボールのソロ。「ターツ・ツウツツトティオ・ティトタイトティトタ・テトウィト・・・」歌い方は自由だが、アクセントに注意すると、ラインの持つリズミックな部分が見えてくる。このシンコペーションの連続が「リズムの革新」の核だとディジーは説明する。これによって、ドラムもピアノも、全ての楽器が変化せざるを得なかった。

 「Kind of Blue」はハーモニーとメロディラインの革新への扉をこじ開けるものになった。「So What」でマイルスが示したのはスケールだった。8小節の繰り返しで16小節、半音上で8小節、元に戻って8小節。大方のチューンの32小節の単位は守られた。そのスケールと、スケールから導き出したコードの中でソロラインを構築するという試みで、Milestonesの延長だった。エヴァンスはジョージ・ラッセルとの交流の中で、既にそのような方法を取り入れた演奏もしていて、違和感なく後日「モード」と呼ばれるものに対応した。

 Dドリアン(便宜上Dm7と記譜されたものもあった)の部分での左手のコンピングは譜例のような和音が弾かれている。全員がエヴァンスのように対応できたわけではなかった。ポール。チェンバースはランニングの中では、ほとんどの場合Aに下降する形でBbを弾いた。キャノンボールも理解できていないなどという人もいたし、ウィントン・ケリーはそれまで通りのブルースを弾いた。理解できないのではなく、システムは了解したとしても耳に聞こえてこないものは弾けないというのが正しい。
 後からさまざまに付けられた理論的な説明ほど厳密なものでもなかった。マイルスは鷹揚だった。彼にとっては幾つかのアイディアが提示され、少しでも実現されたことが重要だった。
 結果、コードに対する、それまでとは違う形のアプローチとして広まった感がある。当たり前のアプローチの一つとして認識され、現在手に入るジャズの理論書のほとんどに「モード」の項目はなく、あったとしても、ほんの数ページのスケールを示す程度のもので、ましてや「モード奏法」などという言葉はどこにもない。(「Jazz Theory Book - by Mark Levine」「The Serious Jazz Book - by Barry Finnerty」等々)
 当初は多くのミュージシャンが「So What」のような形式の曲を手がけたが、そこから先の展開が難しかった。
しかしながら、このやり方は曲作りに大きな影響を与えた。使われるスケールの相互関係に制約がなく、従来の転調の概念とは違う跳躍をみんなが試すようになった。

 
コルトレーンはさまざまな旋法を取り入れつつ、四分音のピッチの領域まで突き進んだ。N.Cと表記されるようにコードの特定を促さず、スケールは自由にmodulateされた。このやり方は大きな影響を、特にサックス奏者に与えた。デイブ・リーブマンはその著書において、極論すれば「何のコード、スケールを吹いているか自覚しているのであれば、どこで何を吹こうとかまわない。」というようなことを示した。
 とどのつまり、ソロを構築するのは個々のアイディアであって理屈から導き出されるものではなく、オリジナリティを示すのはスタイルではなく創造力だと仰るわけで、分かりやすい。

 4月6日、「Kind of Blue」の続きがレコーディングされた。 

 このアルバムはすべてワンテイクだと伝えられていたが、実は完奏出来たワンテイクという意味だった。ほとんどの曲に、途中で終わったもの、テーマでつまずいたものなど、いくつものアウトテイクがあった。

 彼らの周りは慌ただしかった。コルトレーンは「Kind of Blue」の2回目のレコーディング前に、発表はされなかったが「Giant steps」の1回目のレコーディングをしていた。エヴァンスの「Everybody Digs Bill Evans 」(Riverside RLP 12-291)が5月に発売された。オーネット・コールマンは奇しくもキャノンボールの「Somethin' Else」のレコーディング1ヶ月前に「Something Else」を録り終えていて、59年は「Tomorrow Is The Question!」、アトランティック移籍後「The Shape Of Jazz To Come」「The Art Of The Improvisers」と立て続けに録音していた。ロリンズは長い雲隠れに突入しようとしていた。
 リー・モーガンを擁したブレイキーのジャズ・メッセンジャーズは「モーニン」「ブルースマーチ」を引っさげ、ファンキー・ジャズの立役者として意気盛んだった。この年の暮れに
ウェイン・ショーターも加入した。

 キャノンボールはマイルスのバンドに長居し過ぎたと感じていた。辞することを告げるとマイルスは年間の給料を保障する条件などを提示して慰留を促した。しかし、キャノンボールには、休止中のナットとのバンドも気掛かりだった。ピアノにボビー・ティモンズ(Bobby Timmons ) を迎え、バンドは再結成された。

 その年の10月に録られた「The Cannonball Adderley Quintet In San Francisco」は、ティモンズ作曲の「This Here」がもたらした効果もあって、それまでで一番売れたアルバムになった。同じく彼の曲「Dat Dere」(That Thereのもじり)は次のアルバムに収録された。「Mornin'」の作者でもあった彼の曲はバンドが人気を得ることに大きく貢献した。

 アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズを辞めてきた事に後悔のあったティモンズは、次のアルバム
「Them Dirty Blues」の録音に参加した後メッセンジャーズに戻ったが、僅か数ヶ月の在団はバンドにとってかなり重要なものを残した。

 60年の「Them Dirty Blues」には「Work Song」が収録された。ナットがずいぶん前に書いた曲で、ナット自身のアルバム「Work Song」で既に録音済みだった。当初、彼らはあまり重要だとは考えていなかったこの曲は、特に日本で高い人気を得た。
 63年の初来日の際、この曲に対する観衆の熱狂振りに驚いたとナットは語っている。

 N・A:「日本に到着してすぐ、彼らがこの曲をまるで国家のように扱ってくれることに驚きました。僕らは毎夜この曲を演奏しました。彼らにとって聖歌のようなものだと思えました」

 オスカー・ブラウン(Oscar Brown)は歌詞を付けてレコーディングし、ティファナ・ブラスもこの曲をカバーした。アダレイ兄弟にとってビッグ・ソングになった。
 アルバムは、ストレートアヘッドなジャズチューンとポップな趣のファンキーチューン、それにブルース・チューン「Them Dirty Blues」が並び、アダレイ兄弟のライブ活動を象徴するものになった。「Easy Living」では相変わらずのバラードプレイをキャノンボールは聞かせた。

 アルバム・タイトル曲のThem Dirty Bluesではバリー・ハリス(Barry Harris )がピアノを弾いた。バリーのピアノを受けて、サム・ジョーンズとルイ・ヘイズがなだれ込む4小節のイントロ(譜例)、キャノンボール、ナット、バリーのソロ、すべてのものにキャノンボールの「いつもブルースがあった」と言う通りのものが聞こえ、サム・ジョーンズとルイ・ヘイズもリラックスしてこれに応じた。

 バリー・ハリスはティモンズに替わるピアニストにはならず、イギリス人の
ヴィクター・フェルドマンが後に続いた。フェルドマンはヴァイブもこなす器用なプレイヤーで、後にマイルスの アルバム「 Seven Steps To Heaven」にも名を連ね、自作曲「Joshua」「Seven steps for heaven」を提供する才人でもあった。キャノンボールとの接点は、60年5月の「Cannonball Adderley And The Poll-Winners」のレコーディングだった。
 レイ・ブラウン、ウェス・モンゴメリーなどのいるスタジオに現れた、当時まだ無名のフェルドマンは、圧倒的なデモ演奏でみんなを驚かせた。 
 フェルドマンの入ったアルバムは「The Cannonball Adderley Quintet At The Lighthouse」など数枚だが、近年になってCD化されたライブ音源を聞く限り、ナットの「ヴィクター・フェルドマンがメンバーの頃のバンドは本当にうまく行っていた」という言葉が納得できる、まとまりのよいサウンドを聴かせた。

 1961年1月、ビル・エヴァンスとの
「Know What I Mean?」 (Riverside RLP 433)が録音された。「ボビー・ティモンズなどとは違うサウンドで演奏してみたかった」とキャノンボールは語った。ソウルジャズからの脱却を図っていたとも言われるが定かではない。ベースとドラムには、パーシー・ヒース、コニー・ケイと2人のMJQのメンバーを配した。全体の雰囲気を作っているのは明らかにビル・エヴァンスで、キャノンボールはエヴァンスのサウンドを噛みしめるようにアルトを吹いた。
 
トリオ・アルバム「Portrait in Jazz」を作り(59)「Explorations」を録音中のエヴァンスは独自の世界を築きつつあり、キャノンボールは幾分戸惑い気味にラインを中断する箇所も聞かれる。彼の目論見が全面的には成功したとは言い難いものになった。

 スタジオ・ミュージシャンとして充分やっていけたビクター・フェルドマンは、新婚の妻の申し出もあり、ツアーに出ないとの決断をしてバンドを去ることになった。
 次に現れたピアニストが
ジョー・ザヴィヌルだった。ダイナ・ワシントンのバンドを辞めたばかりのザヴィヌルは、誘いに喜々として従った。「彼のピアノにはブルースがあった」とは、バリー・ハリスなどが指摘したことだったが、ジョーのキャノンボール・バンドでの初録音は、62年2月、エディ "クリーンヘッド" ビンソンの「Back Door Blues」だった。
 「ブルース歌手をキャノンボールのバンドがバックアップします」という形での録音で、アダレイ兄弟にとってはフロリダ時代に敬愛したミュージシャンとの共演だった。

 歌手との共演盤が続いた。次のレコーディングは、コロンバス出身の新鋭歌手、ナンシー・ウィルソン(Nancy Wilson)とのアルバムだった。
 ナンシーは、コロンバスの小さいクラブでキャノンボールが見出したとされているが、彼女が語る出会いは少しニュアンスが違う。
 56年、コロンバスのテナー奏者、ラスティ・ブライアント (Rusty Bryant)のバンドに入るために大学を辞めたナンシーは、58年にラスティと共にレコーディングでニューヨークを訪れた。その時にキャノンボールに会った。

 
Nancy Wilson:「私とラスティが52番街とブロードウェイの角あたりを歩いている時にキャノンボールに出くわしました。ラスティとは知り合いだったようで、しばらく立ち話をしました。彼はバンドを解散したらしく、ナットはライオネル・ハンプトンのバンドに入り、キャノンはマイルスのグループに参加すると言ってました。それからすぐ、コロンバスで彼に会いました。ラスティと出演していたMarty's 502にマイルスのバンドで来たのです。ジョージ・シアリング (George Shearing) アーマッド・ジャマル (Ahmad Jamal) 、ラムゼイ・ルイス (Ramsey Lewis) などのマネージャーとして有名なジョン・レヴィがキャノンにも付いていることは知っていました。私にとってジョン・レヴィは大きな指針でした。自分にも付いてくれることを望んでいました。」

 その時に何曲か共演したキャノンボールはナンシーの才能に感嘆し、連絡を保つように心がけた。ジョン・レヴィがナンシーにも付き、キャピトルと契約した彼女は60年の最初のシングル「 Guess Who I Saw Today」で大成功を収めていた。
 共演アルバムはナンシーの歌とインストゥルメンタルが半々の形で収録された。

 バンドには、さらにテナーとフルートを吹くユセフ・ラティーフ(Yusef Lateef )が加わってセクステットになった。

 キャノンボールは、C・A「とにかく、それまでに会った誰よりも快い人物でした。音楽を演奏し、構成する基礎的なアプローチを身に付けていて、ホーンを通じて表現されるものの全てに価値があるという点ではマイルスのようでした。」とユセフを入れた理由を語っている。

 セクステットではディジー・ガレスピーバンドの「Dizzy's Business」、「Jessica's Birthday」など、3管編成でアレンジしたものを演奏した。ユセフは個性的な自作曲を何曲か提供し、その幾つかは彼のオーボエと並んでエキゾチックな色合いを放った。
 この編成で63年に初来日した。更にスピード感の増したステージが録音され
「The Japanese Concerts」「Nippon Soul」として発売された。

 キャノンボールはブルースから来たものであるように見えて、弟ナットが舌を巻くほどあらゆる音楽に通暁していた。それは古典から現代音楽にまで及び、あるインタビューではシュトックハウゼンを引き合いに出したりもした。その部分では大いに通じるものがあったザヴィヌル、ラティーフとクラシック音楽の話をすることも度々あった。  ユセフによれば、
 
Y・L:「1962年にグループに入ったとき、まず最初にしなければいけなかったことは本(楽譜)のすべてを覚えることでした。キャノンボールは、サンフランシスコでの最初の仕事の際、舞台に楽譜は出して欲しくないと言うのです。本にはあまりにも多くの曲があって、覚える余裕などほとんどありませんでした。私はなんとか覚えましたが。彼はストラヴィンスキー(Stravinsky)からシェーンベルク(Schoenberg)まで、あらゆる音楽に通じていました。」




 62年、キャノンボールはブラジルから来た若いプレイヤー達と、「バードランド」で知り合った。そのグループのピアニストでリーダーだったセルジオ・メンデス(Sergio Mendes)はその時のことを言葉少なに語っている。

 Sergio Mendes:「1962年にカーネギーホールでボサ・ノヴァのコンサートがあって、私はボサ・リオ・セクステットで出演しました。ジョビンもジョアン・ジルベルトも来ましたし、スタン・ゲッツもディジー・ガレスピーもいました。それは、自分がそこにいることが信じられないほどのことでした。次の日、キャノンボール・アダレイという有名なサックス奏者が出演しているというので、バードランドに行きました。そこで、彼はバンドと一緒に演奏させてくれて、しかもレコードを一緒に作らないかと誘ってくれました。」

 その年の暮れに彼らとのアルバム「Cannonball Adderley With Sergio Mendes & the Bossa Rio Sextet」を録音した。

 オリジナルのジャケットは上のもので、「Cannonball Adderley and the Bossa Rio Sextet with Sergio Mendes」と書かれている。中央のものはその日本盤ジャケットで「Cannonball Adderley With Sergio Mendes & the Bossa Rio Sextet」
 しかし、最近のCDには妙な風景写真が使われていて、「Cannonball's Bossa Nova・Cannonball Adderley with the Bossa Rio Sextet」となっている。どうしてかは分からないが、Sergio Mendesは無視された形だ。
 オリジナルのジャケットに見られるように、女性モデルの写真を使ったジャケットは当時のソウル系のアルバムに顕著な傾向だった。黒人アーティストの写真を前面に出すことはなく、海岸で寝そべる水着の女性の写真などが多用された。人種差別と騒ぎ立てるものでもないが、当時の社会情勢の一端がここにある。しかし、マイルス・デイヴィスは自分の身近にいる黒人女性の写真をアルバムジャケットに使うことで意思表示を明確にしたとされる。
 
セルジオ・メンデスのセクステットのメンバーにはドラムのドン・ウン・ロマン、このアルバムでも数曲のオリジナルが演奏されたギターのジョルヴァル・フェレイラがいて、曲はすべてブラジルのものが選ばれた。半分ほどにグループのアルトとトランペットがバッキングで参加した。キャノンボールのアルトは艶やかにストレートにメロディを奏で、新しい素材を得て閃き溢れるソロを展開した。

 フロリダ州立大学の生徒はこのレコードを教材にし、アルバムの中のキャノンボールのソロには一切の繰り返しがないことを発見した。ソロ譜の出版に携わったティム・プライスは、この事実に驚き称賛した。数曲にホーンが入っているとは言え、残念なことに、これが最後のワン・ホーンアルバムとなった。

 セルジオ・メンデスは、66年に発表した「Sergio Mendes & Brasil '66」に含まれた「Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)」が世界的な大ヒットを記録した。

 1964年、リバーサイド・レーベルが経営破綻し、キャピトルに移籍した。ユセフ・ラティーフは去り、新たに加入したのがチャールス・ロイドだった。
 ロイドの加入は、新しいことにチャレンジできるとザヴィヌルを喜ばせたが、キャノンボールは困惑した。ロイドのアンサンブルへの適応は、ユセフ・ラティーフとは違うもので、以前の曲が出来なくなった。それはアンサンブルというより、6人のソリストという状況になった。
 それでもロイドの曲を採り上げたりしたが、アルバム「
Live!」「Fiddler On The Roof」に参加したロイドは程なく退団した。
 ロイドにとっては 
 Charles Lloyd:「バンドはショッキングなほどの量感がありました。エネルギーは高く、体調を崩しそうな毎日でした。バンドスタンドに上がると、ルイとサムが強力にリズムを出し、さらにザヴィヌルがパンチを繰り出す。こちらが傷つくほど強力で、屋根の上まで吹き飛ばされそうでした」というような日々だった。

 ロイドのコルトレーンに影響されたようなラインの作り方は、キャノンボールにも刺激を与えたのだろうが、この時期のキャノンボールは以前には聞かれなかった攻撃的なラインを試すように変化していた。Joel Dornプロデュースで編集された「Radio Nights」の中の曲で聞くことができる。大胆な和声的試みも、目も眩むようなすばしこいパッセージも、キャノンボールはより正確にバランスよくやってのけた。
「Fiddler On The Roof」がSam Jones と Louis Hayes にとっても最後の参加アルバムになった。2人はオスカー・ピーターソン・トリオに入った。

 65年はオリバー・ネルソン・オーケストラとの「Domination」だけが録音された。
 キャピトルでのアルバム制作は、オリン・キープニュースとのリバーサイド時代とは勝手が違うものだった。会社側の企画でなければ録るはずのない「Fiddler On The Roof」や「 Great Love Themes」(66年)などが作られた。「 Great Love Themes」は「Somethin' Else」の「枯葉」をオーケストラで再現する目論見もあったが、弦はクゥインテットの上で甲高くヒステリックに響き、まったく落ち着きのない仕上がりだった。

 66年の「 Mercy, Mercy, Mercy!」はバンドに新たな方向性を与えた。ベースがヴィクター・ガスキン(Victor Gaskin)、ドラムがロイ・マカーディ( Roy McCurdy)に替わった新バンドでの1枚目だった。ザヴィヌルのアルバムタイトル曲は、シングルカットされて驚異的な売り上げを記録した。
 このヒットの裏には、そこに至る少々の経緯があった。リバーサイド時代のよき理解者オリン・キープニュースは「私は最終的に自分のやりたいやり方で、あなたとやってきたような方法でレコーディングできるようにキャピトルを説き伏せた。」とキャノンボールに告げられた。

 それは、ライブで録音することはもちろん、ゴスペル、ブルースに根ざした曲を演奏することで聴衆の熱狂を誘い、ステージをヒートアップさせるというようなものだった。ディス・ヒア、ワークソング、ジャイブ・サンバ、サック・オブ・ワウなど、彼らのステージにはいつも親しみやすく楽しい曲が挟まれた。

 アルバムはナット・アダレイの「Fun」で幾分ハードなスイングビートから始まり、同じくナットの「Games」、「 Mercy, Mercy, Mercy」と続いた。
 アルバムを通して聞くと、決して「 Mercy, Mercy, Mercy」のポップさを全面に出すものでもなく、むしろあっさりと「 Mercy, Mercy, Mercy」は処理されている。5分足らずの曲で、キャノンボールのインプロヴァイズ・チューンとしては扱われず、ザヴィヌルのエレクトリック・ピアノのサウンドだけが強調された。むしろ、最後の「Sack O' Woe」の勢いが目立つ。まるで、ゴスペル教会に紛れ込んだかのごとく圧倒される。「 Mercy, Mercy, Mercy」はステージで再演されることの多かった曲だが、何れも手短に演奏され、ソロスペースを増やす愚をキャノンボ-ルは犯さなかった。彼は、この曲をどのように演奏すれば聴衆に受け入れられるかを見通していた。メロディとザヴィヌルのサウンドがあれば全てはうまく行った。

 この曲が売れることを確信していたキャノンボールは、キャピトルにライブ録音を提案した。Live at Clubとされているのは、実はキャピトル・スタジオでの公開録音だったと指摘する声は多く、それは間違いない。しかし、これには伏線があった。
 「 Mercy, Mercy, Mercy」の録音された10月より遡ること7ヶ月前の3月18、19、20日とライブ録音されたものがあった。キャノンボールの古くからの友人ロドニー・ジョーンズ(Rodney Jones)は、知り合いと共にシカゴの古いクラブを買い取り、その名も「The Club」として営業を始めていた。そのオープニングの出演バンドの一つがキャノンボールのグループだった。キャピトルは3日間を録音した。

 この録音から、サイド1「Money in the Pocket」「Stardust」サイド2 「Hear Me Talkin' to Ya,」 「Requiem for a Jazz Musician」 「Cannon's Theme」と、マスターまで作られていたにも関わらず発表されなかった。
 替わりに、キャピトルは4月録音の「 Great Love Themes with strings」を発売した。「Cannon's Theme 」「 Money in the Pocket 」「 Hear Me Talkin' to Ya 」「 The Sticks 」は、編集されたものがシングルカットとして発売されたものの、アルバムとしてはお蔵入りになった。結果的には、このときの「Live at the Club」が「 Mercy, Mercy, Mercy」の副題に転用されることになった。
 失われたアルバムは
「Money in the Pocket」として、さらに3曲を加えてずいぶん後に発表された。

 62年の「 In New York」では「Scotch And Water」1曲の提供だったザヴィヌル作品のアルバムに占める比率が高くなっていった。「 Mercy, Mercy, Mercy」のようにゴスペルのテイストを含むポップな
「Walk Tall」「Country Preacher」と並んで、シリアスな作品も多く作曲した。
 「 Mercy, Mercy, Mercy!」に収められた「Hippodelphia」とか、「74 Miles Away」「Requiem for a Jazz Musician」「Yvette」など。「74 Miles Away」は4分の7拍子で書かれた作品だが、他のどのように書かれた曲でもそうだったように、キャノンボールはいとも簡単にソロを展開することができた。

 ザヴィヌルに負けじとばかりに書かれたナットの親しみやすい作品も収められていたのだが、2人の間には少々の確執も生じることになった。ナットは、ザヴィヌルが急進的な方向へ向かい過ぎると不満を漏らすようになった。「Work Song」「Jive Samba」など、作曲者としてバンドに大きく貢献してきたナットにすれば、新しいものより自分のルーツとなったものに愛着があるのは当然のことだった。
 69年のライブ音源には、まるでエディ・ヴィンソンのようにナットが歌うブルースが収録されている。(面白いのは、曲がナットとザヴィヌルの共作になっていることだ。)


 68年の「Cannonball In Person」では、その頃のグループの最も充実したライブが記録された。ザヴィヌルの「Rumpelstiltskin」(ルンペルシュティルツキン=ドイツ民話の小人)と「The Scavenger」(スカベンジャー)は共に10分を超える演奏で、このアルバムのメインだった。「スカベンジャー」でのキャノンボールは、7拍子に乗って絶妙なソプラノサックス・ソロを吹いた。
 ゲストヴォーカルとしてルー・ロウルズとナンシー・ウィルソンが1曲ずつ入っていて、ここでのナンシーは凄まじい歌を聴かせた。


 曲は61年の共演アルバムの1曲目「Save Your Love For Me」で、ナンシーは大スターの貫録も充分に見事な歌いっぷりで観客を圧倒した。さらに、キャノンボールはバーンステインの「Somewhere」で、見事なストレート・メロディの吹き上げを演じてみせた。
 ナットの「Sweet Emma」は、ザヴィヌルの曲とはまったく違うブルースルーツの小曲で、評論家レナード・フェザーはライナーノーツの中に、この2人の作風が引き起こすバンドの幅広さに言及している。
「Rumpelstiltskin」のソロ後半で、キャノンボールはエディ・ハリスのように電気サックスvaritoneを使い、オクターブ下の音を同時に鳴らして、更にファンキーに盛り上げた。

 チャールス・ロイドの言う、とてつもないエネルギーを持つリズムセクションは、メンバーが替わろうと収まることなく、ヴィクター・ガスキンのベースも縦横無尽に動き回った。その中で、キャノンボールは更に進化したラインを、調性からアウトするときでも独特のファンキーさを保ちながら示した。

 一連のキャノンボールのグループでのザヴィヌルの動向、特にエレピを使用したサウンド作りなどがマイルスの知るところとなり、「In A Silent Way」から「Bitches Brew」に至るレコーディングセッションにザヴィヌルは参加することになった。
 マイルスはキャノンボールの公演情報を調べ、メキシコにまで聞きに行くこともあったと証言している。

 初めてソプラノサックスを吹いたとされているのが「Accent On Africa」だった。(「In Person」でも吹いていて、どちらが先かは判然としないが、68年であることは確かなようだ)
 
コンパクトに曲をまとめたポップな作りで、エレクトリック・ベースとギターを含む大編成のこのアルバムを経て、69年「Country Preacher」は売れた。人権運動家のバブティスト系牧師ジェシー・ジャクソン(Jesse Louis Jackson)の運営する福祉施設でのライブ録音。師の紹介で「Walk Tall」が始まる。政治的な意図は分からないが、Walk Tallは「胸を張って歩く」との意味を持ち、刺激的なオープニングでもあった。このアルバムからベースがウォルター・ブッカー(Walter Booker )に替わった。

 バンドは以前にも増して忙しくギグをこなす日々が続いた。60年代最も商業的な成功を収めたバンドはキャノンボールのバンドだと言われている。ザヴィヌルは「年に45週は仕事があった。」と言い、キャノンボールのバンドにいたメンバーは、インタビューに答えて誰もが必ず仕事の多さに言及した。
 数々のヒット曲を抱え、しかもユセフ・ラティーフによると「彼から音楽ビジネスについて多くのことを学びました。キャノンボールはとても利口で抜け目のないビジネスマンでした」という能力で、ブッキングでの苦労はなかった。

 上「The Cannonball Adderley Quintet And Orchestra」
 下「The Price You Got To Pay To Be Free」


 退団の意向を固めつつあったザヴィヌルと共に録音した「The Cannonball Adderley Quintet And Orchestra」は、ウィリアム・フィッシャーが長年暖めてきた、オーケストラとの共演企画アルバムだった。クインテットとロスアンジェルス・フィルで、フィッシャーが書いた「Experience In E」ラロ・シフリン「Dialogues for jazz quintet and orchestra」プロデューサーでもあったデヴィッド・アクセルロッドの「Tensity」、3つのスコアが録音された。

 70年9月、ナットの子息、ナット・アダレイ・ジュニア(歌手、ソングライター)のデビューを記念して行われたライブを記録した「The Price You Got To Pay To Be Free」がザヴィヌル最後の参加作品になった。ライブはパーティ気分で進行し、ナットは自らをフィーチュアする曲で新しい試みに挑戦し、その上何曲か歌った。ウォルター・ブッカーはアコースティックギターを弾き、キャノンボールも1曲歌を披露した。ザヴィヌルはオリジナル「Directions」でこれからの方向を示すようなサウンドを聞かせた。バンドとしてまとまりなどなく、それぞれが勝手にやっている状況が窺えた。
 限られた出番の中で相変わらずのサックスを聞かせ、いくつかのソロは斬新な部分を含んでもいたが、全体的にキャノンボールは出番が少なかった。


 ピアノがジョージ・デューク(George Duke)に替わり、何人ものパーカッション奏者の入った「Happy Peple」が発表された。このアルバムはポップな指向を持った商業的なものではあったが、ここでのキャノンボールは自由に長いソロを展開した。日本では評論家連中が「Jazz Nova」とかいう新しい造語を考え出し、このような動きをムーブメントとして盛り上げようとしたが、大した効果は得られず、このような試みは安易に過ぎるとの意見もあった。

 キャノンボールにしてみれば、さまざまな企画に従って可能性を探るというようなものであり、それぞれのアルバムで常に最良のソロを演奏した。しかし、グループとしての方向性だとか問題提起を求める人達には受け入れがたいものだったらしい。かと言って、マイルスが電化したバンドでライブを始めると、それにはそれで抵抗を示す人達も多かった。問題はスイング・ビートが衰退していくような時勢にあり、誰もが手探りで模索を続け、次の動向を計り兼ねていた。

 次のアルバム「The Black Messiah」のタイトル曲は16分のトラックで、ジョージ・デュークのエレクトリック・ピアノが大きな存在感を示した。ライブで録音されたものだが、アーニー・ワッツ(Ernie Watts) (ts) Mike Deasy (g, vo) 、バック・クラーク( Buck Clarke )(African d) アイアート・モレイラ(Airto Moreira) (per)も参加。この時期、プロデューサー、アクセルロッドはロックビートを前面に押し出すサウンド作りを試み始めた。ギターの存在感も増し、パーカッションは必要不可欠のものとなった。「クロスオーバー」と呼ばれた、ジャズとロックを混合したような形態の音楽ジャンルが大きくクローズアップされ、多くのジャズメンがロック・ビートと向き合わざるを得なくなった。それを否としてヨーロッパに脱出するミュージシャンも後を絶たなかった。

 この時期のキャノンボールは、音楽界に起きている様々な出来事、「フリー」や「ロック」などについてインタビューで語っている。1968年11月 The Chicago Seed Newspaper、Joe Gallagherによるインタビュー
 ジャズの将来について。
C・Adderley:「どちらかというと曇っています。様々な聴衆の受け入れる展開を見る限りでは奨励できるものでもなく、少し悲観的です。真のジャズを演奏しているジャズ指向のグループは聴衆を広げているのですが、ジャズの聴衆は少なくなる一方のようです。それが心配になることの一つです。本当に、人々は、それはいい、それは美しいと、クラシックに対しては言及したようなことを言うことに確信を持てていないのです。それの一因は、私たちがジャズの中で、大いに実験的に行ってきたことでした。ジャズ・アヴァンギャルドは既に何かをしました。しかし、アヴァンギャルドによってジャズで行われていることに大きい受け入れはありませんでした。」

J・G:「人々の何パーセントがアヴァンギャルドに興味を持っているのか、あるいはありがたく思うのか、レナード・フェザーが数カ月前のダウンビート誌で、読者がどのぐらいアヴァンギャルドに興味持っているか調査を行いました。40パーセントの人たちがとても興味を持っていたと伝えられました。」
C・Adderley:「けれども、私は彼らがそれを支援しているとは思いません。興味を持っているということで充分ではないかも知れません。ま、それはシュトックハウゼンの音楽が違ったようにです。確かに、シュトックハウゼンが行ったことには幾つかの面白さがあります。特に、その偶然性のある種々のことに気付き、音楽を理解するミュージシャンや人々の間では。しかし、それは好奇心を満足させる選択のようで、情緒の満足ではありません。それが私を悩ませるものでもあるのです。不幸にもジャズの著作のコミュニティでは全てを一つにまとめますけれど、全部を同等に考えるわけではありません。
 チャールス・ロイドのためのマーケットがあり、オーネット・コールマンの可能性のあるマーケット、コルトレーンがいたころのマーケットもあったでしょう。しかし、他の演奏方法も他のジャズも知らない、この大きなコミュニティの若者たちは、見たところそれほどのインパクトを持っていないのです。彼らが、他の演奏者と同じような道を辿らずに成長して来たということに関して、少し心配しているのです。
 コルトレーンのような人が到達したことには、主観的な面白さより、少なくとも彼が成長を続けるための基礎があったと考えます。」

J・G:「換言すれば、彼らは出発時点で何も持っていなくて、コルトレーンが誠実に行ってきたことの価値に比べ、彼らの多くはナンセンスであることが判明したと?」
C・Adderley:「それ自体がナンセンスだとまでは言いませんけど。それがジャズ芸術に完全に関係していて、ジャズのフォームを画一化するということです。過去がない未来はありません。それに、ジャズがどこから来たのか理解しない誰もが、ジャズがどこに行くのか示す資格がありません。それはその種類のことです。
 彼の熱心なファンでさえ、彼のやることに受け入れる準備が出来ていないことにより、最後にはコルトレーンのクラブ出演が大いに減っていました。それはコルトレーンの欠陥ではありませんし、誰の欠陥でもありません。
 芸術家は自分が属するものをしなければなりません。しかし、実験段階にいる時、何かに到達する途上にあります。そして、何かを進展させようとしている誰のケースでも起きるでしょう。しかし、ジャズは絶え間ない進展にあると思われますから、私は唐突な大きな飛躍については不思議に思うのです。
 わたしはアヴァンギャルドというもの、彼らがやっていることが他のモダンジャズ・ミュージシャンに、マイルスがやっていることのように、ますます強く影響を与えていると考えます。
 確かなのは、私たちはオーネット・コールマンやジョン・コルトレーン、セシル・テイラーなどからダイレクトに影響を受けています。それで、次のステップのためになんらかの準備が出来ているかどうかは・・・・」
J・G:「完全な飛躍・・」
C・Adderley:「そう、抑制されない自由。」

J・G:「あなたは、我々がモダンジャズの主流と呼ぶもの、まあ言わば徐々に進歩している人々が本当にボールを運ぶということに同意しますか?
C・Adderley:「ボールを運ぶ?」
J・G:「はい。アヴァンギャルドと呼ぶものより、どちらかと言うとジャズの中心のもの。」
C・Adderley:「さあ、わたしには分からないです。面白いのはすべてがエリントンに帰結することです。
 デューク・エリントンがいなければ、ジャズの中で前進できなかったでしょうし、モダンジャズ、伝統的なフィーリングを持っていなかったでしょう、ポリリズム、単純な調性と同じように多調も。彼がいたから、私たちが知っているジャズに向かえたのだと思いますが、しかし、それはちょっと恐いことです。
 私たちの問題は人々に聞いてもらうことです。素晴らしいプレイヤーがいて、彼らはいつも素晴らしいでしょう。

 人々をジャズに引きつけた要素は何でしょう?それについて考えましょう。ジャズは一種の神秘性を持っていました。それにはいつも驚きがありましたから、ポピュラー音楽やダンス音楽とは違いました。常に即興演奏の自然さがありましたし、とりわけ人々の興奮は彼らがしていることを楽しむことにありました。いま、それらの同じ要素がポピュラー音楽の中にありませんか?それは私の主要な関心事でもあります。 
 そこには刺激的なリズムの工夫が施された、ある特定のロックンロール、リズムアンドブルースがあります。複雑なのは、ヴォーカルの自然発生的な即興のものでさえ、私たちの演奏と同じような要素で、即興演奏のベースにあるものが新しく聞こえるのです。彼らが他の要素を取り入れつつ得ている音楽を、私は少し怖く思います。私たちのジャズのアプローチの中にある知的な部分はアカデミックになってきているのではないか、それで、彼らがいいことは知っているから、そしてフィーリングを楽しむよりも我々に何かを言おうとしているのか、何かを教えようとしているのかということを見るために、聞いてみるのです。

J・G:「今あなたがロックに関して言った、面白いリズムを伴う即興と急成長は、音楽はジャズだとかロックだとかの余計な区別が必要ないという意味でも、たぶん将来を見ることが出来ます。あなたはブレンドが起きると思いますか?

C・Adderley:「そのような混合されるブレンドがあるかどうかは分かりませんが、音楽の部門別分類が終わるとすればいいことではないでしょうか。それはデューク・エリントンが言った何か・・・。私は立ち戻り続けるのですが、彼はいつも私の大好きなジャズ哲学者です。彼は、私たちに必要なのはジャズという愚かな用語を捨てる事だと言います。音楽は何をしますか?音楽は何を意味しますか?」

J・G:「将来、統一された音楽があると思いますか?」
C・Adderley:「いいえ。統一された音楽など、アメリカ人がそれぞれにチョイスできる音楽が必要であると思う限り、多くのカタログ数が必要ですから。
 ロックンロールとリズム・アンド・ブルースの間の相違があります、そしてジャズロックとハードロックがあり、フォークロックがあります、常に何かがある、それで私は、統一された民族が決していないことと同じように、統一された音楽があるだろうとは思いません。それが創造的である限り、異なったことが起きるでしょうが、しかし私はポピュラー音楽のすべてにあるのと同じ要素が含まれるだろう音楽がある事を確信しています」

J・G:「それは、調和と多様性であるべきかと思いますが。もし皆がどのように同じであったら団結があり得ますか?あなたは活発な団結のフィーリングをお持ちじゃないようだけど。」
C・Adderley:「皆のニーズを満たすための音楽などあって欲しくありません。多様なソースとスタイルを同じ音楽の中に見出している、多くの人たちのコンセプトが好きです。
 私は誰かの家に行って、ラムゼイ・ルイス (Ramsey Lewis) の、ラヴィ・シャンカール (Ravi Shankar) の、とウィルソン・ピケット (Wilson Pickett) 、多分サイモンとガーファンケル (Simon Garfunkle) のものを見かけるかも知れませんから。」 


 別のインタビューでは「あなたはマイルスが今やっていること、音楽での新しい立場を切り崩そうとしていることを重要だと考えますか?」との問いにこう答えている。

C・Adderley: 「(重要かどうか)私は知りませんが、構わないと思います。それがマイルスのライフスタイルですから。彼がすることを模倣する人がいるでしょうし、新しい立場はそういう人たちが模倣することも意味するでしょうが、やがて別のところに入っていくはずです。人が革命的な力を持っているかどうか、彼が言うことがすべて受容できるほどに重要であると見なされるかどうかは気にしません。彼がやっていることがすべて好きでもありませんが、ビッチス・ブリュー(Bitches Brew)の中に素晴らしいものがあるとも思います。それと、私を動かさない幾つかのものもあります。けれども、それも、やはり私です。その中のものを全部好きな人もいますし、全部嫌いな人もいます。
私のマイルスへの態度はこうです:私は彼のホーンを聞くのが好きです。彼が作曲家として素晴らしいとは思いませんが、彼の楽器には次元の違う生命力とコミニュケーションがありますから、演奏するものが何であれ、聞くことは好きなのです。
 そして、たとえ彼のバンドが嫌いであっても、彼が好きであろうと思っています。」

  1969年の「ビッチズ・ブリュー」発表前後のジャズシーンはエレクトリックピアノの出現などの影響もあって、多くのミュージシャンが新機軸を求めるサウンド作りに奔走した。エイトビートが取り入れられると「ジャズ・ロック」なる言葉が新たに加えられた。先鞭をつけたのは63年のリー・モーガン「The Sidewinder」だった。ファンキージャズの路線を継ぐ馴染みやすいメロディはたちまち聴衆に支持されてヒットした。

 67年ウェス・モンゴメリー(Wes Montgomery)の「 A Day In The Life 」はヒットした。1962年にジェリー・モスとハーブ・アルパートによって作られたA&M・レコードは、ジャズシーンでも新風を吹き込むレーベルとして次々に同じような作品を送り込んだ。
 1968年、アルトサックスのルー・ドナルドソンは「アリゲーター・ブーガルー」のヒットでポップシーンに躍り出た。ドナルド・バードは「エレクトリック・バード」を発表し、フレディ・ハバードは「Back Lush」に続き、CTIからリリースされた「Red Clay」が注目され、しばらくはその路線で大いに活躍した。このような変化は、やがて「フュージョン」というジャンルに繋がることになった。

 キャノンボールのレコードも、72年に入るとその傾向は更に加速された。ラップ風ヴァーカルがフィーチュアされ、キャノンのソロパートのないものもあった。「Music for All」ではアーニー・ワッツのテナーが大きくフィーチュアされた。

Nat Adderley - Soul Zodiac 72 
Soul Of The Bible 72
Music You All 72

 より深いビブラートを加えたサックスのサウンドで新しい表現の試みも聞かれるようになったが、基本はファンキーの一言に尽きた。しかしながら、大半の曲はグループのサウンド表現がほとんどを占め、キャノンボールのサックスを聞くものではなくなっていた。普段のライブでは、相変わらず「Straight no Chaser」などを演奏していたクインテットのアルバム制作が、本来のクインテットのスタイルに戻ったのは73年の「Inside Straight」で、ピアノはハル・ギャルパー(Hal Galper)に替わっていた。
 お約束のファンキーチューンと並んでギャルパーのオリジナル曲が取り上げられた。

 この年の7月、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルにアダレー兄弟は突然現れた。2人は商用で近辺にいたらしく、ジーン・アモンズのステージにゲストとして登場した。「Gene Ammons And Friends At Montreux」として発売されたアルバムのリズムセクションはハンプトン・ホース(Hampton Hawes)、ボブ・クランショー(Bob Cranshaw)、ケニー・クラーク(Kenny Clarke )で、もう一人のスペシャルゲストがデクスター・ゴードン( Dexter Gordon)だった。当初はデクスターとジーンのテナーバトルの予定ではなかったかと思われるが、Abのブルース「Treux Bleu」での全員の熱演が記録された。
 ハンプトン・ホースのエレクトリック・ピアノサウンドも心地よく、キャノンボールは20コーラスを超えるソロを吹いた。このようなシチュエーションでのキャノンボールはまた格別で、新しい閃きを伴う人懐っこく陽気なラインは圧倒的な存在感を示した。(譜例はソロの出だしから2コーラス途中まで。ラインがコードの外へ飛び出す時もメロディアスに紡がれていく。


 75年に発表された「PHENIX」には、サム・ジョーンズとルイス・ヘイズ、ウォルター・ブッカーとロイ・マカーディ、新旧のリズム陣が呼ばれ、数々のヒット曲を再演した。

「Work Song 」「Sack O’Woe」「Jive Samba」「This Here」「74Miles Away」「Country Preacher」「 Walk Tall 」「Mercy Mercy Mercy」まるで別れを告げるようなアルバムだった。いかにも体調の悪そうな音だったが、ソロに移ると、失われるはずもない閃きが随所に溢れた。

 この年の8月、ツアー中に倒れたキャノンボールは帰らぬ人となった。カフェ・ボヘミアから20年後のことだった。

「1966年、J・J・ジョンソン( J.J. Johnson) メル・ルイス( Mel Lewis)ロン・カーター( Ron Carte) アート・ファーマー(Art Farmer)と一緒に、国際ジャズ・コンペティションの審査員としてウィーンに行きました。私の母さんはウィーンでも有名なコックでした。それで、みんなを私の家での食事会に招きました。キャノンは母さんの料理が気に入って毎日のようにやって来ました。彼はドイツ語を話せませんし、私の父も英語など一言も話せませんでした。それでも、彼らは突っ立ったままで大笑いしていました。キャノンには、言葉を超えて通じ合える不思議な能力がありました。」

                  ジョー・ザヴィヌル

「ある年、私とキャノンボールがポーランドにいた時、彼は私が落ち込んでいることに気付きました。私のところにやって来ると "君はハグが必要なんじゃないかな" と言って強くハグされました。彼は素晴らしいミュージシャンでしたけど、そのハグの方がずっと印象深く残っています」
 
                  ジェイムス・ムーディ

「 キャノンボールは何度も私を手助けしてくれました。初めてニューヨーク (New York) に独りで来た時、バスから降りた私が電話をした最初の人がキャノン (Cannon) でした。」
                  ナンシー・ウィルソン

「彼のヴィジョンは、広く知られているようなジャズの範囲を超えたところにありました。彼はそれを、商業的な理由ではなく、さらに発展させようとしていました。クラシック、ブラジル音楽、ソウル等々私は多くのことを学びました。彼はそれらのことを融合させようとしていました。」
                  ジョージ・デューク
 




 後記

 キャノンボール・アダレイを知ったのは17才の頃。当時、LP盤は高校生が入手するには値段が高過ぎたのだが、いくぶんお手ごろなシングル盤サイズの17cmLPが様々なジャンルでシリーズ化されていた。ジャズのシリーズもあって、アート・ブレイキーの「モーニン」「ブルース・マーチ」のカップリング盤、マイルスの「死刑台のエレベーター」「ミシェル・ルグラン・ジャズから」のカップリング盤などを買い求めた。キャノンボールのものは「Things are gettinng better」と「Them Dirty Blues」だった。

 誰がセレクトしたのかは知らないが、見事な選曲だったと思う。この2曲は擦り切れるほど聞いた。「Them Dirty Blues」は今聞いても当時と同じように感動できる逸品だと思っている。後年、「Them Dirty Blues」は譜割がむつかしくて書き起こすことを断念したが、「Things are gettinng better」に関してはキャノンボールのソロはもちろん、ミルト・ジャクソンもウィントン・ケリーも採譜した。プロとして仕事をするようになった後、キャノンボールのレコードは次々に棚に増えていった。残っているアナログ盤は下の写真のようなものだ。

 少し紹介すると、左はオーケストラとの共演盤で,中が有名な「雲」で始まるセルジオ・メンデスとのもの、右がコルトレーンとのセッション。右の2枚は現在入手できるものとは違い、日本盤のデザイン。

 繰り返し聞き過ぎてジャケットがボロボロになっているのが左の「Cannonball in Person」、ナット・アダレイのご子息の歌がお気に入りだった「The Price You Got To Be Free」、格安で売られていて飛びついた、レイ・ブラウンとのオーケストラ作品「Two For The Blues」

 左から「Inside Straight」「In Japan」「Milestones」もちろんマイルスバンド時代のものもよく聞いた。


  左はベスト盤で、「Happy People」「Gene Ammons in Montreux」

 ソロラインが進化し続けた後期のものもよく聞いたが、どういうわけか日本では人気がないらしい。
 70年代初め、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・トーキョー」というコンサートが催されていて、3つか4つのグループが来日して毎夜のようにコンサートを行なった。その年はポール・デスモンドが復帰したブルーベックのクァルテット+ジェリー・マリガンとキャノンボールのグループが私的には目玉だった。特にキャノンボールのグループは昼一回のみの公演しか予定されていなくて、仕事にも差し支えない時間帯であれば聞き逃す手はなかった。
 しかし、キャノンボールは来なかった。落胆も大きく、我が師匠は窓口で払い戻しを言葉厳しく要求してサッサと帰ってしまった。しばらくして彼の訃報が入り、二度と聞けないことを知ってさらに落胆した。

 数年前、ある雑誌社から、定期的に出している雑誌でサックス奏者のことを取り上げるコーナーを作りたいのだが引き受けてくれないかと相談された。初回のお題は「キャノンボール」だという。あまりにも大変そうでお断りしたのだが、押し切られて書くことになった。彼のインタビュー記事を探したり資料集めに奔走することになったが、幸い、若いころに買った彼の曲集の冒頭にデビューが遅れた経緯も書かれていたからなんとかまとめることができた。熱中し過ぎて雑誌社の指定を大幅に超えるページ数となってしまったが、ここにはノーカット、さらに書き足しを加えて公開した。



参考文献

「KCFR Interview by Jack Winter Jan 30, Feb 4 /1972.」
「Interview The Chicago Seed Newspaper by Joe Gallagher November,1968 」
「The Strongest Man They Ever Knew by Adderley Brothers from Cannonball Adderley Complete Fake Book」

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「Nat Adderley Interview by Tim Price from Cannnonball Adderley Transcriptions」
「Downbeat Magazine : March issue 2003」
「Cannonball the Communicator by Chris Albertson Downbeat Magazine : Jan iisue 1970」
「Jazz Wax / Yusef Lateef Interview. by Marc Myers」
「Jazz Wax / Nancy Wilson Interview. by Marc Myers」
「Sergio Mendes Interview 」
「Bill Evans : How My Heart Sings by Peter Pettinger」
「In A Silent Way : A Portrait of Joe Zawinul : by Brian Glasser」「A Critical Biography : Miles Davis: by Ian Carr 」「Miles : The autobiography : by Miles Davis and Quincy Troupe」「The Life of Miles Davis : by John Szwed」「Kind Of Blue : The Making of The Miles Davis Masterpiece : by Ashley Kahn」anc More……..




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