テキサス・テナーの巨人たち
系譜などというと大げさだが、テキサスは多くのテナーの名手を生んだことで知られていて、ブルースに根ざす豪快な音色が顕著な彼らのことを「テキサス・テナー」と呼んだりもする。イリノイ・ジャケー(Illinois Jacquet 1922-2004)、アーネット・コブ(Arnett Cobb1918 - 1989 )、デヴィッド・ニューマン(David “Fathead” Newman 1933 - 2009)、バディ・テイト(Buddy Tate 1913 - 2001)、キング・カーティス(King Curtis 1934-1971)、ブッカー・アーヴィン、ジェームス・クレイ、ウィルトン・フェルダーなどが知られている。
テキサスはテナーだけでなく、多くのサックスプレイヤーを輩出したのだが、それを地図上で見てみよう
Houston(ヒューストン);イリノイ・ジャケー、アーネット・コブ。この2人はテキサス・テナーの代表格として度々語られる。ジャケーは隣のルイジアナの生まれだが、この地で育ったことからテキサス出身とされている。ウィルトン・フェルダー(Wilton Felder)、ビリー・ハーパー(Billy Harper)、ロニー・ロウズ(Ronnie Laws)、ハロルド・ランド(Harold Land)、エディ・ビンソン(Eddie “Cleanhead” Vinson)
Dallas(ダラス):バド・ジョンソン(Budd Johnson)、ジェームス・クレイ(James Clay)、ジョン・ハンディ(John Handy)、ジミー・ジュフリー(Jimmy Giuffre)
デヴィッド・ニューマンはダラス南部のCorsicana(コルシカーナ)の生まれ。後にダラスに移ったのでダラス出身者とされている。コルシカーナとダラス間は89キロで、これは東京ー小田原間の距離に近い。
コルシカーナの右上に位置するAlsdorf(アルスドルフ)はニューマンが師としたバスター・スミス(Buster Smith)の生地。
Sherman(ダラス北部のシャーマン):バディ・テイト(Buddy Tate)
Denison(デニソン):ブッカー・アーヴィン(Booker Ervin)
Fort Worth(ダラス西部のフォート・ワース):キング・カーチス、Ornette Coleman(オーネット・コールマン)、Dewey Redman(デューイ・レッドマン)、Prince Lasha(プリンス・ラシャ)
Wichita Falls(ウィチタ・フォールス):Leo Wright(レオ・ライト)
全員が豪快な音色というものでもないが、どちらかと言えば、都会的なすました芸風よりも個性の強いプレイヤーが多いように見受けられる。ジミー・ジュフリーはその中で異彩を放っている。
テナーでブローするスタイルの演奏家をホンカーと呼ぶことがある。最近ではほとんど使われないが、これはHonk(車のクラクション、ガチョウの鳴き声)から来ていて、うるさいわめき声と形容されたもの。たとえばカウント・ベイシーのビッグバンドでテナーサックスのバトルが度々行われたのだが、その際に音をグロール(咽で声を出しながら吹く、音は歪む)させたり、同じことを繰り返したり、やたら高い音を連発したりして聴衆を煽ったやり方などを指す。しかしながら、そのような演奏は、いわばテナー奏者の余興のようなものであって、それだけを追求したわけではない。例えばトランペット奏者のハイ・ノートのようなもので、あくまでも遊びの範疇だと考えるのだ妥当だ。そのような演奏が得意だったアーネット・コブなどが度々その筆頭に挙げられたりもするが、それだけを追求したわけでもなく、本人にとってありがたい称号だったかどうかは分からない。彼はブルース基本の即興演奏家であり、まぎれもないジャズメンの一人だった。ジャズのサックスプレイヤーは多かれ少なかれブローはするわけで、そういった意味ではキャノンボール・アダレイやデヴィッド・サンボーンだってホンカーと言って差し支えない。そのような呼び名を誰が言い出したかは分からないが、一時的な印象でレッテルを貼った無責任な呼称だと思われる。しかしながら、これは後に続くロックン・ロールのサックス吹きには有難い演奏法の一つになった。

Illinois Jacquet ( イリノイ・ジャケー)(1922 - 2004)
そのようなブロー・スタイルの先鞭をつけたのが、ライオネル・ハンプトン。オーケストラの元で録音されたイリノイ・ジャケーの「Flying Home」のソロで、ロックン・ロール・サックスの最初の録音だとされている。時は1942年、イリノイ・ジャケーは若干19才で、その後の彼の評価を決定する演奏となった。
そのソロラインの出だしなどの主要部は、アーネット・コブ、デクスター・ゴードンなどに替わっても引き継がれるものになった。
ジャケーは1919年クレオール(フランス系移民)の両親の元、ルイジアナで生まれた。彼の父親はパートタイムのバンドリーダーでもあり、こどもの頃は父のバンドでアルトを吹いていて、6人兄弟の一人はトランペット、もう一人はドラムを演奏するといった具合で、音楽に囲まれて育った。15才のころ、地元のダンスバンドで仕事を始め、17才の時にはロサンゼルスでナット・キング・コールに出会い、度々一緒のステージに上がったものと見られるが、ナットはカリフォルニアに戻ってバンドを組んでいたヴァイブ奏者のライオネル・ハンプトンにジャケーを紹介した。雇うことを望んだハンプトンは、テナーに替えられないかと頼んで、テナー奏者として参加することになった。
その2年後(1942年)に「Flying Home」(ベニー・グッドマン、ライオネル・ハンプトン作)がヒットすることになった。オリジナルの録音はブローといっても控えめだったが、ヒットするとハンプトンはこの曲をショーのクライマックスに持ってきて毎夜のブローを期待するようになっていった。ジャケーはこの展開に疲れたという。「Flying Home」はハンプトンのステージだけではなく彼自身の名義のものも含めて実に多くの録音が残されている。ハンプトンとの録音にはハードなブローをしたものもあるが、粋なラインを紡いでいるものも少なくない。
最初の録音でのソロは、完成度の高いラインで彼の才能を広く世に知らしめることになった。ジャケーは当時19才だった。
A♭の循環コードのA部分8小節とブリッジ8小節を持つ32小節の曲でだが、最初のコーラスは、その後プレイヤーがアーネット・コブなどに替わっても引き継がれた。ジャケー自身が自分のバンドで再録したものでも最初のコーラスは同じように演奏されている。
後にホンカーとして取り沙汰されるワイルドなアプローチは2コーラス目に現れる。ルートのシンコペートされた繰り返しでバンドを煽るようなやり方だが、この時点ではまだおとなしい。
しかし、毎夜のライブステージではその方法がお決まりになり、次第によりエキサイティングな展開へと工夫を凝らすように変化し、さらにセブンスや3度♭を強調して、よりブルース色を出してブローした。突然の低音の連発、金切り声、なんでもありだった。
いわゆるロックンロール・スタイルでの先鞭をつけたラインは、自身の名義の録音に残されている。
ハンプトンにとっては、大ヒットを記録した聴衆に支持される十八番の曲でありステージには欠かせないものだったが、毎夜のブローはジャケーをウンザリさせるものになっていった。
「人は時々自分の生活を取り戻すために何かを止める必要があるんだ」とジャケーは語っている。「私は鏡を見て思ったわけだ。おまえは死んでいる。ハンプトンは金持ちになったのに。」
実のところジャケーのライオネル・ハンプトン・バンドへの参加は次に触れるアーネット・コブの代役だった。ハンプトンは長年自分のバンドへの参加をコブに呼びかけていたが中々腰を上げてもらえず、そんな折に現れたのがジャケーだった。そこでテナーに変えることを条件にジャケーを雇うことになった。ブローの要求もコブのようにというものだった。しかしながら、それに応えたブロー・スタイルがジャケーを広く世に知らしめることになったわけだ。
1943年にはハンプトンのバンドを辞め、キャブ・キャロウェイのバンドに加入。1944年にはカリフォルニアに戻り、ドラムを演奏していた兄弟と、若き日のチャールス・ミンガスと共にバンドを結成した。1946年、彼はニューヨークに移り、レスター・ヤングに代わってカウント・ベイシーのバンドに参加した。60年代、70年代を通じてスモールグループで主にヨーロッパで演奏を続け、81年からはイリノイ・ジャケー・ビッグ・バンドを終生続けた。リーダーアルバムは40枚を超えている。「テキサス・テナー:イリノイ・ジャケー・ストーリー/アーサー・エルゴート/アメリカ/1992」は彼のビッグバンドのドキュメント映画とも言えるものだが、この中では「Flying Home」における彼のソロの素晴らしさをロリンズが語っていたりする。彼はホンカーとかに分類されるだけのサックス奏者ではなく、ジャズを真剣に取り組んだレジェンドの一人で、1993年のビル・クリントンの就任の際にはホワイトハウスでクリントンと共にCジャムブルースを演奏した。
彼のテナースタイルは、インタビューに答えた多くのプレーヤーの記憶では「ビッグ・トーン。フル・トーン」に尽きるらしい。豪快に楽器を鳴らし、有無を言わせぬ説得力があったという。
ベニー・ゴルソンはジャケーについて。
「彼はノーマン・グランツのJazz at the Philharmonicでのツアーを始めたのだけど、アーティストというよりエンターテイナーとしての役割を担わされ、2,3コーラスの金切り声のようなブローを演奏しました。しかし,彼は実のところ最先端のプレイヤーでしたし、それは彼も分かっていました」
フランク・フォスターは初めてジャケーを聴いた時のことを語っている。「彼のソロは音楽的な心地よさとスイング感があり、そしてソウルフルでした。そのソロは事前にあらかじめ決められていたかのように思えました」
ビッグトーンだけではなく、彼はまたバラードのマスターとしても高く評価されている。ベルベット調の音色でハーモニーを語る達人という具合だ。バラードに於けるアドリブソロのラインが特に重要だというものでもないが、「スススススッ、ズスススススススッ」というようなサブトーンで優しく繊細に奏されるメロディには特別の趣がある。後年、多くのテナープレイヤーがムード・ミュージックの枠で同じような表現を試みたが、その原形の一つだといえる。例えばサム・テイラーがヒットさせた「ハーレム・ノクターン」もジャケーの場合、より繊細に演奏されている。
日本での過小評価はわめき散らすホンカーとしての認識がほとんどだったことにも因るが、ことさら深刻なものか逆に耳当たりの良いもの、両極端を好む土壌も影響しているかと思われる。
この人の来日公演は2度ほど聞きに出かけた。忘れられないのは新宿厚生年金会館でのことだ。普通、ミュージシャンは楽屋口から会場入りするものだが、開演前30分ごろロビーで待っていると、正面玄関からの階段をサックスケース片手に悠然と上ってくる白いスーツに身を固めた大きな黒人の姿が見えた。それがジャケーだった。笑っちゃうほど格好良かった。
2017年月10月14日
Arnett Cobb (Arnette Cleophus Cobbs / アーネット・コブ)
1918 - 1989

上記、イリノイ・ジャケーのドキュメント映画でもバディ・テイトと共に顔を出して、ジャケーと親しい会話で盛り上がるアーネット・コブ。彼はイリノイ・ジャケーより4才ほど年上のプレイヤーで、若いころはジャケーと同じバンドで活動したこともある。ライオネル・ハンプトンのバンドにはジャケーの後に参加した。
ジャケーよりも4つ年上であった彼が、実のところテキサス・テナーの始まりだったとも考えられる。
その激しい演奏ぶりから"Wild Man of the Tenor Sax”の異名で語られることもあるが、バラードにおける演奏では、サブトーンの巧みな使い方の語り口を聞かせ、間の取り方などを聴いているとアーチー・シェップの「Way Ahead」のブルースに通じるものがあるようにも思える。この人の演奏で忘れられないのが松葉杖でステージに上がった時の映像だ。との時はどうして松葉杖だったかは分かっていなかったが、杖を両脇で挟むようにして吹いたのが「On The Sunny Side Street」だった。これが素晴らしかった。テナーの中村誠一さんが「On The Sunny Side Streetをみんなは楽しい歌のように演奏するけど、あれは俺達もいつか明るい表通りを歩きたいなっていう歌で、ブルースなんだよ」と仰っていたことがあったけど、それを実感できる素晴らしいブルースだった。
1918年8月10日テキサス州ヒューストン生まれ。
祖母からピアノを教えられたのが音楽への道の始まりで、高校(アメリカでは12才から18才までをハイスクールと呼ぶ)でテナーサックスを手にする前にはヴァイオリンを学んでいた。15才でフランク・デイビス(Frank Davis)のバンド「Louisiana Band」に加わり、夏の間はヒューストンとルイジアナで演奏した。

フランク・デイビスがどの楽器を演奏していたのかは分からなかったが、1920年頃の彼のバンドは、ギタリストのヒューイ・ロングが最初に加入したバンドとして「Luisiana Jazz Band」を挙げていて、左のような写真が見つかった。トロンボーン奏者もいるし、ヒューイが手にしているのはバンジョーだと思われる。時代からしてニューオーリンズの流れを汲む音楽だったかと考えられるが定かではない。しかしこの写真から催し物などでショーを演じていたのだろうと察することができる。
トランペットのチェスター・ブーン(Chester Boone)のバンドで2年間働き、その後ミルトン・ラーキン・オーケストラ(MIlton Larkin)の創立メンバーとなったのが1936年18才の時。ブーン、ラーキン、共にトランペット兼歌手のリーダーだった。この時代に圧倒的な人気を誇っていたルイ・アームストロングの影響もあったかと思われる。ショービジネスの中での演奏活動であって、後の時代のジャズの形態とは異なる。1941年にチャーリー・パーカーの初録音の記録(ジェイ・マクシャン・バンド)があることからも分かるように、ビ・バップはまだ遠い出来事だった。この時代、テナーではコールマン・ホーキンスで、何よりもクラリネットのベニー・グッドマンが人気を誇っていた。
ラーキンのバンド仲間にはアルトのエディ・ヴィンソン(Eddie Vinson)、ピアノのセドリック・ヘイウッド(Cedric Hyawood)、オルガンとピアノのワイルド・ビル・デイビス(Wild Bill Davis)、イリノイ・ジャケーなどが在籍し、ハーレムのアポロシアターなどでも公演を重ねるテキサスで最も成功したバンドとなった。
その音色(open prairie toneと評されている)に加えて「南部の説教師」の創始者として名をはせた彼はこの間、カウント・ベイシー、ジミー・ランスフォード、ライオネル・ハンプトンなどのバンドからのオファーが続いていたが、それらを断り1942年まで在籍し続けた。ライオネル・ハンプトンのオファーを引き受けたのは1942年だった。そもそもライオネル・ハンプトンはアーネット・コブをバンドのテナーとして迎えたかったのだが、断られたところに現れたのがアルト奏者のイリノイ・ジャケーだった。ジャケーがハンプトンのバンドに入るにあたっての条件が「テナーに切り替えること。コブのように演奏すること」というものだった。まだ若かったジャケーはそれを承諾してテナー奏者として参加したわけだが、以後の活躍がテナー奏者としてだったことから考えれば、ジャケーにとっても大きな分岐点だったと思われる。どの文献を見てもジャケーの退団は43年で、コブの参加は42年となっていて、2人の在籍には重なった部分があるが詳細は不明。
ハンプトンはコブをソリストとして迎え、早速「Flying Home」のコブ・ヴァージョンを録ったが、さすがにコブにジャケーのラインをなぞることはさせず、メロディも幾分変えた「Flying Home2」として録音した。
彼はライター、リードセクションのアレンジャー、リード・サックス、ソリスト、スカウトとして1947年まで在籍した。ハンプトンの妻グラディス・ハンプトンと、コブの妻エリザベス・コブはバンドのマネージャーで、コブの母親は衣装を担当した。在籍中の彼はハンプトンバンドの中核を為していた。
1947年、自らのコンボを立ち上げユニヴァーサル・アトラクションのベン・ハーツと契約を交わし、広範囲のツアーを開始した。ここから彼独自のショーマンシップ全開のスタイルが始まったとされる。それは循環呼吸でのノン・ブレス奏法や、バー・ウォーキングと呼ばれるバーの中を動き回るやり方で、大いに観客を沸かせた。さらに表現方法がテキサス・スイング・ブルースの原形だと評されている。この時期に録音されたものから「Dutch Kitchen Bounce」「Go Red Go」「Big League Blues」といったヒット曲も生まれた。歌が入っているものもあって、彼のショーマンとしての立場を示している。47年の「Arnett Blows 1300」の幾分速めの「Still Flying」のソロでは音を歪ませたりすることもなく、ストレートにスイングするコブが聴ける。力強い音だがスインギーに展開する。客を湧かせた叫ぶようなやり方をいつもやっていたわけではなかった。
1950年から56年にかけても、コロンビア・レーベルから「Jumpin’ the Blues」「Lil Sonny」 「The Shy One」 「Smooth Sailing」(後にエラ・ フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)がスキャットで録音したことで知られる)。アトランティック・レーベルから「Night」「Light Like That」「Flying Home Mambo」など様々なレーベルから多くの楽曲を作・プロデュースしてヒットを記録した。
彼のコンボをサポートしたミュージシャンには、レッド・ガーランド(Red Girland)、ダイナ・ワシントン(Dinah Washington)、ジョージ・ディヴィヴィエ(George Duvivier)、サミー・デイビス・ジュニアの音楽監督としても知られたジョージ・ローズ(George Rhodes)、アル・グレイ(Al Grey)トロンボーン、ピアノのレイ・ブライアント(Ray Bryant)、トミー・フラナガン(Tommy Flanagan)、ボビー・ティモンズ(Bobby Timmons)、ベースのサム・ジョーンズ(Sam Jones)、ドラムのアート・テイラー(Art Taylor)などなど多くの精鋭たちが含まれる。
さらに自身のバンドのオープニングアクト(前座)に起用したのが当時無名のジェイムス・ブラウン(James Brown)で、ユニバーサルとの契約をさせるためにニューヨークに連れて行くことまで面倒を見ている。ゴッドファーザー・オブ・ソウルの生みの親がアーネット・コブだったわけだ。
1956年、交通事故により彼の活動は大いに妨げられる結果になった。医者のアドバイスに逆らってツアーを続けたこともあって、この時から松葉杖なしでは歩くことが出来なくなった。

それでも演奏活動を断念することはなかったのだが、当時住んでいたニュージャージーの寒く湿気の多い気候は厳し過ぎ、1959年にヒューストンに戻ることを決意することになった。この時期にピアニスト、レイ・ブライアント、トミー・フラナガン、ボビー・ティモンズ、レッド・ガーランドなどとの共演盤がプレスティッジ・レーベルに次々録音されている。特にレッド・ガーランドとのバラード集は絶品で、テナーの音色を自在に操る巧みさと歌心はかなりの説得力がある。
レッド・ガーランドとのバラード集から「Your Wonderful Love」の出だしが下の譜(テナーのキー)で、ベンドしてメロディに入る冒頭からテナーサックスを鳴らす喜びに溢れていて、ささやいたり喚いたりと彼の遊び心が盛り込まれている。こんな楽しいことはないと言っているように聞こえるわけだ。
ヒューストンに戻った後、上記プレスティッジの録音は幾つか続けたが、ツアーは制限。「クラブ・エボニー(Club Ebony)」を経営し、レイ・チャールス、エラ・フィッツジェラルド、サミー・デイビス、サラ・ヴォーンなどのツアーのために地域のオーケストラを手配するなどの仕事もこなした。さらに若い才能を生かす後進の育成のために多くの時間を費やした。
ジャズやR&B、ソウルなどのアーティストたちは、ギグやアレンジのために彼を必要としていたが、彼自身の名義でのレコーディングは1971年の「The Wild Man From Texas」までブランクがある。彼は53才になっていた。
1973年、転機が訪れた。長い間断り続けていたヨーロッパへ行くことになった。
A・Cobb:「私は独りでヨーロッパに行くことを恐れていました。(マネージャーでもあった)妻に行くかと訊くと行くつもりはないと答えました。彼女の母親は当時病気がちでしたから離れたくなかったのです。しかし、私の母はある日言うのです。私がおまえだったら、彼らが招待し続けてくれている内に行くでしょう。断り続けていると、おまえが本当に行きたい時には招待をあきらめているかもしれないじゃないかと。それで、私は行くことに決めたのです。妻の代わりに娘がマネージャーとして同行することになりました。最初はパリでした。Black and Blueという会社はレコード会社も兼ねていました。」
1973年から76年にかけて4枚のアルバムがBlack and Blueからリリースされている。コブが恐れていたのはヨーロッパでどれほど知られているのかという自分の知名度にもあったのだが、ライオネル・ハンプトン・バンドでのものも含めて自分のアルバムが売られていて、よく知られていることに驚いたと語っている。その後、「ライオネル・ハンプトン・オールスターズ」の一員として、「テキサス・テナーズ」のソリストとして全米、ヨーロッパ、日本などへツアーに出かけた。
1980年にはグラミー賞のBest Jazz Instrumental Performance - Group部門に「Arnett Cobb And The Muse All Stars - Live At Sandy's!」でノミネートされた。さらに1984年のB.B.Kingの「Blues n’ Jazz」はBest Traditional Blues Performanceを受賞。バックを支えたビッグバンドの立役者の一人として高い評価を受けた。
アメリカでのアーネット・コブの評価はイリノイ・ジャケー、ジーン・アモンズ、ジョニー・グリフィン、ヒューストン・パーソン、ソニー・スティット、スタンリー・タレンタイン、キング・カーティス、エディ・ロックジョー・デイヴィス、ラサーン・ローランド・カークなどの演奏家だけでなく、R&B、ソウル、ファンクミュージックに大きな影響を与えたとされている。
アーネット・コブ本人は自分を「straight-ahead jazz player」だと語っている。
A・Cobb:「私はビバップや、その他のスタイルに入ることはありませんでした。どんな種類であるにせよ、ベストを尽くすことにこだわるべきだと思います。」
アーネット・コブの存在を幾枚かのアルバムを買って知ったのは彼の晩年の時代で、テナーの響きは全盛期に比べれば幾分弱くなっていたことは否めず、しかしながら「ワイルド・マン」という評価に応えようとするサービス精神は衰えていなかった。それで老いてますます的な印象だけが残った。全盛期の録音はコルトレーンやロリンズ、ジョー・ヘンダーソンなどの陰に隠れて見えなかったというのが正しい。
年を経て彼のプレスティッジ・レーベルに残した、レッド・ガーランドやレイ・ブライアント、ボビー・ティモンズ、トミー・フラナガンとの共演盤を聴き、テナーサックスという楽器が実に繊細にコントロールされていることに驚いた。確かに豪快な面が特徴のひとつでもあるのだが、その底にある繊細なアプローチは「ホンカー」という括りだけで語ってはならないようにも思える。
2017年月11月21日