Jan Garbarek ヤン・ガルバレク


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 ノルウェーのサックス奏者、ヤン・ガルバレクについて度々語られる形容があって、それは「冷たい」とか「暗い」とかいう類いのものだが、ご本人はこのような言われ方に納得しているわけではない。

「あなたの音は際立っていて、多くの人が氷のようだと言うのですけど?」

J・G「いや、私は自分の音に豊かな表情を持たせたい、人間的な表現のすべてを含ませたいと望んでいるのですが、”氷のような”というのは、私がノルウェーから来たということだけで語られていると思います。自分の音についてそのように考えることなどまったくありません。ECMが始まったころ、私にも他のプレイヤーにも自然に起きた自然なサウンドだからです。それはヨーロッパのジャズのIDのようなものになりました。」

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 多くの人たちがイメージするのは左の写真のような風景かもしれないが、ガルバレクがイメージしているのは右のような風景かとも思われる。写真はどちらも彼が生まれ7才まで過ごしたノルウェーのミューセンのもの。さらに、その後を過ごしたオスロの町はお伽話の世界に近い。


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 このガルバレクについての当ページはサックス奏者の立場での視点から書いたもので、多くの譜例が含まれているが、これは生業からから来る職業病のようなものであって、特におたまじゃくしへの理解を求めるものではない。絵柄からなんとなく雰囲気を察して頂ければありがたい。彼を知るには残された録音物を聴くしか手立てはなく、時系列で追えば見えてくることもある。偏見があるなどとは思ってもいないが、独断ではあって、録音物から聴こえる変化から創造の変遷を辿ることにした。
 また、若いころに興味を持ったサックス奏者がたまたまECMレーベルからレコードを出していただけのことで、特にECMを持ち上げるものでもない。

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 1947年3月4日ノルウェー、ミューセン(Mysen)でポーランド系の父チェスラフ・ガルバレク(Czesław Garbarek)の子として生誕。父はナチスによって追放され、悪名高い「Blood Road」(ナチの鉄道建設。多くの人がここで亡くなった)で強制労働に従事させられたが、戦後ノルウェーの農場の娘と結婚した。戦後当時のノルウェーでは市民権の自動的な認可システムがなく、ヤンは7才まで無国籍だったがその後オスロに移転した。

*コルトレーンとデクスター・ゴードン

 サックスを始めた動機は、1961年、14才の時にラジオから流れたコルトレーンの「Countdown」に衝撃を受けたことによる。当時は他の少年たちのようにフットボールをし、スキーをする普通の子供で音楽に興味などなかったが、人生そのものを転換させたのは学校から帰宅してたまたま聴いたラジオ番組だった。
J・G「それが何であるかを知らなかったけれども、その音楽は私にインスピレーションを与えたのです。ノルウェーのラジオで毎週放送されている「ジャズの時間」という番組だったのですが、最後の曲に惹きつけられました。私はすぐに外出し、いくつかのジャズのレコードを買ったのだけど、それらは私を失望させました。それ等のものは聴いたものとまったく違うサウンドだったからです。それで、同じものを見付けようと探して、それがジョン・コルトレーンの「Giant Steps」というアルバムで、お目当ての曲は「Countdown」だと分かったのです」
 別のインタビューでは・・
「12とか13才のころは皆と同じように、エルヴィス・プレスリーのレコードに合わせて女の子と踊ったりするのは楽しかったのだけど、音楽そのものにはまったく魅力を感じてはいませんでした。しかし、ラジオでコルトレーンを聴いてすべてが変わったのです。ある日、戸外で友達と遊んでいて、いつの間にか周りが暗くなってきたので家に入ったのです。すると音楽が聞こえました。その時、とても特別な何かに惹きつけられました。曲が終わると司会者が ”これで今週のジャズアワーを終了します” と言ったので、その音楽がジャズだと知ったのです。その番組はコルトレーンの新しいアルバム「ジャイアント・ステップス」1960の曲を放送していたらしく、私が聴いたのは「カウントダウン」でした。すぐに私はアルバムを手に入れて、それ以来毎朝学校に行く前に朝食を食べながら聴きました。毎日、何年間も聴き続けました。当然のように、両親にサックスが欲しいとせがんで困らせたわけですが、ついにクリスマスにサックスを手に入れました。でもそれは古くて状態の悪い楽器でしたから、2週間ほどパッドを取り換えるためのオーバーホールに出す必要がありました。その間、サックス教則本を見ながら毎日フィンガリングを学び、サックスが戻ってきたときにはある程度の曲ならすぐに吹けるようになっていました。それがその後のやる気を推進することにもなったのです。」

 それまで音楽に興味のなかった少年が、コルトレーン・チェンジを使った複雑な楽曲を聞き取って惹きつけられたということがすでに非凡な才能を示しているともいえる。後年、ジョージ・ラッセルのバンドに入るまでは譜面を読めなかったと言っている彼はすべてを耳で会得したことになるわけだが、その時点でコピーできたとも語っている。

 ヤンはサックスを手に入れて熱心にコルトレーンを勉強することになったのだが、彼の天才性が如実に表れたのが一年後の1962年にアマチュアのコンペティションでの優勝だった。彼はサックスを入手したのがクリスマスだと語っているから、吹き始めて一年足らずの間にサックスを習得していたことになる。

 コンペティションの後、グループを率いて活動を始め(この時期のメンバーは不明)、その後ヨン・クリステンセン、テリア・リプダル、アーリル・アンダーシェンとの活動につながっていった。

J・G「そのうち私はコルトレーンを支持するミュージシャンに興味を持つようになりました。アーチー・シェップ、ファラオ・サンダース、アルバート・アイラーなどから様々なことを学んだのです。彼らと同じように演奏することができましたし、彼らの曲を演奏することで近しくなれたような気もしました。同じころ、アーチー・シェップがベン・ウェブスターから影響を受けたということを知りました。それでベン・ウェブスターを聴くことになり、そこからさらにコールマン・ホーキンスに達しました。古い演奏家から学ぶことが重要だと考えた私は、ジャズサキソフォンの歴史を解き明かす勉強を始めたのです。そこにありがたいものがあるかどうかは分かりませんでしたが、それを真剣に考えることなく、彼らのようにサウンドさせることは出来ないと思えたのです。

 もう一つの大きな影響はデクスター・ゴードンでした。当時デンマークに住んでいて、度々ノルウェーを訪れ、私がいつも共演しているリズムセクションと演奏しましたから、彼を数多く聴くことになりました。
 1960年代のトッププレイヤーの一人でしたし、その演奏は信じられないほど素晴らしく、心動かされるような体験が幾度もありました。影響は、誰かが言ったようにデクスターよりデクスターを演奏するといった具合で、それは私の若い熱意そのものでした。偉大な、本当に偉大なプレイヤーの彼から実に多くのことを学びました。彼はスタンダードを演奏しましたから、私はその領域には興味もなく無知ではあったのですが、それに習ってスタンダードを演奏しました。」


 ガルバレクの初期の記録として、1965年のモルド・ジャズ・フェスティバルの紹介のような形で収録された映像が残っている。映像では野外で演奏しているように撮られているが、今のプロモーションビデオのように録音した音に合わせたものらしい。ここで聞かれるのはチャールス・ロイドの「Island Blues」だが、18才ながらもコルトレーンからデクスターの影響を消化して新たなラインを紡ぐ様子が見てとれる。フレージングをそのままコピーしているものではなく、間合いなどを学んだと考えられる。このときのライブはラジオ放送もされて、ゴードンのハード・バップスタイルから派生した驚くべき演奏だと評された。

J・G 「その放送は・・・2人の若いミュージシャン、トランペッターと私、それに「Dream Trio」、ピアノのケニー・ドリュー、ベースのニールス・ヘニング・オルスト・ペダーセン、ドラムのアレックス・リールでした。トリオはアメリカのソリストのために編成されていました。それでノルウェーの若い演奏家が彼らと共演するためには彼らのスタイルの範疇内、いわゆるハード・バップ・スタイルでやる必要がありました。しかし私たちはとてもフリーな内容のものも用意していました。
 放送されたものから1年後に録音した最初のアルバム「Til Vigdis」もライブで録られたものですが、その標題曲は60年代に私が目指していたポイント、よりフリーな空気感のあるもので、指を鳴らして聞くようなハード・バップのものではありませんでした。」
 

 デクスターのように演奏して見せているころ、
J・G 「私はデクスターのように足を振ったりしていました。妻からみっともないから止めなさいと注意されたりしたものです。」

 ビバップを納得いくようにこなし、コルトレーンやアイラー、ファラオ・サンダースなどから多くのものを吸収していた彼は、やがて彼自身の音、アプローチを身に付けるべきだと意識するようになった。

J・G 「1960年代後期、私が即興演奏をするときに幾つかのポイントがありました。ある時はデクスターのようだったし、またある時はコルトレーンだったりしました。これではいけないと思うようになりました。ランダムに多くのプレイヤーのフレーズを選ぶのではなく、自分自身のものを見付ける努力をするべきだと・・・もしピアノがあるコードを鳴らして、それがコルトレーンを思わせるようであればコルトレーンのフレーズを吹くでしょうし、他の誰かを思い起こさせるものであればそのように吹くというのではなく。しかし、突然この「膝曲げ」演奏に気づき、それをもはや望んでいないことを自覚するに至ったのです。
*(ガルバレクはここでknee bendingという言葉を使い、何者かに成りきったような演奏態度を自ら揶揄している。)

 何か自分自身のオリジナルなもの、より自分らしいものを見付けようとしていました。演奏しているものはほとんどが自分自身ではなかったのです!!
  「しかし、この時期マイルス・デイビスをよく聴いていたのだけど、マイルスの演奏には大きなスペースがあること、決してコルトレーンのようになることなく、何か別のものが起きる余地があることに気づきました。それは本当にいい手がかりだと思ったのです。
 もし、その場に聞こえてくるものを利用するなら悪くなるはずもないのですが、そこにないものを無理に試そうとすれば悪い方向に向かいます。しかし、そこにある仲間たちの音からから閃きを得たなら何か別のものが出て、それは自分自身のものとして表れるかもしれないのです。それで、多くの音を演奏する必要がないことに気づきました。より自分であるためには他の音楽家がしていたことに関連していなければならないし、それこそが自分の個性につながるのではないかと考えました。」

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ジョージ・ラッセル George Russell 

 1965年のモルド・ジャズ・フェスティバルで自分の演奏が終わった後、彼はステージ外のジャムセッションに参加していた。

J・G 「私はいつものように目を閉じて演奏していたのですが、突然後で爆発のようなものが起こりました。本当に説明しようのないもので、大変なエネルギーがステージを覆いました。何かが起こったに違いないと気が付き、一緒に演奏していて頭を吹き飛ばされました。演奏が終わって振り向くとジョージがピアノを弾いていたのです。

 彼は肘で弾いたり、手の裏で弾いたり、従来のやり方では演奏していなかったのですが、強力なリズムとエネルギーがあって、それは素晴らしかったのです。その後で、彼のバンドのツアーに参加しないかと言われました。私は17才で、当然のことながらまだ学校に行かなければなりませんから、それは無理でした。しかし、国際的な尊敬のできる音楽家から声を掛けられたことは私の人生における大きな出来事でした。 
 なぜならば、そのような人たちの一員として認められたことが、仲間入りの儀式のように感じられたのです。それはプロとして働くかどうかということでもありました。ジョージは、彼がその時に住みラジオ出演などをしていたストックホルムに来て欲しいので、連絡を保つようにと言い、翌年にストックホルムでのビッグバンドのレコーディングに招くという手紙を受けとったのです。

 私が譜面を読めないことを告げると、やる予定だったものだけでしたが、譜面が送られてきました。しかし、彼のバンドの全部のレパートリーを把握するためにはさらに3ヶ月の準備が必要でした。ストックホルムに来て、ラッセルのバンドの(当時の私のコルトレーンに次ぐヒーローでもあった)バーンツ・ローセングレン(Bernt Rosengren)の隣に座りました。それはとても恐れ多いことでした。
 後になって思ったのは、その時の演奏そのものは災難ではありませんでしたが、あんなに難しい譜面は見たことがないし、なんと厳しいやり方で学んだのだろうということです。」
 ガルバレクのラッセルバンドでのデビュー作は「The Essence」(1967)で、彼自身の評価は控えめなのだが、同席した同じくテナーのバーンツ・ローセングレンはその頃のことを思い出してこう語っている。
Bernt Rosengren;「彼が特別だったというものが聞けるはずです。彼はとても若かったのですが、テクニックも身に付けていたし、何よりもとても自由な姿勢で音楽に向かい、すでに素晴らしい即興演奏家でした。違ったやり方に対しても非常にオープンでした。」

 ガルバレクはラッセルの「The Lydian Chromatic Concept Of Tonal Organization」の流れに身を置き、セクステットのライブに参加しつつ、その後もOthello Ballet Suite (1967) and Electronic Sonata For Souls Loved By Nature (1968)のレコーディングに参加した。

 この当時のことについて2004年のジャパン・タイムズのインタビューで興味深い発言があった。それは「ジョージ・ラッセルは偉大なジャズ理論家でしたが、その理論についての話はありましたか?」という質問に対する答で、
J・G 「いいえ全く。彼は非常に実践的でした。私は彼のバンドにいましたが、すべての作品がその理論的なところから作られているという知識もありませんでした。後で彼の本を読みましたが、彼はいつも、私の理論は作曲と演奏を少し楽にする傾向と分類に過ぎないと言っていました。音楽には、彼の言によればいいも悪いもないということでした。
 よく覚えているのは、個人的なレッスンの際にしてくれた音楽制作の様々な側面についてでした。そのような時も彼は話を止めて言ったりするのです。違う、違う、今ルールを作ってしまった、それはキャンセルだ。」
 まったく教わらなかったというものでもなく、いくらかのレクチャーは受けたようだが、演奏内容すべてがラッセルの教えに帰結するかのように捉えられるのをガルバレクは嫌っていたらしい。

 それ以前のラッセルとの関係は聴衆の一人としてだった。
J・G 「彼と最初に会ったのは1964年だったと思います。初めて行ったのは14才だったのですが、毎年のようにモルド・フェスティバルに行っていました。それは自分の学習のためでしたが、ジョージのセクステットの演奏をとても楽しく聞きました。それは風変わりなものでした。アメリカのバップ・スターが地元のトリオとスタンダードを演奏するというものではありませんでした。真に新たな発想のプレゼンテーションであり、私はその曲を好きになりました。サウンドも構想もです。彼らは私たち若者にとっては神のような存在でした。」
 この一年後に声を掛けられたガルバレクの喜びはいかばかりだったかと想像できる。


ドン・チェリー Don Cherry

 もう一つの大きな音楽的成長をうながす出来事はトランペッター(ポケット・コルネッティスト)のドン・チェリーとの出会いだった。演奏への影響はジョージ・ラッセルよりも大きかった。ノルウェーの文化の要素を彼の音楽に引き入れるように勧めたのはチェリーだった。その影響はジョージ・ラッセル以上のものをガルバレクにもたらした。

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J・G「かつて南スウェーデンに住んでいたのだけど、とても奇妙な服を着て、伝説でもあるドンがノルウェーにやって来ました。演奏は衝撃的で普通ではなかったのですが、とても霊感に満ちた友好的な人物でした。ノルウェーではいつも私やオスロの仲間たちと演奏しました。」

「ある時、私たちはBBCと同じようなノルウェー・ラジオでクァルテットの演奏をすることになっていたのですが、そこでドンが民族音楽の演奏家を知らないかと聞くのです。もちろん知っているが一緒に演奏したことはないと答えたのだけど、歌手を知っているというと、彼女がスタジオにやってくることになりました。ドンがすべてをアレンジして、みんなに何をどういう風に演奏するかを説明しました。結果的にそれは最も有機的で自然な、フリージャズと民族音楽が結びついたものになりました。完全な融合でした。そこで起こったことは本当にインスピレーションを与えるものでしたから、私も仲間もその可能性に目を開かされ、私にとっては重要な選択肢になりました。」

 このことは、自分自身の表現法を模索するガルバレクにとって天啓のようなものだった。ノルウェーの民族音楽に対する考え方が変わることになった。「Triptykon (ECM, 1972)」で、少し粗いものだったが、彼は初めてノルウェーのトラディショナルを取り上げた
 ドン・チェリーについては、ワールドミュージックとの関連についての質問に次のように答えている。
J・G彼は、そのすべてを始めたというか、少なくともその核心部分の役割を負っていたはずです。私はドンが前衛的なフリージャズのプレイヤーから文化的な明示として民族音楽へ移行する過程をよく覚えています。彼の衣装は世界中から集めたものの混合物のようだったし、世界中のスピリチュアルな文学作品を読んでいました。彼は楽器を収集するためにアフリカに飛び、トルコのミュージシャンと演奏し、スカンジナビアに行き・・・・。かれはまさにそのようなムーブメントを最初に具体化した人でした。それは私たち若いノルウェーのミュージシャンにかなりの影響を及ぼしました。彼はヒーローでした。

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 ガルバレクの興味は広範囲に渡っていて、あるインタビューでは次のようなことを語っている。

Krzysztof Eugeniusz Penderecki
 Jos L. Knaepen「誰もがあなたのアプローチについて、ノルウェーの音として話しますが、そこにポーランド(ガルバレクの父はポーランド人)の遺伝子はありますか?」
J・G「それはあるのだろうけど表面的に表れているかどうかは分かりません」
Jos L. Knaepen「例えばペンデレツキを聞きますか?」
J・Gはい、彼のことは高校生のころから聞き始めていました。ポーリッシュのつながりがあったわけではないけれど、一人の教師がレコードを聞かせてくれたのです。彼はオーネット・コールマンもボブ・ディランも、60年代初期のものを何でも聞かせてくれました。そして彼がこの2次大戦の追悼の「Tren」をかけたとき、オーケストラのクラスターと広いスペースなどがとても意外な音楽だと感じました。その後で他の作品も聞いてみました。1966年にポーランドに行った時にはいくつかのスコアを買ったものです。私は、まったく、スコアを持つ専門家ではなかったのですが、見ることと聞くことによって何かを同時に得ようとしていました。
「Tren」-(
Threnody to the Victims of Hiroshima 広島の犠牲者に捧げる哀歌

 ショパンを除いて、私にとって多くの意味を持っていた他のポーランドの作曲家もいました。シマノフスキー(Karol Maciej Szymanowski)とルトスラフスキー(Witold Lutosławski)の素晴らしい音楽を聞くことが好きでしたし、私がとても親密に感じる作曲家です。しかし、確かなのはグリーグが究極だということです。」
 (ペンデレッキと並んで現代ポーランドを代表する作曲家2人の名をあげた後に、ノルウェーの偉大な作曲家グリーグを最も大事だとしている)

 後年、ガルバレクは多くの映画、テレビとラジオ番組などのために作曲をしているが、その音楽からは様々な作曲家、ベートーヴェン、ショパン、シベリウス、グリーグ、ルトスラフスキー、武満徹などからの知識が反映されているとする評論があり、すべての音楽を受け入れる豊かな感受性を賞賛している。その方の意見では、ジャズはガルバレクにとって唯一の興味の対象ではなく、彼がジャズから学んだのは即興演奏だったとされている。上記バーンツ・ローセングレンの話などからも見える通り、現在に至るまでの多岐にわたる活動から納得できる意見ではある。

 様々な種類の音楽を演奏することは挑戦的ではなかったかとの質問に答えて、インド音楽との出会いを語っている。
J・G「可能性を見付けることは無限です。正直なところ、例えば、興味はあったのだけどインド音楽のことなど何も知りませんでした。60年代にジョン・コルトレーンのアルバムカバーで彼がインド音楽を好きなことを知り、広告を見てオスロの大きなホールに出かけたのですが、それが素晴らしいミュージシャン、ラヴィ・シャンカールでした。そこにはほんの25人ほどの客がいただけでしたが、本当に私の目を開かせてくれました。それは非常に込み入った複雑な音楽でした。」


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 自らを勤勉だというガルバレクの学ぶ日は続き、彼は次第に名を知られていくようになった。1968年、21才の時にヨーロッパ放送連盟のフェスティバルでノルウェー代表としての演奏が放送され、特にコルトレーンの「ナイーマ」の印象的なバージョンで彼の認知度は高まった。当時は「北欧のコルトレーン」と呼ばれたりもした。コルトレーンはその噂を知っていたらしいが、会うことはなかった。ガルバレク自身は1964年にコルトレーンの演奏を聞いている。

 実際、彼の演奏はどうだったのか。録音で聞くしかないが、初期のものは極めて少なく、聞けたのは上記の65年のものが最も古い。このブルースではソロの最初の部分はナレーションが被っていて聞こえないが、下の譜面はソロの9小節目から2コーラス目の8小節まで。

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 17才か18才の演奏としては、すでにバップのコードを説明するようなラインからは解放されて、新たなメロディを作る意欲が見える。次に聞くことの出来るものがアルバム「
Til Vigdis」  (1967) で、これはノルウェーの大学生が主催したライブの音源。譜はとんでもなく速いテンポでの「Mr P.C」だが、コルトレーンの影響下で研鑽を積んだ様子が分かる。もちろんデクスターの影響も垣間見えるが、相当レベルの高い即興演奏家であることは間違いない。

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 このアルバムを御本人は記録としてはともかくリーダー・アルバムとして認めていないとの発言もあるが、ここに収められたもので最も重要なものは
「」Til Vigdisというアルバムタイトルになっている曲。「Til Vigdis」は英語では「to Vigdis」で、「Vigdisへ」という意味だが、ヴィーティス(Vigdis)はこの一年後に結婚した妻の名前。ちなみに2人の間に生まれた娘アンニャ・ガルバレク(Anja Garbarek)もミュージシャンで、彼女のアルバム「Velkommen Inn (BMG 1992)」にはガルバレクが共同プロデューサーとしてクレジットされていてアレンジ、キーボード奏者で参加している。


「」Til Vigdis

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 トロンボーンとベースが「C」を弾き伸ばす上で吹かれるメロディが上の譜。最初のくだりは、まるで十二音音楽のセリーを聞いているような調性のない不思議なもの。ソロに入ると音数は増え、後年のフレージングの特徴がすでに聞こえる。 当時、ガルバレク自身が目指していた音楽はこのようなフリージャズの形態だったと語っている。

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 この2年後の「Esoteric Circle」から「Afric Pepperbird」、「Sart 」、72年の「Triptykon」まではの延長での創作活動が続いた。 
 「Esoteric Circle」はジョージ・ラッセルがプロデュースしたアルバムで、彼のレコーディングに参加していたメンバーによって構成されている。

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テリエ・リプダル Terje Rypdal

 ギタリストのテリエ・リプダル(Terje Rypdalはガルバレクと同じ47年生まれ。彼の父は作曲家でオーケストラのリーダーでもあった。幼少期、ピアノとトランペットを習っていたが、10代に入ってギターを手にし、ロックのギタリストとしての活動を始めた。1962年から67年にかけて参加していた「Vanguards」はベンチャーズをお手本にしたようなバンドだったが、「ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix )を聞いてすべてが変わった」と言うように、67年の後期にサイケデリックなロック・バンド「Dream」を始め、ポリドールにアルバムも残している。
 並行して68年にはガルバレク、ヨン・クリステンセンと別のグループを結成し、同じくポリドールで自分名義のアルバムをリリースした
69年のバーデン・バーデン・ニュージャズ・フェスティバルにレスター・ボウイ(Lester Bowie)のバンドの一員として参加したことで国際的に名を知られるようになった。
 リプダルはエンジニアを目指してトロンハイムの専門大学に入ったが、オスロの大学に音楽理論を学ぶために移り、さらに1970年から72年にはオスロの音楽院でフィン・モルテンスン(Finn Mortensen)とジョージ・ラッセルに師事した。
 後にジョージ・ラッセルのセクステット、オーケストラにも参加。オスロ音楽院に在籍中、オーケストラを率いてミュージカル「ヘアー」のノルウェー版の公演に携わった。彼の作曲家としてのデビュー作「
Eternal Circulation 1971」はガルバレクのクァルテットとオスロ交響楽団によって初演された。彼もまた、ECMに多くのアルバムを録音し続けた一人。

 ガルバレク、リプダル、アーリル・アンダーシェン(Arild Andersen)、ヨン・クリステンセン(Jon Christensen)、この当時のガルバレクのクァルテットを、スカンジナビアの評論家はノルウェーのジャズの可能性に期待できる「ビッグ・フォー」と見なすようになっていった。

Esoteric Circle」(1969)はこの4人の若い熱がほとばしるようなトラックが記録されていて、アルバート・アイラーやコルトレーンを彷彿させるもの、吹き荒れる過激なサウンド系、スウィング・ビート、カリプソ風。全体的なまとまりというものはないが、あらゆるものをフリーフォームを基本に展開している。

 コルトレーンが亡くなり、フランスでBYG Recordsが設立されてフリージャズ系のアルバムを積極的にリリースし始めたのが1967年。このアルバムと同じ1969年にはマイルスの「Bitches Brew」も発表されたし、ロリンズは雲隠れしてシーンには登場していなかった。マクリーンはアルバム制作が途切れていた。多くの伝統的なラインで活動していたジャズメンが隅に追いやられ、ベースでチェコのミロスラフ・ヴィトウスなどが注目され始めるなど、ジャズ界は大きな転換期に差し掛かっていた。


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ECM

 1970年、大きな転機が訪れた。ガルバレクはその噂を聞きつけて既にレコーディングを終えていた。新たにヨーロッパでレーベルが立ち上がるといい、そこのスタッフは自分たちのアヴァンギャルドなものにも理解があるかもしれないというのだ。
J・G「北イタリアのボローニャでの演奏が終わったステージ裏で、一人のドイツのミュージシャンにその話を知っているかと聞くと、彼が隅の方に腰掛けている髭の男を指したのです。彼は新しい会社を始めようとしているらしいから聞いてみればどうだと言うので、そのマンフレッド・アイヒャー(Manfred Eicher)に自己紹介をして話しかけたわけです。彼は私たちのテープには興味はないけど、私たちとレコーディングすることは考えてもいいと言ったのです。私はそれが{連絡には及ばない。その時はこちらから連絡するよ}という意味だと思い、彼からの連絡はあるまいと感じていたのです。」
 いわゆるデモテープを聞くことを拒否されたわけだから、諦める気持は当然だといえる。  しかし、
J・G「2ヶ月後、マンフレッドからアルバムを録音しようという手紙が届きました。:スタジオを選んで、共に音楽をまとめることのできる信頼できるエンジニアを見つけておくようにということと、私はこれこれの日付に行きますが、3日間を予定しています:と書かれていました。そして彼はミュンヘンから列車で25時間かけてやって来たのです。彼はそのマスターテープを宝物(もちろん彼にとっては投資ですから)のように膝の上に置いて、同じように25時間かけて戻って行ったのです。それは我々の最初のECMアルバムで、最も初期のECMの1枚でした。」

Afric Pepperbird (ECM, 1970)

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 このレコーディングが決してスムーズに運んだものでないことをドラムのヨン・クリステンセンが語っている。
Jon Christensen 夜10時から録音が始まりました。スタジオの中央部分に1階からスタジオまでのエレベーターがありました。何か録音をするたびに、エンジニアは下に向かって「エレベーターを止めてくれ、レコーディングを始めるぞ」と声をかけなければなりませんでした。2、3の曲を録り終えた後、リプダルは寝入ってしまいました!コントロール・ルームの他に、エコーマシンとして使用する大きな金属プレートがかけられている小さな部屋があったのです。

 マンフレッドは列車でミュンヘンからやって来ていましたし、レコーディング中は節約のためにヤンの家か私の家に泊まっていました。

 このアルバムで重要だったのはミュージシャンだけでなく、エンジニアのヤン・エリック・コンサウグJan Erik Kongshaug)の功績も見逃せない。ここから長きに渡り、ガルバレクのほとんどのレコーディングを彼が担当することになったからだ。

Jan Erik Kongshaug
( 4 July 1944 〜ノルウェー、トロンハイム生まれ)
 6才でアコーディオンを始め、58年にはギター、64年にはベースと、プレイヤーを目指していたようだが、その後エンジニアに転向した。

Jan Erik Kongshaug :「ハイスクール卒業後の1963年、私はミュージシャンとして世界中を回る周遊船で一年ほど働きました。その間、10回ほどニューヨークにも行き、多くのジャズミュージシャンを聞きました。コルトレーンのライブさえ聞くことが出来たのです。本当に素晴らしい年でした。そしてノルウェーに戻り2年間電子工学を勉強して(ノルウェー、デンマークなどでは大学に行くための証明書のようなもの(Examen artium)が必要だが、彼はそれを63年に取得していた)、アーニ・ベンディクソン・スタジオ(Arne Bendiksen)で仕事を得ました。すべてのエンジニアは教育を受けて準備は整っていましたが、人材が多過ぎてなかなか仕事にありつけませんでした。それで私はスタジオで働くことにしたわけです。それまでとは違う時間を過ごすことになりました。

 2年半後にマンフレッド・アイヒャーに会いました。ヤン・ガルバレクのレコーディングでした。彼らはオスロ郊外の美術館内にあるスタジオにやって来たのです。この種のレコーディングをするには、あまりにもライブな環境でしたが(残響が多すぎたらしい)、私たちは2晩かけて「Afric Pepperbird 」をレコーディングしました。マンフレッドと私は「音楽がどのようにサウンドしなければならないか」という考えが一致していました。彼はそれからもオスロに何度もやって来て、私たちはヤン・ガルバレク、キース・ジャレットの「Facing You」チック・コリアとゲイリー・バートンの「Crystal Silence」などを録りました。それらが70年代に始まったのです。

 アーニ・ベンディクソン・スタジオ(Arne Bendiksen)での最後のレコーディングはキース・ジャレットとガルバレクの「Belonging (1974)」でした。
 ちょうどその頃、別の人から事業として新しいスタジオを造らないかという話を持ちかけられていました。それで75年にオスロで「Talent Studio 」をオープンしたのです。私は従業員でした。
 そこで数多くのアルバムを作りました。キースとヤンの「My Song」もそこで録られました。他にも多くのものを録りましたが全部は思い出せません。パット・メセニーは10枚ほどのアルバムを作ったはずです。

 1979年にTalent Studioを辞めて、5年間フリーのエンジニアとして働きました。家内の出身地でもある故郷のトロンヘイムへ戻り、そこで生きようとしていました。それは3年間続きました。しかし、後にまたオスロに戻ることになりました。
 その間、私はマンフレッドと一緒にニューヨークのパワー・ステーションで数多く仕事をしました。パット・メセニーの「
First Circle」や多くの偉大なジャズメンたち、マイケル・ブレッカー、ケニー・ウィーラー、キース・ジャレットのスタンダード・トリオなど。オスロに戻った時、「Talent Studio 」は閉鎖していました。それで私は84年に「Rainbow Studio」を立ち上げることになったのです」

 少し長い引用だが、ヤン・エリック・コンサウグの語ったことにECMレーベルの歴史も含まれているように思われる。そもそもヤン・エリックの携わったECMの録音の数は膨大だし、「Talent Studio 」にしろ「RainbowStudio」にしろ度々目にする名前だからだ。マンフレッドとヤン・エリックとガルバレクがこのレーベルの新たなスタートラインに立つことになったのが「Afric Pepperbird 」だったわけだ。

 ではマンフレッド・アイヒャーとは何者なのか。
マンフレッド・アイヒャーManfred Eicher
1943年7月9日ドイツ、リンダウ生まれ
 ミュンヘンで過ごした幼少期はヴィオリンを学んでいたが、14才の時にジャズに惹きつけられてベースに転向。その後ベルリン音楽大学でクラシック・ベーシストとしての研鑽を積み、ベルリンでイシュトヴァン・ケルテス(
Istvan Kertesz )指揮のオーケストラで働く一方、マリオン・ブラウン(Marion Brown)など国内外のフリージャズのミュージシャンと共演していた。彼自身、熱心なレコードコレクターだったが、やがて自分でレコードを作ることに興味を持つようになった。
 1970年、ベルリンからミュンヘンに戻った彼はレコード店のオーナーから数枚のレコードのプロデュースを依頼され、16000ドイツマルク(4000ドル)の融資を得て会社を立ち上げた。それが「
Edition of Contemporary Music」、つまりECMレーベルの始まりだった。記念すべき1枚目はマル・ウォルドロン(Mal Waldron)の「Free at Last」で、そこからキース・ジャレット、ガルバレク、ポール・ブレイ、エヴァン・パーカー、ポウル・モチアンと、まさに時代の先端を切り開くような録音を続けていった。中でもキース・ジャレットの「The Köln Concert 1975」は350万枚を売るレーベル最初のビッグヒットになった。チック・コリア、パット・メセニー、ゲイリー・バートンなどレーベルから発信された人気アーティストは枚挙に暇がないが、ドン・チェリーとコリン・ウォルコット、ナナ・バスコンセロスのトリオ「Codona」や他の実験的なアーティストの録音も精力的に行ない、現在ではECM New Seriesとしてヨーロッパのクラシック音楽の紹介にも意欲的に取り組んでいる。

 さて「Afric Pepperbird」だが、前年に録られた同じメンバーの「Esoteric Circle」に比べるとずいぶん洗練された感触のアルバムになっている。コンサウグの録音は見事で、打楽器の音が全体を支配することなく存在感を示しているし、ギターも爆音にならず点描的にサウンドを送り込む仕立て。すべての楽器がバランス良く捉えられている。編成を変えたりして楽曲にもそれぞれに工夫が凝らされている。

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 例えば1曲目の「Skarabee」でのアーリル・アンダーシェンはベースを弾かず、African Thumb piano(写真左)をつま弾いているし、リプダルはビューグルを吹き鳴らす。2曲目の「Mah-Jong」はガルバレク抜きのトリオ編成。B2の「MYB」はサックス・トリオ、短いトラックだがB3の「Concentus」では静かな趣のベースとクラリネットのデュオ、最後のトラックは打楽器だけといった案配だ。まったくのフリー・ブローイングに徹したのは「Blow Away Zone」のみ。ここでのテナーのサウンドにはアーチー・シェップがインパルス・レーベルに残した数々のアルバムでのサウンドに通じるものがある。
 全体的にはベースパターンを効果的に使い、動的なものと静的な部分の対比が際立つアルバムに仕上がっている。ガルバレクはテナー、バス・サックス、フルート、クラリネットを吹いた。「Beast Of Kommodo」ではベースとギターで奏されるパターンの上でクラリネットがH音を吹き始めるのだが、Bbあたりから始まってHに届きつつフラフラと上下するようなやり方で続く。そのくだりに後年のエスニックなアプローチの原形が聞こえてくる。タイトル曲「Afric Pepperbird」ではイントロに続きベースが「F7」のパターンを持続する。ここでのテナーのライン、バスサックスでのラインが下の譜。

Tenor Sax

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Bass Sax

 

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 何れもF7のコード感を保持しているが、テナーのラインではアウトから入っているのが確認できる。バスサックスでのラインは割合保守的にまとめられている。バスサックスの場合は音域が低過ぎるためにテナーのような複雑なラインを避け、ベースのような立場で表現することが多かった。ガルバレクのラインの作り方はその後の多くのサックス奏者に影響を与えたと言われていて、マイケル・ブレッカーなどもその影響下にあったと指摘する評論家もいる。

Manfred Eicher:「このレコーディングの後、私たちはアメリカのジャズとは違うスカンジナビアのものとしての特別な何かを持っていると気づきました。ミュージシャンはアメリカのものとは違うブルースを演奏していました。彼らは(アメリカとは)異なる音楽環境で育ちました。孤立、静寂、沈黙を知っていました。なぜならば、それ等のすべては彼らの周りにあるものでしたから。」
 アイヒャーが充分な手応えを感じていたことが分かる。

 8ヶ月後に録られたECMレーベルからの2枚目「Sart」にはピアノのボボ・ステンソンが加わった。「Close Enough For Jazz」はベースのアルコとバス・サックスのデュオで、現代音楽的な側面も見せるトラック。「IRR」は全員の素早いパッセージがうねるような楽曲だが、そのテナーのラインの一端が下の譜。フリーブローイングながらモチーフを変化させつつメロディックなラインを紡いでいてテクニカルなレベルもかなり高い。

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 しかしながら、このように実験的な傾向の強いセッションを積極的にレコーディングしてリリースさせたマンフレッド・アイヒャーの見識の高さに驚かされるのだが、だからこそアメリカのジャズシーンとは一線を画する独自のレーベルとして存在を際立たせていったのだと思われる。

「Afric Pepperbird」はポーランドのジャズ・ピアニスト、クシュトフ・コメダ(Krzysztof Komeda 1931-1969)の 「Astigmatic 1965」の後を継ぐヨーロッパ・ジャズの重要な所産だと評された。


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*Soprano Saxophpne

 ここまでのレコーディングに於いて、様々なアプローチを使ったソロを演じて見せるガルバレクだが、その器用さが、後年マンフレッド・アイヒャーのプロデュースする新しいアーティストの作品の中で多様に発揮された。実際、咆哮するアプローチも息のつまるような緊張感のある静謐な世界も、いわゆるピアニシモからフォルテシモまで難なく吹きこなすことが出来るという、この、楽器のコントロールが絶妙であることが彼の強みだった。それはソプラノ・サックスを見事に操る近年の活動で、さらにジャンルを超えたセッションでも表現の幅を広げていくことになった。
 ソロの展開で様々なスタイルを演じることについて、初期に影響を受けたコルトレーン、デクスター・ゴードンなどはもちろんのこと、ドン・チェリーから民族音楽、オーネットからはメロディの可能性、セシル・テイラーからは力強い流れを学び、1960年代から親しんでいたアート・アンサンブル・オブ・シカゴ(
 Art Ensemble of Chicago)からは自由さ、音色、空気感、新たなサウンドソースを使う試みなど、多くの影響を受けたと語っている。当時の彼らのヒーローは多くのフリージャズの巨人たちだった。
J・G「60年代にフリージャズをやっているとき考えました。それは自由であるはずなのに、どうしていつも同じようなサウンドになるのだろう。それは関心事でした。自由であるのならどこにでも行けるはずだし、違うサウンドになってもいいじゃないか。しかし、フリージャズのように聴こえ、それは私をかなり狭められたエリアに閉じこめました。フリーとは制約でもあったのです。逆に制約を課した場合に自由だったりするのです。それは矛盾しているようですが、興味深いことです。」

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 1972年の「Triptykon」 はガルバレクが初めてソプラノ・サックスを録音したアルバムでもある(下の譜例)。全7曲中2曲で喜々としてソプラノを吹く彼を聞くことができる。ここでのソプラノはどちらかといえばオーネット・コールマンのアプローチを思わせる。テナーは3曲吹いているが、「Etu Hei」ではフラジオを駆使してほとんどソプラノのような音域でのブローに終始している。バスサックスは1曲。セルジェ・フルートが1曲。トリオ編成でアーリル・アンダーシェンの役割は大きい。

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 また、このアルバムで初めてノルウェーの民謡「Bruremarsj」を取り上げたことでも知られている。それは下の譜のようなシンプルなものだが、アルバート・アイラーへのオマージュにも思えるもので、ここで初めてドン・チェリーの影響が形になって表れた。

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J・G
Triptykonは初めてノルウェーの民謡を取り上げたアルバムで、そこからはいつも私の演奏に欠かせない要素になりました。
 この曲以外にも、短いトラックだが「
Selje」では木製のフルート(Selje flute)で民族音楽的なアプローチを見せている。

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ボボ・ステンソン Bobo Stenson

 1973年、新しいバンドが始まった。その年のポーランドでのジャズフェスティバルで偶然に始まったことだった。

J・G「その時私はバンドを持っていませんでした。しかし、パレ・ダニエルソン(Palle Danielsson) もヨン・クリステンセン(Jon Christensen)もそこにいることを知っていましたから、3人で即興的に何かやろうと考えていました。演奏のためにステージに上がろうとしていた時、振り返るとダニエルソンがボボ・ステンソン(Bobo Stenson)と一緒にいたのです。それで、クァルテットで出来るなら面白いと思ったわけです。
 我が家に帰って来たというような感覚がありました。私たちはみんなコルトレーン、マイルス、周りで起こっていたすべてのこと、セシル・テイラー、オーネット・コールマンなどのバックグラウンドを共有していました。まったく肥沃なグラウンドです。演奏を始めた時、規則を心得ていた私たちは互いに何をやるべきか知っていましたし、どのような反応するべきかも知っていました。それは古く良いグローブを手にするようでした。」

 やはりECMでアルバム(
Underwear 1971)を制作していたステンソンが「ポーランドでやったようなクァルテットを作ろう」と申し出て、録音されたのが「Witchi-Tai-To」1973だった。共同リーダーとなってはいるが、実際のところボボ・ステンソンのプロジェクトだった、ここからライブコンサートやレコーディングをもっと一緒にやろうと決めたとガルバレクは語っている。
 ステンソンは2枚目のアルバム「
Sart」に参加しているピアニストだったが、その当時は定期的に演奏をしていたわけでもなく、アルバムに色彩感を加えるために誘ったのだという。しかし、ポーランドのステージを機にバンドは動き出した。

J・G「それは、リプダル、アンダーシェン、クリステンセンとやっていたクァルテットとは違うタイプのプロジェクトでした。それまでECMでやっていたものに比べ、より実験的で、何かをつかみ取ろうとしていました。」

 ステンソンとガルバレクはアルバム「
Witchi-Tai-To」の素材探しに熱心だった。キューバの作曲家カルロス・プエブラ(Carlos Puebla, 1917 - 1989)の「Hasta Siempre」はチェ・ゲバラが国を離れる際に作曲された曲で、カルロス・プエブラの最もヒットした曲になり、ゲバラを支持する人たちに繰り返し演奏された。ドン・チェリーのDesireless」でのガルバレクのテナーには、ドン・チェリーのアルゼンチンの親友ガトー・バルビエリのようなサウンドがあると指摘する向きもある。ボボ・ステンソンが提示した「Witchi-Tai-To」はオーネット・コールマン、ドン・チェリーが支持したネイティブ・アメリカンのサックス奏者ジム・ペッパー(Jim Pepper)の作品で、それまでのガルバレクのアルバムにはなかったポップなメロディラインが聞こえる。

 曲調も演奏的にもリプダルとの作品の方がずっと実験的だと思えないこともないが、ガルバレクにとっては今までにない選曲でのレコーディングに充分な手応えがあったらしい。

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 ここまでの活動を客観的に眺めると、ガルバレクの成長に欠かせなかったのが共に演奏する仲間であったことが見えてくる。誰よりも勤勉であった彼は、コルトレーンの影響もダイレクトに受け止め、デクスター・ゴードンからも多くのものを吸収し、さらにジョージ・ラッセル、ドン・チェリーと、共演したプレイヤーからもすべてを貪欲に吸収した。常にそこにある音から自分を発展させるような対応で歩いてきた。
 個々のアルバムはそれ自体が完結していて、過渡期というものがない。ある時はアルバート・アイラーのようなアプローチでサックスを鳴らし、ある時はコルトレーン、アーチー・シェップ、オーネット・コールマン、ガトー・バルビエリという風ではあったが、それぞれに自分の中で消化して再構築されたものであって、コピーではなかった。それは器用な彼の強みでもあり、ウィークポイントであった。意図したかどうかは分からないが、彼は刺激を与えてくれる共演者を求めた。それは彼を鼓舞する仲間であり、音楽的な触媒に他ならなかった。もちろん、彼の望みはノルウェーの民族音楽をジャズの手法で表現することにあったわけだが、それを具体化するためのメンバー探しを続けていたわけだ。初期の彼を奮い立たせた一人がテリエ・リプダルであり、もう一人が
アーリル・アンダーシェンだった。ドラムのヨン・クリステンセンは見届け役のようにバックアップした。しかしながら、彼が先に進むためには新たな触媒が必要だった。そこに現れたのがボボ・ステンソンだった。原点に戻るような体験が新たな可能性となって彼の前に広がった。双頭バンドとして出発したグループは多くの聴衆に支持され、すぐにヨーロッパで人気を博すバンドになった。
 しかし、このバンドでの活動も75年に発表された「Dansere」を以て終わることになった。ステンソンとやっていた音楽は、結果的にガルバレクの望むものより伝統的なジャズだった。「Dansere」は1枚目の「
Witchi-Tai-To」とは打って変わり、トラディショナル一曲を含むものの、1枚目とはアプローチの異なるガルバレクのオリジナルが並んだものとなっている。そこにガルバレクの意思が垣間見える。彼はグループを離れ、そこからはノルウェーの伝統音楽の研鑽に没頭するようになった。

 ステンソンと活動しているころ、思い掛けない話がマンフレッド・アイヒャーから舞い込んだ。それはECMレーベルからアルバムをリリースしているキース・ジャレットのバンドへの参加だった。触媒というにはあまりにも大き過ぎるキースとの共演で、また新たなチャレンジが始まった。


*キース・ジャレット(Keith Jarrett)

 ヤン・ガルバレクとの出会いについてキース・ジャレットはこう語っている。
K・J「初めてチャールス・ロイドとヨーロッパに行ったとき、スウェーデンの誰かの家でジョージ・ラッセルの音楽を聴いた。演奏しているのはスウェーデン人のグループで、そのバンドのテナー奏者の音を耳にしたとき、ぼくは思った。何だ!ちょっと今のは忘れたくないな! ぼくはしっかりとそのサウンドを耳に焼き付け、いつかこのサウンドには出番が来ると思った。彼の演奏を聴いたとき、彼はほんの子供だった。まあ、ぼくだって子供だったが、彼は本当に子供だった。」(「キース・ジャレット 人と音楽」イアン・カー著・箕田洋子訳 / 音楽之友社刊)
 イアン・カーはここでガルバレクは19才、キースは21才と結んでいるが、別のインタビューでは少し違うことを言っている。
K・J「1966年だったかな。チャールス・ロイドとストックホルムで演奏しているときにジョージ・ラッセルのバンドを聴いた。音楽そのものはそんなに好きじゃなかったけど、テナーに音の強烈なのがいて、誰だって聞いた。当時ヤンはたしか16才ぐらいだったはずだ。それでその音が忘れられなくて、マンフレッドもECMで彼と契約していたからグループを組むことにした」(「キース・ジャレット・音楽のすべてを語る」立東社刊」
 
 同じころ、ガルバレクもまたチャールス・ロイドのグループでのキース・ジャレットを聴いている。それはストックホルムの「ゴールデンサークル」でドン・チェリーと共演しているころだった。
J・G「私たちは休みの日にゴールデンサークルでのチャールス・ロイドのバンドを聴きに出かけました。キース・ジャレットを聴くことは人生を変える出来事のようでした。私たちは同世代でした。彼は何でも知っているように見え、私は畏れました。彼はすべてが出来ました。アイデアを実行する際にためらいがありませんでした。私がそのレベルに達するにはまだ長い時間が必要だと思われましたが、彼はすでにそこにいました。」

 さらにキース・ジャレットは1960年代にガルバレクのオスロでのジャムセッションを聴く機会があった。そこで行われていたのはフリー・ジャズだったが、呆然とするほどの感銘を受け、特にヨンのドラムに感動した。ガルバレクも1970年にジャレットの入ったマイルス・デイビスの演奏を7晩通して聴いた。マイルス・デイビスの演奏に圧倒され、ジャレットが他に類を見ないピアニストだと確信したと語っている。

 72年頃に、2人の共演を望むマンフレッド・アイヒャーがジャレットに持ちかけたわけだが、ジャレットはパレ・ダニエルソンとは知り合いで、ヨン・クリステンセンのドラムも気に入っていたし、もとよりガルバレクのことは上記の通りで異論のあるはずもなかった。

 レコーディングに際してジャレットの目論見は2つあった。クァルテットのアルバムとガルバレクをフィーチャーしたストリング・オーケストラのアルバムだった。ガルバレクの「Afric Pepperbird」を丹念に聴いて策を練った。録音に先立つ73年にはガルバレクがジャレットの家を訪ね、譜面の検討を行ないさえした。

 2枚のアルバムは74年の4月に録られた。

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 クァルテットの「Belonging」はすべてがワンテイクで次々と録音された。全体に所要した時間は2時間足らずだった。ここで聴かれるものはすべてがキース・ジャレットのオリジナルだが、作曲能力の天才ぶりが発揮されていて、ガルバレクのこれまでの作品にはなかった土臭いサウンドもジャレットらしい。アメリカのジャズメンに見られるブルースの響きもあり、個人的には調子のよい「The Windup」が気に入っていた。冒頭のピアノとベースのヴァンプにワクワクさせられ、リズミックな工夫が凝らされているのに自然に聞こえるメロディに舌を巻いた。

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 クァルテットのアルバムの4日後に録音されたのが、Music For String Orchestra and Saxophoneと副題の付いた「
Luminessence」だった。ジャレットは演奏に参加していない。ストリング・オーケストラとガルバレクだけで3曲が録られた。ストリングは、ある評論家が取り留めがないと評したように、最初に聴いた時はどのように録音したのかと思わされるものだった。なにしろリズムセクションがなく、ストリングの時によっては厳しいハーモニーがウネウネと続く。その上でソロを構築するのは大変だろうと想像できたが、ガルバレクはテナー2曲、ソプラノ一曲を見事に吹き切っている。ガルバレクのテナーはエッジが鋭く太い音色で圧倒されるが、若干レコーディーングの際の録り方に因るものではないかとも思える。しかしながらサブトーンからフルトーンまで見事に捉えられた録音には感嘆するしかない。
 「
Luminessence」の1年半後にはジャレットとチャーリー・ヘイデンが加わって「Arbour Zena」が録音された。
 クァルテットはアルバム録音後にテレビ出演などとドイツでのライブを行なった。ガルバレクとジャレットは「
Luminessence」を演奏するアメリカツアーに出た。さらに「Arbour Zena」のツアーも行なった。ヨーロピアン・クァルテットの本格的なツアーは77年が最初とされている。

 ジャレットはマイルスのバンドで何年かを過ごし、72年頃からはデューイ・レッドマン、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンを擁するアメリカン・クァルテットを率いていた。73年にはインパルス・レーベルからアルバムを出していたが、マンフレッド・アイヒャーは渋るインパルス・レーベルをジョージ・アバキャンを介して説き伏せ、ECMからソロアルバムをリリースしていたジャレットが特別企画としてECMに録音することは可能だとの条項を入れて契約させた。その特別企画の一つがガルバレクの入ったヨーロピアン・クァルテットだったが、キース・ジャレット・クァルテットとは名乗れず、アイヒャーは「ビロンギング・バンド」と呼んだ。ガルバレク等とアルバムを出した後も、アメリカン・クァルテットのレコーディングとライブは続き、同じ74年に「Treasure Island」「Death And The Flower」「Back Hand」を録音している。翌75年にも2枚録音されていて、さらに75年の1月には有名な「ケルン・コンサート」が録音された。この間のジャレットは多忙で、ビロンギング・バンドとしての活動は制約された。ジャレットにとって重要だったのはガルバレクのサックスで、Luminessence」と「Arbour Zena」のツアーで目論見は果たされていたと思える。

 一方のガルバレクはボボ・ステンソンとのグループでツアーを精力的にこなしつつ、レコーディングでも新たな共演を果たしていた。ジャレットのアルバムの半年前にはピアノのアート・ランディ(Art Lande)とのデュオ「Red Lanta 1973」を録音している。ここではテナーは吹かず、全9曲中(1曲はピアノ・ソロ)フルート5曲、ソプラノサックス3曲、バスサックス1曲というオーダーだった。譜はソプラノを吹いた「Velvet」のテーマ部分。

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 このアート・ランディの名前のアナグラムをタイトルにしたアルバムは、それまでのガルバレクの作風とは少し異なり、フルートが多いことでもわかるように割合リリカルな表現に傾いている。ディスコグラフィとして並べてみると、ターニングポイントのようにも思える。ジャレットとのアルバムの後に続けて録音されたのがギターのラルフ・タウナーとのアルバムだった。

Ralph Towner(ラルフ・タウナー)
1940年、ワシントン州チハリス(Chehalis, Washington)生まれのギタリスト。母はピアノ教師で父はトランペット奏者だった。
Ralph Towner:6才からトランペットを始め、12才の頃にはジャズ、スイング、ダンス音楽などを演奏していて、高校時代までそれは続けていました。最もしっくりする楽器でした。しかし芸術専攻で入ったオレゴン大学ではマーチング・バンドに所属することが嫌だったので、作曲科に変更するためにピアノを専攻しました。大学に入ってからギターに関心が向くようになりました。ギターを演奏するピアニストというのが私のスタイルでした。」
 彼はその後60年代後期にはピアニストとして活動し、ビル・エヴァンスの影響も受けていたが、当時ワールド・ミュージックの先駆者、サックス奏者ポール・ウィンターに出会い、彼のバンドに加入。このバンドで出会ったミュージシャン、リード楽器のポール・マッキャンドレス(
Paul McCandless)、打楽器コリン・ウォルコット(Collin Walcott)、大学の同窓生でもあった ベースのグレン・ムーア(Glen Moore )と共にグループ「オレゴン}を結成。70年に1stアルバムを録音している。ECMには72年に「Trios / Solos」のタイトルでオレゴンと同じメンバーでの録音をしているが、オレゴン名義ではない。オレゴンがVanguardからアルバムをリリースするようになり、ECMではソロ、デュオ、特別編成されたグループでの録音を続け、現在に至っている。12弦ギターの名手として名高いプレイヤーでもある。

 ガルバレクが参加した「Soltice」1975(1974年12月録音)は彼のECM4枚目のアルバムで、この後ガルバレクと長く付き合うことになるベースのエバーハルト・ウェーバー(Eberhard Weber )とドラムのヨン・クリステンセンも参加している。
 ここでのガルバレクはそれまでの演奏よりも少ない音での表現に向かっているように聞こえる。それはラルフ・タウナーの送り出すサウンドに触発されたものかもしれないが、表現法に変化の兆しが表れたともいえる。もちろんそれまでのようにブローする3拍子の「Nimbus」のような曲もある。この曲ではテナーで豪快に、今では使い古された感のある展開だが、下の譜のような音列で疾走する。


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 ラルフ・タウナーとのデュオ・アルバム「Dis」は1976年の12月に録られたもので、私的には最もよく聴いたガルバレクのアルバムだ。アルバム全体を包むようなタウナーの厳しくも繊細なサウンドの上で、ガルバレクも実に自然にメロディを歌い上げていく。静謐、幽玄などという言葉がアルバムを覆っているようなアルバムで、それはそれぞれの楽曲のノルウェー語のタイトルにも表れている。
「Vandrere」旅人 
「Krusning」波紋
「Viddene」草原 
「Skygger」陰影、影法師 

「Yr」霧雨 
「Dis」霞
 それに、このアルバムにはもう一つの仕掛けがある。それは「Windharp」の使用だが、これは少々の説明を必要とする。windharpはいわゆるワイヤーが張られた建造物で、風による弦の振動で基音と倍音を発声する。ここで使われたものはノルウェーのSverre Larssenが建造したもので、
ヤン・エリック・コンサウグ(Jan Erik Kongshaug)が南ノルウェーの海岸に赴いて録ってきたもの。写真での特定は出来なかったが、ウィンドハープそのものは形も大きさも様々で、しかし概ね大きいものが多い。 

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 アルバムでは3曲に使われている。音程は一定したものだから、ペダルポイントのように扱って、その上で演奏することになる。1曲目の使用は下の譜のようなもの。

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 使われているウィンドハープの音の最初はCだが、別音源のEに変わる。全音符と2分音符で示しているのがハープの音で、BABで始まるのがテナー。それに応えたギターがEMajorの方針を示唆して物語は始まる。やがてギターは点描的に新しい和音を送り込み、それにテナーが応じて旋律ラインを変化させていく。

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 1曲目ではハープの音が長く持続しているが、この手法にリズムの変化が加わり緊張感を保ったまま盛り上がっていく。タウナーとのコンビネーションは実にうまくいっている。作る曲の趣は、よりメロディックなアプローチが顕著に表れている。このポップな指向性を持つものがノルウェー民謡の研究の成果かどうかは定かでないが、演奏そのものがフリージャズの影響から離れていて、新たな軌道に入ったとも思える。「Dis」はウィンドハープと木製フルートだけで録られている。これを不気味だと感じる向きもあるかもしれないが、まさしく「幽玄」の世界で間違いない。
「Dis」の2ヶ月後、タウナーとの「
Solstice/Sound and Shadows 1977が録音された。このアルバムでも新しい試みは随所にあったが、残念なことに、他のセッションで一緒になることはあっても、タウナーとのアルバムはこれが最後になった。

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 77年から数年間のガルバレクの動きは目覚ましいものがある。ジャレット以外にも、エグベルト・ジスモンチ、チャーリー・ヘイデン、ジョン・アバークロンビー、ジャック・デ・ジョネット、ケニー・ウィーラー、ビル・コナーズ、ゲイリー・ピーコック、ビル・フリゼルなどなど、新しい顔ぶれとの録音を次々にこなしていく。最も充実した活動時期だった。この間に自身のアルバム制作も精力的に行なっている。タウナーとのレコーディングの半年後に録音されたのがトランペット、フリューゲルホーン奏者ケニー・ウィーラー(
Kenny Wheelerのリーダーアルバム「Deer Wan 」だったこのセッションでギターのジョン・アバークロンビー(John Abercrombie)、ベースのデイブ・ホランド(Dave Holland)、ドラムのジャック・ディジョネット(Jack DeJohnette)と共演した。 

Kenny Wheeler (Kenneth Vincent John Wheeler 1930 – 2014) 
 カナダ・トロント生まれで、12才でコルネットを吹き始めジャズに興味を持つようになった。トロント王立音楽院で作曲を学び、1952年にイギリスに拠点を移し、サックス奏者のロニー・スコット、トミー・ウィリトル、タビー・ヘイズなどのバンドに在籍した。60年代はやはりサックス奏者のジョン・ダンクワースと働いたが、その後フリージャズに関心を寄せ、ジョン・スティーブンスのSpontaneous Music Ensembleに参加したり、シュリッペンバッハのグローブ・ユニティ・オーケストラに招かれたりした。70年代にアンソニー・ブラクストンと活動したことが重要な原点になったとされている。ECMと契約したのは1975年で、「Deer Wan 」は2作目だが、ここにフリージャズからの直接的な影響はない。全体的には新主流派と呼ばれたジャズの形態に沿うものであり2曲目にはラルフ・タウナーも参加していて、穏やかなトラックも聴かれる。

 ここで聴かれるガルバレクのサックスはジャズ的なアプローチが目覚ましく、最初の曲でリズムが速い展開になった後のアバークロンビーに続くソロは目まぐるしいばかりのアイデアが詰め込まれている。
 譜例はテナーサックスのキーでD7。

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 このようなギザギザのラインは大いに参考になったが身に付いたかどうかは謎。

 77年11月、前作から3年半の時を経て、キース・ジャレットとの「My Song」が録音された。キース・ジャレットがガルバレクとの共演を承諾したのは、ガルバレクの演奏に対する深い敬意があったことは確かなのだが、アメリカン・クァルテットと並行してまで北欧のミュージシャンとの録音に意欲を示したのには、アメリカン・クァルテットに対する少々の不満も引き金になったらしい。

K・J「アメリカン・グループには、演奏をわかりやすいものにするのをちょっと嫌がるところがあった。わかりやすくなることを控えようとする感じだった。それは、もちろん、ある時代のジャズに於いてはそれが演奏の理想だったんだ。つまり、他人の物真似で演奏してはだめだ、自分自身の演奏をしなくては、ということなんだ。だが、ある意味ではそれは不可能だ。つまり、誰だって、演奏中に自分自身の演奏だけをずっとやっているっていうのはありえないんだ。だから、ある意味ではビロンギング・グループの目的はそこにある。アメリカン・グループからの気分転換といったものだった」(「キース・ジャレット 人と音楽」イアン・カー著・箕田洋子訳 / 音楽之友社刊)

 76年にECMに移籍したアメリカン・グループは「The Survivors' Suite」「Eyes Of The Heart」を残したが、その年に、68年のトリオから始まったアメリカン・グループは解散した。

 ガルバレクはキース・ジャレットの創造力に感嘆しながらステージをこなしていた。ジャレットの送り出すサウンドは毎晩違っていたという。ヴォイシングの内声部も異なっていることに驚いていた。さらにライブのために新曲を書くことに怠りがなく、日本に向かう飛行機の中でジャレットは作曲をしている。東京での4月のライブ「Personal Mountains」と5月のニューヨーク・ヴィレッジ・ヴァンガードのライブ「Nude Ants」でさえ重複した曲は2曲だけだった。後年(2012年)発売された79年のライブ・アルバム「Sleeper」は1曲を除き上記2枚のライブアルバムと同じ楽曲が並んでいるが、それでも1曲は未発表の曲だった。

 しかしながら、ガルバレクはキース・ジャレットと残したアルバムについてこう語っている。
J・G「私の気に入っているのはスタジオのアルバムです。私は本当にこのレコーディングを楽しみました。私の場合、2枚のライブアルバムについてはスタジオ録音のようにはうまくいっていないと感じていました。」
 日本のツアーでの演奏があまりにもよかったものだから、ジャレットはアイヒャーに連絡を取り、是非レコーディングしたいと申し出て、急遽ヤン・エリック・コンサウグが駆けつけ2日間テープを回した。

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「その2晩は、ツアーのそれまでの演奏には及ばなかった。ずっと、危険信号が灯っていた。原因はわからない。本当に惜しかった。他のコンサートを録音してもらえばよかったんだが」(「キース・ジャレット 人と音楽」イアン・カー著・箕田洋子訳 / 音楽之友社刊)
 
さらに、ヴィレッジ・ヴァンガードでのライブ盤「Nude Ants」では、ガルバレクの調子がよくなかった。ガルバレクはこのアルバムが発売されることに抵抗を感じたと語っている。「Personal Mountains」は10年後の1989年に、アイヒャーが聴き返して、使えるテイクが幾つかあるとしてようやく発売された。


 2002年に発売された「セレクト・レコーディングス」のライナーノーツでこうも述べている。
「ジャレットと演奏することは、若い演奏家が先進的な音楽家と演奏を共にするということですから、得るものがとても多い重要な時間でした。すべての時を畏敬の念を抱きながら接していました。率直に言えば、私はキース、パレ、ヨンの間で行われていることに参加したくありませんでした。彼らのやっていることを聴いて本当に楽しんでいましたから。」
 ジャレットとの共演の中でガルバレクが居心地悪そうにしているものがあるとすれば、それはブルース色の強い曲だったように思える。もちろんひどい演奏でもないし、あくまでも他の曲に比べての話だが、例えばライブ・アルバム「Personal Moutains」のボーナストラック「
Late Night Willie」ような曲だ。一歩間違えばクリシェに陥るこのような曲のアプローチは、レス・マッキャンのように喜々として鍵盤を叩くジャレットに比して窮屈そうに聞こえる。リーダーアルバムで方向性がはっきりとしてきたこの時期のガルバレクにしてみれば、ちょっとしたチャレンジではなかったかと思える。「Nude Ants」の「Chant of the Soil」はテナーのキーで、DFGACのペンタトニックが基本の曲だが、ここではペンタトニックからスケールアウトしていくジャズ的なアプローチでかわしている。譜例のようなアプローチだが、この後も必要に応じてこのようなラインをいつでも紡ぐことのできるのが強みでもあり、これは近年になっても変わっていない。場合によってはごり押しのようになる危険性もあるが、主にテナーを吹く際に使われる。

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 やがてビロンギング・バンド(ヨーロピアン・クァルテットをアイヒャーはこう呼んだ)は活動を停止。キース・ジャレットはソロ活動に入り、1983年にスタンダード・トリオが動き出した。


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 ガルバレクはMy Song」録音の1ヶ月後にはリーダーアルバム「Places」を録っていて、さらに翌年1978年の暮には「Photo with Blue Sky, White Cloud, Wires, Windows and a Red Roof 」と、自身の活動の展望についても怠りなかった。ボボ・ステンソンとは1977年のJan Erik Vold (朗読)名義のアルバムIngentings Bjeller (Polydor7)での共演が録音としては最後になっている。このアルバムのプロデューサーはエンジニアのコンサウグだった。このあたりでステンソンとの活動に終止符を打ったものと見られる。先に書いたように、ガルバレクはステンソンとのアルバムDansere」で示唆したようなノルウェーの民族音楽の研鑽に没頭するようになった。

 リーダー作「Placec」とビル・コナーズの「Of Mist and Melting」はどちらもドラムにジャック・ディジョネットが起用されている。録音も77年の12月。2つの違いはオルガンとピアノでジョン・テイラー(John Taylor)が参加した「Places」、それに替わりベースのゲイリー・ピーコックが加わった「Of Mist and Melting」
 さらに、同じ月にゲイリー・ピーコックのソロアルバム「December Poems」が録音されていて、ここにも2曲だけガルバレクも参加している。アイヒャーは同じような顔ぶれで短期間に3枚のアルバムをものにしたことになっていて、実に効率が良い。

 Places」は「Dansere」の趣を残してはいるが、サイドにオルガンを選んだことで、全体的に浮遊感のある仕上がりになっている。はっきりとしたコード感があるのは「Entering」だけで、ポップな響きにはフュージョン・シーンで聴かれる雰囲気さえ漂わせている。一曲目の「Reflections」は1つのスケールを元に展開されている。

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 最後の「Passing」にも使われたこのようなスケールによって導かれるサウンドがアルバムのムードを決定している。ディジョネットの存在感は大きい。
 このアルバムに刺激を受けたのがギリシャの作曲家エレニ・カラインドルー(
Eleni Karaindrou)だった。

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エレニ・カラインドルーEleni Karaindrou 1941 - 
 ギリシャの作曲家。テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos}監督の映画音楽を手がけたことで知られている。
 音楽院(Hellenikon Odeion(Chellinikon Conservatories)でピアノと楽理を学び、同時に大学で考古学の授業も受けている。
 ギリシャの軍事政権時代(1967ー1974)はパリに移住。そこで民族音楽学とオーケストレーションを学び、ジャズ演奏家との即興演奏も経験し、ポピュラーソングの作曲も手がけるようになった。
 1974年にアテネに戻り、伝統楽器の研究所を設立し、民族音楽のラジオ番組を制作した。
1976年、彼女は自由な創造性を持つECMレーベルに気付き、転機を迎えたとされている。1979年に初めてのサウンドトラック・アルバムをリリース。1982年に「Thessaloniki International Film Festival」で受賞し、アンゲロプロス監督の目に留まり、2008年まで彼の後期の8作の音楽を担当した。1992年にはフェリーニ賞(Premio Fellini)を受賞。映画音楽の他、劇場のための音楽、テレビシリーズなど多くを手がける多作家。ECMでは91年の「Music for Films」から10枚以上のアルバムをリリースしている。

 彼女はガルバレクのPlaces」に「典型的なバルカンのサウンドを聴いた」と感銘し、「O Melissokomos 」86「Herod Atticus Odeon」88の録音に招いた。「Concert in Athens (ECM, 2013) にもガルバレクはクレジットされている

 同時期に録られたビル・コナーズの「Of Mist and Melting は語られることも少ないが、優れたアルバムであることは間違いない。コナーズの繊細な表現とガルバレクの相性は決して悪くないし、伸びやかなサックスが楽しめる。

 78年の暮に録られたのが「Photo with Blue Sky, White Cloud, Wires, Windows and a Red Roof」。ここでベースのエバーハルト・ウェーバー(Eberhard Weber )が参加していて、ギターのコナーズ、ピアノのジョン・テイラーがいるにも関わらず、ガルバレクのソロに素早い反応を見せている。だが、ガルバレクはこのレコーディングはほとんどスタジオ・グループであり、どうしていいか分からずに行き詰まっていたと認めている。
 急務はバンドの再編成だった。

 ジャレットのビロンギング・バンドのおかげで世界的に名を知られるようになったとはいえ、キース・ジャレットの目論見が永続性を伴わないことを誰よりも承知していたのはガルバレクだったかもしれない。

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 エグベルト・ジスモンチEgberto Gismonti1947年、ブラジル、リオ・デ・ジャネイロ、カルモ地区で音楽一家に生まれた、ピアニスト、ギタリスト、作曲家。母はシシリー、父はレバノン、ベイルート出身。6才からブラジル音楽芸術学院(Conservatório Brasileiro de Música)でピアノを学び始める。15年間クラシックの古典を学んだ後、現代の音楽を探究するために渡仏。ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger )(1887–1979)に師事する。
 ブーランジェ女史は作曲家、指揮者だったが、教育者としてジュリアード、ユーディ・メニューイン・スクール、イギリスのロイヤル・アカデミーなど幅広く教鞭を執っていたが、終生拠点はパリだった。彼女に師事した音楽家は、アーロン・コープランド( 
Aaron Copland)ロイ・ハリス(Roy Harris)クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)エリオット・カーター(Elliott Carter)イゴール・マルケビッチ(Igor Markevitch)ヴァージル・トムソン(Virgil Thomson)フィリップ・グラス(Philip Glass)アストール・ピアソラ(Astor Piazzolla)と錚々たる名が並ぶ。ジスモンチは、ブラジル音楽を取り入れることを勧められた。彼はそれを実行しつつ、後にはギターの弦を通常の6弦以上に増やす試みで、キーボードのようなサウンドを実現しようとした。ECMの主要なアーティストの一人で、20枚ほどのリーダー作がある。私見では繊細さと凶暴さを併せ持つ音楽家。

 ガルバレクとの接点はジスモンチの「Sol Do Meio Dia (ECM, 1977)  への参加が切っ掛けだったと思われるが、Nude Ants」の翌月に、エグベルト・ジスモンチEgberto Gismonti)、チャーリー・ヘイデン(Charlei Haden)とのトリオで録音されたアルバムが「Magico」だった。仕掛けたのはマンフレッド・アイヒャーだったと思われるが首尾は上々だった。1曲目の「バイラリーナ」(バレリーナ Bailarina)は元がブラジルのシンガー・ソングライター、ピリー・リース(Piry Reis)、作詞家ジェラルド・カルネイロ(Geraldo E. Carneiro)のポップな曲だが、カルネイロはジスモンチの72年作「Agua e Vinho」に収められた「Tango」の作詞家でもあることから、この曲を採用する切っ掛けになったものだと思われる。ギターとベースとソプラノサックスで演奏される穏やかさがアルバム全体の色調を決定している。アルバムにはチャーリー・ヘイデンの「サイレンス」(Silence)も収められていて申し分ない。しかしながらガルバレクは全5曲中テナーを手にしたのは自作の「Spor」だけで、他はソプラノ・サックスで通した。全体の色調にソプラノが適していると判断されたのだろうが、テナーを聴きたかったサックス奏者としては少々物足りなかった。

 この傾向は11月録音の次作「Folk Songs」でも続き、やがてガルバレクのアルバムの特徴になっていく。しかしながら、このトリオでのソプラノサックスは物悲しい趣があった。

 話題になることも少ないが、翌月にはシェル・ヨンスン(Kjell Johnsen)のパイプオルガンとのデュオ「Aftenland」が録音されている。このアルバムは15年後のヒリヤード・アンサンブルとの「Officium」を予感させるもので、Officiumに比べれば、別次元の凄みがある。ソプラノ・サックスの響きは妖しく、雅楽のダブルリードの「篳篥(ひちりき)」のような趣がある。ガルバレクの向かっていた音楽が端的に現れている表現だが、伝統的なジャズに近いものをガルバレクに求める人たちからはまったく無視されていると言っていい。

 翌年の12月に録音された「Eventyr」はガルバレクにとっては重要なものだったようだ。
J・GDisAll Those Born With Wings 76、 87、 Eventy80のスタジオで私が試したアイデアは後のグループに大きな影響があったと言えます。ジスモンチ、チャーリー・ヘイデンとのトリオでの経験も同じく重要でしたし、インドのヴィオリン奏者L・シャンカール(L. Shankar)も私に計り知れない影響を与えました。

 ドラムのポール・モチアンとデュオ・アルバムを録音することになっていたのですが、1週間前に電話があって、ニューヨークでギグがあるからレコーディングをキャンセルしたいというのです。どうしていいか分からなかったのですが、ちょうどその時キース・ジャレットとECMのツアーに出ていて、そのツアーにはエグベルト・ジスモンチとナナ・ヴァスコンセロス(Nana Vasconcelos)のグループも同行していました。それで、ナナに話を持ちかけて彼がやってくれることになり、ギターのアバークロンビー(John Abercrombie)も入れて、トリオで伝統音楽も取り入れた自由なものを録音したのです。そしてそのアルバムは非常に重要なステップになりました」

 止むなく編成を変えた恩恵のようなもので、いつも夢見ていたことが実現したようだったとガルバレクは語っている。
J・G「それは自由で、同時にわたしが大好きだった民族音楽のようでもありましたし、いくつかの多重録音をしたことはそれまでのアルバム制作とは一線を画するものになりました。」
 さらに驚かされたのがナナの持ってきたものだった。打楽器奏者は既成の楽器だけにとどまらず、一見がらくたにしか見えないものを持参したりする。チューブとか鍋の蓋とかただの空き瓶とかいった類いだ。ナナも大量の楽器ともつかないものを持ってきたと思われる。80年の暮に録音された「Eventy
r」は彼のその後の活動のための重要な足がかりになった。

ナナ・ヴァスコンセロス (Nana Vasconcelos1944 – 2016
 ブラジル、レシフェ出身の打楽器奏者。12才のときにギタリストの父のバンドでボンゴとマラカスを演奏するようになった。60年代半ば、ドラムセットを積み込んでリオ・デ・ジャネイロに向かい、まだ若かったミルトン・ナシメントに雇われる。そこでブラジルの打楽器も演奏するようになったのだが、彼を聴いたガトー・バルビエリ(
Gato Barbieri )はアルゼンチン、ヨーロッパ、アメリカのツアーのために彼を引き抜いた。ツアー後は2年ほどパリに住み、時おりスウェーデンでドン・チェリーと共演。1976年ジスモンチの「Dança Das Cabeças」でECMデビュー。78年には再会したドン・チェリーとコリン・ウォルコット(Collin Walcott)と共にCodona」を結成。1980年から83年には、パット・メセニーにブラジル音楽の影響を与えたスペシャル・ゲストとしてバンドに参加。グラミー受賞8回。
 今年の3月惜しくもこの世を去った。

Eventyr」でのガルバレクは冒頭から一風変わった演奏で驚かされる。それは民謡歌手が使うこぶしのようなものだが、ソプラノサックスでもテナーサックスでもそのような吹き方を随所で聴かせている。譜例はソプラノ・サックス

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 本人が語るように、嬉しさのあまり嬉々として吹く様子は伝わってくるし、エスニックな効果も充分なのだが、すでにソプラノ・サックスの領域は超え、チベットの民族楽器とかを一瞬連想してしまう。アルバム全体の雰囲気は整っているし、ガルバレクが目指すものと言っているわけだから、かなりの手応えはあったに違いない。実際、バスコンセロスの快演と控え目ながら存在感を示すアバークロンビーの力もあって、アルバムの出来は良い。テーマ部分がどのあたりまで決められていたのかは分かりかねるが、フリーフォームで作り上げた部分が大半を占めているものと思われる。

 ただ、このようなこぶしを使った吹き方をしてこの先どうなるんだろうと思えたことも確かだった。

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*ビル・フリゼル Bill Frisell

 81年には、やはり民族音楽的なアプローチを指向するチェロのデヴィッド・ダーリン(David Darling)の「Cyckle Song」のレコーディングに参加し、翌月には新しいバンドでのレコーディングが行われた。以前、エバーハルト・ウェーバーとデュオで演奏しているのを聴いて以来、共演を望んでいたギターのビル・フリゼル(Bill Frisell)が加わって、Paths, Prints」81「Wayfarer」83と2枚が制作された。

 漂うようなサウンドを送り込むフリゼルの参加はガルバレクにはありがたいものだった。
 ガルバレクを包み込むように寄り添うフリゼルのサウンドにはえも言われぬ詩情があり、ガルバレクの期待感が充分に伝わってくる。ナナとのセッション時に聴かせたサックスのこぶしはいくぶん抑えられていて、しかしながら民族音楽的なアプローチも自由に展開できている。ただ、フリゼルのサウンドの影響なのか、ビブラートは少々深くなっている。

J・G「ビル・フリゼル、エバーハルト・ウェーバー、ヨン・クリステンセンとわたしはいくつかコンサートもしましたし、ツアーにも出かけました。それは本当に素晴らしく最高の音楽であり、またとない時間でした。わたしにとっては本当に重要だったのですが、あいにくビルはそんなに多くの時間をヨーロッパで過ごしたことはなく、彼の妻がいるアメリカに戻ることを望みました。彼との演奏には他にないほどの親しみを感じていたので、失ったことは打撃でしたし、本当に悲しいことでした。バンドは解散しました。」

 気を取り直して「It’s OK To Listen To The Gray Voice84の録音に、別のギタリスト、デヴィッド・トーン(David Torn)を起用したり、さらにレコーディングには至らなかったが、スタジオ・ミュージシャンのようだったと評したロス・トラウト(Ross Traut)などともセッションを重ねた。彼らは素晴らしいプレイヤーであったものの、フリゼルのアイデアを再現できるものでもなかった。バンドは解体を余儀なくされた。

 やがてキーボード、サンプリング、シンセサイザーへと興味が移った彼は、スウェーデンのキーボードプレイヤーLars Janssonと楽旅に出たりしたが、録音はされなかった。そこで、エバーハルト・ウェーバーはライナー・ブリューニングハウス(Rainer Brüninghaus)を雇うことを提案した。しかし、ブリューニングハウスが録音に参加したのは3年先のことだった。


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L・シャンカール Lakshminarayana Shankar

 フリゼルとの2枚目のアルバムの後、インド出身のヴァイオリン奏者L・シャンカールのレコーディングに参加した。シャンカールは技巧をひけらかして弾きまくるタイプの演奏家ではなく、あくまでも背景を作ることに能力を発揮する音楽家だったが、彼との出会いは凄まじいほどの影響があったとガルバレクは語っている。音楽的に柔軟だったシャンカールが様々な方向性を見せてくれたのも確かだと思われる。例えば、83年春、Palle Mikkelborg を加えたトリオで録音されたVision」のタイトル曲は13分以上も続く瞑想の世界でだが、一転して「Psychic Elephant」では、オーネット・コールマンやマリオン・ブラウンが好みそうなメロディラインの曲を取り上げている。

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 ソロはE、A、Dがランダムに使われる構成。さらに9月に録られた「Song for Everyone」ではタイトル通りに親しみやすい曲が並んでいる。

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 「Paper Nut」
ヴァイオリンが先導するリズムに乗って下のようなメロディが歌われるというような展開。

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 親しみやすい童歌のように誰でも口ずさめる、このような曲作りが刺激を与えた部分も大きいと思われるが、2枚のアルバム、共にリズムトラックはシャンカール本人によって作られている。一枚目ではパーカッションをオーバーダブしたかと思われるが、二枚目では
electronic drumsと表記されていることから、初期のドラムマシンを使用したかと考えられる。
 当時、バンドが稼働していなかったガルバレクにしてみれば「その手があったか」というものだったに違いない。さらに、二枚目のレコーディングで、インド出身のパーカッション奏者、トリロク・グルツ
Trilok Gurtu)と ザキール・フセイン (Zakir Hussain)に出会うことにもなって、目からうろこの連続だった思われる。

L. Shankar (L・シャンカール)
(Lakshminarayana Shankar)

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 インド、マドラス生まれのヴァイオリン奏者、歌手、作曲家。幼少期はスリランカのジャフナで過ごす。父はジャフナ音楽大学の教授で、高名なヴァイオリン奏者だった。彼は3才にして古いインドの音楽の複雑なラインをハミングする能力を示し、二年後の5才の時にヴァイオリンを始めた。彼の言によれば7才の時にはドラムを習ったという。同じく7才の時には初の公的なコンサートをセイロンの寺院で開いた。1950年代初期、スリランカの暴動で家族はインドに脱出。インドで物理学の学士を得た後、1969年に渡米。コネチカットのウェスリアン大学で民族音楽学の博士号を得た。博士論文は、「南インドのクラシック音楽のバイオリンの伴奏術」(The Art of Violin Accompaniment in South Indian Classical Music)大学の室内オーケストラのコンサートマスター兼助手として働いているときに、ジャズ・ミュージシャン、クリフォード・ソーントン(Clifford Thornton)を通じてオーネット・コールマン(Ornette Coleman)、ジミー・ギャリソン(Jimmy Garrison)、ジョン・マクラフリン(John McLaughlin)等と知りあう。 
 1973年にはマクラフリンと共に「
Shakti」を結成。80年代からはジャズとインド音楽を融合させるような作品を数多く録音。ロック界のピーター・ガブリエル(Peter Gabriel)フィル・コリンズ(Phil Collins)トーキング・ヘッズ(Talking Heads)フランク・ザッパ(Frank Zappa)ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)ルー・リード(Lou Reed)などとも共演している。


 84年の12月に録られた「
It’s OK To Listen To The Gray Voice」は「Photo with Blue Sky, White Cloud, Wires, Windows and a Red Roof」と同じように、スタジオ・グループとしてのアルバムだと感じているのか、多くを語っていない。しかし、この中に含まれるタイトル曲は、その後アレンジを変えて「Rites」で再録された。

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 86年は、エレニ・カラインドルーEleni Karaindrou )作曲の映画音楽「O Melissokomos」(Beekeeper)の録音で始まった.「Farewell Theme」はこの後何度も再録音されたが、このアテネのスタジオで録られたものが最初。恐ろしく遅いテンポでテーマが吹かれている。楽器はテナーで、カラインドルーはテナー以外はオファーしていない。(譜例はテナーのキー)

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 クラシックのプレイヤーというものでもなく、時おり彼独自の装飾音符に彩られてはいるが、「
」で演奏されるときのコントロールはサブトーンD#でも揺るぐことがなく見事なもの。彼自身はクラシックのサックス奏者にはまったく興味がないし、聞くこともないとインタビューで答えているが、その気になれば如何様にも対処できるに違いない。

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*民族音楽

 86年の夏All Those Born With Wings」が録音された。フリゼルが去った後、前作ではデヴィッド・トーンを起用し、他のギタリストでも試してバンドの存続を計ったのだが、このアルバムのためにはバンドを編成することなく、すべて自分一人でやってのけた。いわば奥の手のようなものだった。キーボード、ギター、パーカッションなんでも一人でオーバーダビングして作られた。この形態を選んだことはL・シャンカールの影響もあったのではないかと考えられるが、推測の域を出ない。このレコーディングが重要なポイントであったと彼は語っていて、後年いくつものアルバムでこのような方法を取ることになった。

J・G「進むには3つの異なる方法がありました。グループでライブ活動をすること、他のミュージシャンとの共同作業、そして「All Those Born With Wings」のような自分自身のための特別なプロジェクトです。その類いの最も初期のものはラルフ・タウナーとのデュオ「Dis」でした。これらのものはサイドラインがあるわけですから、その後のグループの活動の際には、私のアイデアに何かを付け足してくれる人たちがいて、より凄いものになりました。実際、自分が望む方向に舵を取れるものでもありませんでしたが、彼らが仕向けてくれるものですから可能性が広がり、そういった意味では私は幸せだったと思います」

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All Those Born With Wings」もガルバレクのターニング・ポイントであったと思われる。それまでの作風との違いは、より民族音楽を意識するようになったことで、これ以前と以後と言えるほど前後の落差がある。前兆は「Eventyr」にあったのだが、フリゼルとのバンド活動などがあって、「遅くなりましたが」というところだ。「1st Piece」のメロディは民謡調で寂しげなもの。(譜例)このようなマイナーの曲調はノルウェーのFolk songに多い。以降、このような曲を積極的に作るようになった。

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「2nd Piece 」では自ら作ったリズムトラック、タムタムと小太鼓とシンバルが響く、まるで中世の軍隊が王の謁見の際に鳴り響かせるような勇ましい音と共に、ファンファーレのようにサックスが鳴り渡る。決意表明のように聞こえる。

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 「5th Piece」はギターの弾くリズム・パターンに乗って展開されるが、これも7拍子と構成に抜かりはない。ウッド・フルートの「3rd Piece」はタルコフスキーに捧げられた鎮魂歌。「Dis」に続くガルバレクの個人的なメッセージであり、ここで先の方針を表明したように思える。

 今でも、ガルバレクと言えばビロンギング・バンド(ヨーロピアン・クァルテット)、ボボ・ステンソンとのバンド、ラルフ・タウナーのアルバムなどを引き合いに出して懐かしむ向きが多いわけだが、ここから新しい道が始まったといえる。

 さらに、翌年キース・ジャレットが「Spirits」を発表すると、いち早く反応した。簡単に言うと、ジャレットが自分に懐疑的になって落ち込んでしまい、とにかく浮かんでくるものをカセットテープに録音したもので、そもそも発表する気などなかったらしい。それはそれまで彼が演奏していたジャズではなく、ジャレットの心象風景のようなものであり、一人で多くの楽器をダビングして作られている。
J・G「ぼくは、彼にわざわざ電話して、どんなにぼくがそのアルバムを気に入ったかということを伝えた。なぜなら、それはまったく完全に彼そのものだったからだと思う。そして、彼のハーモニゼーションのいくつかは・・・とても素晴らしい! 聴く者の目に涙を浮かべさせるような音楽・・・あのようなシンプルなリフを伴う実にシンプルなメロディ。実に美しい! 本当に偉業といってよい!」
(「キース・ジャレット 人と音楽」イアン・カー著・箕田洋子訳 / 音楽之友社刊)
 この反応は、実のところガルバレク自身が立とうと望んでいた場所ではないかと思えるのだ。
 ここから
All Those Born With Wings」の延長上に展開するガルバレクの音楽と、民族音楽家との交流の2つの路線が核になっていく。もちろんゲストで招かれたレコーディングでは、柔軟性は保ったままその枠内での表現を器用にこなしていく。


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 80年代半ばから民族音楽指向は強くなっていくのだが、1986年のザキール・フセインの「Making Music」は共に「Shakti」で活動したジョン・マクラフリン(John McLaughlin)も加わったアルバムだが、このアルバムでのテナー・サックスはその路線でこぶし全開。(譜例はテナーのキー)

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 続く87年のゲイリー・ピーコック(Gary Peacock)「Guamba」では
Kenny Wheelerとのセッションと同じく、ストレートなジャズ路線で吹ききっている。(譜例はテナーのキー)

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 いくつもの違うアプローチを自由に往き来できる能力は単に器用というだけで
説明できるレベルを超えている。普通、プレイヤーは様々な方法は知っているが、それぞれの流行りの時期というようなものがあって、いつでも、どこにでも、往き来できるというのは特殊だといって差し支えない。この能力がガルバレクというプレイヤーを把握し辛くしている要因でもある。

 80年代、来日したときのインタビュー記事の切り抜きがある。ここで、「モード」についての質問に答えている。モードという言葉を漠然としたものだとした上で、ドビュッシーやラヴェルのことに触れ、さらにこう続けている。

J・G「モードということについてのぼくの考え方をもう少し説明すると、方法としてある種の「制限」を設けること。これによってひとつの「モード」を得ることになる、ということです。そこには単に音階だけでなく、リズムに関するモードも生じるし、例えば「使う音は5つ、リズムはこれ、ダイナミクスはここからここまで」というような制限を設けるようなことが「モード」になるわけです。一つ一つの曲に当てはめる「枠組み」がモードなのです。ドリアンにしろ、12音音楽にしろ、そこにあるのは音階を決めている一つの「モード」で、今や、多くの種類の様々なレベルでのモードが考えられ、それを組み合わせることもできるのです」

 ということは、ソロのラインのスタイルが変化するのは、彼の中でモード・チェンジが行われているのかと考えることもできる。

 自分のグループと他のジャンルのミュージシャンとの演奏に違いはあるかとの問いに。
J・G「それはまったく同じです。共通のものを見つけようとしていて、違いというものを感じたことはありません。サウンドが変わると自分の回路を変えようとします。それがインド音楽であるとかルネッサンス音楽であるとかを見るわけではないのです。彼らはその分野の音楽をとても若いころから学んできたミュージシャンなのです。彼らはマスターでしたが、コミュニケートする方法は見つかるのです。それら個々の人たちとの出会いについて考えます。演奏していることがルネッサンスの音楽だと考えるのではなく、ある特定の人たちと演奏していると考えるのです。たとえ、それがインド音楽、西アフリカ、初期のヨーロッパ音楽だとしても、人がやっているわけですから。」

 ノルウェーの音楽のルーツを調べ始めたとき、ノルウェーから遠く離れた、千年以上も前のトルコ、インドにその起源があり、その古代の歌の技法はオスロから数キロ離れた場所で未だに使われ続けていることにガルバレクは気付いた。それは驚きでもあり、彼はいっそう民族音楽にのめり込むようになった。「民族音楽はすべての音楽の要素を含むものであり、民族音楽こそがすべての音楽のルーツだ」と彼は語っている。では、なぜジャズの形態を取り続けるのかということになるが、それに関しては「私が今日演奏したもの、それが何であれ、かつてジャズの言語を学んだので、その原理なしで演奏することはできないのです」と答えている。
 彼は自分のことを「不承不承の(いやいやながらの・しぶしぶの)サクソフォン奏者(
the reluctant saxophonist)」と呼んだりする。


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 88年から90年にかけて、民族音楽を意識したアルバムが次々録音された。録音日で並べてみると、
Legend of the Seven Dreams (1988)、  Rosensfole(1989) 、I Took Up the Runes(1990)、Ragas and Sagas (1990)、「Living Magic(1990)  の5枚。「Living Magic」はパーカッションのトリロク・グルツ(Trilok Gurtu)のアルバム。

Legend of the Seven Dreams」:曲によって編成は変わるが、「Eventyr」のギターがエバーハルト・ウェーバー(Eberhard Weber )に替わり、キーボードにライナー・ブルーニングハウス(Rainer Brüninghaus)が加わったもの。
 ソロでの前作の流れを汲み、バンド仕立てにしてみましたというようなアルバムで、トラディショナルを1曲目に掲げている。前作に引き続きフルート、ソプラノサックス、多重録音された打楽器付きだがテナーサックスとそれぞれのソロトラックも含まれている。キーボード奏者の活躍の場は少なく、どちらかといえばバンドとしての形を模索しているようにも思える。しかしながらこのアルバムにも馴染みやすいメロディのオリジナル曲が含まれている。

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 この「Brother Wind」は「
Twelve Moons」1992 では「Brother Wind March」というタイトルで再録された。



 アグネス・ビュエン・ガルノス
Agnes Buen Garnås)1946 -はノルウェーの民謡歌手で、ガルバレクとの Rosensfole」で世界に名を知られるようになった。
Agnes Buen Garnås:「私の家ではいつも歌と音楽がありました。家事をしているとき母と姉妹はいつも歌っていました。階下から聞こえる音楽で眠りにつくこともしばしばでした。近所の人たちと音楽を作って踊ったりもしました。父はカルーソーなど、イタリアオペラのレコードを聴いていました。私は歌うのが好きでした。15才の時、学校の教材として使うテープを録音するので歌ってくれないかと頼まれました。私はその録音が気に入って、将来これをすることになるような気がしました。数年後にオスロから30キロ離れたアス(Ås)」に行き、歌とギターのレッスンを受けました。しかし、一年後、私はこのようなクラシックの修練を積まないフォーク・シンガーになりたいのだと100パーセント確信しました。

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 初めてヤン・ガルバレクを聴いたのは1979年でした。彼はオスロでのコンサートで演奏しました。私は彼の曲が好きでしたし、その特別なコンサートでのサックスとオルガンの混じり合いに魅せられました。その音楽は我々の時代のものだと感じました。現代的でしたが、同時に古典的でした。私は深く感銘を受けました。

 数年後、私は中世のバラードを録音するための資金を受け取りました。すぐにガルバレクのことを考えました。彼に電話をして、ノルウェー中世の音楽をアレンジしてくれないかと尋ねると承諾してくれました。」
 テープに録音された、元となる無伴奏の歌をガルノスから受け取ったガルバレクは、時間をかけて構成を練り、ガルノスにデモテープを送った。


Agnes Buen Garnås
「受け取った彼のアレンジは素晴らしかったのですが、サックスが入っていませんでした。私たちはスタジオに入り録音することになりました。ヤンはプロデューサーで、彼の妻のビーティス(Vigdis)とインガー・ハルゲスン(Ingar Helgesen)が技術者でした。私が歌い終わった後に、ヤンは多くの楽器を付け加えました。私はガルバレクが歌に新たな生命を吹き込んだと思います。それらは踊る足さえ与えられ、より永い命を得たのです。つまり、 いくつかの曲はこどもの頃に学んだものでしたが、彼によって新しい曲として私に与えられたのです。その後、彼のバンドと5週間ほどノルウェーのツアーに出かけ、国際的なツアーも経験しました。人々はこのアルバムを愛してくれましたし、ECMが世界に向けて発売すると、とてもよく売れました。このプロジェクトに関わることができたことに感謝しています。」
 実際、このアルバムはヒットした。しかしながら、これはジャズではなく、ジャンルとしてはニューエイジとか、そういった類いに分類されるものであって、日本ではヨーロッパほどの支持は得ていない。
 聴衆に支持されていることは、このようなノルウェーの歌を再生するやり方を続けることに自信を与えたかもしれず、さらに聴衆に支持されるシンプルなメロディを発信し続けることにつながったと思われる。

 次の年にI Took Up the Runes」が録音されている。「Runes」とは古代北欧民族が碑文などに用いたルーン文字で、アルバムタイトルで「さらに深く掘り下げてみます」と宣言したと考えられる。アルバム1曲目の「Gula Gula」はマリ・ボイネ・ピアスン(Mari Boine Persen)の作曲になるものだが、彼女は「 Rosensfole」のステージにガルノスと共に参加した歌手で、後にガルバレクのアルバムにも登場する。
 この曲は89年に「
Gula Gula:Hør stammødrenes stemme」として発表された彼女のアルバムの1曲目でもある。5パートに別けられた「Molde Canticle」(モルドの聖歌)はシンプルなモチーフのバリエーションで作られている。

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 メロディはほとんど民話の世界。このアルバムから登場したのが、コートジボワール出自のフランスのドラマー、マヌ・カッチェ(
Manu Katché )で、ロック系の彼のドラムが送り込むビートは、Molde Canticleパート4」あたりでは、まるでフュージョン・シーンの楽曲のような趣になり、ガルバレクのテナーもその系統のものに聞こえたりする。後半は興味深い曲が多い。「His Eyes Were Sunsはトラディショナルのアレンジだが、この曲の歌のリズムはどうなっているんだ的に面白く、付け加えられたハーモニーもガルバレクならではの先進性を含んでいる。それで、後半になるとガルバレクお得意のオーバートーンが炸裂する。

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 ようするにスーパー・ハイトーンで叫ぶわけで、譜面(テナーのキー)にすると上のような感じだが、高い音域で叫ぶエフェクトといっていい。ソロのピーク時に度々使われる。

Ragas and Sagas (1990)はリーダーアルバムと言うより、パキスタンの伝説的な歌手、ファテ・アリ・ハーン(Fateh Ali Khan)を紹介するというような形で録られている。このアルバムにはサランギ(Sarangi)という楽器が登場する。

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 アルバム全体の響きは、ガルバレクのオリジナルが1曲あるものの、ほとんど民族音楽の世界だが、ジャズにこだわらずに聴けば、別世界が開けるのは間違いない。どこかの部族の宴会に出席したような気分を味わえる。「Living Magic(1990) はパーカッション奏者のトリロク・グルツのアルバムで、ファテ・アリ・ハーンのものに比べれば民族音楽的フュージョン仕立てと言ってもよい。

Trilok Gurtu オレゴン(トリロク・グルツ)
 1951年、インド、ムンバイ生まれ。ジャズ・フュージョン、ワールド・ミュージックなどとインドの音楽を混合させたスタイルが評価されている打楽器奏者、作曲家。インドにいるころからジョン・コルトレーン(John Coltrane)、ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)、ジェームズ・ブラウン( James Brown)、およびシュープリームス(Supremes)などに親しんでいたという彼は、ヨーロッパに渡った70年代にはドラム奏者としてドン・チェリー、チャーリー・マリアーノ、ジョン・チカイなどと共演した。1980年代ジョン・マクラフリンのトリオとの共演で注目を浴びた。急逝したコリン・ウォルコットの後に「オレゴン」に参加。3枚のアルバムを残している。ダウンビート誌の批評家の人気投票では1994年から何度もベスト打楽器奏者に選出された。ガルバレクとの接点は、1985年のシャンカールのアルバム「Song for Everyone」ではないかと思われるが、1995年のガルバレクのアルバム「
Visible World」にもクレジットされ、ステージにも参加している。

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ミロスラフ・ヴィトウス(Miroslav Vitous
 上記のようにノルウェーの音楽、インド、パキスタンの音楽などが取り上げられている中に、突然現れたのがミロスラフ・ヴィトウス(Miroslav Vitous)とピーター・アースキンのトリオのアルバム「StAR」だった。ガルバレクは民族音楽的なアプローチを控え、ヴィトウスとアースキンの曲にストレートに反応した。アースキンの「Anthem」はガルバレクの曲に近い雰囲気を持っている。このアルバムでヴィトウスの昔の曲「Clouds In The Mountain」も再演されている。あっさりとストレートなジャズに対処できるのも驚きだが、72年のTriptykon」から19年、さすがに歳を取り、アルバムはとても上品な仕上がりになっている。このトリオの日本公演を2日続けて聴きに出かけた。ガルバレクの横にはエフェクターのラックが積み上げられていて、若干リバーブっぽい使い方ではないかと思われたが、結局は何の目的かは判然としないままに終わった。ガルバレクの生音は思ったよりまとまりのある小ささで、ビリー・ハーパーのように鳴らすかもしれないなどと想像していたから肩透かしを食った。

 一年後にはデュオで、やはり上品でインテリジェンス溢れる「Atmos」が制作され、2003年のビトウスの「Universal Syncopations」にもガルバレクは参加している。後にヴィトウスはガルバレクのことをこう語っている。

M・Vitousヤン・ガルバレクは私のお気に入りのサックス奏者です。我々はまた、信じられないほど音楽での親密な関係を持っています。彼は私のスラヴメロディーを理解してくれますが、彼もヨーロッパの人間であり、彼の父親がポーランド人であるということで、さらに親密な気分にさせてくれるのです。私はチェコスロバキアから来たのです。私たちの音楽的なコミュニケーションは驚くべきことです。私たちはお互いがどこに行こうとしているか、そこに行く前に分かるのです。」

 しかし、ヴィトウスのUniversal Syncopations 2003」は妙なアルバムだった。やっていることもよく分からない部分があったし、何よりもプレイヤー相互に意思の疎通がないような違和感が残った。チック・コリア、ジャック・デジョネット、マクラフリンにガルバレクと、凄いメンバーが揃っているのに不思議なことだった。これは今回聞き直しても同じだったので、調べてみた。このアルバムではコリアもマクラフリンもいつになくおとなしい。ジャズタイム誌のコンラッド氏はそこを聞いている。

Thomas Conrad「彼らがとても静かなのはなぜですか?」
M・Vitous「バンドは1曲たりとも一緒に演奏していません。私とジャックはベーシック・トラックを一人ずつ録って・・・・私が望むような形にするため、編集に14ヶ月かけました。」

 この編集の苦労は1曲目の「Bamboo Forest」にもその痕跡がある。

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テーマをガルバレクが吹き出した4小節目だけが5拍子になっているし、2拍子になる小節もある。さらにオクターブ上でテーマが繰り返される場面ではベースラインが完全に裏になってしまっていて、やや強引に元に戻すといった具合。要するに音素材としてのフレーズをつなぐ際、ドラムとの関係から収まりの良いものを選ぶうちにそのような結果になったものだと思われる。聴いている分にはスムースな流れだが、「あれっ」と思わされたのはこういうところに原因があったらしい。

 作業のほとんどはヴィトウスのプライベート・スタジオで録られたものらしく、チック・コリアもマフラフリンもダビングだということになる。コンラッド氏はデジタル疑似バンドと呼んでいるが、このような作り方に疑問を投げ掛け、メンバーの豪華さで注目されたものの成果はあげられていないとしている。
 ジャズの録音でダビングを使った例が過去にないわけでもない。チャーリー・パーカーの史上名高い「ジャズ・アット・マッセイホール」で、チャーリー・ミンガスはステージ上でのメンバーの振る舞いが気に入らず途中で放棄し、後日ベースだけをダビングした。マイルスの「Someday My Prince Will Come」でのコルトレーンのソロも後からダビングされたものだ。後からの編集ということになるとテオ・マセロだ。彼はマイルスの「ビッチス・ブリュー」「ジャック・ジョンソン」を思いきった鋏を入れて形を整えた。今はライブ録音であろうと不首尾だった部分だけ差し替えることも可能だし、ジャズがリアルタイムで表現される音楽だったのは過去のことになりつつあるのかもしれない。
 ヤン・ガルバレクも近年はベーシックトラックを一人で作り、ダビングするやり方で録音しているケースも多い。


 時を同じくしてニールス・ヘニング・オルスト・ペダーセンNiels-Henning Ørsted Pedersen)のアルバム「Uncharted Land」がスティーブ・スワローのプロデュースで録られている。

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 ガルバレクはオリジナル2曲、トラディショナルのアレンジ2曲を提供して演奏にも参加しているが、彼が参加した楽曲には混声コーラスグループの「Ars Nova」がクレジットされていて、全編にそのヴォイスサウンドが使われている。中でも18分を費やした組曲仕立ての「Nordavind」は印象深い。冒頭のア・カペラ・ヴォイスが92年の「Officium 」を彷彿とさせるというか、ガルバレクはこの時点で古楽の聖歌のようなものとのコラボレーションを目論んでいたらしい。
 このアルバムでの演奏は、他のプレイヤーたちとの共演と違い、自分のアルバムと同じようなアプローチで押し通している。スティーブ・スワローは見事なプロデュースをしたといえる。

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 民族音楽的なアプローチのアルバム「Madar」(1992)ではチュニジア出身のウード奏者、アノアル・ブラヒム(Anouar Brahem)と痛快な演奏を繰り広げた。

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 ウードはこのような弦楽器で、ブラヒムはギター奏者のような感覚でのバッキングで、タブラと共に心地よいリズムを送り込んでいる。 ノルウェーのトラディショナルとブラヒムのオリジナルが渾然一体となった選曲だが、違和感なくまとまっている。ガルバレクはテナーだけで押し通している。

アノアル・ブラヒム(Anouar Brahem1957 -
 チュニジア出身のウードプレイヤー。
アラブ古典音楽、民族音楽とジャズを融合した演奏家として評価されている。チュニジア国立音楽院(Tunisia's National Conservatory of Musi)でウードを学ぶ。1981年渡仏。ここで様々なジャンルの音楽家と出会う。作曲家としてチュニジアの映画音楽などを手がけつつ4年間をパリで過ごした。帰国後ECMと契約し、ジョン・サーマン、デイブ・ホランドなどのアルバムに参加している。

「Sull Lull 」は譜例のスケールで成り立つ楽曲。

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 テナーはこぶし全開で小気味いい(下譜例はテナーのキー)

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 シタールのシャンカールはガルバレクがインド音楽などに容易く対応できることに驚嘆したと伝えられている。しかしながら、1ヶ月後に録音された「
Twelve Moons では情緒優先とでもいうべきアルバム作りに徹した。

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*Officium

Twelve Moons」ではインタビューで最も重要な作曲家だと語っていたグリーグの作品「Lyrische Stücke 叙情小曲集」から1曲目「Arietta」のアレンジが録音された。

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 アルバムは全11曲中8曲がソプラノ・サックスという構成で、柔らかな感触の曲が優先された作りになっている。これは95年のアルバム「
Visible World」でも顕著なやり方だが、バンドでのライブもほぼそのような形で行なわれていて、今のガルバレクのスタイルとして定着している。個人的には、ソプラノの音色に音域の高低の変化がテナーほどにはなく、曲が変わっても先が読めるような展開になりがちのように感じるのだが、それは好き好きであって否定するものでもない。

 さらにその傾向を決定付けたのが、ヒリアード・アンサンブルとのアルバム、ECMニュー・シリーズの「Officium」(1994)だった。

ヒリアード・アンサンブルThe Hilliard Ensemble
 1974年にポール・ヒリヤー (
Paul Hillier)エロール・ガードルストーン(Errol Girdlestone)ポール・エリオット(Paul Elliott)デヴィッド・ジェイムス(David James)によって 結成されたイギリスの男性コーラス・グループ。メンバーは流動的で1980年にリーダーのヒリヤーが去り、デヴィッド・ジェイムス(カウンターテナー)、ロジャース・コヴィー・クランプ(Rogers Covey-Crump・テノール)ジョン・ポッター (John Potter ・テノール)、ゴードン・ジョーンズ(Gordon Jones・バス )によってOfficium」は録音された。

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左からロジャース・コヴィー・クランプ、ゴードン・ジョーンズ、ジョン・ポッター、デヴィッド・ジェイムス。

 

グループ名の由来はリーダ格だったヒリヤーとは関係なく、エリザベス朝の細密画家ニコラス・ヒリアード(Nicholas Hilliard)に因んで名付けられた。1980年代、彼らはポール・ヒリヤーとの活動でEMIに中世音楽シリーズのアルバムを多く制作したが、その後ECMに移った。中世、ルネッサンス音楽に限らずジョン・ケージ、アルヴォ・ポルト、ギヤ・カンチェリなど現代音楽の分野での活動も行なっていた。活動期間は41年という結成当時の予定通り、2014年の12月のコンサートを以て解散した。

Officium」はヒット作となり、150万枚売り上げというECMでもかなりの枚数で、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」に次ぐものではないかと思われる。気を良くしたマンフレッド・アイヒャーは続編「Mnemosyne」1999、「Officium Novum」2010を制作した。

 このアルバムでのガルバレクのサックスは浮遊感のあるものになっている。それは楽曲の構造が、和声の概念がまだない教会旋法に基づくものであり、男声のハーモニーはスリーコードが漂うだけの展開。解説によれば、厳密には聖歌というもの3つほどしか含まれていないらしいが、その時代の古楽であることは間違いない。その上でサックスのラインを考えるとしたら、紋切り型に決着を付けるのもはばかられ、解決するようで解決しないようなラインに終始することになった。それが功を奏し、ヒーリング・ミュージックとして広く受け入れられる要因となったのではないかと思われる。この組み合わせのコンサートは池袋の芸術劇場で聴く機会があった。満員盛況だった。始まって3曲目ぐらいまでは中々のものだと感じていたが、同じようなテンポで進行するにつれ、少々退屈感があったことも確かなのだ。もちろん充分に癒されはしたが、コンサート後の高揚感というものはなかった。この日は外国人の聴衆も多く、帰り際に後の外人グループの話声が聞えた。「おい、聴いたか、あのソプラノの音色、なんてこったい。信じられねえぜ」というようなものだった。


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 バンドを意識したアルバムとは別にソロアルバムとして作られた作品として「All Those Born With Wings」 (1987)の次に届けられたのが「Rites」(1998)だった。

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 ここではベーシックをガルバレクが一人で作り、必要に応じてプレイヤーを呼ぶという形で録音されている。「rite」は儀式という意味だが、最後のトラックのタイトルは「Last Rite」で、これは臨終の儀式を意味する。50歳を過ぎた彼に何が起こっているのかは分からないが、全体的に内省的で意味深なアルバムだった。次のソロ・アルバム「In Praise of Dreams」(2004)でも、ベーシックは同じようにガルバレク自身がほとんどを作り、全11曲中6曲でマヌ・カッチェ(Manu Katché)入り、ヴィオラのキム・カシュカシャイン(Kim Kashkashian )が9曲に加わっている。

 この2つのアルバムでガルバレクは、それまで辿ってきた道を振り返りつつ独自のものに結晶させているように思える。ハーモニーの展開も素晴らしいものがある。「In Praise of Dreams」はグラミー賞にノミネートされた。

 近年はバンド活動の他にクラシック・エリアの作曲家との録音、ギヤ・カンチェリ(Giya Kancheli)の「Caris Mere」 (1995)に含まれる「Night Prayers (1994)  for soprano saxophone and string orchestra To Jan Garbarek 、ベイルート生まれのタイガン・マンスリアン(Tigran Mansurian)の「Monodia(2002)に含まれるLachrymae (1999)for soprano saxophone and viola for Kim Kashkashian and Jan Garbarekなどがある。
 マンスリアンの作品で共演したカシュカシャインが「In Praise of Dreams」(2004)に参加したわけだ。

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 バンドのメンバーとして付き合った、マヌ・カッチェやマリリン・マズールのアルバムにも参加していたガルバレクだが、初のライブアルバム「
Dresden」は2007年に発売された。バンドのライブと彼のソロ・アルバムは、いくぶん違った感触のものだが、現在のステージで聴けるものが2枚組で収録されている。エバーハルト・ウェーバーは病のために演奏不能になり、ユーリ・ダニエル(Yuri Daniel )が引き継いでいる。

 「Concert in Athens (2013) はエレニ・カラインドルーのライブだが、ここでガルバレクは彼女の映画音楽の中の様々な楽曲に参加している。いわゆる劇伴の世界で、彼のポップなワルツなど滅多に聞けるものではない。

 エバーハルト・ウェーバーのアルバム「Stages of a Long Journey (2007)にガルバレクも参加して、相変わらずのテナーを聴かせていたが、倒れたウェーバーの功績を称えたライブ録音「Résumé」 (2015)がカタログの最後にあることが時の経過の現実をまざまざと伝えている。

 近年のガルバレクのライブについて不満を感じている向きも多い。海外のサイトでもしばしば「まるでスムーズ・ジャズではないか。我々はガルバレクを失ってしまったのか」などという意見を見かけたりする。いわゆるジャズではないというわけだ。
 もちろん、彼がブランフォード・マルサリスやジョー・ロヴァーノなどと同じ道を進んでいるなどとは誰も思っていないわけだが、では、ガルバレク自身がジャズについてどう考えているのか。

J・G「私にとってジャズとは・・・ルイ・アームストロングに始まり1960年から65年頃に終わったものだと思います。それがジャズなのです。その後起きた新しいことは、私がジャズと認識していたものとは別のものなのです。ジャズは、アームストロング、エリントン、オスカー・ピーターソン、ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードンなのです。初期のマイルスとコルトレーンもそうかもしれません。
 定義と分類の問題です。境界は何でしょうか。リズムを伴うインストゥルメンタル・ミュージックをジャズというのなら、それは意味を成しません。ジャズという単語、それは単に言葉なのですが、意味が弱まるだけです。
 私はジャズだと考えて演奏しているわけではないのですが、一方、私の長い歴史の中で、聞き手としても演奏家としても、ジャズが音楽に何かをもたらしたことも確かなのです。部分的にそれが何か別のものになることは嬉しいことですし、あえてそれに名を付けようとは思いません。」

 ビ・バップを境界と感じているらしい。極端な意見のような気もするが、彼はそこで線引きをしているわけだ。


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 ガルバレクも来年は70才を迎える。私は20才の頃に彼を知り、サックス奏者として目指すわけもなく、しかし、いつも横目で彼の動向を見つつ、40年以上が過ぎた。同時代を生きたことは間違いない。改めて彼のアルバムを聴いてみて、実に様々なチャレンジを続けてきたことに驚かされた。勤勉な彼は、ずいぶん前に来日した際のインタビューで、「いま、ジーン・アモンズに興味があって、アルバムをかなり仕入れて聴いているんだ。いや、素晴らしいよ」と言っていたし、別のインタビューでは、コールマン・ホーキンスと一緒にやっていたトロンボーンのトラミー・ヤングの演奏について、ホーキンスの自由自在なソロの後で、負けじと速いパッセージを吹くのではなく、トロンボーンという楽器を生かしてエフェクティブに応じた彼を賞賛したりしていた。彼の視点はニュートラルで、興味のあることをジャンルに関係なく取り入れてきた。そこが他のいわゆるジャズ系のサックス吹きとは大きく異なり、独自の音楽を作り上げることになった。個性的という言葉を超えた存在であることは間違いない。


参考文献 他

「キース・ジャレット 人と音楽」イアン・カー著・箕田洋子訳 / 音楽之友社刊)
IN CONVERSATION WITH JAN GARBAREK By Stuart Nicholson
JAN GAEBAREK INTERVIWS 
 2014
Interview by Philip Watson
An interview with Jan Garbarek September 21, 2009 BY ADMIN 
Jan Erik Kongshaug Imterview 
Miroslav Vitous Universal Syncopations By Thomas Conrad
Japn Times Feb. 2004 
Interview Sept. 2009 by Peter Bacon

2016.9/8



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