Jr. Walker (ジュニア・ウォーカー )(1931 - 1995)
(Autry DeWalt)

Jr.Walker はMotown のアーティストとして多くのヒット・ソングを残したサックス奏者(歌手)です。
私は20代の終り頃に、歌手のU氏に教えられてこのプレーヤーを知り、シンプルなものが持つ説得力、歌い方、リズムの重要さなどを随分と学びました。
歌手のバックで演奏する時などには、多くのことを参考にし、テナーをウォーカーのように大らかに優しくサウンドさせ、しかもタイトなリズムを送りだせるようになりたい、と何時も願っていたものです。
今は、そのようなスタイルで演奏することもなく、その頃のようにジュニアを聴くこともありません。しかし、取り上げられることも少なく、サックスプレーヤーにさえ振り向かれなくなったこの偉大な演奏家のことを改めて見直してみたいと思います。
絶大な人気を誇った数多くのヒット曲を持ち、サックス奏者としての足跡も目を見張るものがある彼が、日本ではR&Bシーンの徒花的評価に留められているのは悲しい事なのです。
Junior Walker の特徴は、見事にコントロールされた Super-High-Notes と音色の艶やかさ、うなるような奏法(Growled)、リズムの小気味よさにあります。特にハイ・ノートは印象的で、彼の絶妙なリズム感と相まって、更に鋭いアクセントを独特のグルーブ感に付け加えるのです。
ジュニアは、同世代のJazz Man から出発したKIng Curtis (キング・カーティス)の洗練されたインストゥルメンタル・サウンドと比較すれば、少し粗いかもしれません。
けれども、その歌うような音色が、より身近で SEXY に聞こえもするのです。
ヒットした楽曲は殆どの場合、前奏、歌、間奏、歌、後奏、全てジュニアの独り舞台でした。他の楽器のソロがフィーチュアされることは稀でしたが、The All Stars の送りだすビートが常に彼を支えていました。
あくまでもBand という形態と、Liveで演奏することにこだわったという点ではMotownの中で異色の存在だったのかもしれません。しかしながら、多くの彼に対する評論は初期のヒット・ソング「Shot Gun」と2枚ほどのアルバムによって書かれています。入手可能なアルバムがその時期のものに限られている現状ではやむを得ないことですが、随分失礼な話ではあります。
さて、最初にU氏から「これ、聴いたほうがエエと思うわ」と、渡されたレコード、「Gasssss」(70)中の曲「Do you see my love」での最高音は通常のオクターブの更に2オクターブ上のBb でした。
譜面にすると(1)の感じです。この加線を私達は「電信柱」とか言います。「電信柱バリバリ」と言えば、「ああ、高い音を演奏させられたんだな」と同情したりします。とは言え、これはあり得ません。(2)のようにすれば、少しは見やすいかも知れませんが。(そういう問題ではないって、、、)


もし、ジュニア・ウォーカーのコピー集が出版されたら、至る所にこのような小節があって、みんな嫌になるに違いありません。誰も買わないでしょうけど。
だからと言って、ジュニアの本質がこの事だけにあるわけではありません。
イギリスのMick Jones (Foreigner)は「ジュニア・ウォーカーは非常に尊敬されていて、たくさんのギター・プレーヤーが彼のサックスから学んだはずです。 Eric Clapton、Jeff Beck、、、それらの人々の何れに尋ねても、ジュニアのサックスによって霊感を与えられた事を認めるでしょう」と証言しています。ジュニアのソロは一つ一つのフレーズが、独立したシンプルなR&B のリフのようでもありました。(ある紹介文では、彼のフレージングはB・B・Kingのリックのようだと、書かれていました。Lick=ジャズなどの短い楽句、フレーズ)


●1 Blytheville, Arkansas ●2 Memphis, Tennessee ●3 Nashville, Tennessee
●4 Chicago, Illinois ●5 South Bend, Indiana ●6 Detroit, Michigan( Motown!!) ●7 New York ●8 Battle Creek, Michigan ●9 St Louis, Missori ●10 Kansas City, Kansas
Junior Walker は1931年、Arkansas Blytheville生まれ。(後にIndiana, South Bend に越しました。)本人はインタビューに答えて1931年と言っていましたが、文献などでは1942年となっていたりします。あるレコード会社がサバを読んだということですが、真相は解りません。
子供の頃、祖父が「ジュニア」と呼び、皆と一緒に自転車にも乗らず歩いてばかりいたから、誰言うともなく「Walker 」になった、と本人は言っています。
(Autry was called "Junior" by his stepfather. His friends called him "Walker" because the youngster, not having a bicycle, made his rounds on foot. He soon found himself referred to as "Jr. Walker." The nickname stuck.)
正確に言えばJunior Walkerは愛称で、Autry DeWalt2世が正しいのですが、Oscar G. Mixon としていた時期もありました。この姓名の変化は彼の母親が前夫 Mixon氏から身を隠すためのものだったとの記述もあります。Arkansas からIndianaへの移転もそれに関係があるのかも知れません。シカゴに伯父がいたこととサウスベンドへの移住は、経緯としては自然なようにも思えます。Arkansasの人はジュニアが我が地の出身だと言うそうですが、彼が育ったのは実質サウスベンドだったのです。たまに見る表記、両方を混合したAutry DeWalt Mixon が間違いであることは確かなようです。ちなみに作曲家としてのクレジットは全て本名Autry DeWaltです。
サックスに取り憑かれるきっかけとなったのは、ラジオで聴いたLouis Jordan のAlto Sax だったようです。彼はピアノもギターも弾いていましたが、それ以来サックスに取り憑かれ、ラジオでLouis Jordanはもちろん、イリノイ・ジャケー(lllinois Jacquet)やレスター・ヤング(Lester "Pres" Young)が聞ける番組を探しました。
シカゴで見たレスター・ヤングが全てを決定したようです。伯父の家に泊っていて、じかにプレズを見るチャンスが訪れたのです。
J・W「彼はそのクラブで演奏していて、私は毎晩行きました。だけど、私はあまりにも若くて小さかったので、中に入れてもらえず、窓越しに見ました。ある日、こっそり忍び込み、追い出されるまで端に立っていました。それは、ほんの数分間のことでした。しかし、、、ぉぉー、、、、、。」
40年以上経ったこのインタビュー時にも、彼の声は次第に弱まり、その記憶は彼を魅了し言葉をなくすほどでした。その日以来何十年もレスター・ヤングの音はジュニアを支えていたのです。
ジュニア・ウォーカーが初めてサックスを手にしたのはSouth Bend の サックスプレイヤーGeorge Masonによってでした。彼はテナーサックスを吹き、アルトも持っていました。ある日、彼はジュニアにサックスに触れてもいいと言ったそうです。それは最も望んだことであり、さっそく手に取って吹き始めました。
ジュニアの語るところによれば、それがテナーであったかアルトであったかは分りませんが、初めてでも音を出せたようです。それは門前の小僧のようなものだったかも知れませんが、天性の何かを持っていたとも言えます。
そこに居合わせた別の男に「Georgeはアンブッシャーとかを教えたかったのに、君は初めてなのに吹いていたな。たぶん彼は妬んだと思うぞ」と言われました。その幾分皮肉混じりの言葉に励まされ、ジュニアはシカゴの伯父からオンボロな(beat up 使い古し)サックスを手に入れました。
それからは "Perdido" や "Flying Home."などの曲を一緒に吹くためにラジオの前に座る毎日になりました。スクールバンドでの演奏は彼の意に沿うものでなく、もっと違うものを吹きたい願望を持ち、アフターアワーズでの即興演奏で学校が揺れ動くようだったと、彼は語っています。
George Masonの家では週に一度のジャムセッションが行われていて、よく行ったらしいのですが、参加することは少なく、いつも聞き役であったようです。しかしながら、そこで学んだことを練習する日は続きました。
その熱心さに気付いた母親は、ある日彼をElkhartのセルマーの工場に連れて行き、彼が忘れもしない言葉をかけました。「好きなものを選びなさい」
Selmer Mark 6は当時でも500$。その負担を無駄にすまいと、決心したと語っていますが、まさに本格的な出発点でもありました。
やがて、楽器を手に入れたジュニアは地元のジャズ・ミュージシャン、カーティス・ジョンソン (Curtis Johnson)を教師として楽譜の読み方、楽器の演奏に関する初歩的なことを学びました。「みんなは私が譜面を読むことは望まないし、いつものようにブローを期待するでしょうけど」と言って、ジュニアはインタビューで笑うのですが、彼はどんなことでも貪欲に学びました。
最初のステージは、女性サックス奏者ジェニーをフィーチャーした、ギタリスト、レイ・フリーマン (Ray Freeman) のバンドでした。彼女はジュニアにライブ・パフォーマンスのこつを教えてくれました。バンドはヒット曲を演奏していました。そこで、彼はついていく方法を理解しました。
J・W「何を演奏されようと、何を歌われようと、私はそれについていくことが出来ました」
そこで留まることなく、ジュニアは演奏場所を広げていきました。
J・W「チェッカー・クラブ (Checker Club)はジャズの店でした。別のクラブにはブルースを弾くブッカー (Booker)と呼ばれるギタリストがいました。彼とも演奏をしていましたし、ありとあらゆる音楽を演奏しました。」
やがて、彼はピアニスト、ジョー・ニール (Joe Neal) 、レイ・フリーマン(Ray Freeman) とバンドを結成しました。
ニールは辞め、後にフリーマンに代わるギタリスト、ウィリー・ウッズ (Willie Woods)を紹介することになるフレッド ・ペイトン (Fred Paton)が加入しました。ドラマー(不詳)も去り、 ビリー・ニックス(Billy "Sticks" Nix)が参加した時点で、「Jr. Walker's Group」と呼ばれたこのバンドが、後のJr. Walker & the All Starsの原形でした。
J・W「私達は、その頃のものは何でも演奏しました。ファッツ・ドミノ(Fats Domino)、ボー・ディドリー(Bo Diddley)。フレッドはそれらを歌うことが出来ましたから。」
彼は自分の好んだサックス奏者の演奏を再現することも見事にこなしました。アール・ボスティック(Earl Bostic)、Bill Doggettバンドのクリフォード ・スコット (Clifford Scott)、リー・アレン (Lee Allen)、そしてキング・カーティス(King Curtis) 、サム・テイラー (Sam "The Man"Taylor)
「Jr. Walker's Group」はSouth Bend で評判のR&B カバー・バンドになりました。このバンドは「Jumping Jacks」と愛称で呼ばれるほどの人気を博し、ロイヤル・クラウン・コーラ (Royal Crown Cola) 提供のローカルなテレビ番組、「American Bandstand」の「クラブ16」ハウス・バンドとしてテレビにも出演して聴衆を踊らせるようになりました。毎週土曜日に彼らは演奏し、若者は踊り、誰もが素晴らしい時間を楽しみました。この成功のもたらすであろう賃上げを恐れ、局側が別のバンドと交替での出演を提案するまで番組への出演は続きました。
ジュニア・ウォーカーの特色はこの時点ではっきりしていたように思えます。彼の音楽のダンサブルなスタイルは、既に初期のバンドに顕著に現れていたのです。私が付き合ったプレイヤー、例えばベースのポール・ジャクソンは「ジュニア・ウォーカーがアイドルなんだ」と言うと、ニンマリと笑い、思いきりハイタッチされましたし、やはりベースとヴォーカルのウォーネル・ジョーンズは「えーっ、マジかよ。ブラザー!!そりゃ意外だけど、最高だろ」ってな調子で、思い起こすだけで腰が動きそうになるジュニアの音楽は、彼らにとっては格別なものでもあるようです。後に全米でヒットを連発し支持された彼の音楽の本質は、サックスの単音でグルーブさせるということに尽きるのです。
局側の提案を断ったジュニアは、単身セントルイスに移りました。メンフィス・スリム(Memphis Slim )やチャック・ベリー(Chuck Berry) 等とセッションを重ね、ブルースの巨人アルバート・キング(Albert King )のバンドに加入しました。
J・W「長い間、アルバートと演奏しました。彼はホーンセクションを従えていました。私にも出番を与えてくれましたが、客の人気を得るようなことは禁物でした。彼はあわてて自分への大喝采を取り戻し、私を隅に追いやるという風でした。」
South Bend に戻り、再びウィリー・ウッズ(Willie Woods)(Guitar)、ヴィクター・トーマス(Victor Thomas)(Org)ビリー・ニックス(Billy "Sticks" Nix)(Drums)と共に結成したグループで活動を再開しました。ニックスが軍務に就いた後はトニー・ワシントン(Tony Washington)がドラムを引き継ぎました。
やがて、彼らはバトル・クリークのクラブ「El Grotto」で活動を始め、ジュニアは「El Grotto」の顔とも言われるほど客に支持されました。「あれこそが、まさに出発点でした。私達は毎日学び、日々の成長を実感出来ました。私は毎日楽器の練習と作曲に明け暮れていました。」
クラブの常連で、特に感銘を受けたのが、バトル・クリークのFort Custerに配属された空軍兵士、ジョニー・ブリストル (Johnny Bristol)でした。
J・ Bristol「そのバンドのタイトなサウンドは私の心を掴みました。ジュニア・ウォーカーは、あなたもご存知のあのサックスを聞かせましたし、 B3 オルガンを弾くプレイヤーも独創的でした。とにかく素晴らしいサウンドのバンドでした。」
ジョニーはデトロイトのレコード会社、Harvey FuquaのTrl-Phi Recordsで録音もしているデュオ・グループ Johnny & Jackeyの歌手でした。相方のRobert "Jackie" Beaversもバトル・クリークに配属されていましたから、ジュニアのバンドは彼らの「El Grotto」の出演をバックアップしました。
その親切に応えて、ジョニーはハーベイにジュニアのバンドを推薦しました。
聴いたものを気に入ったハーベイ・フクアは、彼のレーベルでの契約をジュニアと交しました。
ハーベイ・フークアとの経緯については興味深い証言があり、「モータウン・ミュージック(原題 Where Did Our love Go?)」ネルソン・ジョージ(Nelson George)著・林田ひめじ訳 早川書房刊 - に書かれています。
先ず、ブリストルはフークアに話すことを忘れていたらしく、ジュニアの訪問はフークアにとっては突然のことでした。
1962年のある日、ジュニア・ウォーカーはサックスのケースを下げてフークアのオフィスに現れ、言いました「演奏の方はばっちりです」
厄介な田舎者だと思ったフークアは「出て行ってくれ」と言ったそうです。しかし、ウォーカーは「外の車でバンドの連中が待っています。演奏を聞いて下さい」と引き下がらず、どこにいいものが転がっているか分らないと考えたフークワは聞いてみることにして、結局彼らと契約することになったらしいのです。まあ、バンドマンにありがちな軽い口約束が幸いして、レコーディング・アーティストとしての出発点になったのです。その時点でのウォーカーのグループは人気もあり、収入も安定していてレコーディング・アーティストへの道を目指してはいませんでしたが、ハーベイ・フークアによって道は開かれたのです。
1962年、Harvey レーベルから「Twist Lackawanna」をリリースしました。
2枚目の「Cleo's Mood」(62)はヒットしましたが、1965年に再発売された時程ではありませんでした。資料によるとこのレーベルから出したシングル盤は3枚で、「Twist Lackawanna」「Brainwasher」「Good rockin'」となっています。「Brainwasher」「Cleo's Mood」がカップルでA、B面だったようですが、他の2曲のB面は謎です。しかしながら、この4曲が62年から63年にかけてリリースされたことは確かです。そして、いずれの曲も後にモータウン・ソウルレーベルからのアルバムに収録されました。
「Twist Lackawanna,」と「Brainwasher」、共に歌はなく、低い音域の目立つ粗削りなロックンロールサックスです。
興味深いのは譜面(1)のフレーズです。 この音型は特別珍しくもない3度フラット(Bluenote)経過で下りてくるラインです。

ジュニアはこの譜割りを基本に、多くの曲でこのラインを吹き続け、彼の印象の一つにもなりました。
3度フラット(3度に近いとも言える)のニュアンスを彼のようにサウンドさせるのは意外と大変です。
元はB面だった「Cleo's Mood」は65年に再発されてヒットチャートR&B 部門で14位にまでなりました。この曲でのウィリー・ウッズのリフは、オーティス・ラッシュ(Otis Rush)の古いブルース "All Your Love"に手を加えたもので、彼らがクラブで発展させた曲でした。
J・W :「それは、皆が踊るように煽る類いのものでした。ある女の子が中で踊りだすと、皆が彼女を見ました」
W・Woods:「それがクレオです。それで、曲をCleo's Mood と呼ぶようになりました」
「Good Rockin'」ではSuper-high-G を連発していて、BLUES 歌手のシャウトのようです。この太い音色のSuper-high-G で始まる曲がこの後何曲も出てきますが、お気に入りだったようです。
ソロのラインからは、彼が紛れもなくブルース・マンだった事が解ります。使われるスケールの基本は上の譜。Blue Note Eb とE の関係は微妙です。6度はルート、5度に向かう音です。
同じ時期、ハーベイはThe Spinnersを抱えていて、「That's What Girls Are Made For」が評判になり始めていました。ジュニアの推測では、ハーベイは全てを維持出来るほどの資金がなく、二枚目のレコードはビジネスとしては心許ないもので、そのためにヒットは地方の域を出なかったのではないかと言っています。
その事はハーベイに更なる決断を迫るきっかけになりました。Harvey and Tri-Phiレーベルは、ハーベイと彼の妻グエン・ゴーディ(Gwen Gordy)とで経営されていましたが、急成長目覚ましいベリー・ゴーディ(Berry Gordy)の Motown Records のファミリーとしてブレンドされました。(合併combine; consolidate; amalgamate; mergeとは少しニュアンスが違う)
それは、まさに「ベリー・ゴーディのために」でした。ゴーディはフクアをTri-PhiのSpinners, Jr. Walker, Shorty Long, Johnny & Jackey を含むArtist 開発課を率いるポストに就かせました。
譜例
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モータウンのSOULレーベルからの最初のシングル「Satan's Blues」はうまくいきませんでした。曲はいわゆる3連のブルース(F♯、tempo70位)。取り立てて珍しいものではありませんでしたが〔譜例)、ジュニアの吹くラインは見事で、彼らが「El Grotto」で毎晩演奏していたものが垣間見えるようです。しかし、あまり注目されませんでした。この最初のシングル盤に関しても。カップリングされた「Monkey Jump」がA面だとの記述もありますが、レコード番号ではSatanの方がAになっています。
さて、モータウンのベリー・ゴーディとの経緯も、前述「モータウン・ミュージック(原題 Where Did Our love Go?)」ネルソン・ジョージ(Nelson George)著・林田ひめじ訳 早川書房刊 - にウォーカー本人の証言が書かれていました。ベリー・ゴーディに会った時の会話を、65年にウォーカーが語ったところによると、
B・G「すると君は契約したいのだな」
J・W「はい、契約したいんです」
B・G「レコードを出したいわけだ?」
J・W「そうです。レコードを出したいのです」
B・G「彼に契約書を渡しなさい」
ウォーカーがその書類が何かを聞くと、
B・G「君は字を読めるのか?」
J・W「はい。いくらかは読めますけど、何でもというわけには、、、」
すると、ゴーディは
B・G「いいからサインしなさい。悪いようにはしないから」
J・W「私は彼を信用してサインしました。」
新しいレコード会社の幹部のテイラー・コックスはジュニアにグループの名前をどうするか相談しました。ウォーカーは「El Grotto」でのある夜を思い出しました。ある客が "You guys are all stars! " と叫んだ夜のことでした。
そこで、ウォーカーは「ジュニア・ウォーカー&オールスターズではどうかな」と言い、Jr Walker & All Stars は正式に誕生したのです。
最初のシングル「Satan's Blues」が忘れ去られようとしていた64年の秋、クラブ「El Grotto」はウォーカーに素晴らしい贈り物をもたらすことになりました。「若者たちは踊っていました。それは今まで見たこともない動きでした。若者の一人が言いました。」「これは新しいヤツで、Shot Gunって言うんです。是非このステップに合う曲を書いて下さい」
65年、ベリー・ゴーディとエンジニアのローレンス・ホーンのプロデュースにより、ジュニアによって作られたその曲は録音されることになりました。と言っても、2人ともテープが回りはじめると裏に退き、全てをジュニアに任せていました。
それは堅実な構想で臨まれましたが、幾つかの不安もありました。バンドのドラマー、トニー・ワシントン(Tony Washington)は、モータウンとの契約の時、すでに兵役で去っていて、バンドは替わりのメンバーを見つけていませんでした。
仮に叩いたドラマーは好首尾とは行きませんでしたが、ゴーディ達には秘策がありました。誰かが電話を取り上げ、しばらくするとセッションエースのベニー・ベンジャミン(Benny Benjamin)(drs)がスタジオに現れました。
彼は以前のテイクを聞き、曲の構造を理解すると、即座にウォーカー達が望む演奏を見事にやってのけました。彼こそは、アール・ヴァン・ダイク(p)、ジェームス・ジェマーソン(bass)、と並んでモータウンのサウンドを作り上げたファンク・ブラザースの中核をなすドラマーでした。
オール・スターズのドラマーについての情報は不確かなことが多く、ビリー・ニックス(Billy "Sticks" Nix)、トニー・ワシントン(Tony Washington)の在籍時期は資料によってまちまちです。1965年の時点でトニー・ワシントンが徴兵のために離脱、ジミー・グレイブス(Jimmy Graves )が1967年に交通事故で亡くなるまで参加していたことは確かなようですが、モータウンとの契約の時期にはジミー・グレイブスでライブを行なっていたとされているものもあります。しかしながら、ベニー・ベンジャミンのように叩けるジミーを発見した喜びをジュニア自身が語っていますから。ジミーは「ショットガン」のレコーディングの後に参加したようです。ジミーの後、最終的にビリー・ニックスが戻っていたようで、ジュニア亡き後もビリーはオールスターズ名義でのライブを続けていました。
ドラムの問題が解決した後には歌手の問題が残りました。ジャンピング・ジャックス時代の歌手フレッド ・ペイトン (Fred Paton)に頼む予定でしたが、その時点ではまだ連絡はついていませんでした。
J・W「みんなが私の方を見て、君が歌うべきだろうと言うのです。私の歌はひどいからと断ったのですが、ウィリーは違いました。「僕はブルースを歌うし、断らないぞ。君はやるべきだよ」それで、私は本当にいやだったのですが、ウィリーとマイクの前に立ち一緒に歌うことにしたのです。まあ、でき得る限りのことはやっておくこととして、フレッドが現れればもっとうまく決めてくれるはずだと思っていました。」
歌い終り、ウォーカーはエンジニアのローレンス・ホーンに「本当の歌手が歌い直せばもっとよくなるはずだ」と言いました。ホーンは「何を言っているのか分らないな。いいものが録れたし、これを消すとでも思っているのか?それよりも、他の曲での演奏の心配でもしていろよ。」
J・W「私はナーバスになっていました。ゴーディ氏は、最低でも3、4曲の用意が出来ていないのならスタジオに入るなと言っていました。その日はその曲しかありませんでしたから。しかし、彼はコントロールルームから出てきて言いました。」
「今のはよかった。私は好きだぞ。我々はヒットを手に入れたと思う」
J・W「彼は他の曲の用意が出来てないことなど気にもしていないようでした。」
ブライアン・ホランド(Brian Holland)は帰ろうとしていた私達に言いました。「これはヒットすると思うよ。ビッグレコードになるな。」
Brian Holland モータウンを代表するソングライターの一人。兄弟Eddie Holland、Lamont Dozierと組んだ、Holland-Dozier-Holland名義でのヒット曲を数多く送りだした。 1963: "Mickey's Monkey" - The Miracles、1964: "Baby I Need Your Loving" - Four Tops、1964: "Can I Get a Witness" - Marvin Gaye、1964: "How Sweet It Is (To Be Loved By You)" - Marvin Gaye、1965: "Stop! In the Name of Love" - The Supremes、 1965: "I Can't Help Myself (Sugar Pie, Honey Bunch)" - Four Tops、等など
ジュニアは、レーベルの首脳が言うようなヒットを予感していたかとの質問に答えています。
J・W「いやいや、まあ少しいいものが出来たかな程度で、私達はビッグレコードが何かは知らなかったし、そもそも"ヒット"が分らなかった。私達は音楽を作って、それが少しでもラジオで流れればいいなと思っていました。まあ、そうなりましたけどネ」
「ShotGun」はヒットチャートR&B 部門1位、popでも4位にランクされ、百万枚を超えるセールスを記録する大ヒットになりました。
ベニー・ベンジャミンの素晴らしいファーストテイク、ベリー・ゴーディが付け加えた冒頭のエフェクト、全てがジュニア・ウォーカーとオールスターズを世界に送りだしました。それはジュニアだけではなく、ベリー・ゴーディにとっても重要なものになりました。モータウン、ソウルレーベル初のヒット曲でした。この曲の重要性は前記「モータウン・ミュージック(原題 Where Did Our love Go?)」ネルソン・ジョージ(Nelson George)著・林田ひめじ訳 早川書房刊 - によると「60年代のガットバケットなサックス・インストゥルメンタルの決定版ととも言える曲で、50年代に流行したホンキング・サックスの伝統を受け継いだレコードでもあった。そしてそれまでのモータウンのサウンドとはまったく違い、一人のアフロ・アメリカンが作り上げた作品だった、と評価されています。

曲は冒頭のエフェクトの後、1小節のフィルインから始まります。A♭セブンスで展開するウィリー・ウッズの小気味よいカッティングが印象的です。ジャムセッション風に録音されていると書かれていることもありますが、この曲に関してはそんな簡単なものではありません。シンプルなパターンを積み重ねる作業は大変で、且つ重要なのです。歌に呼応するオルガンのサウンドもなかなかです。まさに「El Grotto」などでのバンド活動の成果が示されていると思います。
このようなシンプルなサウンドの演奏は一番難しいものなのです。彼らの送りだすグルーブは一級品で、それが故に聴衆を熱狂させ、大ヒットにつながったのです。この曲は誰が聞いても思わず体を動かしたくなるようなビートを感じるでしょう。
この曲で聞こえるサックスは、ほぼ完璧なJr.Walker のスタイルが出来上がっていることを示しています。シャープなタンギングから生まれるリズムの切れ、うなる奏法、高い音域から下降する時の絶妙なコントロール!!
ジュニアは仮歌だと思っていた節もあり、後でペイトンが歌うと思っていればこそ、サックスを吹く感覚でビートに乗る適当な言葉を並べただけかも知れません。しかし、そんなことは誰も気にしていませんでした。ベリー・ゴーディもローレンス・ホーンもブライアン・ホランドも。何か新しいサウンドが生まれたことが重要だったのです。
B面、Willie Woods 作の「Hot Cha」は、まるで昔のグループサウンズのようです。珍しくも普通のコード進行が聴かれます。
アルバム「Shot Gun」に含まれた曲のシングルカットは次々にヒットしました。
「Do The Boomerang」R&B #10,Pop#36
「Shake and Fingerpop」R&B #7,Pop#29「Cleo's Back」R&B #7,Pop#43と言う具合です。「Cleo's Back」はOrgan、Guitar のsoloが含まれたインスト・ナンバーです。
ベリー・ゴーディがソウル・レーベルを始めたのは、そのような音楽の需要が増え、他の会社の動きが活発になってきたことにありました。
「Sweet Soul Music」のMemphisのStax-Volt、伝統的なR&Bの老舗 Atlantic Recordsはレイ・チャールスを失っていましたが、すぐにQueen of Soul アレサ・フランクリンを世に送り出しました。KIng Records of Cincinnatiは忘れ得ぬ「Godfather of Soul」James Brownを誇っていました。
しかし、ゴーディが「Shotgun」のような作品を発表している限り、ソウル・レーベルのうたい文句「Sound of Young America」に誰も異議を唱えることは出来ませんでした。
「Jr Walker & All Stars」は、モータウン主流からはみ出した独自のユニットとして成功していました。実のところ、彼らはStaxの「Booker T. & the MG's」により近いバンドでした。James Brownに通じるところもありました。ウィリー・ウッズは JB'sのギタリスト Les Buie と Jimmy Nolenに負うところもあったのではないかと思われますが、敬意と影響は相互にありました。
ジュニアはJames Brown の「Papa's Got A Brand New Bag」は自作「Tolly Ho」のベースラインを元にしていると抗議しましたが、2年後に、今度はジュニアがブラウンの「There Was A Time」を借用した 「Hip City」で更なるヒットをとばしてこれに応えました。
ベリー・ゴーディは "Jr Walker" が何たるかをよく分っていました。ファンク・ブラザースも振付師もバッキングも必要のない彼らをどう位置づけするのかを理解し、それを変えることを望みませんでした。ゴーディは皆に「彼は一人にしておくように。彼らしくさせておくように。」と言いました。
J・W「それで、私はほとんど一人でした」
それが、他のモータウンの優秀な器楽奏者とは異なり、どの仲間の録音にもジュニアを聞くことができない理由でもありました。
グループとして成立しているわけですから、皆でワゴンに乗り込み単独の楽旅を行なえる、モータウンの中でも極めて少数の存在でした。他のモータウンのアーティストが、ヒット曲を口パクで歌いながら巡業していた場所でも、「Jr. Walker and the All Stars」の出演はまた特別のものでした。
彼らはLive ツアーを精力的にこなして、パーティを運んでくるバンドとして知られていたようです。「El Grotto」で育った彼らは、その経験を活かし、どこに行こうと、その場所を「El Grotto」に変えてしまいました。「Shotgun」の録音でのベニー・ベンジャミンを再現できるジミー ・グレイブス (Jimmy Graves)の加入は、更にバンドを前進させました。
熱狂がバンド以外で起こったこともありました。
J・W「ジャッキー・ウィルソン (Jackie Wilson) とのショーの時、銃を持った観客の一人が突然誰かに向けて発砲しました。ちょうど私が "Shoot him" と歌っている時でした。」「他にも、テキサスでのモータウン・レビューで、私達がステージを降り、マーサ & バンデラス (Martha & the Vandellas)が続いた時です。客の一人が銃を抜きました。「ショットガンを呼び戻せ」と叫んで発砲しました。マーサ達はステージから逃げました。「俺たちはショットガンが見たいんだ」・・・「暑過ぎるのかも知れないネ」と、舞台裏でマーサにウィンクをして言いました。マーサは笑いはじめ、一緒にステージに乗るように言いました。それで、私は控室から出る時にマーサの「Nowhere to run」を歌いはじめていました。そんな時でさえ、私たちはあの場所を楽しんでいました。」
Oakland のTower of Power のサックス奏者として有名なレニー・ピケット(Lenny Pickett) もそのステージを観た一人です。 私は最初に聞いたアルバムの中の「Holly Holly」に教会音楽(ゴスペル)の様な土の匂いを感じましたが、レニーはもっとダイレクトにそれを聴いて、その事を話しだすと止まらなくなる位感動したようです。
その感動は、彼をTower of Power の前身「Motowns」の結成へと向かわせました。
彼はサックスを学んでいる若者でした。ジュニアの印象を次のように語っています。
L・P :「社交的な、人を巻き込むような類いの音楽でした。それは、本当に人々と共にあり、観衆のために演奏されていました。まさに観衆を喜ばせる人でした。いつもそうすることが彼の仕事でした。人々が喜ぶならば、少々のことは決して気にしませんでした。それは、優雅に、独創的に、そして素晴らしいテクニックで成し遂げられていましたし、常に芸術性を備えていました。私には刺激的(inspirational)でした。そして、偉大なブルース・アーティストのようでした。サニー・ ボーイ・ ウィリアムソン (Sonny Boy Williamson)と同じでした。」
サニー・ボーイ・ウィリアムソンII (Sonny Boy Williamson II )(1899-1965) 1940年代、人気を博したブルース・ハーモニカ奏者。
L・P :「みんなのために何でも演奏します。(Loved to play to the folks,would do anything for the folks.)ブルースの伝統はそのようなものです。そして、ジュニア・ウォーカーは、間違いなくリズム・&・ブルースからやってきた人でした。
私は彼の演奏にとてつもなく敬意を持ちました。初期に参加していたバンドで、我々は彼の曲を数多く演奏したものです。私はレコードから彼のソロを学びました。「Pucker Up Buttercup」が私のお気に入りでした。彼のソロの採譜に多くの時間を費やしました。そして、なにか別の私自身のことが出来るようになるまでは、それを彼のように再現しようとライブで演奏したものです。
そのことで、楽器について多くのことを学びました。ジュニアのスタイルは素晴らしく、強力に鼓舞されるものでした。彼は技術的にも最高に熟達していて、しかしながら非常に特異でした。誰もそのように演奏しませんでした。
うなる奏法があります。絶叫ではなく、はち切れるようなハイノートへのアプローチがあります。それは教会音楽の中で聞くことができます。私たちは、ジュニアが極度の生命力でそれを行なったと言うことができるだけです。
それは純粋な喜びでした。言葉のない感情の表現、それこそが彼の演奏で実現されたことで、ブルースとソウルのレコードから聞こえる何かなのです。
彼が演奏したすべての音が意味を持っていました。」
「Shotgun」と「Road Runner」の間に出された「Soul Session」はシングルカットされた曲も大きなヒットには至らず、フクアのレーベルで制作した楽曲などが収録された、言わばつなぎのようなアルバムでした。その後のアルバムにも、同じ曲が再収録されたりしています。曲が足りなくなって、「じゃ、この曲をまた入れますか」という具合だったのではないかと思われます。資産の再活用とも言えますし、その最たるものは「ベスト盤」です。
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Cleo's Mood 12/23.65 R&B# 14 Pop# 50
Shoot Your Shoot 6/22.67 R&B# 33 Pop# 44
Road Runner (7/18.66)に含まれる曲のシングルリリース・ランキング![]()
Twist Lackawanna 1/13/62
Baby You Know You Ain't Right 11/23/65
( I'm A) Road Runner 3/21/66 R&B#4 Pop#20
How Sweet It Is 7/8/66 R&B#3 Pop#18
Money 10/27/66 R&B#35 Pop#52
Pucker Up Buttercup 1/17/67 R&B#11 Pop#31

ジュニアはモータウンの中では独自の立場にありましたから、制作は様々な形で行われました。「Do The Boomerang」 はHenry Cosbyと Mickey Steveinson がプロデュース。「Shake and Fingerpop」では再びゴーディとホーン。その2曲と同時期に録音された「Shoot Your Shoot」は「(I'm A) Road Runner」のサイドBとして66年にシングルカットされ、再び67年にシングルヒット。しかしながら、最初のヒット曲「Shotgun」の記憶から離れるのは容易ではありませんでした。
そこで、H - D - H と呼ばれていたチームも駆り出されました。その頃のモータウンを代表するEddie Holland、Lamont Dozier、Brian Holland のソングライター・チームでした。
このチームによって作られたのが、「(I'm A) Road Runner」(アルバム「Road runner」(66)に収録)「Come See About Me」67、(アルバム「Home Cookin'」69に収録)でした。当時、編成も大きくなり、ますます複雑化するモータウンのサウンド作りに悲鳴を上げていたらしい彼らH - D - H は、ソウルの原点とも言うべきジュニアの楽曲制作をとても楽しんでいたと言われています。もちろん、数年後にジュニアのアルバムも、ストリングス、コーラスなどが加わった大掛かりなものに変っていくのですが、この時点ではもっとシンプルなものでした。
Road Runnerに付け加えられたバリトン・サックスは、ベースのラインをなぞるだけのものでしたが、All Starsのものに比べて、よりポップなテイストを醸し出しました。「Come See About Me」にはコーラスが加えられました。
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El Grotto時代の仲間ジョニー・ブリストル(Johnny Bristl )のJohnny & Jackyは既に歴史上のものになりつつあり、彼はモータウンの中での活動を模索中でした。
J・ Bristol「私は、その1年前のマービン・ゲイ(Marvin Gaye)のヒット曲 "How Sweet It Is"を聞いていて、違ったアプローチを思いつきました。それで、ハーベイ・フクアに相談を持ちかけました。録音してみるべきだとの結論に達しましたが、制作チームとしては初めてのシリアスな試みでした。」
ジュニアのリメイクは評判も上々でした。ブリストルとフクアは、既にジュニアのトレードマークでもあったパーティの雰囲気を出すために群衆の喋り声をオーバーダビングしていました。
この制作が、次のステップのために深い影響を持った事は間違いなく、ベリー・ゴーディの「Money」、上記H - D - H の「Come See About Me」と、ヒットは続きました。しかしながら、「Money」はほとんどレイ・チャールスの「What'd I Say」のパロディにも聞こえ、ヒットチャート業界の露骨さを垣間見るような気にもなるのです。このカバー曲の成功は、ヒットを続ける方法が見つかったという点では製作者達にとっても深い意味を持っていました。その後のアルバムには何らかの形でカバー曲が収められています。
しかし、ジュニア自身がそれを納得していたかは定かではありません。69年には2枚のアルバム「Home Cookin'」「What Does It Take」がリリースされたようですが、「What Does It Take」は「Gotta Hold on to This Feeling」として再発されたものが私の手元にあります。収録曲のシングル・リリース日から、「Home Cookin'」の方が早く発表されたと考えて、話を進めます。
「Home Cookin'」には「Come See About Me」67.R&B #8, Pop #24「What Does It Take」69.R&B #1, Pop #4などのヒット曲が収められているのが目立ちます。「What Does It Take」は大ヒットで、最初はSoulレーベルでしたが、75年にmotown レーベルから再発され、しかも次のアルバムのタイトルにして再び発売されました。ここらのアルバムの収録楽曲の重複具合はかなりくどいとも言えますが、楽曲制作をした、J・ブリストルとH・フークアにとっては喜ばしい事でした。
ジュニアは「Home Cookin'」の中では、自作「Hip City」などのバンド・サウンドで、「軟弱な路線もいいけど、あたしゃこれです」とばかりにブローして気を吐きます。アルバムとしてはクッキリと2つの主張が聞こえるものになりました。
「Come See About Me」はEb7th-chordがメインの曲ですが、中間部の進行、 cm-Ab からfm-gm-Abの動きなどは、まさにMotown サウンドです。この曲は Holland-Dozier-Holland が The Supremes に提供した1964のヒット曲でした。
この曲でのソロは7th抜きのペンタトニック(1)で(彼にしては)叙情的なソロを吹いています。
対称的に、自作のアップテンポの「Hip City」では冒頭のSuper-high-Gから全開です。このようなベースライン(2)で展開する7th の音楽、これこそジュニアがバンドのメンバーと共に聴衆の前で演奏したかった音楽ではなかったかと思います。彼は生き返ったように疾走します。
ジュニア・ウォーカーとオールスターズの次のステップへの展開は遅々としたものでした。ブリストルは「How Sweet It Is 」の成功の後、ジュニアのために曲を書き下ろしました。
J・ Bristol : 「すでにトラックは録音していました。その上で私の歌を聞かせたのですが、ジュニアは乗り気ではありませんでした。彼の返答は、それを歌えるとは思えないというものでした」
ブリストルが何度も説得を繰り返し、ジュニアが承諾するまでに一年ほどかかったその曲こそが「What Does It Take」で、そのテープは説得の間眠ったままでした。
それに、モータウン経営陣との会議では、ゴーディ達がジュニアに相応しいと判断した曲は「Home Cookin'」でした。
J・ Bristoll : 「その決定は、私が最も避けたいと考えているものでした。彼らは私の用意した曲がヒットするはずがないと考えていて、ジュニアが演奏するには、あまりにもスムーズで可愛らしい曲だと判断していました。それで、アルバム「Home Cookin'」に、私の曲は収められただけでした。しかし、多くのディスク・ジョッキーが取り上げ、最終的にアルバムの中からシングル・カットせざるを得ない事態をラジオは招きました。」
「What Does It Take」はジュニア・ウォーカーのトップセールスを記録しました。それは「Shotgun」と対をなす新たな特徴にもなりました。
それは、それまでのオールスターズの楽曲とは違い、甘いストリングス・セクションを含むモータウン・ショー仕立てのメロウな細工が施されていました。
この曲はジュニアにとって重要な分岐点になりました。これ以後、ブリストルがプロデュースしたアルバムでは、初期のオールスターズのサウンドは徐々に影を潜めて行きました。
それをジュニア自身が望んだかどうかは分りません。グループは相変わらずステージを続けていましたから、レコード作りはまた別のものとして考えていたかも知れません。
彼が立っている場所はヒットチャートの世界でした。アルバムはヒットした曲とシングルカットに及ばなかった楽曲とが並ぶものでしかありませんでした。ジャズミュージシャン達が作ったインストゥルメンタルのアルバムとは比べようもないものでした。私が最初に聞いた「Gasssss」(70年)などは、1曲だけ聞くならともかく、全体として聞くと詰め込みすぎのような印象を受けます。ヒット狙いのコンセプトで様々な展開の曲が詰め込まれているわけです。しかし、それも彼らの、まるでパーティのようなスタイルでした。
Home Cookin' (1/6.69)に含まれる曲のシングルリリース・ランキング
Come See About Me 11/7/67 R&B#8 Pop #24
What Does It Take 4/25/69 R&B#1 Pop #4
Home Cookin' 12/23/68 R&B#19 Pop #42
Hip City Pt. 2. 7/23/68 R&B#7 Pop #31
アルバムとしての完成度だけに限れば「Back Street Boogie」(79)が最も優れたものであるように思います。皮肉な事に、このアルバムは一度モータウンを離れた際に、Norman Whitfieldプロデュースで、彼自身のWhitfield Recordsからリリースされたものでした。
再び、レニー・ピケットの証言です。
L・P :「彼は多くの人々にインストゥルメンタル音楽(instrumental music)の方法を示唆したと思います。当時、その分野では器楽音楽そのものが稀でした。ヴォーカル・アルバムを買う若者たちには縁遠いものになりつつありました。
しかし、ジュニアのアルバムはそれが要でしたから、多勢がギターに傾きかけた時も、サクソフォーン・ミュージックを作り続けました。Rock & Rollがイギリスサウンドに移行して、ビートルズ出現の後はロック・サクソフォーンそのものが消滅しそうな状況でした。もちろん、他のプレイヤーもいましたが、発信し続けて、真に次の世代まで旗を運び渡したのは彼でした。
スライ&ファミリーストーン (Sly & the Family Stone)、 エレクトリック・フラグ(Electric Flag)、ブラッド、スウェット&ティアーズ (Blood Sweat & Tears) などはホーン・セクションを従えていました。
その後に現れたブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen's E Street Band )、ブライアン・フェリーのロキシー・ミュジック (Bryan Ferry's Roxy Music)もステージにサックス奏者を立たせていました。ジュニア・ウォーカーなくして、そのシーンは起こり得なかったでしょう。
ジュニアのサックスには鮮烈な新しさがありました。しかしながら、歌える事が大きな力となって彼をスターに押し上げました。もし、キング・カーティス(King Curtis)が歌えたならば、彼はもっとビッグネームになったでしょう。
ジュニアのサックスは大きな力でもありましたが、キャリアの耐久性は歌えたからこそでした。彼の歌はストリートで歌われるような類いのものでしたが、彼の声に人々は魅了されました。」
CD「Nothin' But Soul」の解説で、Ben Edmondsは書いています。
B・E : 「彼は会社がクロスオーバー・ポップを目指しているころに、モータウンのガットバケット・ソウルマンとして仕事を始めました。モータウン・ソウルが60年代後半にサイケデリック化した頃、スムースなポップ部門として残された一角に彼は移ったのです。偶然のようで、実に入念な計画の元で行われたようにも見えました。レコードの印象は幾分柔らかくなったかも知れませんが、決して弱々しく聞こえるものではありませんでした。あたかもShotgunのB面、Hot Chaのサウンドに戻るかのようにも思え、それはブリストルの巧みな誘導が功を奏したかのようでした。次の3年間、ブリストルはオールスターズの制作に深く関わる事になりました。ジョニー&ジュニアは正しい組み合わせでした。」
J・W : 「私は誰とでも仕事をする事が出来ましたけど、ジョニーとはエル・グロット時代からの付き合いで、また特別でした。彼は私に何が出来るのかをよく知っていました。私はもっと速いものを演奏する事を望んでいましたから、「What Does It Take」を歌う事には抵抗があったのですけど、ビッグレコードになった事が私を変えました。」
「 Gotta Hold On To This Feeling (70)」「 Do You See My Love(70)(Johnny & Jackeyの 曲 )、「 Take Me Girl, I'm Ready (71)」とヒットは続き(全曲ブリストル作)、ソングライター、プロデューサーとしてのブリストルの才能は高い評価を得ました。
さて、曲調が変化して、サックスのソロラインにも工夫が必要でした。セブンスのブルース・ラインだけでは居心地が悪く、ジュニアはペンタトニックを見事に使いこなしてポップな曲調に彩りを添えていきました。これがポップスシーンのサックス奏者に多大なヒントをもたらした事は間違いないのです。ジャズのテイストより直截的な方法で核心に迫ることが出来ました。
「What Does It Take」のソロ。コード進行はGmとFMajor7の繰り返しです。ジュニアは全体を(1)のように捉えているようですが、FMajor7では(2)の様なラインを吹かざるを得ません。全体の印象ではdm9thでソロをしているようにも聞こえます。
gm7の部分でBb の音が選ばれることは殆どなく、ブルースマンとしては少し居心地の悪いサウンドだったのかもしれません。最初、気乗りしなかった理由はそこにあるとも思えます。
What Does It Takeと同じ年、「These Eyes」(アルバムGotta Hold on to This feelingに収録)も大ヒット。年に2度のヒットは稀な事で、オールスターズは快調でした。ちなみにこの曲はカナダのロックバンド、"Guess Who"のアルバム「Wheatfield Soul」(68)からのカバー曲。冒頭 Cm7 / BbMajor7 の繰り返しが印象的なメロー・チューンで、和音構造としてはWhat Does It Takeと双子のようなものでした。
7thコードからMajor7th コード領域への進出が彼の新しい魅力ともなっていきました。そして、後の多くのヒット・チューンの中で聞かれるサックス奏者のソウルフルなソロ・ラインの原点にもなったのです。
アルバム「Gotta Hold on to This feeling」(What Does It Take)」(70)の中の「Gotta Hold on to This feeling」Db-Ebm7繰り返しは(3)のペンタトニックで快調です。
(4)は「Carry Your Own load」(From「Gassss」)で使われている音列です。この曲は大まかに言えばA E D の、スリーコードで作られています。ソロはF#m7で始まり、A に戻りますが、ジュニアはこのペンタトニックしか吹きません。
同じアルバムの中の「Do You See My love」はAb の循環コードですが、これもF-Ab-Bb-C-Ebペンタトニックだけで歌いきっています。(もちろん、3度のCは微妙に変化します)
アルバム「Gassssss 70」は、ブリストルの楽曲が11曲中4曲を占め、この内2曲はシングルカットされて、「Do You See My Love」はR&B#3、Pop#32とランクインし、彼らの制作チームは絶好調でした。
このアルバムのもう一つのシングル・カット曲はニール・ダイアモンドの「Holly」でした。他にも、ローラ・ニーロの「And When I Die」スティービー・ワンダーの「I Was Made to Love Her」ジム・ウェッブの「Honey Come Back」とカバー曲はジャンルを広げ、ビートルズの「Hey Jude」まで取り上げて、その後の方向性の全てを網羅したかのようなものになりました。「Holly」「Honey Come Back」のように、少々叙情的なアレンジが施されていても、最終的には、いつものようにゴスペルの熱気を感じさせるようなサックスが鳴り響くといった具合でした。
「Rainbow Funk 」(71)は、全11曲中5曲がブリストルの曲です。ジョージ・ハリソンの「Somethig」は前作に引き続き、再びビートルズのナンバーでした。このアルバムに収められた、クルセイダーズのサックス奏者ウィルトン・フェルダーの「Way Back Home」は次のアルバムではヴォーカル・バージョンとして再登場します。
グラディス・ナイトが詞を付けた「Way Back Home」から始まる「Moody Junior 」(71)が、ブリストルがプロデュースした最後のジュニアのアルバムになりました。全10曲中7曲にブリストルのクレジットがあり、その中でも「Walk In The Night」は最後のトップテンにランクされた作品になりました。
この曲がインストゥルメンタル作品で、彼らの最初のヒット曲「Cleo's Mood」もインストゥルメンタル・チューンである事は象徴的でもありました。
曲は印象的なリズムのパターンから始まり、ジュニアの真骨頂と言える泣きのメロディと、ブリッジ部分のコード進行での素晴らしいソロが交互に現れるものでした。
1973年、モータウンを離れたブリストルは、ソロ歌手としてアルバムを発表して彼自身のトップテン・ヒットを手にしました。エル・グロットから始まったジュニアとの活動はこのアルバムで終止符を打った形になりました。
ブリストルの申し出には残念な結果となったものもありました。
J・W : 「ある日、ブリストルは新しい曲を持ってきました。「Someday We'll Be Together」という曲でした。それは深夜の事で、4曲のレコーディングを終える頃でした。私は疲れもあって、シュプリームスにでも歌わせたらどうかと言って、それを断ってしまいました。私がもう少し利口だったら、明日にしてくれと言うことも出来たはずです。しかし、私は家に帰ってしまい、ブリストルはスタジオに残って、シュープリームスで録音してしまいました。
「Someday We'll Be Together」#1は「What Does It Take」#4を上回るヒットとなり、その年(1969)最大の楽曲になりました」
そこから、ジュニアはまた多くのプロデューサーとの制作活動に戻る事になりました。自身のプロデュースに加えて、クラレンス・ポール (Clarence Paul) 、ハル・デイビス (Hal Davis) 、ブライアン・オランド (Brian Holland) 、ローレンス・ホーン (Lawrence Horn) とマーク・デイビス (Mark Davis) などと多くの楽曲を作り続けました。
「Peace and Understanding」73
このアルバムでは、より強化されたリズムセクションに支えられたファンク・チューンが目立ちます。
シングルカットされた3曲のうち「Gimme That Beat (Part.1)」「Peace And Understanding 」の2曲は、JB'sやタワー・オブ・パワーに通じるタイトなリズムを前面に打ち出したものでした。一方、「I Don't Need No Reason 」はもう一つの路線の「泣き」をメインにし、アルバムとしての工夫に抜かりはありませんでした。
カバー曲は、1971年の全米ヒットにしてグラミー受賞曲、キャロル・キングの「It's Too late」、1972年ジョニー・ナッシュ最大のヒット曲、「I Can See Clearly Now」
「It's Too late」はメロディ部分をサックスで吹き、歌はフェイクで押し通す逆のやり方でした。「I Can See Clearly Now」はインストゥルメンタル・バージョンとして録音されました。
アルバム制作は3年のブランクを経て、76年には「Hot Shot」「Sax Appeal」「Whopper Bopper Show Stopper」と続けてリリースされました。「Hot Shot」からのシングル・カット「I'm So Glad」は、これぞソウル・ショーとでも言うべき進行を含んだチューンでした。
私はフレダ・ペインから始まって、スタイリスティックス、シル・ジョンソン、ドナ・サマー、テンプテイションズなど多くのソウル系歌手のステージを経験しましたが、どの歌手もこのような雰囲気のリフレインを持つチューンをステージの後半で歌いました。このパターンを延々と続け、盛り上がりは最高潮に達し、バンドが演奏を続ける中、歌手は舞台袖に消えるといった具合でした。
この曲を聴くと、今でも色々なステージのワクワクとした気分がよみがえります。
時代はフュージョン・ブームが近づきつつありました。ファンク・ミュージック、ソウル・ミュージックなどの影響を受けつつ、より耳当たりよく、洗練されたサウンドを送り出す、グロヴァー・ワシントン、決定的な影響力を発揮したデヴィッド・サンボーンなどの台頭は目覚ましいものがありました。インストゥルメンタル音楽の世界は活気づいていました。
レニー・ピケットが言うように、歌の力も大きかったにせよ、ポップシーンの中で発信し続けたジュニアのサックスミュージックを、さらに発展させながら受け継ぐ多くの才能あるプレイヤーが現れました。その勢いは止まらず、一時はインストゥルメンタルの要とも言うべきシリアスなジャズが隅に追いやられるほどでした。
もちろん、小気味よいリズムと人を踊らせずにはおかない圧倒的なグルーブを持ったジュニアのサックスが色褪せるものではありませんでしたが、レコードセールス的には難しい時代になりました。ジュニアのサックスは、咆哮しているように見えて、実は穏やかでおおらかな優しさを秘めていました。トリッキーで確信犯的なテクニックを押し出す新しい世代の演奏は、より刺激的に人々の耳目を集め、次の時代の到来を告げるものでした。
しかし、ジュニアのやり方はソウル・ミュージックのエッセンスを失うことなくグルーブすることでした。残された多くのビデオでは、踊る若者に囲まれたオールスターズが多くのヒット曲を強烈にアピールしているものが多く、それこそがジュニア・ウォーカーとオールスターズのスタイルでした。
昔、湘南に「サンダーチーフ」というバンドがありました。ヴォーカル(兄)とベース(弟)の平山兄弟を中心とした、ソウル・ミュージックにやられてしまった若者たちの出すサウンドは素晴らしいものでした。アマチュアの立場での活動でしたが、私はこのバンドが好きでした。不勉強だった私は、ジェームス・ブラウンの「コールド・スウェット」をこのバンドで初めて聞きましたし、小気味よいギターサウンド等まさに目からうろこでした。
その「雷おやじ」の平山さんは、生でジュニア・ウォーカーを体験した数少ない(知っている限りではこの方しかいない)方でした。
それは彼らがロンドンに行った時のことです。
「いや、ね、街の中のディスコの前を通るとさ、ジュニア・ウォーカーって書いてあるんだよ。まさかと思ったんだけどサ、とにかく入ったらサ、これが本当にジュニア・ウォーカーなんだよ。もう、嬉しくてさ、一番前のステージかぶり付きでサ、ステージの端につかまっちゃってさ、正面の、もう唾が飛んできそうな前でネ、見上げたまま。いやあ、最高だったよネ」
なんとうらやましい。
76年の3枚のアルバムは、その頃のソウル・ミュージックのお約束でもあるホーン・セクションが彩りを添え、ワウ・ペダルを踏んだギターのカッティング・サウンドなどに時代が聞こえます。
「Hot Shot」は全9曲中7曲がHolland-Dozier-Hollandの手によるもので、「Why Can't We Be Lovers」は彼ら名義の72年のヒット曲。「I'm so glad」から始まるこのアルバムは、Brian Holland, Lamont Dozier, Edward Hollandの作り出したモータウン・サウンドを楽しむアルバムと言えます。
ロバータ・フラック(Roberta Flack)、74年の大ヒット曲「Feel Like Makin' Love」から始まるのが「Sax Appeal」でした。「Boogie Down」はテンプテイションズのシンガーとしても知られたEddie Kendricksの74年のヒット曲。
「All In Love Is Fair」「Until You Come Back To Me」と、スティービー・ワンダーの曲が2曲取り上げられていて、どういうわけかクレジットされていないのですが、「All In Love Is Fair」にはスティービーがハーモニカで参加しています。アルバムタイトルの「Sax Appeal」は「Boogie Down」にもクレジットされているLeonard Castonの作品ですが、ジュニアが穏やかに切々と吹くメロディが印象的で、それまでにないサウンドを聴かせました。
アルバム全体としてはポップな色彩の強いものでした。
唯一、シングルカットされた曲を含まないアルバムが「Whopper Bopper Show Stopper」でした。スティービー・ワンダーの「You Are the Sunshine of My Life」には、再びスティビーと思しきハーモニカが聞こえます。「I Want You」はソング・ライターのLeon Wareとダイアナ・ロスの弟 Arthur "T-Boy" Rossによって書かれた曲で、元はLeon Ware名義のアルバムの中の曲でした。それを聞いたベリー・ゴーディはマービン・ゲイに歌わせようと思いつき、大ヒット。アルバム「I Want You」はソウル・チャートで1位、ポップ・アルバムとしても4位を獲得しました。そのヒットを受けて、ジュニアがレコーディングしたのかと思われます。
次の年77年に「Smooth」が発表されました。このアルバムは全10曲中4曲がそれ以前のアルバムからの再発でした。ジュニアはこのアルバムを最後にモータウンから離れます。契約上の問題でアルバムを作らなければならず、昔の曲でトラックを埋めたのかとも思えますが、彼のこれまでのアルバムには同じ曲が何度も登場することが多く、特に問題はなかったのかも知れません。
「Darling, Come Back Home」はエディ・ケンドリックス(Eddie Kendricks)のソロアルバム(73)に収められた曲ですが、このアルバムでのプロデュース・アレンジもまったく同じメンバー・James Carmichael : Frank Wilson, Leonard Castonによるもの。ずいぶん前に録音されていたものかも知れません。
このアルバムには個人的にちょっとした思い入れがあって、80年代の半ば頃やっていたソウル・チューンのカバー・バンドでここから2曲を演奏していました。
B面の「Hard Love」「All the way」の2曲ですが、まったくのコピーに近い形でやっていました。と言うのも、なかなか容易には実現しないソウル・サウンドを、まったくのコピーでどれほど再現できるかという企みだったのです。面白い企画だったのですが、長く続けるものでもなく、一年ほどで解散しました。
その時のキーボード奏者野力奏一氏は、後に渡辺貞夫さんのバンドに加入し、レコーディングのアイデアとしてこの2曲を提示しました。それで貞夫さんが録音し、「All the way」はアルバムに収められました。メローなジュニアの泣きのサックスが聴かれる曲ですが、もちろん貞夫さんは同じようなやり方はせず、ストレートなバラードとして演奏されました。(この曲は、シナトラで有名なスタンダード曲とはまったく違うものです。)
12年間に渡ったモータウンでの仕事に終止符を打ったジュニアが、どのような活動をしようとしていたのかは定かではありません。6年後に再びモータウンに戻ってアルバムを制作するのですが、そこら辺の事情については一切語られていないのです。
次のアルバムは、2年後の79年にノーマン・ウィットフィールド(Norman Whitfield)が興したレーベルから発表されました。ノーマン・ウィットフィールド(Norman Whitfield 1940-2008)はモータウンで活躍したソングライターで、テンプテーションズ(The Temptations)の「Ain't Too Proud to Beg」「Cloud Nine」など多くの楽曲を手がけ、グラディス・ナイト、マービン・ゲイなどにも楽曲を提供しました。
「Papa Was a Rollin' Stone」(The Temptations 72)B面の楽曲では、Best R&B Instrumental Performance部門でグラミーを受賞しました。
ジュニアのモータウン在籍時に組むべきだったとの意見もありますが、まったく接触がなかったわけではなく、古くはライブ盤で彼の曲を取り上げていましたし、Rainbow Funk(71)Whopper Bopper Show Stopper(76)でもウィットフィールドの曲は録音されていました。
ウィットフィールドは自身のレーベルを立ち上げるために73年にモータウンを離れ、幾つかのヒット・レコードを出し、1977年には"Car Wash" - Rose Royceがベスト・サウンドトラック・アルバムとしてグラミー賞を受賞。独自のファンク・サウンド(彼はスライ・ストーン(Sly Stone)の影響があると語っている)で意気盛んでした。ジュニアにモータウンを離れるように勧めたのは彼ではないかとの意見もありますが、真相は定かではありません)
さて、「Back Street Boogie」Whitfield records(Waner Bros)(79)です。それまでのジュニアのアルバムとは一線を画す、アルバムとしての完成度の高いものです。アレンジも今までになくバランスが良く、ジュニアのサックスがより洗練されたサウンドの中で躍動しているのが分かります。「Wishing On A Star」で聞こえる、うねるような重いビートでグルーブするサックスのライン。
ウィットフィールドは、それまでのアルバムには刻まれることのなかったジュニアのグルーブを捉え、見事にジュニアの今までにない魅力を引きだして見せました。
歌よりもサックスに重きが置かれ、ガットバケットないななきからさらに進化して、見事なビートとノリを表現するジュニアを聞くことが出来るのです。
Motown時代には存分に聴くことの出来なかった、インストゥルメンタリストとしてのジュニアの真骨頂を体験できるアルバムだと思います。アレンジ、選曲、サイドメンの演奏、全てが素晴らしく、ジュニアのサウンドは艶やかに輝いて見違えるようです。 ウィットフィールド没後、このアルバムがCD化される可能性は極めて少なくなってしまい、貴重な記録といえるかも知れません。
(2011年07月31日にCD化されたものが発売された!!!!)
ライブ活動は続いたはずですが、ジュニアの動向は分かりにくいものでした。
81年、彼のファンであったフォリナー(Foreigner)のミック・ジョーンズ(Mick Jones)はニューヨークで彼らのアルバム「4」のレコーディング中でした。
ちょうど、ジュニア・ウォーカーのようなサックスソロを目論むトラック「Urgent」をセッションしているところだったそうです。そんな折り、タウン誌「ビレッジ・ボイス」 (Village Voice)をパラパラとめくっていて、その日の夜、ジュニア・ウォーカーがローン・スター・カフェ (Lone Star Cafe)で演奏することを発見して、ミック・ジョーンズはショックを受けました。
M・Jones:「とにかく、シートに座り、3セットのステージを楽しみました。終演後、彼に会うために階下の楽屋に行きました。ジュニアが入ってきて、『誰かが、レコーディングして欲しいといっているそうだが』と言いました。私は単なるファンになり、ああ、あ、あ、あなたの音楽が私にとって・・・しどろもどろでした。彼の息子が助け船を出しました。『父さん、彼はビッグなグループの人なんだよ』
もちろん、ジュニアは私たちのことは知りませんでしたから。その最初のミーティングは本当に滑稽でした」
「彼は、トラックを聞くために入ってきて言いました『バンドはどこにいますか?』彼はオーバーダビングすることを奇妙に感じているようでした。たぶん、全盛時の彼は殆どをライブでレコーディングしたでしょう。
彼がスタジオの中に一人で座っている様子は寂しくも見えました。幾つかのテイクを録りました。彼は穏やかに吹いていました。しかし、私の頭の中での彼は、はち切れそうなハイノートとアタックが炸裂しています。彼は言いました。『私は、もうそのような演奏はしないんだ。新しいやり方をしているんだ』
しかし、最後に彼は立ち上がって2つのテイク、古いスタイルを持つ素晴らしいテイクを吹いてくれたのです。私とプロデューサーのマットは、それらのテイクを2日間かけてつなぎ合わせて、私たちの望む偉大なジュニア・ウォーカーのトラックを作り上げました。それは接ぎ木のようなものかも知れませんが、すべて彼が演奏したものです。私たちのアルバムに必要なサウンドが出来上がりました。」
「その後、シカゴ、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでのステージでジュニアは演奏してくれましたが、嬉しいのは、彼が私たちの編集したソロと同じように吹いてくれたことでした。私たちは打ち負かされました。素晴らしい人でした。」
ミック・ジョーンズ達の思いは理解出来ますが、このソロに関して言えば、穏やかなテイクのままに残して欲しかったような気もします。実際、演奏途中で明らかに編集された場所が唐突に現れます。しかしながら、それをライブステージで再現したジュニアも大したものです。ジュニアは、この「Urgent」を自身の最後のアルバムで取り上げています。
83年にMotownに戻ったジュニアは、より新しいサウンドのアルバム「 Blow The House Down」を発表しましたが、それが最後のソロ・アルバムになりました。広く知られることのないアルバムでしたが、まだまだジュニアには可能性があることを知るに充分な演奏でした。
88年、ジュニアはマイケル・ネスミス(元、モンキーズ)制作総指揮の映画「Tapeheads」に出演しました。「スワンキー・モーズ」という2人組の役をサム&デイブのサム・ムーアと組んで演じたのです。サウンドトラック盤も残していますが、これが知るかぎりでは最後の録音のようです。
ジュニア・ウォーカーの方法は、それ自体が音楽界にどれだけ貢献したかは分かりませんが、少なくともある時期、私にとってはインスピレイションでした。若い頃のヒットを抱えつつも、常に新しい可能性を目指していた彼はまさにアーティストでした。世の多くの評価が、ショットガンの時代で終わっていることが悲しく、進化し続けたジュニア・ウォーカーに敬意を表して、このページを作りました。
ジュニア・ウォーカーは1995年11月23日、彼の言う生年が正しければ、64歳でこの世を去りました。
初出2002年 改訂2009年1月10日
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サックス奏者として様々な歌手のバックバンド・ツアーで忙しくしていたころ、旅先に必ず持っていくテープがありました。ツアーのステージは毎日同じメニューで進行するものであり、めげそうな気分になることもしばしばでしたが、このプレイヤーの音を聞いて気持を奮い立たせ、ステージに向かったことを懐かしく思い出します。その人こそがジュニア・ウォーカーでした。彼の音を繊細ではないなどという向きが多いわけですが、決してそのようなことはなく、絶妙な楽器のコントロールから生まれる音色にはいつも優しい響きがありました。
恩義に報いるというような気持もあり、ホームページを開設したときに最初に書いたものが、このジュニア・ウォーカーのページでした。
2016年2月10日