King Curtis(キング・カーティス)テキサス・テナー 2

King Curtis (Curtis Ousley) (February 7, 1934 – August 13, 1971)

キング・カーティス / カーティス・オーズリー / birth nameは Curtis Montgomery)

 R & Bのジャンルで大きな足跡を残したことで知られるキング・カーティスもまた後に続く多くのサックス奏者にインスピレーションを与えた一人。初期はジャズの方面でも録音を残しているが、スタジオ・ミュージシャンとしての活動も多くこなした彼が、ポップスのジャンルに及ぼした影響は大きい。

 「syncopated and percussive style」と評されるようにリズミックなフレージングと強いアタックが彼の身上だった。特にリズミックなアプローチは圧倒的で他の追従を許さないほど凄まじい。後年、フュージョン・シーンでのスター、デヴィッド・サンボーンなどには多くの追従者が現れたが、キング・カーティスのようなアプローチを真似をするものは現れなかった。それは、真似をするにはあまりにもテクニカルなレベルが高過ぎて、なぞることすら困難だったし、つけ入る隙のないアタックは模倣者を拒否するに充分だった。キング・カーティスのサックスに聞こえるリズムは体の中から湧き上がる野性的な叫びのようなものだった。譜例はキングピン・フィルモアライブ(1971)から「Memphis soul stew」に於けるソロで、かれの特色が端的に表れたもの。キーはテナーでF#7 



 彼はダラス西部のフォート・ワースで、1934年に生まれた。
 サックスに興味を持ったのは、ルイ・ジョーダンの音楽を初めて聴いた10才の時だった。養父母にサックスを演奏したいとねだり、レスター・ヤングのテナーを聴くとその願望はさらに強まったという。11才の時に養父母はアルト・サックスを買い与え(文献によっては12才との表記もある)、中学校で演奏を始めたが、学校のバンドでテナーの欠員が出た際にテナーへ切り替えた。

 14才の時には4人編成のバンドを結成し、ダンスパーティなどで演奏。ジャズ、R&B、ポップスなど多くのジャンルの音楽に興味を持っていて、ハイスクール時代には(I.M. Terrell High School地元のクラブで仕事も始めていた。 自分のトレード・マークとなるようなフレーズを身につけ「学校の校長よりも多い、週に240ドル稼いでいました。」と1971年のインタビューで語っている。
 ハイスクールで2年先輩にあるオーネット・コールマンと共に音楽を学び演奏したが、オーネットはその時すでに独創的なテナーを吹いていたという。

 卒業時に2つの音楽奨学金を得、カーティスは先ずその一つをニューヨークの伯父を訪ねるために使うことにした。ニューヨークではハーレムのアポロシアターでのジャムセッションに参加し、そこで行われたアマチュアのコンテストで二度も優勝した。ジャズもR&Bも演奏することができた彼に目をつけたのがプレスティッジで、パッケージショーの一員として一時的な契約をし、プレスティッジの子会社で初のレコーディング(ボブ・ケントのシングル(Bob Kent))を経験した。

 間もなく奨学金を受け取るためにフォート・ワースに戻り、そのまま大学に入ったのだが、聴衆の前で演奏したいという願望が高まるばかりだった。そんな折り、町にライオネル・ハンプトンのバンドがテナー奏者なしで来訪した際の仕事のオファーに飛びつき、もう一つの奨学金を辞退してハンプトンのバンドとの楽旅に出ることにした。ハンプトンのバンドでは作曲、編曲とギターを学んだ。
 カーティスを発奮させたメリーゴーランドのようなハンプトン・バンドがニューヨークに辿り着いたのはおよそ1年後の1953年。バンドを辞し、学ぶために音楽学校に入学。しかし、そのロング・アイランド大学もすぐに辞め、著名な教師ジョー・ナポレオンとガービン・バスシェル(彼はレスター・ヤングとジーン・アモンズの影響が顕著だったらしい)の元で楽器を学ぶことにした。その傍ら夜と週末は、マンハッタンのクラブとレコーディング・スタジオで実践的な勉強を重ねる日々だった。

 前年のプレスティッジとの繋がりもあり、早々にセッション・ミュージシャンとして仕事にありついたらしい。



 影響を受けたミュージシャンには、レスター・ヤング、ルイ・ジョーダン、イリノイ・ジャケー、アール・ボスティック、ジーン・アモンズなど名が挙げられているが、アルバムのライナーノートではより詳しく語っている。
K・C「ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、レスター・ヤング、ソニー・スティットが好きでした。ベン・ウェブスターとコールマン・ホーキンスからはバラードを、ゲッツからは流麗さを、チャーリー・パーカーからテクニックを学びました。しかし、私とオーネット・コールマンに影響を与えたプレイヤーは、コルトレーン以前の時代にコルトレーンのようだったテキサスのテナー奏者、レッド・コナー(Red Connor)でした。」



 多くのジャズミュージシャンから影響を受けたことは確かだが、彼の向かった場所は
Rhythm and Bluesのジャンルだった。
1971年のインタビューで、
K・C「私は何よりもリズム・アンド・ブルースが好きでしたし、より良く生きる手立てだったのです」と語っている。リズム・アンド・ブルースのジャンルで生き、より多く稼ごうと決意したという。
 19才で本格的なニューヨークの生活が始まったわけだが、セッションミュージシャンとして、
Gem、Monarch、RPM、Kings Rock、Movin On、De Luxeなど多くのレーベルでの録音に参加し、65年の半ばまで多くの録音に関わった。セッション・ミュージシャンとしては、後に日本でムード・テナーの代名詞のように言われたサム・テイラーと入れ替わるように仕事を始めた。

 サム・テイラー Sam "The Man" TaylorSamuel Leroy Taylor, Jr. (July 12, 1916 – October 5, 1990)もニューヨークのスタジオを飛び回る売れっ子のセッション・ミュージシャンだった。1959年のクインシー・ジョーンズのアルバムにもクレジットされているようにジャズから始まり、ジョー・ターナーの 「Shake, Rattle and Roll」ではロックンロールのソロを吹いたし、 「Harlem Nocturne」の印象的な演奏など、ジャンルを越えて幅広く活躍した。
 サム・テイラーとの交流のあった時代についてはこう語っている。
Curtis:「1956年頃、Sam "The Man” Taylorと私でほとんどのテナーの仕事をしていました。彼は本当にスタイルを創っていました。アラン・フリード(Alan Freed)のバンドで一緒にやっていた時には、彼から多くのことを学びました。」

 カーティスのセッション・ミュージシャンして最も古い記録の一つと思われるのが1952年18才の時の「Work, Little Carrie, Work Doc Pomus」で、ここではテナーでロックンロールのブルース・ソロを吹いている。1942年のジャケーのソロから10年、同じくライオネル・ハンプトンバンドから現れた新人は先達の示した道をさらにポップに進化させてロックンロールのスタイルを歩んでいた。後に自らのシングル盤もリリースしたが、やはり歌のバックでのソロ・スタイルには説得力があり、オーダーが引きも切らない状態だったことが窺える。曲はいわゆるジャンプ・ブルースと呼ばれる少し撥ねたリズムの初期ロックンロール・スタイル。

 
 ここでのソロはいくぶん粗削りなものだが、この後何年も多くのジャンプブルースやドゥーワップなどの楽曲で、喚いているようなテナーソロを繰り返し録音することになった。チャック・ベリー(Chuck Berry)がR&Bチャートで1位に躍り出たのが1955年、エルヴィス・プレスリーが「Heartbreak Hotel」をリリースしたのが翌56年。時はロックンロールの時代に移りつつあった。その分野でのレコーディングには重宝されたらしく、ボビー・ダーリン、ニール・セダカなども含まれていて、現在聴けるものだけでも60曲ほどがある。
 1953年、彼自身の名義での初録音の際、エージェントは「キング」という芸名を付けると決めた。「そのままのカーティス・オーズリーより響きがいいじゃないか」というようなことで、Duke(公爵)Count(伯爵)Earl(伯爵)などよりも上の
King(王)にしたらしい。ここからカーティスはキング・カーティスとして名を知られていくことになった。作曲のクレジットでは常にCurtis Ousleyが使われた。ジュニア・ウォーカーのAutry DeWaltと同じだ。

 セッション・ミュージシャンとしての活動は多忙を極め、レコーディングだけに留まらず、バディ・ホリーのバンドにいた時期もあり、「Reminiscing」の録音に参加している。Art Fond TVのジャズ・シリーズには定期的に登場し、バック・クレイトンやチャーリー・シェイバースなどと共演している。ハーレムのナイトスポット「Small's Paradise」では年に10週間の長期契約をしていて、1966年にはライブアルバムも発表された。
 当時の忙しさについて
Curtis:「週に16回録音の仕事があり、3時間のセッションでで41.25ドルを得ていました。しかし疲れ果ててしまって1セッションの最低価格を100ドルに上げたのです。それでも仕事は引きも切らず、週8セッションに減らすことにしました。」
 ほとんどの夜、カーティスはアフターアワーズを「Small's Paradise」で演奏することに費やした。 この時期、1961年頃までのスタジオ・ワークと「Small's Paradise」でのセッションで独自のRhythm and Bluesスタイルを育んでいった。

 セッションワークの中で最も有名なのは後にステージも共にしたコーラス・グループ「コースターズ(Coasters」の「Yakety Yak」(1958)で、シンプルなスリーコードの楽曲の中でフィーチュアされたソロはヤケティ・サックスという呼び名の元になった。

 このソロにインスピレーションを得た白人テナーサックス奏者のブーツ・ランドルフは、その名も「ヤケティ・サックス」というタイトルの曲を録音し、大ヒットを記録した。

 ブーツ・ランドルフ(Boots Randolphはインタビューでこの曲の成り立ちについて答えている。
 どのようにしてヤケティ・サックスのスタイルは出来ましたか?
Boots:「ヤケティが必ずしも新しいスタイルというものではありませんでした。それは遊びのようなものでした。コースターズの大ヒット曲「Yakety Yak」を聴いたのですが、それは1956年か57年か、私のレコードのずっと前のことでした。その中でキング・カーティスというテナー奏者がソロを吹いていたのだけど、スタッカートを活用したそのソロはブルージーでファンキーでした。彼のやったことと私の「ヤケティ・サックス」に何らかの関わりがあったわけではありません。タイトルの「ヤケティ・サックス」は「ヤケティ・ヤク」との語呂合わせのようなものでした。」

 そのタイトルが、このようなスタッカートを多用する吹き方の呼び名になった。もちろんスタッカートで吹けばいいというものでもなく、ランドルフ氏がいうようにブルージーでファンキーでなければ違うということは言うまでもない。

 そもそもキング・カーティスは、このコースターズのソロの録音を依頼された時、ヒルビリー、いわゆるカントリー・アンド・ウェスタンの初期のスタイルを参照した演奏を考えたという。フィドル(ヴァイオリン)で演奏されるソロ・スタイルがルーツとも言えるわけで、「ツーツクツーツク」で始まる見事なダブルタンギングの冒頭がそれを示している。カーティスはそのやり方を自ら「Chicken Scratch」と呼んだ。

 後のキング・ピンズのギタリストとして有名なコーネル・デュプリーもC&W(カントリー・アンド・ウェスタン)からインスピレーションを受けたと発言しているし、アフロアメリカンの演奏家が誰でもブルースから始まったというものでもないらしい。ようするに彼らのこどもの頃から身近にあった音楽の影響を受けたといえる。

 ランドルフのヒット曲はスタッカートで小気味よく展開しているが、キング・カーティスほど鋭くなく、どちらかといえばユーモラスな味わいがある。
 ランドルフは元々ジャズから始まったテナー奏者だったが、スタジオ・ミュージシャンとして活動していた時代には、ブレンダ・リーやエルヴィス・プレスリーの録音に関わっていた。ポップな楽曲に対する抵抗はなく、ブルース的なものも好んでいて、コースターズの曲を聴いて自然にアイデアがひらめいたらしい。


 キング・カーティスは翌年にもコースターズの「Charlie Brown」でソロを録音しているが、ランドルフのいうところのヤケティ的な趣ははこの楽曲の方が強い。さらに1959年25才の時のリーダーアルバム、
Have Tenor Sax, Will Blow (Atoco ) 」の「Linda」「Snake Eyes 」で 、これでもかといった具合にダブルタンギングでヤケティ風のソロを披露している。ロックンロールのブローより軽快な展開のやり口が気に入っていたらしい。

 King Curtis 自身のリーダーアルバムはAtocoなどのレーベルから1962年までに10枚を越えていたが、大きな評価を受けることはなかった。
 彼が初リーダーアルバムを録音した1959年、ジャズ界は勢いづいていた。マイルスは「KInd of Blue」を世に出し、コルトレーンは「Giant Steps」でさらなる高みを目指していた。オーネット・コールマンが躍り出たのもこのころだった。26才のウェイン・ショーターはブレイキーのジャズ・メッセンジャーズで頭角を現し、デビューから15年が経過したスタン・ゲッツは意気軒高だった。カーティスと同じようにポップなアプローチでヒットを飛ばしていたアール・ボスティックも健在だった。後に全米でヒット飛ばしたジュニア・ウォーカーはまだサックスをお勉強中だった。
 彼は決してジャズに進もうとしていたわけではなかったが、はっきりとした自分のスタイルを決めかねているような作品が続いた。2枚目の「
Azure 」はオーケストラをバックにしたバラード集で、ここでのカーティスは敬愛するアーネット・コブのようにテナーを吹いた。ロックンロールのテイストとは真逆のアプローチだった。
 セッション・ミュージシャンとしての活動という意味では、カーティスとサム・テイラーには類似点もあった。ジャズから始まったテイラーはレイ・チャールスやキャブ・キャロウェイと共に仕事もすれば、ムードテナーの分野で成功するといった具合に、いかなる要求にも応えることの出来る器用な演奏家だった。2人に共通する器用さはややもすれば漠然とした、とりとめのない印象を聴く者に与えることになった。
 次にカーティスがレコーディングしたのはプレスティッジ・レーベルで、共演者はウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、ナット・アダレイと、ジャズのスター達だった。ここではカーティスのオリジナル曲とスタンダードの「
What Is This Thing Called Love? 」とバラード「All the Way 」が演奏されている。バラードはともかく、ナットとケリーに比べれば、少々ブロー気味でイリノイ・ジャケーの流れを汲むスタイルで押し通すカーティスに若干の違和感は否めない。同年、オリバー・ネルソンとジミー・フォレストの3人のテナーがバトルを繰り広げた「Soul Battle」も録音されている。

 しかし次の年は企画物だと思われるダンサーのTwistアルバムから始まった。この年はプレスティッジのサブレーベルTru-Soundから3枚のアルバム「Old Gold」「 It's Party Time」「 Trouble In Mind」も発表された。3枚はそれぞれに工夫があって、「Old Gold」では 「Fever」「Honky Tonk」「Tuxedo Junction」「 Harlem Nocturne」「Night Train」など親しみやすい楽曲が並べれれ、 It's Party Time」ではゲストにサム・テイラーを招きブロー合戦を繰り広げている。少し毛色の変わった「 Trouble In Mind」は面白いアルバムで「King Curtis sings the Blues」という副題通り彼が歌手としてブルースを歌うというものだった。全10曲中歌だけのトラックが6曲もある。ブルース・アルバムといって差し支えない。この中で秀逸なのはアルトを吹いたトラックで、ヴァン・ゲルダーは実に見事にカーティスのアルトを録っている。アルトサックスのトラック「Deep Fry」はテナーの「 Jivin’ Time」と並んで、このようなリズムセクションのバックで演奏されるブルースソロのお手本ともいえる。

 この年に吹き込まれたライブ盤が85年になって発売された。ドラムのベルトン・エヴァンスの家の棚に眠っていたテープが日の目を見ることになった。ここでのカーティスは「Canadian Sunset」、ソプラノを吹いた「African Waltz」、スインギーな「How  High The Moon」などでブローに徹している。「What’d I Say」「Trouble in Mind」など4曲は歌だけのトラックだが、全体にけたたましい響きがあって、しかし、それが彼のスタイルだった。アルバムのライナーノートでロイ・シモンズ(Roy Simonds)は書いている。

Roy Simonds:「彼らの活動は共演したすべての人々と共にあるわけだから、キング・カーティスのようなミュージシャンのキャリアの潜在的な流れをピンポイントで追うことはいつも困難です。演奏していてしっくり行ったと感じたのはアンディ・ウィリアムスと一緒の時でしょうか?それともコニー・フランシス?はたまたロニー・ドネガンだったでしょうか?それともコースターズとかドリフターズだったでしょうか?もしかするとエヴェレスト・レーベル「Azure」でのM-O-Rの感傷的な作品に満足していたのかもしれません。(バラードを吹くのが本当に好きだと言っていたそうですから)。彼はジャズに挫折した人でしたか?
 それは誰にも分かりません。ただ一つはっきり分かるのはこのようなライブアルバムの中で聞こえてくるのは、彼らが客を前に様々なプレッシャーの中で演奏していたということです。」

 様々なやり方にトライを続けるカーティスは、なんとかヒット曲をものにしたいと考えていて、歌のアルバムを作ったのもその一環だった。ある夜、定期的なスモールズ・パラダイスのライブを聴いた企業家ボビー・ロビンソン(Bobby Robinson)は彼のその望みに手助けができると申し出た。ロビンソン氏はカーティスがヒット曲を手に入れることができないのはあまりにもホンク(わめく吹き方)しすぎるからだと感じていた。すべてのレコードで最初から最後までブローしていた。もちろん穏やかな演奏ができないわけではなかったが、シングル・カットされたものはそうだった。それでロビンソン氏は「まあ聞いてくれ。これをギターと一緒に始めるんだ」とアイデアを出した。目論見はカーティスにフィットし、ロビンソン氏がハーレムを拠点として起こしたレーベル「Enjoy」からリリースした「Soul Twist」になった。曲そのものは何度も演奏を続けてきたジャンプ・ブルースの流れを汲む「Jay Walk」を改編したものだった。いわゆる後のツイストとは違うものだった。ビリー・バトラー(Billy Butler)のギターのリフから始まってテナーが入り、それをアーニー・ヘイズ(Ernie Hayes)のオルガンとジョー・リチャードソン(Joe Richardson)のギターが軽快にバックアップした。ロビンソン氏は「Booker T&MG's」のようなアレンジのバンド・サウンドを考えていて、カーティスのブローを抑えることも含めてそれは実現したと語っている。(譜例はテナーのキーF#)


 メリハリの利いた演奏で、カーティスは何度も2小節のブレークでシャウトするのだが、その歯切れのよさと記譜することが難しいリズミックなアプローチが面白い。

 この親しみやすい曲は広く受け入れられ、全米ヒットチャートでR&B部門第一位、Pops チャートでも17位に輝き13週続けてチャートインする大ヒットになった。キング・カーティスの名は多くの人々に知られるようになった。「Enjoy」とは「Soul Twist」を含むLPアルバムもあるのに再契約はせず、商売人でもあったカーティスは大手のキャピトル・レーベルと契約を交わした。

 キャピトルでの制作は捗々しいものではなかった。シングルでリリースされた「Beach Party」がPopsで60位のマイナーヒットはあったが、キャピトル側はSoul Twistの再現を要求するばかりだった。折り合いはうまく行かず、カーティスはルーサー・ディクソン(Luther Dixon)と共作した「Soul Serenade」を自費で録音した。シングルカットされたこの曲のB面が「Soul Twist」だったが、これはこだわったキャピトルが同じように再録音させたものらしい。ソプラノサックスの「Soul Serenade」Pops、51位)はメロディ吹きとしてのカーティスの非凡さが示されていて、彼の作品でも最も多くカバーされた曲になった。

 キャピトルでは3枚のアルバムと9枚のシングル盤を作ったが、カーティスはその体制に不満があり、1965年にアトランティック・レーベルの創始者の一人でありプロデューサーのジェリー・ワクスラー(Jerry Wexler)の裁可で古巣に復帰した。

 ここからアトランティックのサブレーベル「Atco」での再活躍が始まった。


 Atocoでのファーストアルバム「That Lovin’ Feeling」1966はアルバム・タイトルが示すように、まるでイージーリスニングのような仕立になっていて、ここでカーティスは全12曲中1曲のアルトを除いて他はすべてソプラノサックスで通している。曲も「The Shadow Of Your Smile」「Michelle」「I Left My Heart In San Francisco」「The Girl From Ipanema」「And I Love Here」「Moonglow  等々で、大半の曲はレイ・エリス・オーケストラの伴奏。R&B的な要素とテナーのサウンドを封印したようなアルバムが、会社側の目論見か本人の意向かは分からないが、この中の「Spanish Harlem」はpops チャートで89位にランクインした。
 この時期のカーティスのバンドは
アル・ケーシー(Al Casey)ギター、ポール・グリフィン( Paul Griffin)ピアノ、チャック・レイニー(Charles "Chuck” Rainey)ベース、レイ・ルーカス( Ray Lucas)ドラムス(彼は初期のNoble Knightsのメンバーだった)に 、セカンド・テナーサックスのノーブル・ワッツ(Noble "Thin Man” Watts)、メル・ラスティ(Mel Lastie)コルネット、ウィリー・ブリッジス(Willie Bridges)バリトン・サックスを 加えたものだった。ギターのアル・ケーシーは若いコーネル・デュプリーに代わることになるが、コーネルはカーティスと同じフォート・ワース出身で高校も同じI.M. Terrell High Schoolだった。先輩のバンドに参加したことになる。1963年のサム・クックのライブ盤にクレジットされていて、その時21才だった。

 そのバンドでのライブアルバムが「Live At Small's Paradise」1966だった。前作とは打って変わって本来のR&B的なアプローチ全開で、熱っぽいカーティスのテナーが聞かれる。「Something On Your Mind」はR&B チャートで31位にランクインした。カーティスの穏やかなものはポップスチャート、ブルース風味のものはR&Bチャートと硬軟どちらでも受け入れられたわけだ。翌年は「Plays The Great Memphis Hits 」1967で「Knock On Wood」「Fa-Fa-Fa-Fa-Fa」「I've Been Loving You Too Long」など、メンフィス・ヒットのカバー集だった。8ビートから16ビートの変化が時代を物語る。


 さて話は少々逸れるが、アフロ・アメリカンの音楽にはR&B、ソウル・ミュージック、ファンクなどの呼ばれ方がある。近年は総称してR&Bで定着しているが、その違いは何なのか。少々調べてみた。結論から言えば誰もその境界線はわからないらしく曖昧なものだった。
 まず最初に現れたR&Bという呼び名。
 アメリカの様々な情報サイトでの定義は「
ブルースとジャズを組み合わせたアフリカ系アメリカ人が開発した音楽のスタイル。強いバックビートとシンコペーションされたインストゥルメンタルフレーズの繰り返しの変化が特徴」などでだいたい一致している。「1930年代後半からアフリカ系アメリカ人が主に演奏してきたブルースの影響を受けた音楽の表現を表す用語」と解釈されているものもある。

 「Rhythm and Blues」という用語は、1940年代後半にAmerican lexicon(辞書)に初めて導入された。名前の由来は、Billboard誌の音楽的マーケティング用語として使用されるために作成された。

 1949年、Billboard誌の記者だったジェリー・ワクスラー(Jerry Wexler前述のアトランティック・レーベル創始者の一人)は、Billboard誌でブルースとジャズを組み合わせたアフリカ系アメリカ人のアーティストによる人気の高い音楽を指定する言葉として使用した。それまで黒人の作る音楽は「race music」と総称されていたが、これには民族、人種という意味があって差別的な表現でもあった。そこでBillboard誌は「Rhythm and Blues」に置き換えることにした。
 この時点でジャズとの違いはなんとなく分かるが、
ブルースとジャズを組み合わせたという解釈は後から付けられたものにも思える。もっとも初期のジャンプブルースのヒット曲群はジャズとの融合で間違いはないが。

 次に現れた言葉が「Soul Music」だった。「魂の音楽」などということになる。これの定義は、1950年代に「Rhythm and Blues」とゴスペルを組み合わせた音楽という表現が多い。サム・クック、レイ・チャールズ、ジェームズ・ブラウンの1950年代のレコーディングがソウル・ミュージックの始まりと解釈されていたりする。サザンソウル、ネオソウル、サイケデリックソウルと様々に広がり、白人の作るソウル風味の楽曲は「Blue Eyed Soul」などと呼ばれたりもした。しかしながらモータウンのサブレーベル、その名も「SOUL」は1964年に設立されて1978年まで続いたのだが、その謳い文句は「ジャズ・フィーリングやブルース感が少なく聴きやすい音楽」というものだった。感覚的には7thコードからメジャー7thコードが使われるようになっていったジュニア・ウォーカーの音楽で納得できる部分もある。
 Billboard誌は1969年8月にブラックミュージックのチャート名を「Rhythm and Blues」から「Soul」に変更した。


 「ファンク」の定義はより強いアタックのベースラインによって表現される「Rhythm and Blues」と「
Soul」が融合した音楽などとあって、すでに感覚的には理解できても、どの音楽がそうなのかなどはっきり分かるわけもない。
 近年、黒人音楽を総称して「R&B」としているのが手っ取り早く分かりやすい。


 67年は当たり年で、6曲もチャート・インし、「
King Size Soul」からは4曲がチャートに躍り出た。「Memphis Soul Stew」 -  US.pop 33 US. R&B 6 「Ode to Billie Joe」 - US.pop 28. US. R&B 6「For What It's Worth」 - US.pop 87「I Was Made to Love Her」 - US.pop 76. US. R&B 49といった具合で、Memphis Soul Stewの16分音符が核となるリズムの上でのテナーのソロの紡ぎ方には新しい感覚があった。「syncopated and percussive style」がはっきりと形になった。冒頭のキーはEで、転調してAのブルースになるが、調号はとりあえずEを付けた。


 このような忙しいベースラインに乗って、以前からカーティスの持ち味でもあったテナーでビートを切り取っていくやり方がより顕著になった。


 もちろん「
Live for Life 」のようなポップな曲もアルバムには含まれていて、それだけで押し通したわけではないが。
Ode to Billie Joeはシンガー・ソングライターでカントリー女声歌手のボビー・ジェントリー(Bobbie Gentry)の作品だが、そのようなジャンルから曲を探し出してくるところがカーティスらしい。ほぼ原曲のイメージを損なうことなくアルトで粋に吹かれている。

 バンドはリチャード・ティ(Richard Tee)ピアノ、ビリー・プレストン(Billy Preston)オルガン、 ジェリー・ジェモット(Jerry Jemmott)ベース、 バーナード・パーディ(Bernard "Pretty” Purdie)ドラム、 ラルフ・マクドナルド(Ralph McDonald)コンガ、 メンフィス・ホーンズ( Memphis Horns)などを巻き込みつつレコーディングを続け、「Instant Groove1969ではギターのデュアン・オールマンDuane Allman)、「Get Ready1970ではエリック・クラプトンが名を連ねた。
Instant Groove」のデュアン・オールマンが参加した「Games People Play」は70年の最優秀R&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス・グラミー賞に輝いた。

 アトランティックに戻ってからはウィルソン・ピケット、サム・アンド・デイブなどのステージもサポートし、アレサ・フランクリンのバンドのリーダーも務め、自ら発掘したダニー・ハザウェイのレコーディングにも尽力した。


 1971年には伝説となったアレサ・フランクリントの3日間のステージ「フィルモア・ライブ」がレコーディングされ、それぞれのアルバムとして発売された。カーティスの「
Live At Fillmore West」はすべてが完璧だった。「Memphis Soul Stew」から「Soul Serenade 」までの9曲が見事な演奏で収められていて、彼の代表作として語り継がれることになった。しかしながら、最後のスタジオ録音で遺作になった「Everybody's Talkin’」ではよりポップなアプローチの楽曲もあり、そこには彼の粋な側面が含まれているが、Live At Fillmore West」ほどの評価は得られていない。今では「Live At Fillmore West」だけが一人歩きのように評価され、その他の彼の録音物はほとんど無視されているといってもよく、それは一つのスタイルを創った演奏家の評価としては哀しいものがある。彼の表現は常に大見えを切るようなスタイルを通すものでなく、フランシス・レイの曲を取上げたりすることからも分かる通り、ポップなメロディを小粋に吹くということにも熱心だったから仕方がないことなのだが、主要なスタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアから考えれば「Live At Fillmore West」にしても一側面にしか過ぎない。

 同年6月モントルーでチャンピオン・ジャック・デュプリー(Champion Jack Dupree (piano, vocals)とのライブを録り、70年の8月から録音していたアルバム「Everybody's Talkin’ 」の「Ridin’ Thumb」「Ridin' Thumb - Jam」2曲を7月23日にも録ったばかりだった。その日はちょうどジョン・レノンの「Imagine」の録音中だった。


 8月13日夜、彼は8家族が住む改装したばかりの自宅の建物(「Brownstone」と表記されていて、赤褐色砂岩を正面に張ったニューヨークなどにある19世紀風の豪華な住宅のこと)で、ちょっとした集まりのホストをしていた。 
 客の一人が館内のエアコンを弱くしてくれないかと頼むので、エアコンの操作盤のある地下に降りようとしていた。その通路にうずくまっている男がいて「どいてくれないか」と言うと、口論の末その麻薬中毒の26才の男はナイフを出してカーティスに切りつけてきた。刺されたカーティスは気丈にも胸に刺さったナイフを抜いて相手に切りつけたというが、搬送先の病院で死が確認された。

 あまりにもあっけない死だった。36才という若さだった。音楽的にも絶好調で、これからまだまだ活躍するべき人だった。


 マンチェスター・ミッドタウンでの葬儀の日、アトランティックは事務所を閉鎖した。2000人以上の人々が駆けつけた。アレサ・フランクリンは父親C. Lフランクリンと、スティービー・ワンダー、ブルック・ベントン、アイズレー・ブラザース、デユアン・オールマン、ジェシー・ジャクソン牧師、シシー・ヒューストンなどが列席してその死を惜しんだ。

 キングピンズのメンバーは「Soul Serenade」を演奏してカーティスを送った。デュアン・オールマンはカーティスに深い敬意を抱いていたが、The Bandのロビー・ロバートソン(Robbie Robertson)もまた大きな影響を受けたと言明している。

 死後30年近くを経た2000年3月6日、キング・カーティスはロックの殿堂入りした。(Rock and Roll Hall of Fame)

2017/11.7


(彼の死の経緯については、自宅に新しいエアコンを運び入れようとしていて男と口論になったとされている。Wikipediaの情報なのだが、この記事を直訳して追随するサイトもある。しかしながら、深夜にエアコンを担いで帰ってきたというのも変な話に思える。それも窓用のエアコンだという。当時売れっ子の演奏家だった彼が住んでいたのはニューヨークの豪華なアパートメントで、冷暖房完備と考えるのが妥当ではないか。事件後の警官の話では「アパートの外で口論になった」と伝えられているが、経緯については話されていない。そこで、前述のパーティでの館内エアコンの調整という件が浮上する。この話がエアコンを担いで帰ってきたという話に転じてしまったのではないかと推察される。いつの間にかエアコンを担いで帰ってきたという話になっていたと指摘するサイトもある。前述の話はハーレムニュースでの事件後の記事から書き起こした。もちろん、今や真相は謎になってしまったわけで、断定は出来ないが、本人がエアコンを担いで帰ってきて「邪魔だ」などと口論になったとする説は受け入れ難く、死に際しての誤った情報がまかり通っているのは不快でもある。

 この記事のサイトそのものが不明になってしまったが、下に元となった亡くなった日の記事の英文を記した。)


Legendary saxophone player King Curtis was stabbed to death today (August 13, 1971), in front of his brownstone in Harlem, New York.

King Curtis, born Curtis Ousley, was just 36-years-old, when a tragic confrontation took place that would ultimately take his life.

Curtis was hosting a small gathering at his recently-renovated, eight-family brownstone in Harlem, when a guest asked him to turn down the air conditioner, which was located in the basement of the building.
When King Curtis went downstairs, a drug addict was on his stoop. When King Curtis asked the junkie to move, a fight ensued.Juan Montanez, 26, pulled out a knife and stabbed King Curtis in the heart. King Curtis, who stood over six-feet tall, wrestled the knife away from Montanez and stabbed him several times.
King Curtis died before he reached Roosevelt Hospital, where Montanez was also treated for his wounds and eventually charged with homicide.


 


 キング・カーティスをはっきり認識したのも、20代後半に上田正樹氏のバンドに参加してからだった。彼のバンドでR&Bの基礎的なことをすべて教わった。サックス奏者もジュニア・ウォーカー(Junior Walker)、エディ・ハリス(Eddie Harris)、デヴィッド・ニューマン(David “Fathead" Newman)ウォーで活躍したチャールス・ミラー(Charles MIller)、メイシオ・パーカー(Maceo Parker)、そしてキング・カーティス(King Curtis)。次々と入る情報に目を白黒させた。やがてアルバート・コリンズのバンドのA・Cリード(A. C. Reed)やブルース・スプリングスティーンのクラレンス・クレモンス(Clarence Clemons)などにも目を向けるようになった。カーティスの死後6年ほどが経っていて、当時はすでに彼のLPは入手が難しくベスト盤の類いを買うしかなかった。しかし、周りにはR&B一筋の演奏家が大勢いて、「これ聴いてみるか」と大量に持ってきてくれた。嬉しい悲鳴を上げながらカセットテープにダビングして聴いた。


 幸運にも、後年バーナード・パーディと仕事をする機会が訪れた。1回目は原宿でワンナイトのセッションで、リハーサルは一回だけ渋谷で行なった。ホーンの譜面を頼まれたものだから書いて持っていった。ライブ終了後、パーディ氏は申しわけなさそうに「この譜面持って帰っていいか?」と訊いた。
 4年後、再びパーディ氏から声がかかった。電話をしてきた方に言わせると「あのサックス吹きを探してくれ」とのことだった。跳び上がって喜んだ。
 関西方面で3晩のギグがあった。「メンフィス・ソウル・シチュー」をやった夜もあった。それも恐ろしく遅いテンポで。あの時ほど1小節が長く感じられたことはなかった。1拍の重みを体感した。
 和歌山のホテルのロビーでの待ち時間、2人で話す機会があった。キング・カーティスのことを訊いた。パーディは「ナイス・ガイ・・・」と一言仰って悲しそうな目をされた。

2017.11/7



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