Paul Desmond(1924-1977)ポール・デスモンド
デイブ・ブルーベック抜きでポール・デスモンドは語れない。
ブルーベックはインタビューでこう述べている。
「ポールは他の多くの人たちとも演奏はしましたが、私と一緒の時に最良の演奏が出来ていると感じていました。もちろん、私もポールと一緒の時にいい演奏が出来ていることは知っていました。お互いにそうでした。」
デイブのピアノは、その武骨とも言える表現方法がしばしば非難の対象になり、グループはポールの存在によって成り立っていたなどと公言する評論家も現れた。インタビューでそのことを聞かれたポールは即座に否定し、デイブのハーモニーや表現能力がどれだけ素晴らしいかを力説した。二人は互いに掛け替えのない存在であり、どちらかが欠けていたとすれば成り立つはずのない音楽空間を共有していた。
気性の激しい一面を持つポールは度々トラブルを起こしたが、我が侭な弟に接する兄のようなブルーベックに支えられて晩年に至るまで共に演奏を続けた。「テイク・ファイブ」の作曲者としてのクレジットをポール一人に委ねたし、2人の最後のアルバムはデュオ・アルバムであり、最後のステージは1977年2月のニューヨークでのブルーベックとのものだったことが彼らの関係を象徴しているように思える。
デイブの家族は身内のように接し、デイブの子供たちはみんな「ポールおじさん」と呼んで慕った。
ポールがジャズの世界に足を踏み入れたのは、ビバップの嵐が吹き荒れる時代だった。そのような状況の中、パーカーの影響を避け、自分の方法を追い求めただけでも大した気骨の持ち主だが、時によってはディナー・ミュージックと揶揄されるような軟弱なイメージを持たれ、抒情的な側面だけがことさら取り上げられた。
もちろん、共演者達は彼の創造力に感嘆し、称賛を惜しまなかったのだが、柔らく響く音色に隠されたオリジナリティに気付かない人たちも多かった。ポールの最良の演奏はブルーベックと一緒ではない時だというとんでもない評価をする人もいるが、勘違いも甚だしい。
ミンガス・グループでの活躍などで広く知られるサックス奏者ジョン・ハンディ(John Handy)は、教育者としての活動も意欲的に行っているが、彼のクラスの生徒たちに「自分の方法を見つけることが大切だ。間違っても同じことを繰り返す間抜けなことをしてはいけない。自分の方法を見つけるために、新しいことにトライするんだ」と強くアドバイスする。さらに、ポール・デスモンドを聞くことを勧める。
デスモンドを、ただの古くさい流儀を続けただけのプレイヤーだと見なす生徒もいるが、「古いことを繰り返したプレイヤーではない。すべて彼自身の言葉だ。彼は音楽史上に現れたスーパーマンの一人だ」と退ける。
ポール・デスモンドと共演した全てのプレイヤーが彼のオリジナリティを称賛したが、「叙情性あふれる美しい音のアルト・プレイヤー」のような評価が一般的だろう。
「テイク・ファイブ」というモンスター級のヒット・チューンの作曲者でもあった彼は、「ジャズを聞いたことのない人でも親しめるプレイヤー」としての立場を担わされたとも言えるし、彼もその務めは果たしたように見える。
しかし、デイブ・ブルーベックと共に歩き始め、人気投票で初めてポール・ウィナーに選ばれた時代のものは顧みられることも稀で、聞かれることも語られることも極めて少ない。ダウンビート誌の読者の選ぶ人気投票では、1955年から1959年、1962年から67年と連続してポール・ウィナーの座にあった。60年から61年はキャノンボールに替わった。しかし批評家の投票でウィナーになることはなかった。
ポールは1924年、ポール・エミル・ブレイトンフェルド(Paul Emil Breitenfeld)としてサンフランシスコで生まれた。父エミル・ブレイトンフェルドは音楽家で、ショービジネスの中でアレンジャーとして仕事をする傍ら、無声映画のバックでオルガンを弾いたり、さまざまな場所で伴奏者として働いていた。バークレイの生家では父の仕事のためのリハーサルが頻繁に行われ、父の音楽がいつも通りにまで流れていた。ミュージシャン同士のやり取りや、父の弾くピアノの音を子守歌代わりに聞きながら寝ていたことで、サウンドを識別する能力がいつの間にか身に付いたのだと、ポールは従兄弟に語っている。さらに幼少期に父が課した音感の訓練は類い稀な耳の良さをポールに与えた。
父エミルは、ポールがプロとして自立した後もよき理解者であり、何でも話せる相談相手だった。例えば、40代に差し掛かろうというポールに宛てた手紙の一節には「君はワグナーのマイスタージンガーのスコアを手に入れて読むべきだ。確か英訳されたものがあるはずだ。真のミュージシャンは音楽の様式や歴史を知るべきだろう。ところで、私は未だに現代のものが好きになれない・・・」などと書かれていて、父が息子に宛てた手紙というよりは友人同士の音楽談義に近い。
指揮者、作曲家であり、ジャズの世界でも活躍したピアニストとして知られるアンドレ・プレヴィンは「私は決してジャズのソロを分析することを好んでいるわけではないが、彼の即興演奏の構造に興味を持った。彼にはどの音を選ぶかというよりも何を構築するかということが見えていたように思えるし、見境なくブローすることなくベストを目指しているように聞こえていた。私は彼がなぜ作曲に向かわなかったのかが分からなかった。もちろんいくつかの曲を書きはしたが、その気になればいいライターになれただろう。」と言い、デイブも「彼はアレンジ、作曲、ありとあらゆることに関して、父親から受けた知識と経験が私たちよりもあった。しかし、書くことには向かわなかった。少しは書いたけど、出来ることなら書きたくないという風だった。」と語った。
子供の頃から、ポールが目指していたのは音楽家ではなく作家だった。一時的な引退をした67年のグループ解散時も「作家として書くことに集中したい」と述べたほどだ。
1933年、9才になったポールは、母親の病のため3年ほどをニューヨーク(New Rochelle)の親戚の家で過ごすことになった。マリアン・マクファーランド(Marian MaPartlsnd)とのインタビューでは、ここでジャズのキャリアが始まったと語っている。
通った小学校(Daniel Webster School)のバンドは、古いギターのような弦楽器とチャイムなどがあるだけに過ぎない幼児バンドのような編成だったが、そこでソロ(シロフォン?)を取ることになり、Daniel Websterのテリー・ギブス(Terry Gibbs)にでもなったかのようだったという。ポールと同い年のテリー・ギブスは、ジャズのヴィブラフォン奏者として活躍したプレイヤーだが、12才にして1936年のラジオ局主催のアマチュア・コンテストで優勝し、「神童」として注目されていた。
「それは大した話じゃない」と言いつつも、「15年後にそれで生きていくなどとは考えもしなかったのだけど、演奏することを楽しむ初めての経験は、セミ・クラシックのグリンカの作品のような音楽を演奏することだった」と語った。
そこから音楽への興味は加速し、父親に宛てた手紙では週一回のピアノ・レッスンを受け始めたことなどが知らされた。元々あった音楽的な能力が姿を見せ始めたらしく、時を置かずしてポールが作詞作曲した「Little Brown School House」は学校のセレモニーなどで使われる音楽として採用された。
1937年、3年あまりのニューヨークの生活を終え、サンフランシスコの両親の元へ戻ったポールは、その秋に高校(Polytechnic High School)へ入学し、クラリネットを手にすることになった。父エミルは、ピアノレッスンに加えて、和声法など音楽の広範な知識を教え込んだ。
ポールの終生の友人となったハル・ストラック(Hal Strack)は2才上の音楽仲間で、高校時代のポールのことをよく覚えている。
Hal Strack:「彼が15才の時に初めて会いました。どこで学んでいたのかは知らないけど、とても上手くクラリネットを吹いていました。それはどちらかと言うとクラシカルな趣がありました。」
さらに17才になった頃のポールの様子を、ストラックは次のように語っている。
Hal Strack:「彼は様々なプレイヤーのソロを採譜してクラリネットで吹くことを試し始めていました。トランペットのハリー・ジェームスのソロなど、実際に同じ音域で吹いてのけました。私は、それはすごい音楽だけど、ジャズじゃない。ジャズはもっと自発的に作り上げていくものだ、というようなことをよく言いました。
セルマーのバランスド・アクション・アルトを手に入れてサックスを学んでいたようですが、ダンス・バンドではリード・アルトを吹き、ウィリー・スミス(Willie Smith)やジミー・ランスフォード(Jimmy Lunceford)に興味を持っているようでした。彼のリード・アルトはとても強い演奏で、後のスタイルとはまったく違うものでした。即興演奏はクラリネットでしかやりませんでした。」
ダンスバンドでテナーを吹くことを試したのもこの頃で、「もちろん、テナー奏者を聞くことに問題などなかったのですが、自分の出す音は好きになれなかった。」らしく、そのうちテナーは手にしなくなった。
ストラックはまたポールと一緒にレッスンを受けたサックス奏者についてもこう証言している。
Hal Strack:「サンフランシスコには若いプレイヤーから絶大な敬意を受けているボブ・バーフィールド(Bob Barfield)というサックス奏者がいました。ハーモニーのこと、インプロヴァイズの方法などを教わりました」
彼が特に強調したのはコード・チェンジの重要さで、レッスン後には彼と一緒のステージで演奏させられることもあった。

17才の時にはすでにアルト・サックスを手にしていて、テナーも試していたが、ポールにとっての第一の楽器がクラリネットであることはしばらく変わらなかった。この時期のクラリネット奏者から学んだことはその後のスタイルに大きな影響を与えた。特に顕著なのはアーティー・ショーの影響だろう。
写真(Breitenfeld 家所蔵)
1943年(19才)、ポールが所属したのは軍の253rd AGF バンドだった。ポールと仲の良かったテナーサックス奏者のデイブ・ヴァン・クリート(Dave van Kriedt)の紹介でデイブ・ブルーベックと知り合うことになった。
デイブの強烈な印象を、後にポールはナット・ヘントフに説明している。
P・D:「僕らはセッションをするためにバンド・ルームに行ってBフラットのブルースを始めたんだけど、彼の弾いた最初のコードはGメイジャーだった。その頃は多調的なものなど心得ているわけもなく、とんでもなくいかれたヤツだと思った。」
ポールはインタビュー毎に違った話をする癖があって、この出会いの話も例外ではない。マリアン・マクファーランドには「最初の曲はロゼッタだった」と言っているが、デイブのピアノに衝撃を受けたことだけは確かなようだ。
1945年、終戦後の新しい生活は改名と共に始まった。21才になったPaul BreitenfeldはPaul Desmond と名を変えた。改名の理由について、後に彼はユダヤ系であることを確信するに至ったが、当時は「名の響きからアイリッシュ系であることを取り沙汰されるのがいやだった」と言っていた。しかし、友人の証言はまったく異なる。
Hal Strack:「1942年、ジーン・クルーパの演奏を聞きに行った時のことだ。イタリア系の名を嫌ったバンドの歌手が、ジョニー・デスモンドと名を変えていた。ポールはなんとスムーズでいい響きの名前だと感心していて、自分も名を変えることがあればデスモンドで決まりだと言っていた。」
しかし、もちろんポールはそんなことは言わず、改名の質問には「電話帳をパラパラとめくって決めた」と答えるのがお気に入りだった。
サンフランシスコ州立大学に音楽専攻で入学したが、一週間後には専攻が英語に変わり、インタビューでは「作家になるために大学に入学した」と答えた。
かなりの数のレコード・コレクションについて、70年代には次のように言っている。
P・D:「ジャズよりはクラシック音楽を聞くことが多く、バロック様式のものやロマン派のいくつか、それにストラヴィンスキーを聞くことが本当に好きです。バルトーク、ラヴェル、アイブスなど、言わば現代音楽と見なされるものも聞きます。」
父エミルは伝統的な書式を守る音楽家ではあったが、近代のものなどの知識も豊富で、ポールに多大な影響を与えたらしく、当時の音楽仲間だったトランペット奏者のディック・コリンズは、ポールには大学の音楽課程を専攻する必要がなかったと指摘している。
この時代のポールは、様々なセッションや仕事で演奏することはあっても、音楽の道でやっていける確信を持つには至ってはいなかった。音楽シーンは変化し続けていた。それまで、ダンス音楽の延長でしかなかったジャズは、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、バド・パウエル達が中心となって始まったビ・バップ、いわゆる踊るための音楽から聞くための音楽に変わりつつあった。それまで熱狂的に支持されていたダンスフロアの主役であったビッグバンドもその影響を受けた形になりつつあり、エリントン、ベニー・グッドマン、ウディー・ハーマンのようなビッグネームのバンド以外は次々に解散を余儀なくされていた。演奏家の仕事は激減した。
デイブ・ブルーベックとの再会は1946年のことだった。彼のピアノを偶然聞いて興味を持ったポールは、デイブが参加していたテナーサックスのダリル・カトラー (Daryl Cutler )率いるトリオに飛び入りして共演した。
その夜の演奏にポールは狂喜した。
P・D:「2人の間には、それまで求めても得られなかったカウンター・ポイントが随所にありました。」
一方、デイブの印象は
D・B:「私たちは、互いに以前からの知り合いのように演奏を始めていました。ポールは抒情的なところもありましたが、高い音域でのワイルドな部分が目立っていました。」
「初期の演奏は、ずっとうるさいものでした」とポールが言う通り、ベースのノーマン・ベーツ (Norman Bates)は、ポールのサックスにピート・ブラウンの影響があったと証言している。グロー・サウンドで吹くことの多かったピートのように楽器を鳴らしていたかどうかは定かでない。
その頃の彼は、まだ敬愛するビッグバンドのレコードを聞くことが多く、グッドマン、ハリー・ジェームス、ピート・ブラウン、アーティ・ショー、ベイシー、レスター・ヤングなどに耳を傾けていたが、時代の寵児チャーリー・パーカー (Charlie Parker) を無視できるはずもなかった。強い個人主義者的な面を持つポールが、パーカーの模倣者となることを拒否する方向へ向かうのも避けられなかった。
ミルス・カレッジでダリウス・ミヨーに師事し、フーガ技法、オーケストレーションなどの勉強に励んでいたデイブは、ある日ミヨーからアドバイスを受けた。それは、ミュージシャンとしての将来を決定する内容だった。
「君はヨーロッパ音楽のバックグラウンドもなく、訓練も積んでいないし、譜面も読めない。私は対位法などいくつかのことを君に教えることは出来るが、その年齢では真にヨーロッパ音楽を会得することは無理だろう。しかし、作曲家にはなれるはずだ。」
この時点で、どういうレヴェルにせよデイブが譜面を読めないというのも驚きだが、ミヨーは彼の才能に気付いていた。読譜力のなさなどから、ミルス・カレッジの正式な入学テストは合格しなかった彼を、ミヨーは個人的なレッスンという形で教え続けた。
さらに、ジャズの分野での活動を促した。
(ミヨーの教えのたまものかどうかは分からないが、彼の作品「The Duke」は興味深い構造を持っている。それはいわゆる十二音技法の一端で、AABAのA部分のメロディは十二音すべてが使われていて、しかも親しみやすいメロディラインを形成している。)

そこで、ミルス・カレッジに通う仲間、トランペットのディック・コリンズ、テナーのデヴィッド・ヴァン・クリート、クラリネットのウイリアム・スミス、ドラムのカル・ジェイダーなどとグループを結成したバンドにポールも参加し、2人の初共演アルバムが録音された。アレンジは全員で手分けしたものだが、ポールは演奏のみの参加だった。ここでのポールは大きくフィーチュアされているわけでもなく、リードパートと少々のソロを吹いたに過ぎない。特筆すべきはマイルスの「クールの誕生」の一年前に、サンフランシスコでこのような動きがあったということだ。
1946年から50年にかけて録音されたオクテットは、ライブでも演奏を重ね、ブルーベック・オクテットとして知られるようになった。
ミルス・カレッジ以前のデイブ・ブルーベックには一波乱もあった。(コンサート・ピアニストを目指してイギリスで学んだ経歴を持つブルーベックの母親は、自宅でピアノを教えていた。その母によってデイブは4才からピアノを習うことになった。
9才でチェロを始め、13才の時にはすでにローカルバンドでピアノを弾いていた。
しかし、自分のメロディを作ることに熱心だったが、通常の学習には興味を示さず、シートミュージックを読む学習は避けてしまった。軍に所属する前に行った大学(College of the Pacific)では、ある教授が楽譜を読めないことに気付き追放の憂き目をみた。楽譜が読めないことは秘密でもあったが、College of the Pacificへの入学の際にはデイブへのオーディションは省かれた。彼は耳の訓練が完璧に出来ていて、その能力ですべてを行っていたのだ。数人の教授が彼の才能を支持したが、スキャンダルを恐れた大学側は、デイブがピアノを教えないという条件付きで卒業に同意した。大学在籍時には12名編成のバンドを率いていた。
兄のハワードも音楽家への道を進み、ミルス・カレッジではミヨーの助手を務めていた。後にブルーベックのアルバム「Brubeck plays Bernstein」「Brandenburg Gate Revisited 」で作編曲家として参加した。)
1949年、デスモンドは「Band Box」での仕事に、ベースのノーマン・ベーツ (Norman Bates)、歌手Frances Lynneと共にデイブを誘った。そこでの演奏も、しばしばポールとデイブを感動させた。
P・D:「素晴らしい夜が幾度もありました。それは滅多に経験できるようなものではありませんでした。私たちはすべての曲でカウンターポイントを演奏していました。繊細なものではなく、私は高音域で金切り声をあげ、デイブは3つのキーで何かを組み立てようとするといった具合でした。そこで、バックではもっと簡単なコンピングをやってくれないかと言わなければならないほどでした。」
D・B:「そのまま一日中でも演奏していたいほどでした」
彼らのコンビネーションはますます進化し続けていたことが窺える。カウンター・ポイントは対位法の書法を言うが、彼らはお互いの出す音に反応しつつ新しい道筋の組み立てを即興で行っていたらしい。その顕著な例がフーガ風の展開で、「ストーリヴィル」のボーナストラックにはその一端となる演奏が収められている。
しかし、ポールはデイブ達を置き去りにする形でリゾート地での3ヶ月の仕事のオファーを受けてしまった。デイブはオクテットの仲間でもあるクラリネットのビル・スミス (Bill Smith) を入れて引き継ぐことを提案するが、ポールは「僕の仕事だし、何れ戻るわけだから」と承知せず、結局デイブは失業してしまった。これはデイブを怒らせた。さらにありついた仕事でひどい目に遭ったデイブは妻イオラに言った。「アイツの顔は2度と見たくない。家に来てもドアの中に入れないように」
そんなことを知ってか知らずか、ポールはリゾート地での仕事を楽しみ、昼間はプールのそばでシェイクスピアを読むというようなお気楽な生活を送っていた。
3ヶ月の仕事から戻ったポールは、ジャック・フィナ (Jack Fina)のバンドでの仕事を得た。フィナはクラシックの名曲などを弾くこで有名になったポップなピアニストで、リムスキー・コルサコフの「熊ん蜂の飛行」、グリーグの協奏曲、ハチャトリアンの「剣の舞い」などが主なレパートリーだった。彼のツアーに参加することになり、テナー・サックスを担当したハーブ・ゲラーと親交を深めた。
それ以前にゲラーとは知り合っていたが、旅先で同室したことなどもあって、マウスピースの話などで大きなアドバイスを受けた 。グレゴリーの4A-16は誰も使っていない。4A18に変えれば、ずっと太い音が出るとの指摘を受けて、ポールは試してみた。結果は上々で「彼にとても感謝された」とゲラーは語っている。フィナのバンドは各地を転々とし、最終的にはニューヨーク公演が控えていた。
同じ頃、先行きの不安を抱えたままのデイブ・ブルーベックにも大きな転機の兆しがあった。後にモンタレー・ジャズフェスティバルなどを手がけたKNBCラジオ局のキャスターのジミー・ライオンズ(Jimmy Lyons)は、オクテットの演奏を聞いて以来、デイブに興味を持っていた。クラブでトリオの演奏をしないかとの誘いにデイブは喜んだ。オークランドのラウンジの演奏に加えて、ライオンズがキャスターを務める生番組の中での演奏も始まった。
父親への手紙という形で残されたポールのメモの中には、ビバップが引き起こすクリシェのおぞましさや創造性の欠如など、25才の演奏家の直面した現実への対処の苦しみが長々と綴られている。ニューヨークで見た、進行形のジャズの容赦ない現状は青年にショックを与えた。
「ニューヨークへ来るまでは、時代遅れの何たるかなど知ることは出来ませんでした。ビバップが至る所にあふれています。この町で聞くサックス奏者はみんな同じように吹きます。違いは方法でなく質だけです。自分が何をやるべきかについては揺れ動いた部分もありましたが、オリジナルの方法を根気よく続けていこうと思います。ビバップを聞くことは好きですけど、パーカーのコピーを死に物狂いにやって自分を捨てることに希望は持てません。たとえ、オリジナルがコピーより良いものでないとしても、自身のものである限り正当なものです。」
ニューヨークへ来る前に夢想したことは、自分も満更ではなく、高音域での演奏を聞いた誰もがオファーしてくるに違いない、というような他愛ないものだった。当然のようにその思惑はかき消され、最も自分を理解してくれていたはずのデイブとの活動の重要さに気付かされた。
デイブはライオンズの後押しもあって、発売されたピアノ・トリオのレコードも徐々に評価が高まっていた。ポールは既にダウンビート誌でデイブ・ブルーベックの記事を読み、ラジオでの演奏も聞いていた。デイブのバンドへの再参加を目論むポールは「楽園へのオペレーション(Operation Paradise)」と題するプランを立てた。そこには何を学び何を練習するかというようなことが細かく書かれている。
例えば、ブルーベックのアレンジを学び練習すること、トリオを分析して何を付け加えることが可能かを学ぶ、フーガ風なインプロヴィゼイションについて、等に続いて演奏上のゴールを見据えた記述もあって、「美しいが強い響き」などと書かれている。
これまでにない真剣さで音楽に立ち向かう決意がそこにはあり、ようやくポールにもミュージシャンとして生きる覚悟が芽生え始めた。
1949年11月、ポールはデイブの家のドアをノックした。デイブは「Band Box」での仕打ちを忘れてはいなかったが、頼み込むポールの姿に、まずデイブの妻イオラが折れ、デイブも承諾せざるを得なくなった。
トリオの活動が軌道に乗った頃でもあり、新しい編成での契約を取ることは困難だったが、1951年になると、ベースにしていた「ブラックホーク」や南カリフォルニア近辺の演奏で、ポールをフィーチュアしたデイブ・ブルーベック・クァルテットは注目を集め、他の都市のクラブからの依頼も増えた。 1952年の初めには、ニューヨークの「Birdland 」に始まり、ボルティモア の「Gamby」 、クリーブランドの「 Skybar 」、ボストンの 「Buckminster Hotel 」でそれぞれ1週間、フィラデルフィア (Philadelphia) の「Blue Note」2週間、そして再び「Birdland 」、というようなスケジュールが組まれた。

1951年、初めて公式に使われた写真。
見ての通りのイケメンであったがゆえか、生涯を通じて女性関係にはだらしのない一面があった。一度Duane Lamonと結婚をしていた(1948-1949)が、結婚生活は長く続かなかった。
Breitenfeld 家所蔵
新人アルト奏者として注目され始めたデスモンドは「ダウンビート誌」1952年4月18日付けでナット・ヘントフのインタビュー記事が小さく取上げられている。リズミカルで叙情性を持つアルト奏者はデイブの成功の重要な要素だと持ち上げられている。
P・D「私は今、デイブと共に演奏することで、何よりも自分がしたいことをすることによって賃金を頂けるという、信じられないほど幸運な立場にいます。もちろん最終的なゴールは今よりずっと巧くなりたいというのはありますが、現時点では満たされた状態です。技術的な部分の鍛練は思考的なものではありませんから、今はただアイデアを練り、ホーンからそれが出てくるのを待つだけなんです。」
この時期、デイブの妻イオラ・ブルーベックは、トリオとオクテットの賃金台帳、出演契約などを管理する、事実上のマネージャーだった。デイブは大学キャンパスでのコンサートの可能性を考え始めていた。イオラは思いつく限りの大学に、レコードやライブ批評記事の写しと、キャンパスのコンサートには理想的なグループだとの説明を添えた提案書を送付した。
1953年3月、オハイオのオバーリン大学のチャペルでのコンサートはキャンパスのラジオ局によって録音された。テープはファンタジーによってレコード化され、初期のデイブ・ブルーベック・クァルテットを代表するものになった。
Jazz at Oberlin
Dave Brubeck
Paul Desmond
Ron Crotty(bass)
Lloyd Davis(drums)
March 2, 1953
収録曲はすべてスタンダード・チューン。彼らの快演は、「奴等はスイングしない」などという否定的な見方をしていた人たちをも驚かせるものものになった。録音は完璧ではなかったらしく、最初の「These foolish thing」はテーマ部分の一小節余りが欠けているが、そのまま収められている。

上の譜例は「These foolish thing」のブリッジから戻る部分で、一つのモチーフを広げていくパッセージが聞かれる。後のソロに比べると素早さが際立ち、戻ったAの2小節目には高音域のBナチュラルからの複雑な下降ライン。楽器の習熟度はかなり高い。
下の譜例に見られるような、その後のトリッキーな展開も目を見張るものがある。
幾分ビバップの影響が残っている部分もあるが、彼独特のスタイル確立前夜といった趣を持ち、この時期の練習の凄まじさが窺え、これ以前に顕著だったレスター・ヤングとアーティ・ショーの影響から抜け出しつつあるのが分かる。
キャンパス・コンサートは好評を得、この後10年間ほどはデイブ・ブルーベック・クァルテットの主要な仕事になった。コンサートは録音され、「Jazz At College 」シリーズは次々とリリースされた。

Brubeck Time
Paul Desmond (as)
Dave Brubeck (p)
Bob Bates (bass)
Joe Dodge (ds)
1954年、デイブはコロンビア・レコードと契約を交わし、プロデューサー、ジョージ・アバキャン(George Avakian)を得て「Brubeck Time」が録音された。それまでに発売されたようなライブ音源からのものではなく、スタジオ録音が選択された。
オリジナル2曲のうち、冒頭のマイナーブルースで書かれた「Audrey」は2人の共作で、タイトルはポールが熱狂的なオードリー・ヘプバーンのファンであったことから付けられた。ポールはヘプバーンと直接会うことはなかったが、彼らが出演する「Basin Street」の近くの劇場で彼女が「オンディーヌ」の上演をしていることがあった。ステージが終わるとポールは楽器を置いて外に飛び出し、彼女が楽屋口からリムジンに乗り込む姿を見るために、急いで劇場に向かったそうだ。
後にCD化されたアルバムは、演劇関係者によってヘプバーンに送られ、送り主は感激したヘプバーンから丁重な感謝の手紙を受け取った。ヘプバーンが亡くなった後、デイブは彼女の夫君に会った際に「彼女はあの曲をMy Songと言って愛聴していました。毎夜ベッドに入る前に必ず聞いていました。」と告げられた。もちろん、ポールが知ることはなかった。
デイブ・ブルーベックの注目度は高まっていた。
録音から一ヶ月ほど後、クァルテットは幾つかのバンドを含む大所帯のパッケージ・ツアーに出かけた。その旅先で、デイブは自分が「タイム誌」の表紙を飾ったことをエリントンから知らされた。「Brubeck Time」のジャケットにはその肖像画が使われた。

The Paul Desmond Quintet / Quartet
Dick Collins(tpt),Dave Van Kreidt(ts),Bob Bates(b),Joe Dodge(ds)
Jack Weeks(tbn) Barney Kessel(g) & Singers.
1954
Don Elliott (Mellophone), Norm Bates(b), Joe Dodge(ds)
1956
ポールのリーダーアルバムは、オクテットの仲間と6人のヴァーカリストを含む54年録音のものと、メロフォンを吹くドン・エリオットを迎えて作られた56年の「Paul Desmond Quartet with Don Elliott」が、一枚に収めた形で発売されている。シンガースを伴う曲が入ったいくぶん甘めの一枚目に比べて、重要なのはドン・エリオットとの共演盤だ。
ポールは生き生きとしてそれまでになく自由に聞こえる。楽器のコントロールも鮮やかで、ストラヴィンスキーの「春の祭典」から引用した旋律で始まる「Sacre Blues」では、この時代には珍しいオクターブ上のハイDからの下降フレーズが聞かれる。(譜例上)ブルースにおけるワイルドなアプローチは、様々なアルバムでも聞かれる彼の得意なジャンルでもあった。「 Newport 1958」はエリントンの曲に絞った選曲で、その中のブルース「Things Ain't What They Used To Be」ではジョニー・ホッジスのサウンドを真似た遊びの箇所もある。
コードレス・クァルテット編成にしたことがいい刺激であったのか、アイデアは尽きることなく続き、全体的にはクールでタイトな印象を受ける。
このアルバムで聞けるようなクールなタッチの演奏は、しばしばリー・コニッツとの近似性が取り沙汰され、2人が親しかったとの風聞まであった。それは単に彼らがパーカーのスタイルを真似ず、レスター・ヤングに聞かれる、舞うような音色を目指したことに起因する。コニッツの意見は次のようなものだ。
Lee・Konitz:「私と彼は会うことはあっても、挨拶程度で、食事を共にしたわけじゃないし、一緒に飲んだこともない。」「彼が私の影響を受けていると言ったこともある。確かに最初に聞いた時の印象はそうだった。私も少しずつスタイルは変化し、チャーリー・パーカーから離れる方向へ向かっていた。彼は私のスタイルを再構成したのではないかと見なしたがるが、それは違う。彼は、他の多くのプレイヤー、ゲッツとかズート・シムスとかレスターなどを聞いていたはずだ。私はその中の一人に過ぎない。彼はパーカーの影響下になかった優秀な音楽家の一人だった。」「私は実際のところ彼のファンだったことはない。有名なスタイルを作り上げる以前、ブルーベックの "Jazz at Oberlin"の演奏はいいと思った。しかし、後の成功に向けたスタイル作りには、少し打算的な目論見があったのではないかと考えている。」
度々同じようなことを質問されていたらしく、コニッツの発言には苛立ちさえ感じさせられる。
チャーリー・パーカー(Charlie Parker)はデスモンドを支持した一人だ。1954年の初め、パーカーのグループとブルーベックのクァルテットはパッケージ・ツアーでウェストコースト各地を回った。ベースのロン・クロッティは「ポールとパーカーは本当に親しくしていて、パーカーはポールのことを"ポーリー”と呼んでいた。彼は自分の影響下にないポールの演奏を認めていて、お互いに刺激を受け合っていたようだった。彼の楽器はかろうじて使えるような代物で、ゴム紐とかクリップであちこち留められていた。それで、ほとんどのコンサートでポールの楽器を使っていた。」と証言している。
デイブはパーカーが自分の楽器を質入れして、ポールの楽器を借りて吹いたことを覚えている。そして、たまにポールがパーカーの凄まじい勢いのソロを引用して吹いてのけたことも皆を驚かせた。キャノンボールもポールを絶賛し、フィル・ウッズの78年のアルバム「I Remember」には彼が作曲した「Paul」が収められている。ポールに敬意を表したこの曲はウッズお気に入りの楽曲だった。
ポールは穏やかな紳士だったが、時おり激しい一面を見せることもあった。ある日、デイブの家にやって来た彼は開口一番こう言った。「やってしまった。」
何のことか分からないデイブが問いただすと、使っているマウスピースを斧で砕きシガーボックスに入れて埋めてしまったという。「これで一番好きなマウスピースに戻れなくなってしまった」と嘆くポールに「どうしてそんなことを?」と再び聞くと「新しいマウスピースを試したかったのだけど、古いものがあると、それよりいい音がしないのを分かっているから、どうしても元に戻してしまう。だから戻れなくしたんだ。」と返ってきた。その日はそれで終わり、しばらく経ってからポールはまた言ったそうだ。「やってしまった」
酒もタバコもやらないデイブに対して、ポールは酒も強く、名にし負うヘビースモーカーで、愛用のポールモールはいつも彼の口にあった。車の運転は荒っぽく、デイブが恐怖を覚えるほどだったそうだ。
50年代初期はみんなで車移動することが多く、デイブはトラブルを避けるためにパンクしない高価なタイヤを自分の車につけていた。ある夜、タイヤメーカーの人がライブにやって来て、「君の車のタイヤは2本が相当痛んでいるように見えるけど」と言う。デイブが確かめてみると、2本のタイヤは古いものと交換されていた。デイブは思い当たる節があった。
その頃、ポールはスロットマシンに嵌まっていて、遠く離れたRenoまでデイブの車で行っていた。ギャンブルで文無しになったポール達は、スタンドに寄ってタイヤを古いものと交換して金を得ていたらしい。「アイツは俺の車のタイヤを質入れしやがった。」と、50年後のインタビュー時にもデイブは憤慨してみせた。
「ブラック・ホーク」での仕事は、駐車場所を確保するのが困難で、デイブは早めに家を出て駐車場が空くまでウロウロする毎日が続いた。やっとの思いで車を入れクラブに行くと、開演少し前にポールはいつも現れる。不思議に思ったデイブがどこに停めているのか聞くと、ポールが休憩時間に案内してくれたのは許可を受けた商業車だけが停車可能な縁石が黄色く塗られたエリアだった。デイブは「あいつは半年ほどの間、一回も駐車料金を払ってないんだ」と呆れ顔で話した。
1956年。ドラムのジョー・ドッジ(Joe Dodge)の後に入ったのがジョー・モレロ(Joe Morello)だった。マリアン・マクファーランドのトリオで演奏しているジョーを聞いたポールは「彼を雇うべきだ」と強く主張した。終始ソフトに演奏するし、しかもブラシしか使わないという。しかし、彼の演奏は、デイブの指示でスティックに持ち替えたこともあり元気だった。しかもドラムソロを割当られて聴衆の喝采を浴びた。これがポールには気に入らなかった。彼はドラム・ソロなど不必要だと考える向きがあった。それに、自分のソロのバックでで色々やられるのも好まなかった。
そこで、ポールは「僕が出て行くか、彼が出て行くかのどちらかだ」とデイブに迫った。デイブは突然のことに驚いたが、ジョーのドラムには魅せられるものが多く、何より自分のやりたいことを実現できるドラマーだとの思いを強くしていた。「彼を頚にする気はない」と突っぱねた。ポールとベースのノーマン・ベイツはコロンビア・スタジオでの録音でも音を出さず、デイブはその日の夜の仕事はドラムとデュオになると覚悟した。しかし、彼らは現れ、その話題は2度と語られなかった。
ステージ上の攻防はしばらく続いた。ステージを降りたポールは「僕のバックで冒険しないでくれ」などとジョーに抗議した。ジョーが倍の速いテンポで叩き始めると、ノーマンはハーフテンポで演奏し、ポールはステージ上から消えた。デイブは顔を真っ赤にして激怒した。ポールはジョーに「僕はダウンビート誌でも速いものが演奏できないという記事で一面埋められるほどのものなんだよ」と抗議した。その後、2人はとても親しい関係を築いたが、当時は丸一年ほど抗議以外の会話はなかった。ドラム・ソロが始まると、ポールは楽屋に引っ込み、本を読んだりして時間を潰した。
クァルテットは海外公演も増えた。米ソ冷戦状況下の共産圏に親善大使のような立場で行くこともあった。1958年にノーマン・ベイツの後を引き継いだベーシストのユージン・ライトは、ツアーの様子をこう語っている。
ユージン・ライト:「移動の際には自分のベースだけじゃなく、弱視だったジョーのドラムセットの面倒も見なければならなかった。4つのバッグと4つのドラムの箱とベースだ。ポールはいつもタイプライターを持ち歩いていた。列車が到着すると私とデイブとツアー・マネージャーは窓から次々に荷物を出した。目的地に着くとポールが叫んだ。"あー、楽器を列車の中に忘れてきた!!"" 私は "大丈夫だ、ここにある”と言って楽器を差し出した。インドを旅した時のことだ。ポールは自分の世界に入って一人ぽつんといることが多かった。彼がロビーを突然走り去った後にはタイプライターが残っていた。そんな調子で、私は自分のベースとジョーのドラム、4つのバッグとポールの楽器とタイプライターの面倒まで見る羽目になった。」
ユージン・ライトの加入は、アメリカ国内でのツアーの場合度々トラブルになった。彼が黒人であることが問題だった。ある公演先ではベースなしで演奏するようにとの要望が伝えられ、ある大学ではベーシストをステージ上で演奏させないようにとの指示があった。もちろんデイブは承諾しなかった。南部へのツアーでは25箇所の仕事のうち23箇所をキャンセルしたこともあった。
58年、デイブ・ブルーベックは次のアルバムにある目論見を持っていた。3、4、5、6、7、8、9拍子と、様々なタイムの楽曲が入ったものを作ろうとしていた。
ジョー・モレロがステージ裏で叩いていた5拍子に合わせてポールが吹いているのを聞いたデイブは、ポールに「今のビートで曲を作ってみないか」と持ちかけた。
しばらくしてデイブの家に現れたポールは開口一番「いやあ、書けなかったよ」と言った。「しかし、君はジョーのビートに合わせて見事に吹いていたじゃないか」デイブが言うと、渋々「二つほどモティーフを作ってはみたんだが」とメモを取り出し、演奏してみせた。
デイブは「それをみんなで演奏すればいいんだ。形式を通常の32小節のAABかAABA形式にして、まず、こっちをAセクションとして繰り返す。次に君が言うブリッジの部分をやって、Aセクションに戻る。と構成して出来た。それがテイク・ファイブ (Take Five )誕生のすべてだ。」と説明している。
そもそもアルバムのコンセプト自体を疑問視していたポールは、走り書きのメモから生まれた曲を使い捨てのようなものだと思っていた。
全体の構成と冒頭のピアノのヴァンプはデイブのアイデアであることは間違いなく、2人の共作だったと思われるが、クレジットはポール一人に与えられた。デイブが気に入っていたのは自作の「トルコ風ブルーロンド(Blue Rondo A La Turk)」だった。
トルコの街角で聞いた2、2,2,3のアクセントを持つ9拍子に感心し、向かった先のラジオ局のオーケストラのメンバーにその話をすると、みんながそのビートを演奏し始め、ついには即興演奏までしてデイブを驚かせた。驚くデイブに、メンバーの一人は「これは私たちにとっては当たり前のビートなんだ。君たちアメリカ人のブルースのようなものさ。」と言って笑った。その体験から生まれた曲で、ソロチェンジはブルース進行が使われた。タイトルはモーツァルトの「Rondo Alla Turca」から来ている。
この2つの楽曲ではソロ部分での工夫もあった。「Take Five」ではピアノのオスティナートを持続させ、その上でEbドリアンに当たるスケールでのソロが試され、カーネギー・ホールでのライブ盤ではさらに自由なソロをポールは吹いた。考え方としてはモーダルな手法といって間違いない。「Blue Rondo A La Turk」のソロ部分にはブルース進行が使用された。
コロンビア・レコードは、この風変わりなアルバムの発売に積極的ではなかった。会社が求めていたものはスタンダード曲の入ったアルバムだった。
やっと発売されると、ダウン・ビート誌のレコード評で、アイラ・ギトラーはこの2曲の入った「Time Out」を酷評した。
画期的な作品だというスティーブ・レイスのライナーノーツに噛みつき、さらには「セミ・クラシックという言葉があるのなら、これはセミ・ジャズだ。トルコ風ブルーロンドのテーマはジャズとはかけ離れたものだ。」と続き、「実験も結構なことだが、まずはジャズそのものをやり直すことだ。」と締めくくった。
その後、ギトラーは何度も弁明じみたことを言う羽目になった。しかし、ジャズの評論家としての立場を考えると、まったく理解できないというものでもない。それまでのアルバムに比べると、デイブのピアノは確かにクラシカルな指向性を持ってサウンド作りをしている部分が多い。
しかし、一般大衆はそんなことは知ったことではなかった。
「テイク・ファイブ」はまたたく間に世界中を席巻した。それまでジャズなど聞いたことがない人たちからも圧倒的に支持され、ジャズの新しいファンを獲得するモンスター級の曲になった。

Time Out
Paul Desmond
Dave Brubeck
Eugene Wright
Joe Morello
produced by Teo Macero
1959
バンドは世界中を駆け巡ることになった。国内のキャンパス・コンサートも相変わらず続いていて、スケジュールは過密なものになっていった。
ポールの次のリーダー・アルバム「First Place Again 」は「Time Out」の一週間後に録音された。

First Place Again / Playboy
Paul Desmond
Jim Hall
Connie kay
Percy Heath
produced by Bob Prince
Sept.1959
ギタリストのジム・ホールを入れたクァルテットで、ベースにパーシー・ヒース、ドラムにはコニー・ケイと、MJQのコンビが揃って参加した。コニー・ケイのドラムはポールのお気に入りとなり、その後のポールのリーダーアルバムに何度も名を連ねた。
アルバムタイトルは、プレイボーイ誌の人気投票で再びポールウィナーになったというものだったが、ポールはこのジャケットデザインをとても嫌っていた。
ギターを選んだ理由は、コニッツとビリー・バウアー、バド・シャンクとローリンド・アルメイダ、ハル・マキュージックとバリー・ガルブレイスのように、当時のアルト・サックス・プレイヤーがギタリストを従えることを好んだとの意見もある。
何よりもデイブとポールとの間には、「他のピアニストとレコーディングする場合は了承を取り付けること」という約束があった。それはクァルテットの価値を分散させない意図でもあり、ポールに異存はなかった。
ジム・ホールはオバーリン大学のコンサートの聴衆の一人で、クリーブランド音楽大学で学ぶギタリストだった。彼はブルーベックのクァルテットがスタンダード・ソングを発展させるやり方に興味を持っていた。全体をプッシュするブルーベックのクラシックの影響のあるサウンドと、デスモンドの素晴らしいソロの印象は長くジムの中に残っていた。この頃、チコ・ハミルトン、ジミー・ジュフリー、ハンプトン・ホース、ベンウェブスターなどとの共演を通じて、既にニューヨークで重要な演奏家の一人になっていた。この共演後、晩年に至るまで彼はポールの最も親しい友人になった。
このアルバムでは流れるようなスムースなラインでスイングするポール・デスモンドが捉えられている。アイデアは尽きることなく音も太く、ウィスパーで語りかける際のコントロールも絶妙。「Time Out」録音前後のポールは快調だった。

「I get a kick out of you」で、パーシー・ヒースとコニー・ケイの送り出す繊細なリズムの中で自由に吹き上げるポールのソロは、押しては寄せる波のように屈託がない。
ポールは引用(quote)の名手でもあった。ソロの中に様々な楽曲の一節、他のプレイヤーのソロの一節などを巧みに挟み入れた。いかにも引用といったものではなく、ソロの一部分に聞こえるようなものだった。スタンダードな楽曲からだけではなく、「Jazz at Oberlin」の「The way you look tonight」ではストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」から引用したモティーフをきっかけにソロを盛り上げた。瞬時に行われる引用はリスナーがすぐに分かるレベルのものだけではなく、何度も聞いているうちに「あっ」と気付くものも多い。

「Desmond Blue」
1961年、RCAに移ったジョージ・アヴァキャンはポールと契約して、最初のプロジェクトを立ち上げた。それはストリングスの入ったアルバム「Desmond Blue」で、アレンジャーにはボブ・プリンスが起用された。ジム・ホールとコニー・ケイも参加した。13人のストリングス・セクションのヴァイオリンにはアヴァキャンの妻と若き日のフィル・ラモーン(Phil Ramone )もいた。ストリングスのサウンドはポールのメローな面をさらに引き立たせ、極上のアルバムに仕上がった。
このアルバムのレコーディング1ヶ月前には、ブルーベックのグループがテオ・マセロのプロデュースで「Brandenburg Gate Revisited 」を録音している。1960年のニューヨーク・フィルとの共演「Brubeck plays Bernstein」はバーンステインの作品とハワードのオリジナル曲だった。これも同じくオーケストラのバックアップを含むアルバムで、ブルーベックのオリジナル曲を兄ハワードが編曲したもの。18分に及ぶ「Brandenburg gate」と「Summer Song」「in your own sweet way」などが収録されている。こちらの方はクラシックの影響が強いピアノとオーケストラの作品に、他の3人が客演したような趣がある。ここでのポールも好演だが、アルバムそのものが取り上げられることは少ない。
1963年2月、クァルテットはカーネギー・ホールの舞台に立った。前日にツアー先での演奏を終え、当日は空港から直接楽屋入りするという過密なスケジュールだった。
J・Morello:「私は風邪気味で熱もあったし、なにしろ大量の汗をかいている状態で、演奏などしたくなかった。誰もが演奏したいとは思っていなかった。しかし、演奏が始まって驚いた。すべてが完璧だった。」 とジョー・モレロは当日の印象を語った。
聴衆お待ちかねの「テイク・ファイブ」「ブルー・ロンド」はもちろん、特にポールは自作の「Eleven-four(11/4拍子の曲)」でスピード感あふれるソロを吹き切った。このアルバムはクァルテットの一つの区切りのようなものになった。

The Dabe Brubeck Quartet
「At Carnegie Hall Vol 1,2」
ポール・デスモンドを最も理解していたのはブルーベックであることは間違いない。
20代初めから共に音楽を作ってきて、ポールのやり方は熟知していた。ポールはバラードを極端に遅くやることを嫌った。常にモデラートで演奏した。いわゆるダンステンポだ。速い曲はクリシェに頼らざるを得なくなるからと言って拒否した。幾分速い曲をやっていたりもするが、サーカス・テンポはまずやらなかった。
デスモンディズムというものがあって、彼の語録のようなものだが、最も有名なのは「ドライマティニのような音を出したい」で、これはしばしば引用される。
練習嫌いであることも公言していて「練習してみたが、やたら速いパッセージを吹くようになっただけだった」と言ったりしたが、それは嘘だとブルーベックは否定している。
若いころ、行く先々の町のサックスの教師と連絡をとり、レッスンを受けていたという。「僕はみんなに知られるようになった時、すでに時代遅れだった」というのもあるし、「僕は世界で一番のろまなサックス奏者」というのも度々口にした。アヴァキャンはこのような言い草は彼の照れ隠しの癖のようなものだと言った。
話を作って面白おかしく言いふらすいたずらも度々やった。デイブは最初に会った軍の時代、フリース裏地のパープルのジャケットを着て現れたと言われていたし、コロンビアを辞めてRCAに移る前のアヴァキャンは「生活に困って、鉛筆を売り歩いている。」と言われた。本気とも嘘ともつかぬ皮肉な言い回しも得意なところで、晩年に管財人が印税の一部を母校の音楽振興のために寄付しますかと聞くと「いや、ひどいサックス吹きは大勢いるから、これ以上増やすことはない」と返答した。
「ポールとデイブには演奏上の取り決めがあった。」とドラムのジョー・ドッジは言う。「2度と同じことはしない。クリシェも避けるというようなことだった。彼らはいつも新しいことをやろうとしていた。僕らはブラック・ホークでバディ・デフランコのグループと一緒になったことがあった。ステージ裏で僕らが聞いていると、デフランコのソロは3コーラス目に入った。すると、ポールはデフランコと一緒に歌い出した。前に聞いたことがあったらしい。」
ポールの独創性を最も感じていたのは、やはりデイブだろう。「人はみんな、どうしてか分からないが、ポールの叙情性ばかり話したがる。私は毎晩彼を聞いていた。彼はサンフランシスコ時代のようにとてもワイルドだった。アイディアは尽きることなく次のコーラスに流れ込み、そのすべてが独創的で滑らかだった。」
デイブは毎夜ポールのソロに驚いていたと言っているが、ポールを支えていたのは紛れもなくデイブ・ブルーベックだった。彼らの残したレコードのどれを聞いても、デイブの伴奏は繊細で注意深い。ポールの創造性がいかに発揮できるかを知り尽くすデイブは、概ねポールのバックではピアノを弾かないことが多かった。パターンで押し通す意図のものでない限り、音が多いと感じる瞬間は一つもない。ピアノを弾く際にはポールのソロと一つになったようにアクセントが付け加えられ、一瞬のソロの間に絶妙なパッセージを流し入れる。
後年MJQのジョン・ルイスと演奏したものと比べると、その差は歴然としたものだ。ジョンの伴奏はいかにもうるさい。それはどちらが優れているかという問題ではない。流儀の違いのようなものだ。ポールのソロはデイブの伴奏によって培われた部分がある。彼が他のピアニストとの共演を望まなかった理由もそこらにあると見ていい。
彼が他のバンドに飛び入りすることはほとんどなかった。マリアン・マクファーランドは、ポールが度々聞きに来ているので楽器を持ってきて欲しいと何度も言ったそうだ。しかし、持ってくることはなかった。ビル・エヴァンスも客席のポールに気付くと一緒にやろうと誘い、かなり粘ったらしい。最後は「昨夜はリー・コニッツが入ってくれたんだ。だから、頼むよ」と懇願するようだったと、その夜同席したジム・ホールは回想している。
ブルーベックはポールのソロが終わると、噴き出すように弾き始めることがあった。それは時として狂暴にさえ響いた。リズミックなブロックコードを叩きつけるように弾いてクライマックスに持って行くというようなやり方だった。
私が聞いたステージの一つでは、「テイク・ファイブ」のソロで、彼はまず2拍半のタイミングで強いアクセントを弾き始めた。アラン・ドウソンの5拍子と2拍子が同時進行しているようなサウンドになった。次に2拍子を倍にして4拍子にした。ストライド奏法で叩きつけられた4拍子が5拍子と重なった。それは笑えたが、一瞬のけ反りたくなるような大変な世界だった。
そのような冒険をするのも彼のスタイルだったが、静かな曲でのリリシズムもまた格別のものがあった。
デイブとポールの間で解散の話がされるようになったのは63年頃からだった。バーンステインとの「Brubeck plays Bernstein」での共演や「Brandenburg Gate Revisited」でオーケストラルな作品を書く欲求は強くなっていた。
それには上の2つのアルバムに作、編曲で関わった兄の影響もあったと思われるが、そもそも彼が若いころに望んでいたことだった。
ポールは、忙しいデイブとの活動の合間を縫って、アヴァキャンの元でジムとのクァルテットのアルバム作りに集中した。1963年から65年まで16回に及ぶスタジオでの録音は、4枚のアルバム「Easy Living」「Take Ten」「Glad To Be Unhappy 」「 Bossa Antigua 」に別けて発売された。

Easy Living
Paul Desmond (as)
Jim Hall (g)
Eugene Cherico (b)
Connie Kay (d)
RCA
これらのアルバムで聞かれるデスモンドの音は柔らかく甘い。アヴァキャンのプロデュースで制作されたものは、すべての録音がそのような音で録られている。本来備えていた叙情性をさらに強調するようなやり方で録音されていて、一説にはミックスの際に音色のコントロールが行われたとも言われている。
この一連のアルバムの響きは、デスモンドの分岐点と言える。これを境にデスモンドの音のイメージが柔らかく甘いものと認識されるようになった。
このレコーディングでEQされたのかどうかは定かではないが、72年の来日時の彼の音は決して甘いものではなかった。すでにA & M レーベルから、当時は洒落たサウンドとして一世を風靡したドン・セベスキーのアレンジで数枚のアルバムがリリースされていて、ややもするとイージー・リスニング・ミュージックの範疇に収められそうなサウンドがデスモンドのイメージとして定着していた。しかしながら、生で聞くデスモンドはそんなイメージを払拭させる硬質な音色だった。
あるコンサートで、私は客席前方の中央辺りに座って聞いた。会場のスピーカーからの音も聞こえたが。その日はマイクを通さない生の音がはっきりと確認できた。息の音の壁に包まれたような音色の芯の部分は驚くほど鋭いものだった。
もちろんいつものビブラートはあって、それが甘くも響いたのだが、想像したよりずっとたくましく鋭い音がカーンと突き抜けた。間違いなく硬いリードだと確信した。
その時の音のイメージに近いものは50年代のアルバム、「Dave Digs Disney」などに残されている。
先入観なしで聞けば鋭さは捉えられる。録音されたものは時々当てにならない。ジョー・ヘンダーソンのテナーの音は信じられないほど小さく、スタン・ゲッツは恐ろしく大きい。
RCAとデスモンドは年に2枚のアルバム制作の契約で、ブルーベックのクァルテットはコロンビアと年に4枚。公演は年に300回を超える時期もあり、そのような中でのレコーディングが簡単でないことは察しがつく。
野心に欠ける嫌いがあるデスモンドは、自分のグループを結成するというようなことにはまったく関心を示さなかった。自分のソロアルバムのレコーディングの際も、簡単なエンディングの構成などは考えもしたが、全体的なサウンド構成などは自ら指示するよりも共演者の自発性に任せる傾向があった。
ジム・ホールはこの役目を充分過ぎるほど果たした。ジムは創意あふれるイントロを次々と繰り出した。彼の温かみのあるサウンドが全体を支配し、そのサウンドの上で心地よくアルトを響かせる。そういったアルバムが次々とリリースされた。
ポールのスピード感のあるソロの展開はすっかり鳴りを潜めた。もちろん、ゆったりと吹くラインの中でも彼独自のアイディアを失っているわけではないが、デイブとの演奏で生まれる緊張感は望めるべくもなかった。
上述のようにデイブはポールのソロでバックでピアノを弾かなくなる展開が多かった。コードレス・トリオの形で存分にやらせて緊張感を煽り、ポールが新たなメロディを送り出す瞬間を演出した。評論家のダグ・ラムゼイはこの関係を的確に表現している。
ダグ・ラムゼイ:「デイブとポールとの間には、最初からポールが言うESP のような親和性が存在していました。ピアノとギターという楽器の違いもありますが、ジムの場合はそうではありませんでした。ジムの送り出すサウンドはレースの飾りのようなものでした。」

アルバム一枚を通して聞くと、同じような展開の連続で刺激が失われていくのだが、「Easy Living」の一曲目、「When Joanna Loved Me」のイントロからサックスが入ってきた瞬間などは充分過ぎるほどの説得力がある。
ジム・ホールとの付き合いはブルーベックのバンド解散後も良い友人として続いたが、2人が公式にライブで演奏したのは1971年、ニューヨークのクラブ「ハーフノート」での2週間のみだった。他のすべてはスタジオでの録音に限られた。ジム・ホールが他のバンドでの活動で多忙を極めていたこともあるが、実際ポールは彼とのバンド結成など考えてもいなかった。
バリトンサックスのジェリー・マリガンもデスモンドと親しくしたプレイヤーの一人だった。57年、デイブ・ブルーベック・クァルテットのカーネギーホール・コンサートにゲストで参加したマリガンとポールは意気投合し、レコーディングの構想を練ることになった。
同年、「Blues In Time」が録音され、61年には「Two of a mind」で再び共演を果たした。2作ともピアノレス・クァルテット編成で、2声の対位的な動きで紡ぐやり方はマリガンの得意とするものでもあり、2人ならではの個性的なアルバムに仕上がった。
69年のニューオーリンズ・ジャズ・フェスティバルには2人が顔を揃え、デュエットまで披露して喝采を浴びた。下の譜例は「Two of a mind」の「All The Things You Are」冒頭部分。アルトキーで書かれている。ポールはマリガンを評して「単音伴奏者のナンバーワンだ。」と言った。
1967年、長い間のツアーに次ぐツアー、過密なスケジュールの合間のレコーディング、休む暇もない忙しさによって、ポールは精神的に不安定な状態に陥った。
ジョー・モレロによれば、この時期のポールは遅刻なども多く、バンドの問題児のようだったという。「ツアーに出ることを望まなければ、10ドルとサンドウィッチのためにばかなクラブで週に3、4晩働き、ツアーに出れば空港とホリデー・イン (Holiday Inns) が待っていました。 カルテットはほとんど20年間そうしました。 我々が仲たがいした理由はそれです。」とはポールの言い分だ。「バンドのメンバー間に会話がなくなっていった。会話したとしても返答は決まり切ったものだし、息が詰まるようだった」とも語っている。
限界を察したデイブは年内で解散すると宣言した。バンドは解散し、デイブは予ての念願であった作曲活動に向かい、ポールは半ば引退生活に入った。
後年、デイブの創作活動と、自分の作家としての活動のために解散したと語っていて、いさかいでもあったような発言は彼特有の皮肉のようなものだったと指摘する向きもある。
ニューヨークのアパートでの独り住まいで、ポールは人生の中で最もリラックスした時間を過ごした。作家連中などが多く集まるレストラン「Elaine's」はお気に入りの場所で、様々な文化人と交流した。ジム・ホールは家族ぐるみで親しくしていた。
演奏活動はクリード・テイラープロデュースのA & Mへの録音だけだった。68年は「Summer Time」の録音だけが行われた。ドン・セベスキー(Don Sebesky)(arr)によってアレンジされた豪華なオーケストラは、リズムにマイク・マイニエリ(Mike Mainieri) (vib)、ハービー・ハンコック(Herbie Hancock )、ロン・カーター( Ron Carter)、アイアート・モレイラ( Airto Moreira )ホーンには、マービン・スタム Marvin Stamm (tp, flh)アービー・グリーン(Urbie Green), J J ジョンソン(J.J. Johnson)ビル・ワトラス( Bill Watrous)、カイ・ウィンディング( Kai Winding )などが名を連ねる豪華なものだった。
「Summer Time」は5拍子で演奏され、いかにもデスモンドと思わせる趣向が凝らされていたが、これは企画ものであって、互いにインスパイアされる類いのものでもなく、それぞれが自分の仕事をしているだけだった。
69年に録られた「From The Hot Afternoon 」「Bridge Over Troubled Water」はさらにポップな色合いを強め、ホーンのパッセージが繰り返されて徐々にフェイドアウトするBGMもどきの作り方もされるようになった。
主体性を持って自分を主張をすることのないポールは、いつものように置かれた立場を楽しみ、その中で新たなラインを探っていたが、柔らかいポールの叙情性だけを強調するような録音が商業的な成功だけを見据えたものであることは確かだった。
引退同然のポールを心配する人たちは、なんとか活動を再開させようとした。71年、ジム・ホールを擁するクァルテットで、「家が近く、ご近所のクラブということで断る理由がなかった」と語るハーフノートに2週間出演した。これはリーダーとしては25年ぶりのクラブ・ギグでもあり、もちろんジム・ホールとの公的なクラブ出演は初めてだった。
同年のクリスマスにはMJQのタウンホールでのコンサートにゲスト出演した。この共演は幾分ストレスになった。ジョン・ルイスは「Take Five」の練習に一時間も費やした。やり慣れないことにチャレンジする場合には無理からぬことであって、ポールはポールで知らないバンドの中に入って演奏することに窮屈さを感じていた。
後日、バーバラ・ジョーンズ (Barbara Jones) の描いた「ねずみに忍び寄る4匹の猫」の油絵を見たポールは「自分とMJQのようだ」と語ったという。
創作活動に一区切りついたブルーベックは演奏活動を再開し、ジェリー・マリガンをソリストとして迎えていた。若干退屈していたポールに言わせれば「デイブがお金の魅力に逆らえなくて」バンドに再び呼ばれることになった。
デイブとは、以前ほどではないにしても度々演奏を重ね、72年にはマリガンを含むクインテットで「We're All Together Again For The First Time」がリリースされた。

Pure Desmond 1974
Paul Desmond (as)
Ed Bickert (el-g)
Ron Carter (b)
Connie Kay (d)
新たなクァルテットを編成したいと考えるポールに、ジム・ホールが推薦したギタリストが、カナダのエド・ビッカート(Ed Bickert )だった。Canadian Groupはエドとベースのドン・トンプソン(Don Thompson)とドラムのジェリー・フラー(Jerry Fuller)とで組まれ、晩年のデスモンドを支えた。
共演して間もなく、エドはルディ・ヴァン・ゲルダースタジオでの録音に呼ばれた。ロン・カーター、コニー・ケイがいて、紹介されるとすぐ1、2、3という調子で録音が始まる展開にエドは驚かされた。それでもポールが「実際のところ、エドのアルバムだと思っている」と言うように、全体を通してギターサウンドとソロが際立つアルバムに仕上がった。リラックスしたポールは幾分大人しく聞こえる。アルバムはクリード・テイラーのCTIでの2枚目の「Pure Desmond」で、A & Mのものと比較すればポップス指向はなくなったものの、クリード・テイラーはコニー・ケイのあまりにも控えめなドラミングが気に入らず、しばらく発売されなかった。
近年、カナディアン・クァルテットの演奏のいくつかがCD化されている。デスモンドの音色は往年の輝きを失っていて、いくぶん弱々しい。ブルーベックとの共演時ほどの閃きもない。もちろん酷い演奏をしているものでもないが、それは長年サイドメンとして活動してきた演奏家の宿命のようなものとも言えるし、彼は大上段に振りかざすライブを画策することなく、若いメンバーに囲まれて演奏を楽しんでいたように思える。British Columbiaに住むエドの父親が亡くなり、その間の代役を勤めたヴァルブトロンボーン奏者のロブ・マッコーネル(Rob McConnel)はデスモンドのリーダーぶりについて語っている。
リーダーとしては、どちらかというと怠慢だったかもしれません。しかし、同じことを繰り返すとか大きい音で演奏するということに対しては厳しかったと思います。私もリーダーとして活動していたのですが、ある日彼に 「私はすっかり疲れてしまっているんですが、どうやればリーダーを続けられるのですか」と訊いてみました。彼の答えは「私はリーダーじゃないし、今までリーダーだったことなどありません」というものでした。
一方、デイブとの仕事は続いていて、75年にデイブの息子達がリズム・セクションに加わる編成でカリブ海のジャズ・クルーズに参加した。ディジー・ガレスピー、カーメン・マクレー、マーサ・エリントン指揮のエリントン・オーケストラなどを含む豪華な船上ジャズ・フェスティバルだった。あるステージで、バラードを演奏することになったのだが、コードの打ち合わせをする時間もなく、デイブとデュオでやることになった。デイブとポールの間には、ポールの言うESPを感じ取ることの出来る時間が訪れた。後に続くステージでもデュオは続け、2人はアルバムを作ることを計画した。
早速録音されたデュオ・アルバムは、2人とも口を揃えて「一番のお気に入り」と喜ぶものになった。「These foolish things」「Stardust」「Koto Song」など、過去に幾度も繰り返し演奏した曲がならび、2人は自由にコードの上を浮遊し自由な演奏を楽しんだ。

Duet
1975
肺ガンの宣告を受けたのはこの頃だった。
あと半年ほどの命だと言われた時、彼は51才だった。その後もチェット・ベイカーのアルバムに参加したり、カナディアン・グループでのライブをこなしていた。チェットの「You Can't Go Home Again」のレコーディングでは、頭髪も抜け落ちたポールが、酒のグラス片手にタバコをくわえた姿があった。録音が終わった時に「もう何も残っていない」とつぶやいたのをドン・セベスキーは聞いた。
77年の初めには病室で過ごすことになった。彼の病室には、チェスをやったり会話を楽しむベーシストのチャーリー・ミンガスの姿が度々見かけられた。ミンガスとは高校(Polytechnic High School)のシニアの頃からの知り合いで、40年以上も親交があった。
1977年5月30日、ポール・デスモンドは亡くなった。
デイブ・ブルーベックはクラシカルな作品、大編成のオラトリオからピアノの「Nocturne集」、歌曲集など多く作曲し続けた。2011年90才になったデイブは、ポールの伴奏者として生きず、自分のことだけに集中していたらどうなっていただろうと考えることがあるという。もしかすると、指がもっと動くピアニストになっていたかも知れないなどと思うそうだ。
しかし、2人を若いころから知る評論家のダグ・ラムゼイは、「どちらが欠けても2人はあれほどにはなれなかった。成長のためにはお互いが必要で、その相乗効果があのような音楽をもたらしたのだ。」と断言する。
彼の遺言による印税収入から赤十字への寄付は、2003年の時点で総額四億円を超えた。
2013年
後記
このデスモンドの項は雑誌社からのオーダーの2番目で、知っているようで知らなかった彼のこと、デスモンドが本名ではなく、いわゆる芸名であって、ポール・エミル・ブレイトンフェルドだったこと、譜面を読めなかったブルーベックのこと等々Doug Ramseyの評伝を読むことによって随分と助けられた。多くのインタビュー記事から書き起こしていくうちに、またまた指定のページ数を大幅に超えてしまい、結局雑誌には3分の一ほどに短縮したものが掲載された。もちろんここではノーカットだが少々長い。2016年2月11日
参考文献
・「Take Five - The Public and Private Lives of Paul Desmond」by Doug Ramsey
・ Desmond's Interview By John S. Wilson
・ Downbeat 1960 Sept issue - Intervew by Marian McPartland
・ Downbeat 1960 April issue - Reviews by Ira Gitler
・Desmond's Interview by Les Tomkins. 1963
・Interview with PAUL DESMOND - April 14, 1976, Edmonton Jazz Festival for CBC-Radio
・Dave Brubeck interview - MAARTEN DE HAAN, March 1998 Brubeck at 80
・Downbeat 2003 Sept issue - Brubeck's Interview by Michael Bourne
・Downbeat 2008 Janu issue - The Old Cowboy - Brubeck's interview by David French
・February 01, 2010 - Interview: Dave Brubeck by Jazz Wax
・「Deep in a Dream The Long Night of Chet Baker」by James Gavin